第五章
第五章
由紀子にああいうせりふを言われたら、誰でもすみませんでしたと言って、引き下がるのが常だろう。一般的な分別がある人なら、誰でもそうなる筈である。専門の業者がいるのなら、それでよい。そういうことになる筈である。しかし、精神に障害のあるものは、そうは行かない。
「ああなるほど。」
有希は、そう考えた。
「つまり水穂さんは、見捨てられているのね。本当に可哀そうだわ。」
どうしてこういう発想に至るのかよくわからないけど、有希はそう考えてしまうのであった。
その日から、有希の余計なお節介が始まった。水穂に新しい寝間着を着せて、そして毎日毎日コメのおかゆを一日三色たべさせるのだ。たべさせると決まって吐き出してしまうのだが、辛抱強くやっていればいつかは、と、有希は考えていた。その次は布団屋へいって、新しい布団を一式、現金で支払って買ってきた。もうその日から、水穂は例の真綿布団ではなくて、新しい布団で寝かされていた。真綿布団ではないため、時折咳き込む事もあったが、有希は単なる寒いからだという理由で片付けてしまった。
その日も、白米の味付きかゆをたべさせたが、また水穂はそれを受け付けなかった。でも、有希はとにかく一生懸命おかゆを食べさせていた。利用者たちが、そんな有希にこれ以上余計な事はしないでくれと言い聞かせたのであるが、そんな事はほとんど通じず、有希は水穂の世話を続けた。
ある日、ぽかほんたすから、流動食の弁当が贈られてきた。貯蔵して置いてもいいように、粉末の状態で箱に入っていた。その粉末を水で溶かし、箸でねって作る人工的な栄養食であった。由紀子は毎日これを定期的に与えていた。今日も、駅員の仕事が終わると真っ先に製鉄所に駆けつけて、贈られてきた人工栄養食を作って、水穂さんにたべさせようとしていた。丁度その時、有希がよくあたたまった、コメのおかゆの入った茶碗を持ってやってきた。
「何をするのよ!」
由紀子が栄養食を与えようとすると、有希は言った。
「何もしないわよ。ただ、水穂さんにご飯をあげようと思っただけよ!」
そう答えると、有希は器の中に入った物をしっかり観察して、
「こんなもの食事にならないわ。食事させるんだったら、ちゃんとお米のご飯を食べさせなくちゃ。」
と、高らかに言って、由紀子との間に割って入り、由紀子が与えようとした物を取りのけた。
「一寸、何をするのよ!」
由紀子が言うと、
「こんなもの食べさせたって、何もならないわよ。こっちの方がよほどいいわ。之じゃあ、何も体のためには良くないでしょ。」
と、有希は、自分が持っていた器を枕元に置いて、中身の入った匙を無理やり口元へ持っていくのである。
「ほら食べて。この方が味もあるし匂いもある、よほど食事らしいわ。」
ところが、水穂は、食べ物を口にすることはするのだが、やっぱり飲み込むことが出来ないので、咳き込んで吐き出してしまうのであった。
「ああ、やめて!水穂さんが可哀そうよ。飲み込めないんだもの、そんな可哀そうな事をもうさせないでよ。」
由紀子は急いでそれを止める。
「うるさいわね。あなたまでこの人を甘やかさないで。甘やかして、口当たりのよい物ばっかり食べさせていたら、もっと飲み込む力もなくなって行くわ。其れじゃあ、あなたたちが、水穂さんの病気を悪化させているような物じゃない。其れじゃあ、良くなる筈もないわよ。」
大体製鉄所の関係者たちは、甘やかさないとか、自分でやれという言葉をよく口にする。そういうことが利用者の更生に役立っていると思っている。精神医療関係者もおなじような事をいうことが多い。だけど、例外もあって、それに対して傷ついている人も多いのであるが、、、。障害者本人にしてみたら、自立を促すような事ばかり言われてしまうのであって、それを医療だと思ってしまう。
「ほら、水穂さん、これ以上弱ってしまうとたいへんだから、頑張って食べよう。あたしもね、病院に長らく入院していた事もあったけど、頑張って、周りの人に助けてもらって、乗り超えたのよ。だから、水穂さんも乗り越えられるわ。大丈夫、今の時代は、体のどこかに悪性の腫瘍でもできたとか、そういう事以外なら、大体の事は治せる時代何だし。昔ほど怖くない病気に、甘んじてないで、良くなる努力を自分でもしなくちゃ。」
これを聞いて由紀子は、身体と精神では、医療の質がここまで違うのかと考えざると得なかった。
有希は、何回も水穂さんにご飯をたべさせようと、躍起になって何回も試みるが、ご飯は一粒ものどを通らない。
由紀子は、これ以上有希に指示をだしたら、彼女は混乱して、泣き叫ぶのではないかと思ってしまった。なので何も言えなかった。
それでは、どうしたら良いのかという考え方が、体と心の医療では全く違うのだ。体をやんでいる人と、心をやんでいる人の扱われ方が、こんなに違うのかと思わざるを得なかった。
「有希さん。」
と言いかけてその時点ではやめておく。有希の顔も真剣そのものだ。彼女は彼女なりに水穂さんの事を考えっているのだから。
「ほら、スープよ。飲んで。」
有希は続いてスープを与えようとするが、それも失敗し、綺麗に、そう、杉三の言葉を借りて言えば、綺麗に吐き出してしまうのだった。
「有希さん、もうよして。これでは水穂さんが可哀そう。無理やりたべさせると、かえって逆効果の事もあるのよ。もうそれだけにしてあげて。」
由紀子は急いで彼女にそういったが、有希は何よという顔をした。
「何を言うの?あたしは毎日毎日こういう所で生活してきたけど、みんな口をそろえてそういったわよ。自分でやれ自分でやれ、自分でやれってね。ほかの人にはみんな優しくするんでしょうよ。でも、あたしたちにはそうはしないわ。みんな人を馬鹿にするように、ああすれば出来る、こうすればできるって、そればっかり。そんな扱いしか受けたことないのよ。なんであたしたちはそうなるの?どうして水穂さんは良くしてもらって、」
有希はそういう疑問を投げかけた。由紀子はいきなりそんな事を言われて、取り合えずこうこたえてみる。
「有希さん、あたしは、何もあなたを差別的に扱っている訳じゃないのよ。其れは、有希さんが有希さんの治療のために必要だったからでしょう。其れは仕方ないじゃないの。水穂さんに取っては、ご飯は食べさせなければならないでしょうし、有希さんにとっては、そういうことが必要だったのよ。其れだけの事よ、大した違いじゃないわよ。」
「大した違いじゃない?」
有希は今度は由紀子の方へ目を向けた。
「そうなの。やっぱりあなたもそう思っているのね。どうせあたしなんて、この世に必要のない、地球のゴミだと思っているんでしょうね。どうせ親の庇護を受けて、親の財産で生活して、どうせ世のなかにとって、何にも役に立たない存在だと思っているでしょう。いいのよ、そう思ってくれれば。あたしは、そういう人間だからね。そういう人間だからね。そういう扱いしかされた事もないし、そういう風にしか接することもないからね!」
「有希さん、其れはそうだけど、水穂さんは、違うのよ。さっきのような扱いをしたら、余計に可哀そうじゃないの。もう無理をすることは出来ないのよ。それではいけないの。こうして看病しなきゃならない人なの。あなたとは違うのよ。有希さん。同じだと思わないであげて。」
由紀子は水穂さんをかばって言ったつもりだったのであるが、有希は一度不快な思いをすると、どんどんエスカレートしてしまう人であった。
「由紀子さん、あたしは、そんなこと思ってないわよ。由紀子さんのような人は、あたしの気持なんて、わかるはずが無いのよ。あたしはたしかにダメな人間ではあるけれど、この通り、ちゃんと手もあり足もあり、意思もある人間だからね。それを損害するような事であれば、あたしだって怒るわよ。其れはだって、あたしだって一人の人間なんだもの。そういう事でしょ。それでは、あたしが、あたしがまるで本当に地球のごみみたいじゃない!」
「有希さん。」
とりあえずの返答を返すが、由紀子はそれ以上言えなかった。
由紀子さん、それでは何もないのよ、と有希は彼女を一度にらみつけ、さあ水穂さんもう一度、と、水穂さんに匙の中身を与える作業に取り掛かるが、やっぱりせきこんで吐き出してしまう水穂なのであった。
「水穂さん、頑張って食べようね。たべられればまた変わってくるわ。あたしだって、こうしてダメな人間ではあるけれど、頑張るからね。それではいけないって、よくわかってるけど、なかなか出来ないのよ。頑張って食べて、一緒にやっていこう。お願いよ。」
有希は、そういって匙の中身を水穂に食べさせようと試みる。彼女の理屈はめちゃくちゃだと思われるが、彼女の頭の中ではそうなってしまうのである。
でも、たべられたためしは、一度もなかった。
有希と由紀子、名前の発音だけは似ているが、二人は全く異なる物であった。人間は似たような名前はいくつもいくつもあるが、同じ性格、同じ考え方を持っている人は二度とない。有希と由紀子はよく似ているけれども、全く性質が違うという事だけは理解していただきたい。
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