2. GUST OF WIND


 三日後。連休前で仕事が立て込み、萩原がいつもより二時間以上も遅く居酒屋を訪れると、週末の店内はほぼ満席状態だった。それでも常連のよしみで何とかカウンターの端っこに席を確保してもらい、休日前なので吟醸酒をちびちびとりながらゆっくりと時間をかけて料理をつついた。そしていつものようにシメのメニューを選ぼうとしているところに、客足が引いて仕事が一段落したダイキが声を掛けてきた。

「――萩原さん、ラストオーダーん時間っちゃけど。シメ、決まった?」

「あ、じゃあ――お茶漬けにしようかな。鮭茶漬け」

 鮭茶漬けひとつ、と威勢よく厨房に告げてダイキは萩原に振り返った。

「今日はえらく遅かったんやね」

「仕事が立て込んで。連休前だし」

 そうか、とダイキは頷いた。「サラリーマンばいね? 単身赴任で?」

「いや、独りもんだよ」と萩原は笑った。「なんでそう思うの?」

「言葉のさ。こっちやなかでしょ」

 ダイキは言って、布巾がけしているカウンターを指差した。福岡のことを指しているらしい。「だから、転勤で来とうんかいなっち」

「うん、そう」

「やっぱりね。大阪?」

「地元は西宮にしのみや――兵庫だけど――まあ、大阪圏やね」

 ふうん、とダイキは頷いた。「結構多かちゃ。関西から来とう人」

「みたいやね――」

 そう言って萩原はこの前の女性のことを思い出した。おそらく彼女もそうだろう。今でもたまに『関西人はがさつだ』と言う人がいるけれど、彼女みたいな食べ方をする人間がいるから、そんな不名誉な印象を持たれてしまうのだと思った。


 ダイキがお茶漬けを運んできた。萩原の前に置くと、替わりに空いた器をトレーに乗せてそのまま厨房に戻るかと思いきや、隣の席に腰を下ろしてにこにこと萩原が食べるのを窺っている。萩原はちょっと苦笑して、いただきますと合掌した。

 するとダイキが言った。

「――萩原さんてさあ、おぼっちゃんやろ?」

「えっ、違うよ。なんで?」

「ばってん、こうゆう店で過ごすのに、お行儀のよかから。品のあっけんっち言うか」

「初めて言われたよ」と萩原は笑った。「一人で来てるから。騒ぎようがない」

「食べ方もきれいやしね」

「三十歳の大人だよ。外食に来て、食べ散らかすとかしないでしょ」

「まあね」

 ダイキは言うと、立ち上がって爽やかに笑った。「どっちにしたって、オレは萩原さん、好いとうよ」

「え、俺、告白されてんの?」萩原は目を開いて頬を緩め、自分を指差した。

ちごうとるちゃ。よかお客さんばってんこつばい」

 ダイキはさらに清々しく笑うと、トレーを持って立ち去った。


 食べ方を褒められるとは。ごく普通だと思っているし、実際そうなのに、そんなところを称えられるなんて意外だった。

 居酒屋も大変なんだなと思った。特にここは評判の良い店だけに、いろんな客がいるのだろう。


 するとそのとき、入口の格子戸がガラガラと開いて、客らしき女性の声が言った。

「――まだやってます?」

 萩原が顔を上げると、例のあの女性が顔を覗かせていた。白いカットソーにターコイズブルーを基調としたチェックのシャツを羽織り、紫のスキニーパンツを履いていた。白い大きなキャンバス地のバックをたすき掛けにして、急いで来たのか、はあっと息を吐いている。そしてどこか緊迫した空気を纏っていた。

 ダイキが早足で応対に出た。「――マコっちゃんか。もうラストオーダーの時間過ぎとうちゃ」

「ダメ? 一品だけでもええんやけど」

「ダメ。もう火ば落としたし」ダイキは首を振った。

「火を使わへんものでええから。ね?」

「無理言わんけんで。だいいち、そっちの仕事は終わっとうやろ? だけん遅かばい」

 ダイキは少し苛立ちを含んだ口調になった。「あんたなら分かるちゃろ。素人じゃなかんだから」

「…………」

 女性は口を曲げると、店内に視線をやった。すると萩原と目が合った。

 萩原はすっと目線を落とし、木製のスプーンでお茶漬けを掬って口に運んだ。

 行儀の悪い女だと思った。ただ、何か理由があるのだとも思った。

「……火曜に来るから。席、取っといて」

 そう言い残して女性は店を出て行った。


「――ごめんね。お騒がせして」

 入口から戻ってきたダイキが萩原を見て言った。

 いや、と萩原は首を振った。「あの人、この前もいたよね」

「え? ああ、うん」

「常連さん?」

「そう。週一で来んしゃるんやけど。今日は――例外かな」

「ちょっと切羽詰まってた感じやったけど」

「え、そう?」ダイキは首を傾げた。「でもまぁだいたい、あげな感じ。一生懸命っち言うか、強引っち言うか。猪突猛進タイプ」

「食べ方が汚なかったよね」萩原は言った。

「え?」

「この前、斜めの席で見てたから。料理を箸でこう、突っついてぐちゃぐちゃにして」萩原はスプーンで小さな円を描いた。「――まるで解剖でもしてるかのように」

「ああ……いつでんそうったい」ダイキは困ったように眉をひそめた。

「ああいうのは良くないな」萩原は鼻のふもとに皺を作った。「見てて気分が悪い。特に外ではやるもんじゃない」

 そうだね、とダイキは苦笑いをした。「でもね――」

 萩原が彼を見ると、ダイキはしまった、とばかりに肩をすくめた。「あ、えっと、何でもない」

 萩原は笑顔で頷いた。「お客さんのことを話すのはNGやもんね」

「……うん。そう」

「ごめん。話を振った俺が悪かったね」

 とんでもない、とダイキは手を振った。それからふうっとため息をつくと、少し声を潜めて言った。

「じゃあ――ひとつだけ。彼女、勉強のために来とうんばい」

「勉強?」

「うん。だからあげな食べ方になるんばい」


 ――勉強。つまり彼女は飲食関係の仕事をしているということか。


「でも、だったらなおさら、勉強させてもらってる店の料理には敬意を払うべきじゃないのかって思うけど」

 萩原は言った。するとダイキは嬉しそうにうんうんと頷いて満面の笑みを見せ、

「オレ、やっぱ萩原さん好いとうよ」

 と言って厨房に戻って行った。



 お茶漬けを食べ終え、おあいそを申し出たところで、再びダイキがやってきた。

「――ほら。きれいに食べてくれとう」

 ダイキがお茶漬けの器を手に取って言った。「やっぱり、よかところんお坊ちゃんやろ?」

「もういいよ」と萩原は笑った。「美味しいからだよ」

「そいは間違いないけど」

「俺の食生活の栄養バランスは、この店の料理が守ってくれてるよ」

「そげなこつ言ったら、奥さんに怒らるーばい」

「せやから、独り者やって」

「あっそうか」ダイキは笑顔になった。「やったら、毎日きんしゃい」

「それは財布が許してくれへん」

 萩原も笑って、鞄を持って立ち上がった。



 店を出ると、生暖かい突風が顔を掠めていった。舗道のごみがバラバラと音を立てて転がってゆく。今日は遅いからタクシーでも拾おうかと車の流れを見ながら歩いていると、前方の橋の欄干脇にある階段の隅っこで、さっきの彼女が座っているのに気が付いた。

 小さな段差で膝を折り、うずくまるるようにして背中を丸めていた。そばの側壁に自転車が立てかけてあって、風でガタガタと揺れていた。前かごに白いカバンが入っている。自転車は彼女のものらしかった。

 やっぱり何かあったんだな、と萩原は思った。それが仕事に関わることなのかプライベートの案件なのかは知る由もないが、夜遅くに女性が一人でこんな橋のたもとで座り込んでいるなんて、どう考えたって良いことじゃない。

 かと言って、自分が関わっていくような状況でもないことは分かっていた。ダイキならともかく、客の多い飲食店でたった一度、近くに座ったというだけで――しかもそれは今日でもない――近付いて行って大丈夫ですかなんて声を掛けたら、たちまち通報されて痴漢の現行犯逮捕となるのは必至だ。

 そのとき、後方から空車のタクシーが走って来るのを見つけた。つかまえて乗り込み、橋を渡る手前で窓の外を見ると、ちょうど彼女が腰を上げるところだった。

 左手を自転車のハンドルに添えて立ち上がり、右手で顔を拭っていた。泣いているらしかった。


 ――そりゃあ、みんな誰しもいろいろあるさ。俺にだって無いこともない。


 萩原は窓から顔を離し、ゆっくりとシートに身体を預けた。河面に映るネオン街の夜景が眩しかった。


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