22
不思議なほどに気持ちが凪いだまま、エドワルドは宿へ戻った。だいぶ遅い戻りになる。少しと言った手前、心配しているかもしれない。狭い階段を駆け足で上がると、部屋の扉が開いていた。疑問に思って扉に手をかけると、ちょうど中から人影が飛び出してきた。エレノアの声が追随する。
「エレノア、待ちなさい!」
「おわ……!?」
鼻頭をぶつけそうになり、慌てて相手の肩を掴む。エレノアの声が中からしたということはフィリアだ。穏やかな彼女が珍しい――と視線を落としてエドワルドは硬直した。
「お前、フィリアか? ん? エレノア?」
艶のある黒髪にきめ細かい肌を惜しげも無く露出する装束は紛れもなく――フィリアの姿。だが、エドワルドを見上げる吊りめの瞳は赤い。
「エド、離して!」
「エレノアを引き止めてください!」
扉を開け放ち、嫋やかな出で立ちのエレノアが声を張る。彼女の瞳は金色だ。違和感が先に立ち、直ぐに対応できない。エドワルドの手を振りほどき、フィリアは身軽に駆け抜けていってしまう。
「ああ、もうっ」
焦ったそうに足裏で床を叩くと、エドワルドそっちのけでエレノアもフィリアの行方を追おうとする。状況を把握できずに思わず腕を掴んでいた。
「ちょっと待て。どうなってるんだ」
「離してください。私はエレノアを追わなければ……!」
「エレノア、エレノアって。お前がエレノアだろ」
「……何を、言っているんです?」
恐る恐るといった体でエレノアは己の姿に目を移す。精緻な刺繍の施された白を基調とした服に雪を固めたように透き通る肌。太陽から伸びる光条に似た金色の髪と同じ色の瞳。みるみるうちにエレノアの表情が変わってゆく。それは驚愕とも絶望ともつかぬ表情だった。
「元に、戻ってる……」
瞠目したままエレノアがエドワルドを見やる。必死に頭を働かせて、一つの仮説を打ち出した。
「それはつまり、エレノアがフィリアで、フィリアがエレノアだってことか?」
我ながら稚拙な説明だが、困惑したままのエレノア――否、フィリアには程よい塩梅だったらしい。彼女は肯定すべきか迷った挙句、観念したように頷いた。
「仰る通りです。私が天使フィリア、悪魔の方はエレノア。訳あってお互いの魂を取り替えていました」
部屋に戻り、そう切り出したフィリアは訥々と経緯を語った。
要約すると、そう理解の難しい話ではない。
天使は路の名を偽ると罰として翼をもがれ、堕天する。天使だったエレノアは相方を務めた悪魔の策略により作為的に堕天され、彼らの父へ陳情をするべく楽園を目指していた。だが、地獄を統べる彼女らの叔母はこれを快く思わず、エレノアを地獄へ引き戻そうとする。
「だから私が提案したのです。魂を入れ替えれば簡単には見つけられないはず、と。言いましたでしょう? 私たちは双子のようなもの。他の天使と違って核が似通っているのです」
ふむ、とエドワルドは相槌を打つ。
「だが、予想していなかった事態が起こったという訳か?」
「理解が早くて何よりです」
「……イェソドに入る前のあれ、か」
「ええ。楽園が近づく程に、肌が焼け爛れるような痛みが走るのです。最初は貴方と同様に無限光で昇華されるのかとも思いましたが、悪魔も元を正せば天使。魂を交換したといえども、それは変わりません」
窓の外を見つめ、フィリアは苦虫を潰したような顔をした。その中に怒りに似た苛烈な想いが渦巻いているのが分かる。
「
「エレノアはその事を知っていた」
イェソドに入る前にエレノアが口走った言葉を思い起こす――私のせいよ。あれはこの事を指していたのか。フィリアは膝上で拳を強く握りしめ、不意に力を緩めた。
「エドワルド。楽園へ、参りましょう」
「エレノアはどうするつもりだ」
そう返すと、フィリアは目を怒らせてエドワルドに強い視線を向ける。
「置いてゆきます」
「楽園には天使と悪魔、二人ともいなけりゃいけないんじゃなかったのか」
「状況が変わったのです。父も分かってくれましょう」
エドワルドは確信する――フィリアはエレノアを切り捨てるつもりだ。堕天した片割れを信愛し、身をやつしてまで連れだってきたエレノアを。きっと顔を強張らせているのは、そうしなければ決意が揺らいでしまうから。己の腹づもりができている間にエドワルドを楽園へ連れ出すつもりだ。
負けじとエドワルドも首を頑として縦には降らなかった。フィリアが焦れて立ち上がる。
「あの人は執拗で醜悪です。貴方まで狙われる可能性がある」
「だったら、なおさらエレノアを放ってはおけないだろ」
返した言葉にフィリアは泣き出しそうな顔をした。
「だったら、どうしろと言うのです!?」
「――助けに行く」
「無理です! 私でも太刀打ちできないのに……」
「それでも助けに行く。後悔は全部終わってからするもんだ。俺は師匠にそう教えてもらった。迷って足踏みするだけじゃ、前に進めない。だから選択するんだってな。その選択を悔いないように全力を尽くすのが自分の為すべきことだ」
「でも……」
きっとフィリアは怖気づいているのだ。圧倒的な相手に立ち向かう術はないと、固定観念が邪魔をする。だからこそ自らの心に従うべきなのだ。
「俺はエレノアを助けたい。乗りかかった船だし、お前に毒されて純真なあいつが可愛く見えてきたしな。フィリア、お前はどうしたい?」
「私、は……」
エドワルドの語りかけにエレノアが静かに涙を流した。きつく目を瞑り、見開く。穏やかな瞳に爛々と闘志が燃える。
「私だって、エレノアを助けたい」
「なら、迷ってる暇はないな。俺は郊外を探すから、お前は広場の方を頼む」
「分かりました」
お互いに視線を絡ませ深く頷きあうと、駆け抜けるように宿を後にした。
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