第2話 扉



シシリーには「秘密」に通じる扉がある。

それだけは間違いない。

私は、そう信じている。


その扉は、お店のレジの奥。小さな事務所の前を曲がりトイレを超え、さらに先の行き止まりにあります。


何でもないように見える。一瞥いちべつした限りは。天井の蛍光灯の光は微妙に届かず、その周辺はいつも薄暗い。


扉の目の高さの所に、いつもリースが掛けてありました。中央には五角形の星があって、それを取り囲むように絡まった草に似た、ゴシックエンブレムが配置されたもの。変なマークと思ってた。


私がここに勤めてから、1年が過ぎています。店のほとんどの場所は攻略したつもりですけど、その扉だけは例外。


いつも店長だけが持つ鍵で閉められていて、入ったことも、中を見たこともありません。


倉庫か何かだろう。そう思っていました。

でも変。何か変。


気づき始めたのは、勤めて10ヶ月ぐらいしてからでしょうか。


ちょうど仕事にも慣れて、慢心しちゃってた頃です。その日、私は最大のミスをやらかしました。


「え! ちょっと!」


花束の数を数えていた私から、血の気が引きました。


「シーサイドチャペルに出す、披露宴の来客用のブーケ……30個も足らないよ!」


単純な打ち間違い?

注文を2回に分けて出したから?

頭上に回るのは「信じられない」のテロップ。


こんな単純なミスをしないのが、私の取りと誇ってきた。だから反動のショックも大きい。リカバるのも忘れ、私はすっかりパニックになってました。


多分、相当青い顔をしていたんだと思う。バイト仲間が心配そうに駆けてきて、何とかなるよとありがたい言葉をくれる。


でも私の頭の器は、不安で埋め尽くされて、慰めの気持ちが入ってこなかった。


無理だよ……もう無理だ……。


奥の方で、カチリと扉の閉まる音がした。続いてガラガラという車輪の回る音。


フレンチリネンの暖簾のれんをくぐって現れたのは、ダンボール箱を積んだ台車を押す店長でした。


「偶然だけれど、近所の花屋さんも仕入をダブらせちゃったみたいなの。シシリーで何とかならないかって言われて、預かってきたわ」


蓋が開いたダンボールの中にある大量のブーケを見た時、わたし思わず涙ぐんでいました。


「さあ、早くまとめちゃいましょ」


本当にあの時は、店長の笑顔が光ってましたね。背中に本物の天使の羽が見えたかと思いましたよ。


納品物を乗せた軽自動車を見送りながら、私はほっとため息を漏らしました。と同時に、気づいちゃいました。


今日、店長は一緒にお店にいたはず……。いつそんな花を受け取ったの? それにどこから出してきたんだろう。事務所にはそんな箱は無かったし、あの奥の部屋から?


それが不思議に気づいた最初の出来事でした。


いちど気になったらずーっと目がいってしまうし、気になってしまうのが私の悪いクセ。



またある日、焦りまくって息も絶え絶えの、太った奥様が来店された時がありました。


「?★☆※■◇×?!」


人語しか理解できない私が頭に「?」を浮かべていると、店長がやってきて言いました。


「まあ、奥様。奥の部屋でご用件を聞かせて下さいな」


私が顔を動かさず、視線だけで追っていく中、二人はのれんの向こうに消えていった。


15分ぐらいして、店内に戻ってきた時には、奥様の顔は上気していて、目が生き生きと輝いています。


手には、たおやかなピンク色のアブラハム・ダービー、ロゼット咲きの花束が握られていました。


「この色と形のバラ! どこにもなくて困っていたのよ。助かったわ、オホホホ!」


良かったですね、オホホホと客を送った私ですが、店長の対応力に驚きました。でもきっかけになるのは、やはりあの奥の部屋。ますます気になって仕方なくなりました。



ここまでは、まだ序の口です。


世の中の花屋には実に色々なお客様が来るわけですが、ついにその手の方がいらっしゃった事がありました。


「よう! そこのメガねーちゃん! 姉御に贈るつもりだった、この花なんだがよ。どう見てもしおれてんじゃねーか! この店は俺をナめてんのか?」


メガねーちゃん……。


バイトの子たちは、バンビのようにおびえて動けません。


私、こういう悪い輩には、不思議と耐性があるのです。心に変なスイッチが、取り付けられてるんでしょうね。


それにその日は、なぜかむしゃくしゃしていたせいもあって完全に臨戦りんせん態勢を取りました。


さあやるぞと、口を開きかけたその時、店長が割って入りました。


「あのう、お店はとっても狭いので……できれば奥の部屋でお話を聞かせていただけませんか?」


出た! 甘い言葉と奥の部屋。


ヤクザさんは、しめたとばかりにずるい顔になりました。人のいない所で、その本領を発揮するつもりでしょう。


店長の細腕の何本分かはある、太い筋肉を見せながら、彼は鼻息荒く、店長に連れ去られていきました。


店長の悲鳴か、身体のどこかがポキンと折れる嫌な音を想像をしてしまい、私は気分が悪くなりました。


5分が経ち、10分が経ち、20分目に鳴った時計の時報で、店の全員がびくっとなった時、店長とその筋の方が戻って来ました。


「というわけで、切り花をカットする時は、水の中で斜めに切ることを忘れないでくださいね。花瓶に水は入れ過ぎす、清潔にすることも」


「はいよ、ねーちゃん。新しい花までくれちまって悪いな。今度は大事にするよ」


おいおい。こりゃあ神のごとき接客力ではありませんか……。


怯えるバイトの子たちをあやす店長を見て、思いました。私は何年修行したら、この人に追いつけるのでしょうか?


ともあれ、この出来事から、私のあの部屋への疑いの気持ちは、ますます深まりました。



そしてついに決定的な事が起こりました。


ある日、お店に小さなスズメが飛び込んできたのです。私たちもパニックになりましたが、いちばん驚いたのはその小鳥自身でしょう。


その子は、何度も脱出を試みますが、焦るほど行く手をお店の壁や柱がはばみました。


やがて小鳥は壁の飾り棚にぶつかって、床に落ちてしまったのです。


バタバタとあがくけれども、見た目にも分かるぐらい、羽が嫌な方向に曲がっていました。


たとえ自由になったとしても、この子を待ち受ける運命を考えると、鳴けば鳴くほどに、心が傷みました。


「店長…」


私たちが動けない状況にいる中で、彼女は手に清潔な布を持って現れました。それを怯えている小鳥にかぶせると、優しく包み取ります。


「少し休ませてあげましょ」

「あの……でも、もう翼が……」


両掌で包み込まれた鳥は、諦めたのか

鳴くことさえ止めていました。店長はただ微笑んで、裏手へと下がっていきました。


バタンと扉が閉まる音がします。


そして1時間もしたでしょうか。ふたたび奥の部屋から戻ってくる彼女の手には同じ様に白い布がありました。


けれど、その膨らみの中にいるであろう傷ついた小鳥は、動くも鳴くも、する気配がありません。


「……残念でした」


私は近寄って言いました。自分なのか店長なのか、誰を慰めているのか、よくわからない気持ちです。


店長はそのまま店内を進み、お店の軒先で立ち止まりました。


長身の店長の姿が陽光にきらめいています。私は彼女が次に行った「手品」が信じられませんでした。


店長は両手で布を包み込むと、青い空に向かって優しく解き放ったのです。


そのタイミングで、空からぱっと光が指したように見えました。スズメの羽ばたきのリズムと、チチっという鳴き声――。


傷を負ったことが夢だったように、その子は元気に空に向かって飛んでいきました。


店長は手に残った白い布を、エプロンのポケットにしまい込むと、満足げな顔で私たちに振り返りました。


「軽い傷で良かったわ。さあ、仕事に戻りましょ!」


妖精さんの名前にかけまして、嘘みたいな本当の話なんです。


あの部屋から出てくる物が人を助け、あの部屋に入った者は心穏やかに幸せになる。そしていろんな種類の傷が、癒やされてしまう。


すべてが解決できる夢のような小部屋?


私の現実が、ぐらぐらと揺らいだ瞬間でした。

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