井戸のイモリと寺のヤモリ

ひっきりなしに観光客が訪れる、大きな寺院の庭。


その片隅に、苔や地衣類が張り付く大小様々な石が円形に積み重なった古井戸が、ひっそりと時を刻んでいた。


ほとんど使われなくなった今でも、地中深くからはこんこんと清水が湧き続けている。


誕生からずっと冷たい水の中、プカプカ漂う1匹の生き物がいた。


孤独なイモリである。



いつか昔に誰がここに放ったのか、ずいぶん長い間この井戸の中で代を重ねてきた子孫だ。


しかし、現在住むのは1匹だけ。


ついに途絶えてしまうのかと、イモリは内心不安でいっぱいだった。



でも、それ以外ここの生活は何不自由なかった。


敵に襲われる心配もなく、また食べ物もボウフラや赤虫がいるから問題ない。たまに蛾とか羽虫が落ちてきたらご馳走になる。


困ることは特に無い。

強いていえば移動はできないことくらいだろう。



平和だが退屈、自由だが窮屈。



その暮らしで何年も生きてきたが、贅沢を言えば、そろそろ新たな刺激が欲しかった。




そんなある日、思いもよらない出会いがあった。


いつも通り水面から半分顔を出して浮かんでいると、何かがゴツゴツした壁面をするりと降りてくるではないか。



生まれて初めて見る動物。


上目でじっと見つめるが暗くてよく分からない。


相手が水面ギリギリまで降りてきて、やっと顔がはっきりした。



三角形の頭、先が広く丸い指、ざらついた肌、平たい全身、そして大きく見開いた目玉。


体の形こそ似ているものの、ヌメりと水掻きが特徴のイモリとは異なる姿をしていた。



「お前誰だ?」

相手はぱっくり開いた口から長い舌が見えた。



「そっちこそ、誰なんですか?」

イモリは、ちょっとドキドキしながら聞き返した。



「俺はヤモリだ。いつもは寺の下にいるんだが、今日はちょっと散歩に来たんだ。そんでお前に会った」


威勢よくヤモリとやらは言った。



「は、はじめましてヤモリさん。僕はイモリって、言います」


イモリは若干気圧されながらも、外から来たヤモリの存在に興味津々だった。



「あの、寺ってなんですか? 僕、ここから出たことないから外の世界に興味があるんです!」


目をキラキラ輝かせて話すイモリに純粋さを感じたヤモリ。


「あん? まぁ寺ってのは大きな建物だ。木で出来てて……って言ってもわかんないか」


一つ一つを言葉で説明するより直接見た方が早いだろうとヤモリは思った。


そしてふいの思いつきから、彼はイモリに対してこんな提案をした。


「なぁイモリ。そんなに外に興味があるなら、俺にいい考えがあるぞ」


「なんですか? 教えてください!」


イモリはすぐ提案に食いついた。



「俺の足とお前の足を交換するんだ」



ヤモリの言葉にイモリは驚いた。

「ええっ!? どういうことですか?」


ヤモリは言った。


「俺の足はザラザラしてるからこんな風に壁にもくっついて自由に歩けるんだ。逆にお前の足は、ほら水掻きがあるだろ? それがあれば水の中でもスイスイ泳げるじゃないか」


さらに続けて、


「お前は井戸の外に興味があって、俺は井戸の中に興味がある。お互い利害が一致してるだろ? どうだ、交換してみないか?」


ヤモリの方も寺から外に出たことはほとんど無かったから、同じように外に興味があったのだ。



ずずいっと迫るヤモリに、イモリは心踊った。

「はい! ぜひともお願いします!」


「よっしゃぁ! じゃ、早速替えよう」



ヤモリはそう言うとスポッと1つの足を外した。

イモリも同じく1つ、足を外してヤモリと交換した。


そして互いに相手の足をはめた。



4本分取り替えたところで、イモリは初めて水から壁にもくっついた。

ヤモリは水に飛び込んだ。



「冷たい! すっごい新鮮な気分だ!」

ヤモリはバシャバシャと水中で足を振り回した。



「わわぁ、身体が重い! 慣れるまでちょっと時間がかかるかも……!」

イモリは初の重力を体感して興奮していた。



「それじゃあしばらく外を見てこいよ、俺も水を楽しんでるからさ」


「はい、そうします!」


2匹は一旦別れの言葉を交わした。




イモリが壁を少しずつ登り始めた時、ヤモリが呼び止めた。


「あ、ちょっと待て。1つ気をつけた方がいいことがある」

「どうしました? ヤモリさん」



「井戸から出ると見える大きなのが寺なんだが、その中に入ると上に大きな大きな"りゅう"っていう生き物がいるんだ。色々、めちゃくちゃ怖いから気をつけろよ!」



イモリにとっては想像しにくいことばかりであまりよく分からなかった。


「わかりました。気をつけます!」

とりあえずそう返事をして、外に向かった。



気をつけるように言われたものの、余計に興味が出てしまった。


"りゅう"って生き物はどんな感じなんだろうと、不安より好奇心が勝っていた。


必死に思いで井戸から脱出したイモリ。


息も絶え絶えになりながら下を振り返ると、ヤモリの姿がとても小さく見えた。


「あんなに深いところに僕はいたんですね……」


普段の自分に感心した。




改めて初めて見る外に顔を向けると、そこは色で溢れた輝かしい世界が広がっていた。



井戸の中はいつも薄暗く黒や茶や緑しかないつまらない空間だったから、外がこんなに綺麗だとは夢にも思っていなかった




気分が上がるイモリは登りきった疲れも忘れて

井戸から離れ、目の前にどっしり佇む物体に近づいていった。



「これが、ヤモリさんの言ってた寺ですかね?」


茶色の面と直線がいくつも交差して組み合わさってできた造形。

井戸の中には比較できるものは何一つない。


地味な色彩だけど、イモリは不思議な魅力を感じていた。


はぁーっと感嘆しつつも、気になる"りゅう"を見に寺の中に入る。



ドタドタ振動が響く足元の木の板。


何事かと、見上げれば自分よりも遥かに大きく変な生き物が、とてつもない速さで近づいてくるではないか。



「ひいゃあ! 逃げろー!」


イモリは慌てて走った。


感覚を掴んできて足の扱いも上手くなってきた。


素早い動きで広い空間に逃げ込み、壁を登って巨大生物の来襲を躱しきった。




「はぁはぁ、ふぅー……。なんだったんだあれは……」



巨大生物はぞろぞろと似た姿で部屋の中に入ってきていた。


「――この本殿はですね、1548年に建てられて以来一度も燃えずに残っている歴史ある建築物です。特に注目したいのは天井に描かれた……」


何やら話している様子だが、何を話しているのかは、イモリにはよく分からなかった。



予想外の出会いで、かなり怖い思いをした。


この場から離れたい気持ちもあったが、彼にはまだやり残したことがあった。


「"りゅう"とやらはどこにいるんでしょうか? 寺の中にいるって言っていましたが……」



壁を歩きながら辺りを探すと、彼の頭上、首を思い切り反り曲げても見切れないほど大きな生物がいることに気がついた。


「もも、もしかして、これが……!?」



大きく裂けた口、長く渦巻く体、岩石のような鱗、何でも切り裂く太い爪、老松の如き角、ギロリと睨む眼玉。全身は何故か平面に感じた。


だがしかし、ヤモリは本能的に畏敬の念を抱いていた。


「これはすごい、すごいですよ……。こんな生き物がいたなんて、外の世界は素晴らしい!」


イモリは感動した。

同時にこんな機会をくれたヤモリに感謝した。


「でも……そろそろ帰らなきゃいけないですね」


さすがに足も疲れてきた。

それに体表の粘液も乾燥してきて、呼吸が苦しくなっていた。


このままだと色々危ない気がした。




イモリは顔をくるり反転させて、落ちて床に叩きつけられないよう慎重に壁を降り出した。



その刹那、パンッと乾いた音と同時に、



オ゛オ゛ォ゛ォ゛ォ゛オ゛オ゛ォ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ ゛ォ゛オ゛オ゛ォ゛オ゛オ゛



と、空間の大気だけでなく体内まで響く轟音が、イモリの鼓膜を破れんばかりに震わせた。



「ギャッ!」


あまりの衝撃に壁から足が離れて真っ逆さまに床へ落下した。


全身を打ったが、なんとか無事だった。



まだ内蔵が震えている気がしていた。


これほどの音を出せるのは、この世界に1つだけ。


イモリは"りゅう"が鳴いた声だと確信していた。



原因はわからないけど"りゅう"を怒らせてしまったんだ、そう思ってそそくさと井戸まで駆け出した。




――肉体的にも精神的にも疲労が溜まったイモリ。



命からがら井戸の底にたどり着いた時には、ヤモリも水面で今にも死にかけていた。



「あぁやっと戻ってきた…! はやく、はやく元に戻ろう、俺はこれ以上耐えられない!」

ヤモリは懇願するように早口で喋った。


イモリも即座に応じた。

「はい、僕ももうヘトヘトですよ。お互いすぐに元の足に戻しましょう……」


はじめとは逆の手順で交換、2匹は慣れ親しんだ足に戻った。



ほっと一息ついて、感想を述べあった。


「…井戸の外はどうだったよ、イモリ」


「とても素晴らしい世界でしたけど、"りゅう"はかっこよくて、それに怖かったです。あんなに大きな声で鳴くんですね、驚きしました」


イモリの言葉にヤモリはいたずらっぽく笑った。

「ほらみろ、だから先に忠告しただろ? 気をつけろってな」


ヤモリの言葉に嘘はなかったと反省しながらイモリは聞いた。

「うん……それよりヤモリさんは井戸の中はどうでしたか?」



「あー……はじめ楽しかったんだが、ちょっとずつ水で皮膚がふやけてきて、溺れそうになって大変だったよ。俺にはやっぱり寺の下が似合ってる」

しみじみ答えたヤモリ。



「そうですね。僕もこの井戸が身の丈に合っていると思いました」


イモリも頷きながらそう言った。








一方、寺の本殿の中では旅行者に向けたガイドによる解説が続いていた。





「――どうですか? 手を叩くと大きな音が鳴りましたよね。これは『鳴き龍』と言って、音が空間を反響してまるで龍が吠えたように聞こえる仕掛けなんです――」





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短編の標本箱 夏野篠虫 @sinomu-natuno

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