第四章
第四章
ブッチャーの姉、有希が製鉄所へやってきた。新しい環境にやってきた彼女は、一寸緊張した顔で周りを見ていた。とりあえず、姥捨て山に来たのかという様な顔はしていなかったので、ブッチャーはほっとした。
「じゃあ、俺、帰るけどさ。姉ちゃんはゆっくり過ごしておくれよ。」
ブッチャーは其れだけ言って、姉を製鉄所に置いて、自分はそそくさと帰っていく。こういう時は、何も説明もしないでそそくさとかえって行くのが一番いいのだ。そうした方が、事の重大さを感じさせないので、ずっといい。
有希は、迎えにきた利用者に連れられて、四畳半に比較的近い空き部屋へとおされた。部屋は一応、バストイレ、小さな台所までついていて、一見すると、ワンルームの和室マンションみたいな感じさえした。机も布団も、生活するものは一通りそろっているが、何だかすべてそろってしまうと、座敷牢に近いのではないかと有希は思った。
とりあえず、部屋に用意されている座布団に座ったが、何だか落ち着かなくて、三分も座って居られえない。有希はすぐ立ち上がって、製鉄所の中を探検するのに取り掛かる。
その中でとりあえず、共同の浴室と、トイレ、食堂の場所を探すことは出来た。なぜか個別にバストイレ、キッチンもあるのに、食堂や風呂がついているのは不思議だった。其れより先の長い廊下を歩いてみる。ほとんど居室ばかりである。廊下は、鴬張りという作りになっていて、歩くときゅきゅきゅと音を立てるのだった。其れはもしかしたら、ここを脱走しないようにするためではないかと、有希は思ってしまう。
廊下の突き当りを右折すると、中庭へ出る。四畳半もそこにあった。四畳半は決まった人しか入ってはいけないと、弟から聞かされていた。もう引き返さなければならないかと有希は思ったのだが、引き返そうとしたその瞬間、激しく咳き込む音が聞こえてきた。びっくりした有希は、引き返すのをわすれて、すぐに四畳半に行ってしまった。ふすまを開けると、目の前に飛び込んできたのは大きなピアノで、その前に布団が敷いてあって、その布団のうえで水穂が咳き込んでいる姿がみえたのである。
「あの、大丈夫ですか?」
ちょっと声をかけてみるが、咳き込むばかりで返答はない。どうしたんだろうと思って、よくよく観察してみると、彼は咳き込みながらなにか取ろうとしていることがわかった。ところが、体もうまく動かなくなっているようで、なかなか手を伸ばせられない。
「どうしたんですか?」
有希がそう聞くと、水穂はやっととぎれとぎれに、
「すみません、薬、薬を取ってくれませんか。」
と、だけ言った。薬と言われてもどれを取ればいいのか、有希には見当がつかないのであるが、水穂が、枕元の吸い飲みを指さしたので、急いでそれを取った。水穂はそれを受け取ると、咳き込みながら、飲み口を自分の方へ向けた。有希はその手つきが危なっかしくて、落として割ってしまうのではないかと、思ったので、それをむしり取るように取って、飲み口を水穂の口の中へ突っ込む。水穂は頷いて中身を飲み込んだ。中身は咳を止めるだけではなく、眠らせる成分があったのだろうか。飲み込むと、咳き込むことはなくなったが、そのまま電源を切ったように眠ってしまったのである。
「そうか。この人が水穂さんだったのね。ごめんなさい、あたし、こんなに酷くなってた何て、何も知らなかったわ。」
有希は布団に眠っている水穂さんの観察を続けた。弟から大まかな事は聞いているが、こんなに咳き込んでも誰もやってこないという事に、ちょっと腹がたった。ほかのひとが世話をしているというけれど、そんな感じではなさそうだ。もう完全に見捨てられてしまったのだろうか。それでは誰かが世話をしてやらなくちゃ。有希はそう思ってしまったのだった。
よし、それなら私が何とかしよう。決めた。ここでの私の役目はそれをすることなんだわ。有希はそう
決断した。
そのまま水穂さんの観察を続ける。見てのとおりやせ細っていて、明らかに衰弱してしまっていることはたしかだった。
「ご飯なんて、何十日も食べてないのかしら。」
たしかに其れはそうだ。普通にご飯を食べていれば、ここまで衰弱するはずもないし、現代社会であれば、栄養失調症なんて、全くあり得ない筈なのである。
「とにかく、なにか食べさせなくちゃ。先ず栄養を付けることが一番だわ。」
腕組をして考えると、有希はヨイショと立ち上がって、すぐに台所に向かった。台所には冷蔵庫があった。それを開けると、ニンジンも大根も、ジャガイモも、栄養価のある野菜が、沢山入っている。
「なんだ、体にいいもの一杯あるじゃないの。ついでにお米があるかしら。」
有希は急いで冷蔵庫の近くを探すと、木製の米櫃が目についた。それを開けると、白いコメが沢山入っていた。
有希はそれを近くにあった計量カップで取って、ボウルに入れて丁寧に研いだ。そして、小さな鍋を探し出して、コメを其れに開けて、その倍くらいの水を入れて火にかける。暫くぐつぐつと煮込む。その間にニンジンとほうれん草を出来るだけ小さく切った。ご飯が柔らかくなってきたら、その野菜を入れてさらに煮る。そして、ご飯がどろどろになるまで煮込んだら、ブイヨンで味付けをした。完全に液体と近くなるまで煮込み、具材入りの全粥を完成させた。有希は完成すると、戸だなのなかから、器を取り出して、全粥を中に入れた。
「よし。これでいいわ。」
有希は、戸棚の中から箸と匙を取り出して、全粥の入った器と一緒にお盆の上に置き、すぐにそれをもって、四畳半に向かった。
「水穂さん。ご飯です。今までほとんど何も食べてなかったんでしょう。すぐに、ご飯にしましょうね。ニンジンにほうれん草体にいいものばっかりよ。ほら、食べよう。」
そういって有希は、枕元におかゆの皿を置いた。そしておかゆをよくかき回して覚まし、それでは、と、水穂の口もとにおかゆを持っていく。
「食べてよ。」
このブイヨンの匂いで目が覚めてくれると思った。有希は以前、そのような事例を文献で聞いた事があった。その通りになる確率は実際の所どうなのか、わかる物でも無いのだが。
「ほら、食べて。」
有希はおかゆの汁が、水穂さんのこわばった唇を解いてくれることを期待していたが、其れは敵わなかった。有希は、しかたなくお皿に匙を戻して、
「ねえ、水穂さん、おきて。起きて頂戴。ご飯なのよ。嬉しくないの?だって今までずっと食べさせて貰っていなかったんでしょう?」
と、水穂の体を揺さぶった。有希がそうしたことでやっと水穂は目を覚ました。良かった。これでやっと目を覚ましてくれた。と有希は思いながら、
「ほら、ご飯よ。ずっと、食べさせてもらってなかったんなら、嬉しいでしょう。ゆっくりでいいから、ご飯を食べて。」
と言って、水穂さんの目の前に、お匙を差し出した。
「え、え、ああ。」
水穂は、何があったかわからない様であったが、それでも何とかして起き上がろうとしたが、力がなく、どさっと布団の上に落ちた。
「起きれないの?」
有希は、水穂の体をそっと持ち上げて、起き上がらせてやろうとしたが、自分がお匙を持ったままなのを忘れていた。お匙は、ぼとっと畳の上に落ちて、一部が水穂さんの指を汚した。
「熱い、」
と思わず口を開いた水穂さんであったが、それが余りにも突然だったから、びっくりしたのだろうか。少しばかり咳き込んでしまった。
「あ、ああ、ごめんなさい。水穂さんしっかり。」
有希は急いで、タオルで汚れた指を拭こうとしたが、
「何をするのよ!」
と言って、由紀子が飛び込んできた。
「由紀子さん。」
おもわず、おどろいてしまう有希。
「一体何をしたというの!指にやけどまでしているじゃないの!水穂さん一寸待って、あたし、氷持ってきてあげるから。指、冷やそうね!」
由紀子は、急いで台所に向かって走っていく。
「どうして、、、。」
有希の顔におもわず涙が浮かんだ。
「あたしは、水穂さんにご飯を食べさせるために、作っただけなのに!」
「水穂さん、ほら、氷持ってきたから、指を冷やそう。指、やけどしているから。ね。」
由紀子は急いで、水穂さんの指に氷水の入ったビニール袋を当てた。
「由紀子さん、あたし。」
「うるさいわね!余分なことしないでよ。あたしたちは、水穂さんの事一生懸命看病しているのよ。それをあなたが手を出して、どうのこうのという幕じゃないでしょ!」
由紀子はそういって有希に怒鳴りつけた。
「もうこんなもの作って、余分なこと!水穂さんのご飯なら、ちゃんと業者に頼んであるのよ。。栄養価とか、カロリーとか、ちゃんと計算して食べさせているの、そんな時に余計な物は作らないで!其れに水穂さんに火傷まで、、、。」
由紀子は、そういいながら咳き込んでいる水穂の背中をたたいたり、さすったりして、一生懸命なだめたが、水穂は、もう力がなくなってしまったようで、布団の上に倒れ込んでしまった。
「ほら、ゆっくり横になって。もうちょっとしたら、おばさんが、晩御飯を持ってきてくれると思うわ。」
おばさんというのは、水穂のご飯を提供している、宅配弁当会社の社長さんの事であった。それを知らない有希は、ただ、ご飯をあげているのが面倒で、外部の人に頼んでいるだけなのではないかと思い込んでしまった。それを見て、ますます水穂さんのことが可哀そうにみえてしまったのであった。
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