天下五剣についてちょろっと語ってみる―――――三日月宗近


 天下五剣。

 この五剣については、先のお話でも書いた通り、


 童子切安綱


 鬼丸国綱


 三日月宗近


 大典太光世


 数珠丸恒次


 この五振のことを指します。


 天下五剣のお話も折り返し地点のちょうど真ん中となりました。童子切安綱、鬼丸国綱についてエセらせてもらいましたので、今度は三日月宗近についてエセらせてもらおうかと思います。


 しばらくの間、私のエセにどうぞお付き合いくださいませ m(_ _)m






 ■銘:三条

 ■号:三日月

 ■掲載名称:太刀 銘:三条 名物:三日月宗近

 ■刀工:三条(小鍛冶)宗近

 ■刀工活躍時期:平安時代後期頃

 ■種別:国宝



 三条宗近さんっていう、山城国三条(現京都の南辺り)の刀工で、天下五剣の中でもっとも美しいと言われる、名物中の名物と言わしめた日本刀だよ。


 と言われている刀です。


 鎬と反りのある日本刀として最古の刀として有名な刀です。元々の名前は「五阿弥切り」ではないかと言われています。

 号の由来は、雲の合間に浮かぶ三日月のように見える刃文(打掛といいます)が数多くみられることから三日月と言われるようになったとのこと。これは鍛冶の槌を打ち付けた跡が優美に見えることからだそうです。

 現代に見られる刀そのものは作られたままのものの、外装は鞘の一部が欠けており、現在みられる鞘は室町頃に作り直されたものではないかと言われているもので、刀と共に作られたものは現存していないと聞きます。それだけ古い刀であるということですね。



 さて。そんな三日月宗近。

 この刀はいろんなお話があります。


 私が知りうる限り、というか、当初からそうであると思っていたのですが、この刀そのものは、人を斬ったことがないにも関わらず、天下五剣として名を馳せていることでとても特殊な刀なんだな、という印象を持っていました。

 一度だけ実検をした結果のみが残る刀という印象で、実検においては、人の胴体三人分をすんなり斬る切れ味だったというそんな話を聞いたことがあるのですが、そうなると先に記載した、人を斬ったことがない、という内容と相反するんですよね。多分私の記憶違いの可能性が高そうです。


 そんな記憶違いにめげず。

 他にも色々信憑性の薄い噂話がいくつかこの刀にはありますのでそちらをご紹介。



 まずは、私推しの剣豪将軍足利義輝についてのお話を。

 先の童子切安綱の話でも書きましたが、義輝は、自身が襲撃を受けた際、あらゆる足利の重宝をもって戦ったと言います。

 その中の一つ、三日月宗近ももちろん足利の重宝の一つです。そうなるとやはり、三日月宗近さえももって戦ったのではないか、という話があります。

 しかしながら、やはり人を斬ったことのない刀として有名な刀ですから、この時も義輝は、腰に佩刀していただけで抜かなかったのではないか、という逸話があります。


 ここまで二刀の話の中で書いてきた足利義輝の最後の話。

 収集していた重宝を自身の周りに突き刺し、襲い来る敵を斬っては切れ味がなくなれば刀を持ち帰るという修羅のごとき戦いをしたという剣豪将軍。最終的には三十人以上の敵を切り倒した結果、打ち取られてしまったという話ではあるのですが、その突き刺された刀の中に、当時足利重宝であった三日月宗近もあったのかと思うと、いや、先に三日月宗近は佩刀しており、最後まで抜かなかった、と考えると、美術品として自信を飾る刀として相応しいと考えて佩刀していたのかもしれませんね。

 ちなみに、義輝が打ち取られた後、将軍暗殺の首謀者の一人、三好の一派に三日月宗近は奪われ、後の豊臣秀吉に献上されているそうです。


 さて、足利義輝の話は、創作でもあり、史実、事実に近い創作が入った逸話であると考えておりますが、次のお話は明らかに創作だろうと私自身思っているお話。


 七難八苦、という言葉の語源となったとされる、戦国時代の尼子家に仕えた、山中幸盛という勇猛な武将についてのお話になります。

 この山中幸盛。山中鹿介しかのすけという名前のほうがしっくりくるかもしれません。毛利家に滅ぼされた尼子家の再興のために奔走する武将ですが、豊臣家から三日月宗近を譲り受け所持していたと言われています。尼子家を再興の道半ばで倒れる山中ですが、自分の死期がわかっていたのか、彼は北政所(おねね様)に事前に返上していたといいます。

 彼の尼子家再興のために「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に誓ったという話から、また、彼が所持する様々なものは三日月の装飾があったということから、三日月宗近を所持していたという話に繋がったのかもしれませんが、豊臣秀吉から渡されていた北政所の護衛にいる、山中鹿之助(山中幸盛とは別人)という近習が持っていたと言われていることから混同されたのではないかという説もあります。私は後者が正しいだろうと思っている派です。

 もし実際、山中幸盛が持っていたとしたら。

 この武将、尼子家再興のためにいろんな戦場歩き回っていたはずなので、どこかで三日月宗近使って人斬ってそうですしね。


 後、もう一つ話すと。

 豊臣家が滅び、北政所もなくなった後、三日月宗近は徳川家に渡ります。この徳川家。明治に入ると、金策に走っており、その時に三日月宗近を手放したそうです。

 ここが妙に生々しく。実話っぽいですよね。

 行方不明となった三日月宗近は、のちの「SUBARU」となる中島飛行機の二代目社長により発見。終戦後に様々な刀剣保存の礎となり、東京国立博物館に寄贈されて現在見ることができるようになったそうです。




 さて。最後にもう一個。この刀工の三条宗近について。


 とあるお話で、宗近が相槌(刀を打つ時の補助役)をしているお話があります。宗近が弟子だった頃のお話かと思われるのですが、その師匠と言われる相手が、なんともまあ。私推しの「天国あまくに」というじゃありませんか。

 伝説の刀工。刀工の始祖。そんな相手に弟子入りしてそして作り出した刀工も伝説の刀工。

 名刀の数々。天国の血脈が継がれている。そう思うと胸がときめきます。うっ。苦しい……ばたっ


 時代年月的に、ちょっと無理感のあるお話ではあるのですが、逸話だからこそ、そして私達が実際に知り得ることのない遥か古い時代のお話だからこそ、ロマンだなぁと、私はそう思います。

 なので、先に記載している他の逸話なども、全面否定するわけではなく、そうであると夢が膨らみ創作意欲もわく、というものです。

 ……これを書いてる時点で、他作品の更新が滞っているということから、本当に創作意欲がわいているかはさておきではありますが(笑



 三日月宗近。

 名刀としてはそのような逸話、伝承などが多く残る、名物中の名物ではありますが、それを作刀したと言われる三条宗近を調べてみると、もっといろんな面白い話が出てきます。

 例えば、源氏の有名どころの、源義経。

 彼が使用していたといわれる「今剣いまのつるぎ」という短刀。そして彼の右腕、武蔵坊弁慶が使用していたといわれる「岩融がんゆう」という薙刀。そして、源義経の側室である静御前が持っていたといわれる「静御前の薙刀」。これらはすべて三日月宗近作と言われています。


 個人的には、「小狐丸」という刀のお話なんて特に面白いなと思いますので、ぜひ調べてみてください。


  ワタシハ

     コノ コギツネマル ノ 

   オハナシ ガ トテモ ダイスキデス


 カタコトになるくらいには。

 だから私の分身であるぱんなこった教祖はキツネのお面を被ってると言っても過言ではありません(?


 かなり長くなってしまったので、三日月宗近はここまで。次は大典太光世でお会いしましょう。


 ではでは~


 にんにんからの~


 どろんっ☆

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