第21話 「7の月」から20年(3)/清水マリコ『週末の過ごし方』

 際立って穏やか。

 読んでみての、それが第一印象だった。


 終末ものにもセオリーはある。何はともあれ、災害を直接描写することだ。

 たとえばスピルバーグ版『宇宙戦争』(2005年)。川一面を流れていく死体、火を吹きながら通過していく貨物列車。世界が滅びていくその過程を、しばし画面いっぱいに映し出す。

『終末の過ごし方』で「その瞬間」は一切描かれない。混乱についても最小限にとどまる。と言って設定倒れでもない。世界の終わりまでの1週間。拭いがたい背景として、随所に「その瞬間」は顔を見せる。終末まで続くラジオのDJを始め、小道具の数々は原作の上手さでもあるだろう。


 ノベライズ版には、最初に読み20年近く経っても覚えているシーンがある。

 主人公と彼女との関係を見て、自ら身を引いた幼馴染キャラクター。「その瞬間」を家族と、いやで過ごすと決めた、敷島緑の独白だ。

 家族と主人公の近況について話した彼女は、一人で部屋へと戻る。



 書を捨てよ、街へ出よう。

 たしかに寺山修司は言いました。でも本人は書を捨てて街へ出てから芝居とマンガのキャラクターの葬式と競馬の予想くらいしかしなかった。そうして40代で死にました。

 だから寺山が好きなのよ。どこまでも現実が苦手な私と同じ。

 緑はベッドに寝転んだ。

 明かりをつけないままの部屋で、ひとりになって、リラックスして横になる。



 今回読み返してみて、長く誤解していた事に気づいた。それは何か。「芝居とマンガのキャラクターの葬式と競馬の予想」は、「くらい」と片付けられる程あっさりでない点だ。そしてこの誤解は、彼女の性格に根ざしている。

 芝居にもイベントにも参加者はいる。ゆえに大勢の人間、すなわち現実と関わらざるを得ない。事実として、『書を捨てよ、町へ出よう』出した後の寺山修司は、映画を撮り海外公演を行ってもいた。この点で寺山修司が本当に「どこまでも現実が苦手」だったかには疑問が残る。

 つまりこの描写は、「現実が苦手」な彼女が過剰に自己投影したシーンではないか。少なくとも清水マリコは、「芝居」と寺山修司を理解しつつ書いたはずだ。

「どこまでも現実が苦手」。そう自覚するキャラクターは他人との関わりも薄くなる。「現実が苦手」であるがゆえに、芝居ならではの現実を知ることもない。

 あの独白はキャラクターの心情を、決して解かれる事のない思い込みまで含め、見た目よりいっそう丁寧に記している。   (続く)

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