第57話:告げる
「……スズ?」
いつもならづかづかと、我が家のように入ってくるスズが、なぜか入ることを遠慮しているように扉を開けても入ろうとせず。
とは言え、今日の半日をこの目の前の少女のことで悩んでいた冬にとっても、その遠慮は助かった。
まだ枢機卿の母体であるパソコンはつけっぱなしで、許可証も抜き取っていないから枢機卿も起動したままで。
そして。
明日から始まるかもしれない戦いに、どうするか考えた直後であって――
――離れる決意を、告げることが出来ることに。
今のこの瞬間が、もっとも揺らぐこともなく、告げられるタイミングだと。
助かった、と。
そう冬は思ってしまっていた。
それは、まだ冬が、先程枢機卿から伝えられた結果から、気分が沈んでいた証拠だったのかもしれないし、いまだ告げられた姉のことで、高鳴る気分のまま、勢いで伝えたかっただけなのかもしれない。
「うん。……今、いいかな」
「ええ。いいですけど……」
ちらりとリビングを気づかれないように見ると、パソコンのディスプレイは閉まっており。
閉めた記憶はないが、自動で閉まるものなのかと驚きながら、これなら大丈夫と安堵した。
伝えるなら、
「……お邪魔します」
中に入るように進めると、いつもなら言いそうもない言葉を口にするスズに驚いた。
「……珍しいですね」
「何が?」
「お邪魔します。なんて、いつもなら言いませんでしたよ」
「そっかな……」
スズの反応も少し遠慮気味。
何かあったのかと、心配になった。
それを起こしたのかが誰なのか。
もしそれが、一緒に帰った同級生だったのなら。
――そいつを、殺してやりたい。
今の、殺人許可証所持者となった僕なら、幾らでも殺しても咎められることはありません。
だったらいっそのこと、スズを悲しませる者がいるなら――
――そう思い出した冬は、考えを振り払った。
今から、スズに自分の正体を告げる。
それで、終わり。
自分の意思を、しっかりと脳内で確認し直す。
リビングに上がり込むと、スズはいまだ考えているのか、テーブルを囲むように設置された二人掛けのソファーに静かに座った。
そんなスズの目の前の机には、許可証協会から支給されたパソコンがある。
だが、スズはそのパソコンが見えないかのように、じっと、考え事をするように俯いて静かだった。
「……」
冬がコーヒーを入れ、それをスズの前に置き隣に座ると、スズは、そこでやっと我にかえったかのように、慌てて目の前に置かれたコーヒーを口にする。
「……もう、訪問時間には遅いですけど、どうかしましたか?」
スズの隣に座りながら時計を見ると、夜も遅く、すでに日付も変わりそうだった。
「うん……」
そう、一言言うと、何も言わなくなる。
沈黙が訪れ、時間だけが過ぎていく。
明日がある。
いつもならそこまで気にならなかったが、明日の仕事や、スズに今こそ伝えるべきだと決意していたからか、妙に時間が気になった。
それは、これから伝えた後に、スズがどう行動するのか分からなかったからかもしれない。
「……私、ね。告白されたんだ」
「……音無君に?」
「うん……」
しばらくの沈黙の後にスズから出た内容に、冬は口に運んでいたコーヒーを一気に飲み干してしまっていた。
予想はしていた。だけども、それを本人から伝えられることはまた別だった。
あまりの熱さに顔が引きつったが、そんな行動は、動揺を隠す仕種であったかもしれない。
「……冬は、どうしたらいいと思う?」
「僕に、どうしろと?」
冷たく突き放すように告げられた言葉に、スズは冬を見る。
いつもにこやかに接してくれる冬が、今日、自分が話したい時に限って。
珍しく苛立っている冬に、何もかもがタイミングが悪すぎる、と。
余計に悲しくなってきた。
「……相談する相手を間違えていませんか? 僕も一応男です。そう言うことは、自分で決めるか、女子の中で、スズが親友と呼べる人に相談するか。だと思いますよ。……聞かれても、どう答えればいいか、僕には、わかりません……」
分からない。
分からないなんてことはない。
断ってほしい。
だけど、そんなことを言えるわけもなく。
「……そう、だよね」
続けて伝えられた冷たい言葉に、スズの視線が、下に落ちる。
冬は、きっと。
私のことを、なんとも思っていない。
ぽたりと、水が落ちたような気がした。
スズは、今日の冬が少しいつもと違うことを感じながらも、冬がどう思っているのか知りたいと思っていた。
最近の冬を見ていると、自分から離れていくような気がして。
――そんな気持ちに至ったのは、アルバイト先で働く、冬の周りの、スズが逆立ちしても勝てないと思える可愛い従業員達を見て。
もし、自分のことを自分と同じ気持ちで想ってくれているなら。
――先日の、後輩の未保の目が治って冬とキスしたときに。
負けないと、ちらりと宣戦布告するように見てきた後輩に、どれだけ冬のことを想っていたのか、はっきりと理解して。
そんな私の気持ちで、冬を繋ぎ止めれないか、と。
――淡い希望が、音無の告白で溢れだし。
「――はっきり言うね」
だから――
「冬は、私のことをどう思ってるの?」
こんな冬へ言うのも辛かったが、スズは、勇気を出して、聞いた。
「……ただの、幼馴染み?」
「……」
冬が視線を落とす。
考えるまでもない。
これは、先に改めて気づかされたこと。
そして、これから切り捨てるべきものだということ。
なんてタイミングで、と。
それとともに、もし自分が、姉を探すことをもっと早くに諦めて――裏世界にまで求めて殺人許可証を取得しなければ、スズともっと仲良くやれていたのではないかとさえ。
自分の正体を伝えたいと思う自分と、自分の想いに、冬の頭の中はぐちゃぐちゃだった。
そうでなければ、「なんてタイミングで」なんて思うわけもない。
だからなのか。
冬は、考えるまでもないと思ったことを、考えた。
……僕にとって、――は大切な人。
でも、大切だからこそ、危険にさらしてしまうかもしれません。
大切な人だからこそ、危険な目に会わせたくは……ありません。
僕は、もうスズの知っている永遠名冬ではなく、D級殺人許可証所持者。『ラムダ』なのですから。
だけども、そこには。
応えたい、伝えたいと思う自分の心があることも確かだった。
ここで、今スズが言おうとしていることが自分が思っていることと同じであれば。
それを断れば、スズに、今の状況を伝える必要もなくなるだろう。
そこで、終わるのだから。
「私、冬のことが――」
スズを見つめる、見た先の自分の想いを伝えたい彼の――
「――ぁ……っ……」
その、悲しそうな冬の顔に、スズは言葉を失った。
……なんで、そんな顔をするの?
やっぱり、私のことなんて……
――伝えたい。
スズの想いに応えたい。
応えることができたら、どれだけ楽だろうか。
でも、応えたらきっと。
スズを危険にさらしてしまう。
応えたら、自分が今何をしているのかも、伝えなくてはいけない。
伝えたらきっと……きっとスズは離れていく。
そんな、先ほどとは矛盾した考えに、冬の頭は真っ白だった。
「……何言ってるんだろうね。……帰るね」
俯いたスズのその顔は、冬からは見えず。
また、そこから。ぽとりと、水が落ちた気がした。
するりと、スズが俯いたまま。
冬に顔を見せることなく、ソファーから立ち上がって、玄関へと歩き出そうとした。
離れていく。……大切な人が、また離れていく。
――でも、これで……これでいい。
僕には、スズに、自分がやっていることを伝える勇気が、ない。
だから、これで――
「わっ……」
立ち上がったスズの腕を冬は掴んでいた。
そのまま力任せにスズを引き寄せると、バランスを崩して冬に倒れこむように落ちてきたスズを受け止める。
「――な……いで」
「ふ……ゆ?」
ぐっと力強く抱きしめられたスズは、閉じていた目を開ける。
こつんっと額と額がぶつかり、目の前に泣きそうな冬が見えた。
目と鼻の先に目を閉じたスズの顔がある。うっすらと涙を溜めたその目がゆっくり開いていくと、目と目があった。
どきどきと、胸が高鳴る。
先ほど姉の行方を聞いたときの高鳴りとはまったく違う鼓動に支配され――
「……あ……」
スズが目を開け、目の前にある冬の顔に見て声を上げる。
「……ねえ」
「はい」
スズの熱い吐息が冬の髪を揺らす。
冬の目には、もうスズしか映っていなかった。
「キスして……いい?」
「……そういう時は、目を閉じてくれればいいんですよ」
「そうなの……?」
スズはしばらく冬を潤む瞳で見つめると、これ以上近づくことはないと思っていた顔をゆっくりと近づけていく。
互いが目を閉じると、二人の想いとともに、唇が合わさった。
自分の行っている
そんなことをスズを抱きながら思う。
でも、それでも。
理解してくれなくても。
冬は、スズを離したくなかった。
夜は、ゆっくりと更けていく。
⇒ぴっ
機械音が、誰もいなくなったリビングで静かに音をたて、机の上に置いてあったパソコンがゆっくりとディスプレイを持ち上げていく。
『……せめて、私を切ってから行為に移ってください……』
聞こえないように静かに。
呆れたように。
枢機卿は、パソコンのディスプレイを閉め、スリープモードに入った。
……夜は、ゆっくりと更けていく。
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