二人の日常

それからアイは博士のもとで、さまざまなことを覚えました。


アイは新しいことを覚えるのが好きでした。好奇心旺盛な子だったのです。

よく本を読み、野山を駆け回っては新しい発見をし、博士の真似をして工作なんかもしてみたりしました。


いつの間にかアイは同年代の人間(と言っても世界中にふたりきりですが)以上の知識を持っておりました。

ただ――。そんなアイにもひとつわからないことがありました。



「……博士、この《夏》とはいったいなんなのでしょうか?」



アイは部屋の隅っこにある博士に用意してもらった学習机の椅子に行儀よく座りながら、本のとあるページを指差しました。眉間には皺が寄っています。

博士は部屋の中央にある実験台で研究をしていましたが、その手を止めて振り返ると、ゴーグルを上げて言いました。


「《夏》か……。今はないものだよ。えーと、どう説明しようかな……。夏っていうのは四季のひとつでね。うんと暑い季節のことを言うんだ」

平均気温が十度から二十度ほど下がり気候も大きく変動したこの地球では、明確な《夏》は数年前に消失していたのでした。四季は今では春、秋、冬、と《三季》になっていました。


「うーん……、では博士。暑ければ夏なのでしょうか? それとも夏だから暑いのでしょうか? 暑いとは摂氏何度以上のことを言うんでしょう?」

質問攻めに博士は困った顔をしました。

「夏の定義か……、考えたこともなかったけど、そうだな、例えば……」

博士は思いつく限りのことを伝えました。


夏は春と秋の間であること。

夏は暑い三か月程度の期間を指すこと。

夏の代名詞とも呼べるさまざまな風物詩があること。

夏の終わりはなんだか寂しくなること。


それは時間をかけてたくさん教えました。

しかし――。

「ふにー。……ごめんなさい、博士。やっぱりよくわかりません」アイはがくっと肩を落としました。

「いや、アイのせいじゃない。僕の説明が悪いんだ」


博士にはアイの気持ちがよくわかりました。

百聞は一見に如かずという言葉があります。言葉を聞くよりも、体験したほうが簡単に理解できることは自明のことなのです。

だとしたらアイに夏を体験させてやればいいのです……。と言うのは簡単ですが、博士は困ってしまいました。



「……夏はどうやって作るんだろう…………?」



博士は実験台の上にあったビーカーに水を入れるとお湯を沸かします。どうやらコーヒーが飲みたいようです。コーヒーだけは《超自動調理機》ではなく豆から淹れているのでした。


「んん? 博士、夏って作るものなのですか?」

「いや、普通は作らないけどさ」博士はビーカーのなかで温められていく水をつまらなそうに見つめました。

「ふに……。じゃあ普通は作らないけど、作ること自体は簡単なのですか?」

「……いや、とても難しいだろうね…………」


その博士の言葉に対してアイが「はい、先生!」という掛け声とともに、ぴょこん、と右手を挙げました。その勢いでベレー帽が落ちて博士はそれを拾ってあげます。


「先生じゃなくて博士ね……。それでなに?」

「あ、ありがとうございます。……私、《夏》は作れると思います。博士だったらきっと、……いえ、絶対に作れます。私も協力しますし」

「協力? アイが?」

「はい! 私もそろそろ《研究》をしてみたいです」アイはきれいなえくぼを作りました。


「……でも難しいぞ。何年も掛かってしまうかもしれない」

「大丈夫です。それに博士と研究すれば楽しいです。きっと」

確かに、今までひとりで行っていた研究にアイが加わってくれればどんなに素晴らしいことでしょう。博士は想像するだけで気持ちが昂ってきました。


「……ああ、それも悪くないかもしれないね。……二人で夏を作ってみようか」

「はい! えへへっ、楽しみです! ……あ、博士、お湯、お湯!」

「ああ、危ない……」


博士は慌てて火を止めます。そして挽いた豆と新しい洗ったビーカーの間に濾紙を挟むとその上からお湯を注いでいきます。


「ふに。相変わらずいい匂いです」アイが目をつむって言いました。

「苦手なくせによく言うよ」

「匂いはいいのですけどね……。飲むと苦いのです。どうも」

博士は出来上がったコーヒーを火傷しないようにと慎重にすすりながら言います。



「まだまだだな、アイは。苦い後に見える世界がいいんじゃないか」

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