第六章
第六章
「さあ水穂さん、食べよう。」
有希は、小松菜と縮緬雑魚のおかゆを作って、四畳半にやってきた。水穂さんは、布団のうえでいつも通りあおむけに寝ているのだが、眠っているのとは一寸違うような気がした。
「ほら、おきてご飯食べて。たべられたら食べて元気を付けよう。」
と、有希は、おかゆの入った皿を枕元に置いた。
「水穂さん。」
ちょっと語勢を強くして又言うと、うっすらと目が開いた。間違いなく意識はあるのだが、目は半開きであり、口からの息は細くなっている。
「水穂さんしっかりして。ご飯食べないと、ほんとに餓死しちゃうわよ。そんなの、嫌でしょう?だったら食べて。」
有希は、おかゆをかき回して、お匙でとって、水穂の口元まで持って行った。それを水穂さんの口の中に入れることだけは成功するのだが、飲み込むという事がどうしてもできなくて、咳き込んで吐き出してしまう。何回も同じことを描いているようだけど、食べるたびに之ばかり続いていては、たしかに読んでいる側も、嫌な気持になると思う。でも、それが続いているのである。読むのだって嫌になるだろうから、そばについてその現場を見ている人は、もっと嫌になるだろう。其れも赤ん坊ではなくて、大の大人に対してそういう事をしなければならないのであるから。そういう事はとくべつな感情のある人でない限り出来ない。
でも、有希の反応は違った。
「ねえ。」
と、有希は、水穂に優しく話しかけた。
「ぜんぜん、だめだわね。」
その言い方は、水穂を責めているというような意味は感じられなかった。寧ろ、いつまでたっても食事がのどを通らない水穂を本気で心配しているのであった。
有希はもう一度、お匙を口元へ持って行って、それを口の中に入れ、丁寧に引き抜いた。これで水穂さんがかみ砕いて、飲み込んでくれるかと思ったが、聞こえてきたのは咳き込む音で、飲み込めないご飯と同時に血液もみえた。
「だめか。」
と、なにか決断したように、有希は言った。
「このままだと本当に餓死しちゃうから、ちょっと病院行こうか。」
水穂は、反応しなかった。でも、何処の科へ行ったらいいのか有希は知らない。とりあえず、総合内科という所に行けば、なにか糸口を見つけてくれるかと思った。お医者さんもなにかアドバイスをくれるだろう。今のままでは、反応すらしない。ここにいては、もう限界なのかもしれない。だからこそ病院というものがあると思う。精神関係の人たちは、なにかあった時病院をうまく使ってくれと言った。だから、水穂さんだって同じだろう。有希は、製鉄所の近隣に総合病院があったのを知っていた。とりあえず、そこに行ってみれば、何とかなる。クルマはないけれどあのくらいの距離なら、抱きかかえていけばいける。よし、行こう!と、決断して有希は先ず箪笥の引き出しを開けた。中身は銘仙の着物ばかりで、洋服は一枚も入っていない。どうして着物ばっかり?と聞いてみたが、反応はなかった。有希はますます焦って、着物を一枚取り出す。其れは、弟の聰が、看板商品として販売する着物に柄のデザインが似ている。着方は、聰が着ていたから何となく覚えていた。有希は手早く着物を浴衣の上から着せ、兵児帯を結んだ。男ものは、こういう時着付けが簡単であるところが良かった。
「じゃあ、行こう。何も恥ずかしがる必要無いのよ。すぐ近くだから、一寸我慢して。」
有希はそういって、水穂をヨイショといわゆるお姫様抱っこ様に抱き上げた。何も食べていない水穂は、女性でもひょいと持ち上げられる重さだった。
「どこに、行くんですか?」
細い息で水穂は聞いた。
「病院。さっきの話を聞かなかったの?どうしたらたべれるか、お医者さんに相談に行くんでしょ。」
その話を聞いて水穂はぎょっとした顔をするが、声をだそうとして、代わりに咳が出た。
「ほら、其れじゃあダメじゃないの。そうならないように、今から相談に行くのよ。今から行くから、しっかりしてね。」
有希は、四畳半を出た。利用者たちは学校や仕事などにいっているものがほとんどで、廊下を歩いている時も、遭遇しなかった。其れはよかったと有希は思った。
とりあえず、有希は玄関を出て、製鉄所の正門まで歩いて行った。そこでも、誰にも会わなかった。正門をでて、道路を歩き始めると、様子は違った。いろんな人たちが、道路を歩いたりクルマで走ったり、自転車などで移動したりしている。中には、何で大の大人の、しかも男性が、若い女性に抱っこされて、歩いているんだろう、と変な顔をして見る人もいる。寧ろその方が多いだろう。それでも有希はそんなこと一切気にせずに道路を歩いていくのだった。時に、何をやっているんだという顔をして見る人に対し、
「大事な人を病院まで連れていくのに、そんな顔して見るもんじゃないわ!」
と声を上げた事も少なくなかった。
病院まではほんの数分でついた。ずいぶん長くかかったような気がしたが、ほんの数百メートル程度しか離れていない。古くからそこにある病院ではなく、数年前に高齢の農夫が手放した土地を買って建てた病院であることも、かつて入院していた精神科で聞いたことがあった。
有希は堂々と水穂を抱っこして正面玄関から中にはいった。受付はすぐに見つかった。有希はこの人を診察してくれときつく言った。受付は、おどろいていたが、幸い予約制を取っていた病院ではないので、拒否することは出来なかった。とりあえず、待合室に座っていてくれと言われて、有希はまず
彼を待合室に連れて行き、長椅子の上に寝かせた。そして、受付に渡された問診票に、これまでの病歴や症状などをへたくそな字で丁寧過ぎるほど丁寧に書き込み始めた。先ず疑われる症状欄に肺結核と書く。
「一体あの人、どこの誰なのかしら。」
有希が、思い出せることを思い出して、問診票に書いていると、ほかの患者たちがざわつき始める。
「綺麗な人ではあるけれど、あんなにやせ細って、まるであれでは骸骨みたい。日本であんなことあり得るかしら?」
近くにいた女性がそんなことを言い出した。
「若しかしたら、どこか貧しい国家にでも行っていたんじゃないの?バングラデシュとか、アンゴラとかそういうところ。」
隣にいた女性もそんな事をいう。
「いやそうじゃないかもよ。」
と、始めの女性が言った。
「若しかしたら、生活費も何も払えなくて、餓死寸前で保護されて、、、。」
「あ、其れもあり得るわね。あーあ、可哀そうになあ。うまくいけば、映画俳優にでもなってさ、大スターとして、ちやほやされるような顔してるのにね。」
「うるさいわね!少し黙ってよ!」
先ほどの女性がそういうと、有希が声を荒げて怒鳴った。女性たちは其れにおどろいて、さっと待合室から出て行ってしまった。有希は、問診票を書く作業にもどったが、水穂はこの間も、何も言えずに椅子に寝かされて天井を見つめるしか出来ないのが、なんとも言えない哀れな光景であった。
有希が、問診票を受付に戻して、診察室から名前を呼ばれるまで、二時間以上の時間を要した。最近の病院は何処でもそうなのだが、初診となると、何十分もまたされるのが常である。有希は、何回もすみませんまだですか!と診察室に文句を言ったが、いずれも無視されてしまった。待合室を通っていく看護師も、水穂を見て嫌そうな顔をして通り過ぎていくだけであった。有希がいくらすみませんと言っても、冷たい顔をして、見捨てて行った。
「磯野さんどうぞ。」
ようやく、彼の名が呼ばれた時は、有希も疲れ果てて、眠ってしまおうかと思われる時だった。有希はこれを聞いてはっと目が覚め、慌てて水穂を抱え上げ、診察室に向かっていく。
同時に。
ブッチャーの家の電話がなっていた。
「はいはいもしもし、須藤ですが。」
ブッチャーが電話を取る。
「あの、すみません。須藤有希さんの弟さんでしょうか?」
電話の主は、製鉄所の利用者の一人だった。
「はい、俺がそうですが。」
ブッチャーがそう返答すると、
「お宅に有希さん、帰っていませんかね。」
と不安そうな口調で利用者はいうのである。
「へ?姉はそっちで預かっているはずではないでしょうか?」
と、ブッチャーはそうこたえるが、
「そうですか。そうなると何処へ行ったんでしょうね。お昼過ぎから姿がみえないんですよ。お姉さん。もし、脱走するんだったら、真っ先に自宅に帰ると思ったので、お電話させて貰った次第なんですけどね。」
と、利用者の声はそう聞こえてきた。何!姉ちゃんが製鉄所を脱走した!とブッチャーはおどろいて、
「何時から居なくなったんでしょうか!」
と声を上げて聞いてみた。すると利用者は、こう言い始める。
「ええ、お昼はみんなと一緒だったんです。其れだけははっきりしています。しかし、僕たちが学校から帰ってきた時は、もういなかったんですよ。え?何だって?其れは大変だ。若しかして二人で駆け落ちでもしたのかな?水穂さんと有希さんが、恋愛関係になっていたというのは、ちょっと考えられない、、、。」
始めはしっかりと状況を説明してくれているようにみえたのだが、段々に利用者の口調もはっきりしなくなってきた。とりあえずブッチャーが聞いた限りではそう言っているように聞こえた。
「あの、すみません。もうちょっとはっきりと言ってくれませんか!」
答えはなかった。
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