1. MOON


 その居酒屋は、中洲なかすの中心部からは少し離れた西中洲にあった。


 広い店で、古民家を改装したらしい趣きのある内装に、厨房をコの字型に囲む広くて長いカウンター、大小さまざまなボックス席、二階には個室が並ぶ。そのあいだをたくさんのスタッフがきびきびと働き、客足も途絶えることがない、活気のある店だった。

 居酒屋の形態をとっているものの、大衆食堂的な役割も担っていた。通常の営業時間はもちろん、平日はランチ営業もやっていて、豊富な品揃えの定食がサラリーマンたちの胃袋を満たしていた。



 萩原はぎわらゆたかは週に三、四日、つまりほぼ一日おきにこの店で夕食を摂っていた。

 赴任して十ヶ月ちょっとのこの街はまだ土地勘が乏しく、自炊が苦手なくせに賄いシステムのある社員寮ではなく自ら借りた賃貸マンション住まいの彼にとって、この店は命綱と言っても過言ではなかった。しかしながら、いくらこの店がリーズナブルな価格設定を売りにしてはいるとは言え、毎日となるとさすがに懐に響く。独身ではあったが、離婚歴があり、元妻に引き取られた娘の養育費を払っている身ではそうそう贅沢はできず、このペースが妥当なところだった。


 今夜もいつものカウンター席で『本日のお刺身盛り合わせ』と山芋の短冊、牛タンすじの煮込みでゆっくりと吟醸酒を味わい、そろそろシメのご飯ものを頼もうかと思っていた。

 壁に貼られたメニューを見ようと顔を上げると、そのすぐ下の端っこの席で、一人の女性が黙々と料理を食べているのに目が留まった。


 オレンジ色のざっくりとしたカーディガンに白のカットソー、濃紺のデニム、アッシュブラウンの髪を頭のてっぺんで無造作にお団子にして、耳には大きな輪っかのピアスを着けていた。年齢はおそらく二十代の半ばを過ぎた頃だろう。通った鼻筋と黒目がちの大きな瞳は意志の強さを想像させ、大きく丸めた背中は座っていても背が高いのが分かる。奥行きの広いカウンターにもかかわらず並んだ料理は今にも天板から溢れんばかりで、それらを一つ一つ箸やフォークで崩し、まるで解剖しているかのように真剣な眼差しで細かくほぐすと、投げ込むように口に運んでいる。酒やお茶の類いは飲まず、おそらくお冷やと思われる無色透明の飲料がグラスに注がれていた。


 なんであんな不躾な食べ方をするのだろうと萩原は思った。この店の料理は間違いなくどれも美味しい。去年の夏に大阪から転勤してきたとき、福岡は食べ物が美味しいと知ってはいたものの自分の地元も日本屈指の食文化を誇っていたので、はたしてどうなんだろうなと少し懐疑的だった。ところが赴任して三週間ほど経つ頃、ようやく慣れてきた新しい仕事の合間にふらっと立ち寄ったこの店のランチを食べて、その不安は一蹴された。豪快にして繊細。斬新にして王道。食べ終えるのが惜しいとすら思わせる、大満足の昼食だった。以来、この店には絶大な信頼を置いている彼は、その女性の食べ方を不快に思った。

 ――今までまともな食生活を送ってこなかったんやな――

 萩原はふんと鼻を鳴らすと、フルーティーな薫りの吟醸酒のグラスを空けた。腕時計を覗くと、八時を十分ほど過ぎたところだった。

「――萩原さん、そろそろ?」

 後ろを通った馴染みのスタッフが声を掛けてきた。いわゆる束感セットに仕上げた暗めの金髪で、年齢は二十代半ば、黒いTシャツに『ダイキ』と書いたネームプレートを付け、鍛えられた二の腕の両手に空のビールジョッキを二つずつ持っていた。萩原の食事パターンを熟知していて、彼がシメの一品を頼む頃合いだと分かっているようだ。

「えっ、ああ、そうやね」

「今日は何にする? ごはんもの? 麺?」

「えっと――昼に蕎麦を食べたから――お茶漬けにしようかな。明太子の」

 と言いながら萩原は首を捻った。「あっでも、それ前回食べたっけ」

「じゃあおにぎりにする? 赤だし付きばい」

「うーん、それもいいけど――」

「そうだ、リゾットもあるけん」

「リゾット?」萩原は眉を上げた。「新メニュー?」

「そう、豆乳の。ちょっと和風で、美味しいちゃ」

「じゃあ、それ」

「了解」ダイキはにっと笑った。「待っとって」

 そう言ってダイキが立ち去ろうとしたとき、別の客が彼に声を掛けた。

「――それ、あたしにも一つ」

 萩原が振り返ると、例の女性がグラスの水を飲みながらダイキを見つめていた。

 ダイキは彼女を見ると小さくため息をついて言った。「……マコっちゃん、まだ全部食べ終わっちなかやろ」

「でもリゾットはちょっと時間かかるやんか。 そのあいだに食べきるから」

 ――関西人か―― 

 話し方のイントネーションで、萩原は彼女の出身地域を推察した。だとしたら、同じ関西出身者として何とも恥ずかしい。

「……ちゃんと食べきれちゃ」

 ダイキは不服そうに言うと去って行った。その様子を見送った萩原がマコっちゃんと呼ばれた女性に振り返ると、彼女は彼を見てひょいと肩をすくめ、また料理に箸を付け始めた。

 ――あんな失礼な食べ方をして、また注文して残すとかありえへんやろ――

 萩原は無意識に小さく首を振り、残っていた煮込みをつまんだ。



 店を出て駅までの道をのんびりと歩いていると、上着の内ポケットでスマホが振動した。

 取り出して発信者を確認した。めずらしいな、と頬を緩め、応答ボタンを触って耳に当てた。「――はい」

《――あ、俺》

 大学の同期の鍋島なべしまだった。社会人生活も八年を過ぎ、三十代を迎えた今では心を許せる貴重な存在だ。

「どうしてん、何かあったか」

 萩原は舗道の端に寄り、すぐそばの牛丼屋の入口脇に立った。

《あのさ――》

「ん」

《――今度、結婚することになった。麗子れいこと》

 萩原は小さく頷いた。「知ってるけど」

《あ、いやあの、式の日取りが決まってさ》

「あ、そうか。いつ?」

《十月の――第三土曜》

「え、まだだいぶ先やん」

《そうやけど。でも、おまえには遠路はるばる来てもらう以上、早めに知らせとこうと思って。その――いろいろ頼むこともあるやろうし》

「スピーチとかか?」

《うん、そうやな》

「バツイチやけどええの?」

《え、そこ気にする?》と鍋島は笑った。《今どきそんなこと言うてたら、誰にも頼めんようになるやん》

 ま、そうやなと萩原も笑った。「十月の第三土曜やな。予定しとく」

《頼む》

「それってひょっとして、麗子の誕生日か?」

《うん――まぁ、そう》

「へぇ……そういう甘々なことやるんや、おまえらも」

《た、たまたまや。大安でもあるし》

「今さら照れんなよ」

 萩原は笑うと、じゃあなと言って電話を切った。

 スマホをポケットに戻し、萩原は再び歩き始めた。ふと見上げると、晴れた夜空に鮮やかな丸い月が浮かんでいた。



「――ねえ、ダイキくん」

 食べ終えた料理の器を大きさごとにきれいに重ねながら、朝吹あさぶき真琴は真後ろのテーブル席を片付けているダイキに声をかけた。

「ん?」

 ダイキは布巾でテーブルを拭きながら顔を上げた。

「あの人、常連さん?」

「あの人って?」

「さっきここで一人で食べてた人。ダイキの薦めでリゾット注文した」

「ああ、萩原さんか」

 ダイキは上体を起こしてテーブルに椅子を押し込んだ。「そうばい」

 ふうん、と真琴は頷いた。

 ダイキはカウンターの前に回ってきた。「あの人がどげんかした?」

「いやあの……あたしも常連やのに、見たこと無かったなって」

「マコっちゃんは火曜しか来なかやろ。そっちの店ば定休日の」

「……そうやけど」

「なに。気になるけんか?」ダイキはにやっと笑った。「なかなかの男前やもんね」

「ち、違うよ」真琴は大きく手を振った。「ほら、話し方のイントネーションがさ、あたしと似てたから――関西の人かなって」

「ああ……そげな感じやね」

「どういう人? あの人」

「お客さんの個人情報は教えられんけん」とダイキは首を振った。「っちゆうか、オレも良く知らんばい。たぶんサラリーマンやろ。高そうな服着よったから、エリ-トなんじゃなかん?」

「……やろね」

 真琴は小さくため息をついた。



 居酒屋を出た真琴は、店の脇に停めていた自転車に乗って家路に就いた。自宅はここから五分ほど南方面へ走ったところにあった。商業地と住宅地が混在しているエリアで、彼女の住むマンションも大きな商業施設の隣にあり、築二十五年のやや古ぼけた十階建ての五階、1DKの部屋を家賃六万二千円で借りていた。 


 帰宅すると真琴はシャワーを浴び、髪を乾かしながら冷蔵庫の缶ビールを取り出して開けた。飲みながらベッドに腰を下ろし、ベランダへ出る掃き出し窓のカーテンを少し開ける。月明かりが射し、一筋の光の帯のように部屋を渡った。


 今日も何も変わらなかったな、と真琴は思った。いつもと同じ。

 いつになったら満足できるんだろう。何をすれば。

 どうやったら、父のような腕のいい料理人になれるんだろう。

 ――分からない。


 缶ビールを空けると、真琴はカーテンを閉じて布団に潜り込んだ。


 居酒屋で見たあの男性は、綺麗な手をしていたなと思った。あたしみたいに、あかぎれや擦り傷だらけではない、長くて真っ直ぐな白い指。

 ああいう人は、ずっと明るい道を歩いてきたのだろうな。もがいてばかりのあたしとはまるで違う、無駄のない、スマートな生き方で。

 そういう生き方をするには、どうすればいい? 何を身につけて、何を捨てればそうなれるの?


 ――ねえ。教えて。


 ぼんやり考えているうち、すとんと眠ってしまった。



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