3. IN THE FOG
いくぶん肌寒い朝だった。
ベッドから重い身体を引きずり起こしてカーテンを開けた。どんよりと今にもひと雨来そうな曇った空で、彼女の気分とぴったりリンクしていた。
今日ほど仕事に行きたくない日は無いなと思った。
逃げ出したい。でも、それじゃ悔しい。
昨日、真琴はいつもより一時間半早く出勤した。
彼女の職場は
真琴はここでアントルメティエール(entremetier)として二年のキャリアを積んでいた。前菜とメインの間に出す料理――プリモ・ピアットを担当するポジションで、主にリゾットなどの炭水化物系の料理を作る。パスタやメインメニューほどの華やかさは無いが、提供されるコースのラインナップにあれば楽しみの一つになることは間違いない、そんな重要な料理を真琴は任されていた。
この日はディナータイムに十名の団体客の予約が入っていた。その他にも、時間はまちまちだが三組の予約があり、多忙になることは必至だった。もちろんランチ営業もあり、時間は短いがほぼ満席の状態が続くのが常だ。
それに加えて、真琴にはやりたいことがあった。少し前から考えていた新メニューの試作品に取り組むことだ。豆乳を使った魚介のリゾットで、それ自体はSNSや料理レシピのウェブサイトでよく紹介されており、特に珍しくはないのだが、食材やチーズの種類、調味料、アレンジ技術、それらを専門店ならではの本格的なものに一段格上げして提供するべくずっと考えてきた。まずは自宅で何度か作ってみて、それがある程度まで形になってきたので、いよいよこの日、店の厨房での試作に取り掛かろうと決めたのだ。
そんな諸々の事情が相まって、真琴はいつもよりかなり早めに出勤したのだった。
ところが――
「――おはよ」
ロッカーで着替えていると、同僚の
「今日はずいぶん早かんね」瑞稀は言った。
「あ――ほら、今日は忙しいからさ。ちょっとやりたいこともあって、それで早く」
「ふうん」
瑞稀は腕組みして頷いた。長い黒髪をいつも綺麗な編み込みにして、小さな顔をすっきりと見せている。やがてなぜか不機嫌そうに真琴に言った。
「あんた、今日はホールだってさ」
「は? なにそれ、冗談」真琴は着替えながら笑った。
「バイトの子がね。急用で来れのーなったんだって」
「え、だから?」
「だからあんたにホールに入っちくれっち、
「ま、待ってよ。あたしが代わりにってこと?」
「うん。カメリエーレ(cameriere=ホールスタッフ)はあと一人いるそうばってん、その子一人じゃ回らんけん」
「そんな無茶な。あたしかて――」
すると瑞稀はいかにも迷惑そうに眉をひそめた。
「いいから、とりあえず行っちきなちゃ。文句のあっけんなら、そいで支配人に言えばよかろうもん」
「……どういうことよ」
真琴は更衣室を出てホールの一角にある支配人室に向かった。
部屋の前でドアをノックし、「朝吹です」と言うと、中から「どうぞ」との声が返ってきたので、真琴は中に入った。
濃紺のスーツに身を包んだ四十代半ばの男性が、デスクの前で手にしたタブレット端末を見ていた。支配人の
「今日はホールに入ってくれる?」
「あの、どういう――」
「バイトん
「急な休みって、なんですか?」
「昨日、面接ん連絡の入ったんばってん。今日来てくれっち」
「面接……?」真琴は首を傾げた。
「うん、彼、今就活中やろ。第一志望の最終面接なんよ。東京ん本社まで行かなきゃいかんげな」
そう言うと榎原は顔を上げた。「そう言われちゃ、休むなっち言えなかやろ。人生掛かっちるんに」
「だからって、なんであたしに――」
「きみ、彼と背格好の同じくらいやから。彼ん制服、着れるやろ」
「え?」と真琴は目を見開いた。「……それだけ?」
「そう。あいにく予備ん制服の無くてね」
「あたしに彼の制服を着ろって言うんですか?」真琴は声を強めた。
「それが、ちょうど彼、スペアをクリーニングに出してて、もう出来上がっちるげな。もう一人んカメリエーレの出て来たら、取りに行かせるから」
冗談じゃない、と真琴は思った。そんな簡単な理由で無理難題を押し付けるってあるか。あたしにはあたしの仕事があるんだ。
「だいいち、あたしが穴を空けたら――」
「それは大丈夫。北河さんの入ってくれるこつになってる。彼女、きみが
「え……?」
「北河さんのポジションにはもう一人おるから、何とかなるちゃ」
榎原はタブレットのカバーを閉じると、上体を起こしていささか鋭い視線を投げかけてきた。「とにかく、緊急事態、非常事態だ。一人んわがままば通す暇のあるんなら、全員一丸っちなって乗り切るしかなか」
その一人のわがままを通すために、全員が犠牲になってるんじゃないか。真琴はそう言いたかったが、現場ではこの支配人の決めたことは絶対だ。悪あがきは諦めて渋々承諾し、部屋を出た。
――試作品どころか、本来の仕事さえさせてもらえないなんて――
更衣室に戻ると、瑞稀がスマホを眺めながら待っていた。
「言えた? 文句」
真琴は黙って首を振った。
「やろうね」瑞稀はため息交じりに言った。
真琴も大きなため息をついた。「……なんだと思ってるんやろ、こっちの仕事」
「
「クソ喰らえの男社会。そんなの今どき通用せぇへんし」
「だから、声に出しては言わんけん」瑞稀はふんと笑った。「しかも寺本はね、オーナーん甥っ子やし」
「えっそうなん?」
「知らんかったと? 今日んこつはともかく、前から特別待遇なんちゃ。時給も他んバイトよりえらいいっぱいもろうてるっち話ばい」
「……悔しい」
「どげん職場やろうっち、与えられたポジションで腕ば磨くしかなかよ。そん悔しさばバネにして」
そう言うと瑞稀はスマホをポケットにしまって立ち上がり、真琴の肩を叩いた。「大丈夫。ちゃんとやるけん任せて」
「……頼むね」
真琴はハンガーに掛けたコックコートをロッカーに戻した。
そうして、真琴は慣れないながらも何とか一日を乗り切った。ホールの仕事は学生時代のアルバイト経験以来だったが、それなりに楽しく、料理人の立場からもいろいろと勉強になったのは救いだった。与えられたポジションで腕を磨く――瑞稀の言ったとおりだと思った。
閉店後の片付けが終わり、ホールスタッフだけで集まって短いミーティングが行われた。真琴はそこで自分への労いの言葉を秘かに期待したが、それは儚い夢と砕け散った。それどころか、キッチンスタッフから早く戻ってきて後片付けを手伝えと言われ、厨房の清掃とゴミ出しをほとんど一人でやらされた。そのあいだ、瑞稀はキッチンスタッフのみんなにそれはそれは手厚く謝意の言葉を送られていた。
自分はこの店――『Trattoria fioritura(トラットリア・フィオリトゥーラ=開花)』――にとって何なんだろう、と思った。
へとへとに疲れていたが、どうしてもまっすぐ家に帰る気になれなかった。時間も遅い。でも、無性にいつものあの居酒屋に行きたかった。何か一品だけでもいい。それを食べて、味の研究がしたかった。いや、しているような気分になりたかっただけなのかも知れない。
だけどそれもかなわなかった。ラストオーダーの時間は過ぎている。そっちもプロなら分かるだろう。帰ってくれ、と言われた。
自転車で数秒間走ったところで、タイヤの異常に気が付いた。前輪のパンクだった。
――踏んだり蹴ったりだ。
みるみるうちに涙が溢れてきた。うう、と思わず漏れた自分の声を聞いたら、もうペダルを漕げなくなっていた。落ちるように降りて橋の脇に自転車を停め、石段に蹲った。
――瑞稀が言った言葉。あの言葉を、実践しているのは瑞稀だけ――
それからずっと泣きながら、自転車を押して家に帰った。浴室でも、ベッドの中でも涙は枯れなかった。ようやく眠りについたのは何時間経ってからだったろうか。
そして今朝――
行きたくない。このまま全部投げ出せたら――
窓の外では、ついに雨が降り出している。少し開けると、生暖かい空気がむわっと顔を覆ってきた。真琴はカーテンを閉め、またベッドに倒れこんだ。
あたしは、ずっと霧の中にいる。
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