第196話:繰り返す先へ 13
ぷしゃっと弾けるように、果実が潰れるような音をたてて溢れ出したそれは、埋まった俺の手首から先へと流れては、彼女の奴隷としての
俺が、殺してみたら。
そうしたら、チヨは、『焔の主』に殺されないじゃないか。穢されないじゃないか。
そんなことを思い――
――ぴちゃり、と。
我が家の床を濡らすその液体が、何を意味しているのか、少しずつ頭が理解していく。
なんだ、これは。
なぜ、血が流れている?
誰の血だ?
……俺の血ではない。
前を見た。
目に映るは、玄関そばで怪訝そうな表情を浮かべた、牛乳瓶な眼鏡の男。
そして――
「い……っくん……」
俺の肩を血濡れた手が掴む。
肩に触れたその手が、ゆっくりと俺の頬へと伝い、這い、動きにあわせて俺の頬がその血で濡れていく。
「……ち……よ……?」
俯くその顔が、俺に呼ばれて持ち上がる。
俺の視線の先に広がるは、チヨ。
俺が、護るべき女性である、万代チヨその人だ。
「辛かったよね……あたいももっと、役に立てたらよかったけど、なーんにも手伝えなかった」
その、慈しむかのような微笑が。
儚く散るかのような苦しげな表情が。
べちゃりと、絡みつくその赤い液体が。
俺を、射抜く。
かくんっと、俺の足が力を失う。
腹部に突き刺さったままの俺の腕とともにチヨも座り込むと、俺の頭を抱きかかえた。
「あたいも、ずっと。孤独に一人でやり直してたら、きっと。おかしくなってた」
チヨの腹部からじわじわと溢れる血。
すぐに抜こうとしたが、抜いたら確実に出血多量でチヨが死ぬ。でも、抜かなければチヨが死ぬ。なんで、なんで俺はチヨの体に腕を突き刺しているんだ。
「……あたいも、死んでまた戻って。生きてるのか死んでるのか、頭がおかしくなりそうだった」
なんで俺はチヨに型式なんて使ってこんな……。
なんで。なんで俺は、チヨを。
「でも、いっくんが。いっくんが、あたいを助けるために何度もやり直してくれてるって思ったら」
やり直したから?
やり直せるから?
何をしているんだ俺は。
「嬉しかった。だからね。もう、いいんだよ? もう、先進んで、いいんだよ? あたいはもう、十分すぎるほど、いっくんからもらったよ?」
ぐっと、力強く俺の頭を抱えるチヨの体温が、急激に冷めていく。
「先へ……? 無理だ。無理なんだよ、チヨ……」
ああそうさ。
『焔の主』に殺されるくらいならいっそのこととは、思っていたさ。
むしろ、最初は鬱陶しいとさえ思っていたんだ。
人なんて所詮は殺せば終わり。
いらなくなれば殺してしまえばいい。この裏世界では許可証がなくても殺しなんて日常茶飯事だ。それに俺には許可証があるから、殺したところで罪に問われることもない。
だけど。そんなことは俺はしなかったし、しようとしなかった。
するわけがない。
普通は、やり直せるわけがないんだから、だから殺せば終わりなんだ。
そばに。
そばにお前が――チヨがいなければ、なんの意味もない。
なのに、なんで。
誰が? 誰がこんなことを……
……俺? 俺か? 俺が……
俺だ。俺がやったんだ。
何を逃げているんだ。俺だ。自身の意思をもってやったんだ。その行為を嘘とするな。逃避するな。
見ろ。しっかりと。
俺がやったこの今の状況を。
チヨを殺傷たらしめた今を、それを起こした俺を。
チヨを、見るんだ。聞くんだ。
「できるよ。いっくんは、凄いから。だって、こんなに大変なのに、こんなに辛いのに。何度だって、やり直してるんだから」
やり直し。
やり直せるということがそもそもおかしいんだ。
やり直せるからなんて考えがあるから。何をしてもなんとでもなるとか思うから。
「だから、だから……死なないでくれ、チヨ……俺のそばから、離れないでくれ……」
ただ、涙が溢れた。
取り返しがつかないことをした。
何をやっているのかと後悔した。やり直せても、こればっかりはなんとも出来ない。
だけども。
俺の懇願に返ってくる言葉はなく。
ただ、俺をずっと抱きしめたまま。
冷たくなったチヨがそこで、赤い化粧をして微笑みながらいるだけ。
ぴちゃりと。
液体が溢れて地面に落ちる音がする。
俺が、ただ、チヨを殺した。
その結果だけが、そこに残る。
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「ふむ。なるほど。理解した」
ほんの少しの静寂の中。
そこにいるもう一人が、声を出した。
そう言えば、俺はなんのために頑張っていたのかと、考えた。
「お前、目覚めているのだな?」
そうだ。夢筒縛が、スズを殺した理由を――いや、それは理解できた。
「……なにに、だ」
では、なぜ。
俺を、食す理由?
それもある。
だけども、本当はただ。
チヨを、護りたかっただけなんだ。
世界がどうなるかなんてどうでもいい。
ただ、チヨだけが無事ならそれで。
「やり直し、しているのだろう」
「……それが、どうした」
それが、どうしたって言うんだ。
お前が、なにを考えていようが、この先に。そこに。チヨがいなければなんの意味もない。
やり直せる。そうか、やり直せるから、だから聞くべきなのか。
「我が作り出した最高傑作。お前の力、その、やり直しの力。我が先に進むための力は、我のためのものだ」
「……そうか」
やはり。
俺は、作られた存在。
『苗床の成功体』水無月スズと同じ、か。
だとすると、俺も成功体の一人なのだろうか。
夢筒縛――いや、こいつは、『俺』と『苗床』を手に入れて……取り込み力を得て、何がしたい。
取り込む?……力を、手に入れる?
「夢筒縛」
「……なんだ」
「お前は、なにをしたいんだ。スズを取り込み、俺を取り込み」
スズは、素体を無限に作り出せる。
俺は、やり直すことができる。
「ほぅ。我は、スズを手に入れている未来もあるのか。第一段階。つまりは、世界を滅ぼす力を得たわけだ」
「手に入れて、何をする」
スズを取り込むことで世界を支配する。
では、俺を取り込めば……
「世界征服」
やり直せる。
いくら失敗しても、やり直すことができる?
今の俺のように?
それが俺を取り込む理由?
座る俺と、それをみくだすように見下ろす夢筒縛。
もはや、俺を見るその目は曇ったように。いや、曇ったのではない。ただ、ゴミを見るかのような目。
成功体なんだろ?
ならばそのような目で見るのはなぜだ。
……なるほど。
俺は、いらないのだな。
夢筒縛の両手が淡く光る。
人を取り込むために削り、人を取り込むために食す。
あれが、『
「どれ。条件は後で我が知るとして。まずはお前を、取り込まさせてもらうとするか」
掌が。
光る掌が、俺に迫る。
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