21


 エドワルドはいわゆる浮浪児だった。父は知らない。痩せこけて青白んだ顔の母は、何も語らなかった。その母も十歳で亡くすと、血の繋がった家族は三つ離れた妹のセリーだけになった。

 不幸中の幸いだったのは母が子らを身綺麗にしようと努めていたこと、そしてエドワルドがいくらか回る頭を持っていたことだろう。おかげで貧民街で生活しながらも大通りに面した麺麭屋で小間使いとして僅かながらの賃金を得ることができた。


 薪が爆ぜ、煌々と焔が渦巻く窯の中でぷっくりと膨らんだ生地を眺める。鼻先を楽しげに過ぎてゆくのは牛酪バターの焼ける香ばしい匂い。すっかり煤まみれになった手で鼻を擦って肺に麺麭の匂いが満ちるまで吸い込んだ。


「おやっさーん、もうすぐ焼き上がりまーす!」


 薪を追加して生地を舐める炎の調節を行いながら、エドワルドは店頭で接客をこなす店主に声をかける。昼時は往来の客を捌くので手一杯。店主から返答はないが、常の如く耳には入っているだろう。店頭でまもなく焼きたてが用意できると口上を述べているはずだ。


 睫毛まつげから滴り落ちかけていた汗を慌てて拭う。振り払えば窯の傍でじゅぅ、と呆気なく蒸発した。滝のような汗を吸って服もぐっしょりと重い。爆ぜた薪の破片で怪我をすることもあるから簡易な装いもできず、ひたすら生地と睨み合いをしながら熱波を耐えるのがエドワルドの仕事だ。


 火ばさみで、整然と並ぶ生地の中から一つ取り上げる。こんがりと茶色の焼きがついたのを確認すると、エドワルドは満足げに頷き、傍に備えた籠へ盛り立てた。手のひら大の麺麭は火ばさみから解放されるなり、ぷくぷくと身を膨らませる。周囲を包む小麦の甘い匂いが一段と強くなった。


 エドワルドは木製のスリップピールに持ち替え、手早く残りを掻き出し、次々と籠の中に投じてゆく。どれも良い色合いだ。自分の仕事ぶりに充足感を覚えながら、どっさりと麺麭が積み重なった籠を持ち上げる。蔓で編まれたそれはしなって、隙間から熱波を漏らした。


「焼き立て入ります!」


 扉の隙間に足を挟んで一気に開け放つ。店の前に設置された露店の麺麭は残りわずかだ。エドワルドの高らかな声に並んでいた客が一斉に目を爛々らんらんと光らせる。


「待ってたぞ、小僧! そこの丸いの一つ! あとこっち、二つね」

「この店の麺麭は美味いって聞いたんだよ。んー、良い匂い」

「あたしは干しぶどう入ってるやつ!」


 瞬く間に戦場と化した売場を店主が慣れた様子で捌く。麺麭を掴み、客の掲げる籠へ入れ、金を受け取る。エドワルドは邪魔にならないよう、隙間を縫って焼き立てを補充する。一番の人気は干しぶどう入りの麺麭だ。林檎パイや砂糖を散らしたラスクにスコーン、エンバクで作った麺麭も次々と売れてゆく。客の応対が途切れた一瞬で店主が指示を飛ばした。


「エド、干しぶどう。ラミィには林檎」

「はい!」


 売り切れる前に補充する、それが店主キルスタの流儀だ。残り三十をきった干しぶどうだけでなく、今日は林檎パイも売れ行きがいいらしい。店内に戻ると、厨房に足を向け中にいるはずのラミィに林檎の用意をするよう言付ける。麺麭工房ルミオッテは、店主キルスタ、彼を影に日向に支える妻のラミィ、そしてエドを含めた五人の従業員で回っていた。


 既に準備が終わっている干しぶどうの入った生地を持って、窯に戻る。薪をぎゅうぎゅうに押し込み、中の煉瓦が白く見えるまで温度を高め、焼きむらが出来ぬよう気を張りながら生地を膨らませてゆく。そんなことを何往復も繰り返しているうちにエドワルドの一日は過ぎ去っていった。


「悪いな。今日は全部はけちまって」

「いえ。ありがとうございます」


 店主から銅貨を受け取り、深々と頭を下げる。賄い代わりに街で人気のルミオッテの麺麭を貰えないことは惜しいが、賃金を得られるだけでもありがたい。貧民街の同胞には吝嗇けちな親父だと罵倒されることもあるが、この街では労働を正しく評価する珍しい人種だ。


 掌で肩を寄せ合う三枚の銅貨を大事に包むと、終業の挨拶と共に店を出る。空は夕焼けに染まり、まるで焼き窯のようだ。壁門は既に閉まり、通りに溢れるのは宿場から旅人たちが繰り出してきていた。夜が更けるとこの辺りは昼とは質の違う喧騒に塗れる。


 店仕舞いを始めた露店に近寄り、萎びた林檎とぶどうを格安で手に入れる。水道の通わない貧民街では水の確保が難しい。水気のある果物は救世主に等しい。林檎は擦り下ろしてセリーに食べてもらおう。栄養もあるから少しは元気がでるはずだ。


 通りの熱気を離れて、夕闇に沈んで薄暗くじめじめと肌に纏わりつく湿気を進む。子供たちの溌剌とした声が響いてくると、貧民街の入り口だ。襤褸切れを継ぎ接いで作った唯一無二の装いで彼らはエドワルドの帰宅を歓迎してくれる。


「エド、おかえりー。今日もよく売れてたね」

「そ、お陰で麺麭は無しってわけ」

「ねえねえ、エド。僕ね、今日これ作ったの。あとこれ、セリーにあげてー」

「ありがとな、クゥーイ。セリーも喜ぶよ」


 声を掛けた一人ひとりに笑顔で応え、家路を急ぐ。白いレースを三つ繋いだ暖簾がエドワルドの家の証だ。寝台で横になるセリーの脇で、赤茶けた髪の少年が振り向く。今しがたクゥーイから貰ったぬいぐるみを左右に振って帰宅を告げる。


「おかえり、お兄ちゃん。それなあに?」

「あっ、エドワルドさん! お帰りなさい!」

「ただいま、セリー。クゥーイが作ったんだと。お前にってな。……リアムも助かったよ。これ良かったら持ってってくれ」


 そう言ってエドワルドは林檎やぶどうと合わせて購入した無花果をリアムの手に乗せる。尻の部分が裂け始めており鮮度が良いと露店の人が勧めてきたもので、エドワルドが働きに出ている間、病弱な妹の面倒を見てくれている彼へのほんのお礼だ。


「わあ、いいんですか?」

「お前のおかげで働けてるようなもんだからな。少ないけど貰ってくれるとありがたい」

「いやいや、僕がセリーに相手してもらってるだけですから! でも、ありがとうございます。大事に食べますね!」

「ふふ。リアムは本当に大袈裟なんだから」


 屈託のない晴れやかな笑顔でセリーが笑うとリアムは照れくさそうに顔を背け、エドワルドにぺこぺこと鶏よろしくお辞儀を繰り返したあと自宅へ戻っていった。蝋燭に火をつけ、脚の長さの違う椅子に座って林檎を切る。


「今日は何について話してたんだ?」

「うーんとね。空はどこまで続いているのか、かな。リアムが私をおんぶして広場まで連れて行ってくれたの」

「今日は良い天気だったからなぁ」


 エドワルドは立ち上がり、ところどころ欠けている椀に一口大に切り分けた林檎と房から離したぶどうを盛りつける。麵麭がある時はそれを皿代わりにするため、これが家で唯一の食器だ。萎びて黄色が目立ち始めた林檎の欠片を、さもご馳走であるかのようにセリーは大事に大事に口へ運ぶ。


「うん。あんまり綺麗だからどこまで続いてるのって私が聞いたの。海よりも広いのかなって。ふふっ、そしたらリアム、悩みこんじゃった」


 セリーは海を見たことがない。厳密に言えばエドワルドを含め、貧民街の人間が街を出ることは滅多にないから見ようはずもない。街を訪れる旅客の話を盗み聞くに海とは果てしなく広いというのが共通認識だ。外壁で切り取られた街の空よりも広いだろうか。


「それで海と空、どっちが広いかって話になってわけだな」


 セリーがこくこくと頭を動かす。


「いつか見に行こう。俺も空がどこまで続いているか気になるんだ」


 それは叶わぬ願いだろう。病弱で床に伏せるセリーが過酷な旅に耐えられるかが心配だ。何より門の行き来には税がかけられている。街の商工会によるものだ。聖地への巡礼経路にあたるこの街では人も物も集まる。至極当然な結果だった。


 そして、日々の生活を維持するだけで精一杯のエドワルドたちにとっては街を出たところで食うに困って野垂れ死ぬのが関の山だろう。


 だが、エドワルドとて決して悲嘆にくれて言葉を発したわけではない。夢の語るのは自由だ。腹は満たされないが、心は満ちる。それは希望というのかもしれない。


 うん、と溌剌に頷くセリーの手は止まっていた。椀にはまだ果物が半分ほど残りがある。


「もういいのか?」


 エドワルドは努めて明るい声で訊いた。遠慮がちに頷きが返ってきて、奥歯を噛みしめる。

 ここ数日、食欲がぐっと落ちている。安易に医者にかかることもできず、教会で医療の心得がある者に簡単に診てもらった程度だ。安静にするしかないと言われたものの、焦燥感が込み上げる。


「擦りおろせば飲めるか?」

「……うん。大丈夫」


 ゆらりと蝋燭が揺らめいた。頼りなさげな灯火よりも儚く消え入ってしまいそうな妹の顔に、かつての母のそれが重なって消える。

 腕の良い医者に見せるためにも、明日からは他の仕事も探さなければ。


「すぐ作るからな」


 不吉な気配を振り払うようにエドワルドは声高に言った。

 秋の終わりを告げる乾いた風が吹き込む。静謐で冷酷な冬はもう目の前に迫っていた。


 それから一月も経たずに、懸念していた事態は起こった。


 腹の虫を宥めながら窯の様子を伺っていたエドワルドの耳が、異音を拾う。店先からだ。手にしていた火ばさみを置く間も無く、焦った様子の店主の声と、どたどたと騒がしい足音が続く。


「エドワルドさん、セリーが……っ!!」


 涙の滲む声で――否。両の目を真っ赤に腫らし、なおも頬に涙を伝わせながら飛び込んできたリアムは叫んだ。全身から血の気が引いてゆく。気が付けば、エドワルドは店を飛び出していた。後にリアムが続く。店主に肩を掴まれた気もしたが、なり振り構っている暇はない。


 列を成す客を次々と押し退け、裏道に入った。貧民街の仲間たちもエドワルドの姿を認めると、血相を変えて道を開ける。


「セリー!」


 家に入るなり、セリーの荒い息遣いが聞こえた。呼吸もままならず咳き込み、燃えるような身体を丸めている。


「お昼ぐらいから急に体調が悪くなって……。僕のせいです。僕がすぐにエドワルドさんに伝えなかったから……。セリーが止めたって無視していけば良かったのに!!」


 リアムが拳を壁に打ち付けると、鈍い音と共に家が震えた。やり場の無い怒りが込み上げる。だが、そんな暇すらない。エドワルドは即座にセリーを布ごと包んで背中におぶった。接する肌が沸騰した湯のように熱く、痩せ細った身体は骨ばみ、悲しいほどに軽い。


「リアム! 棚の皮袋取ってくれ!」


 悲嘆に打ち拉がれるリアムへ指示を飛ばす。弾かれて顔を上げた彼は、勝手知ったる棚を漁って目的の物をエドワルドの手に握らせた。ずっしりと重いそれは働きづめになって稼いだ銅貨だ。


「医者のとこに行ってくる」

「僕も行きます!」


 だが、首を横に振った。張り裂けんばかりに目を見開いてリアムは抗議の意を示す。それでも頑なにエドワルドに意見を翻す気はなかった。


「いや。お前は店に行ってくれ」

「どうして……! 僕の、せいだからですか!」

「違う。おやっさんに事情を話しておいて欲しいんだよ。途中で飛び出してきちまったからな。セリーの治療をしてもらっても職がないんじゃ野垂れ死ぬだけだ」


 それでもリアムは納得できないようだった。だが、エドワルドの背中にぐったりと凭れかかるセリーの様子に一刻の猶予がないことは理解している。


「すまない」


 彼の返答を待たずに、エドワルドは飛び出した。薄暗い路地裏を疾風の如く駆け抜けて、貧民街の対角線上にある区画を目指す。教会から独立し、法外な治療費を取る狡猾な医者だが腕は確かだという。中央広場を抜け、小綺麗な建物が整然と並ぶ通りをずっと奥へ進んだ。赤い屋敷が医者の家だ。


「妹を、妹を治してやってください!」


 無作法を承知で扉を開け放ち声高に陳ずると、患者と向き合っていた年嵩の男があからさまに嫌な顔をした。彼が恐らく医師コーグンだろう。


「なんだい、君は」

「妹の体調が悪化して……お願いです。助けてください」


 膝をついて懇願すると、コーグンはやれやれと重たい腰を上げた。怪訝な顔をする患者を手で制し、丁寧な物腰で玄関の方へエドワルドを誘う。

 すると。扉の敷居を跨いだところで扉が勢いよく閉められた。鼻先すれすれを打ち込まれた飾り鋲が掠める。エドワルドは絶句した。向こう側では噛み殺した笑い声が聞こえる。


「どうして――!?」

「どうして、だって? 笑わせるよ。私がお前たちを診る訳がないだろ、薄汚い」


 吐き捨てられた侮蔑の言葉は扉越しでも鋭利な刃物のように突き通る。だが、エドワルドの背中には細い息で懸命に生きようともがく妹がいる。ここで引くわけにはいかなかった。手にしていた袋を上下に振って音を立てる。


「このままじゃ妹が死ぬかもしれないんです! お願いです! お金はあります、足りなければ――」

「鼠は鼠の医者を探すんだな」


 切って捨てたのは医師とは別の声だ。


「これはこれは、閣下。お待ち頂いて良かったものを。ご足労頂き申し訳ない。後で詫びのワインでも届けさせましょう。さて、診察の続きを」


 医師が急に声の調子を上げ、ねっとりと擦り寄る。一刻も早くこの場から離れたいと言わんばかりに捲し立てると、奥へと足音が遠ざかっていく。エドワルドも必死に声を上げたが、聞き入れられる様子はない。


「……くそっ」


 強く、強く扉に拳を打ち付けた。もう一度叩きつけたところで、ぬるっとした液体が拳を伝う。エドワルドは憤懣を奥歯で押しこらえ、背中の温もりに意識を向けた。体温は高いまま。呼吸は浅く、弱い。意識が混濁しているのか、もはや呼びかけにも応じなかった。


「教会に行かなきゃ」


 今は一刻の猶予もない。せめて診察し、薬を処方してくれる医者の元へ行かなくては。妹の体調が悪いことには気が付いていた。ずっと傍にいてやれば。もっと早く医者へ連れていっていれば。押し寄せる後悔だけがエドワルドの足を加速させてゆく。


 来た道を戻って、中央広場を北へ。


 教会の前には旅の医者が訪れ、人は変われど無償で、なおかつ貧民街の者も分け隔てなく診てくれる。ただ、腕はまちまちで、薬も多くはない。おまけにちょっとした擦り傷でもこここぞとばかりに誰も彼もが並ぶせいで時間がかかる。そして案の定、今日もその通りであった。


 罪悪感を覚えながらも、列を無視して医者の元へ駆け寄る。見たところ若い医者だ。膝の化膿した部分を診てもらっていた患者がエドワルドを睨め付ける。


「先生。妹が死にそうなんです」


 訴えかけると医者は見せつけるように、大仰なため息を吐いた。


「あのねぇ。君たちは死にそうだと言えば、すぐに診てもらえると思っているなら認識を改めてくれ。擦り傷、風邪……それは少し待ったぐらいじゃ変わらないから。君だって、どう見てもぴんぴんしてる。はい、所見終わり」

「俺じゃなくて、妹が……!」

「文句があるなら列に並んで。まったく、教会の義務じゃなければこんな雑用しやしないのに」


 それだけ口にすると、患部を注視し消毒などの処置を施してゆく。大袈裟に騒ぎ立てながら治療を受ける患者はエドワルドと目が合うと、片眉を上げて嘲う。その後ろに並ぶ者たちからも非難するような視線がぐさぐさと突き刺さる。


「どうして。どうして妹が危篤だと分からない……!」

「お、にいちゃ……ん……」


 吠え立てるエドワルドの口を、セリーの弱々しい手が塞いだ。慌ててその場を離れて前に抱きかかえると、熱に浮かされ涙の浮かぶ双眸を優しく閉じる。


「った、し……だいじょ、ぶ……だから」


 掠れた喉でひゅーひゅーと声にならない音を立てながら、セリーはそう訴えた。悔しくて堪らなくなり、エドワルドは勢いよく首を振る。風前の灯火が燻らす死の香り。弱った母が自分を励ますように唱えていた言葉をよもや再び聞くなんて。


「必ず薬を手に入れるから、もうちょっとだ。あと少しだけ辛抱してくれ、セリー」

「おや、薬をお探しで?」


 不意に肩を叩かれ、エドワルドは警戒を露わに背後を振り向いた。街でも珍しい、頭から爪先まで身なりの整った男が二人で並んでいる。大富豪とは言い難いが、それなりの財を持て余している輩だ。ずんぐりむっくりな男の方が手を揉み合わせつつ、口を開く。


「いや〜、我々は薬を商いにしておりましてね。貴方が若造と一悶着あったところを偶然見かけてしまったのですよ。なんでも妹さんが、ご病気だとか?」

「あ、ああ……」

「どれどれ診て差し上げましょう」


 寸胴の男が言うなり、横に並んだひょろ長の男がエドワルドの腕からセリーを引ったくり、ふむふむと観察を始める。その傍らで寸胴の男がエドワルドの方を身を寄せて、右手の親指と人差し指で輪っかを作った。


「ちなみに、こちら。……お持ちです?」

「少しなら」


 片手に握った銅貨の袋を示す。胡散臭いが本当に医者なのかもしれない。コーグンと同じで教会の庇護を受けずに商売をする医者は少なからずいるからだ。


「ほうほう、銅貨五十三枚ですか」

「足りないなら働いて返す。だから薬をくれないか」

「おお、おお。なんと麗しき兄弟愛っ!」


 相手の返事を待たずに袋を握らせると、相手は下卑た笑みを浮かべた。セリーを診ていた男も目尻の涙を拭うふりをする。再びエドワルドの腕に妹の身体が戻すと、痩せこけた体に見合わぬ服の合間から小さな布を取り出した。紐を解いて見開かれた中には粒の大きく白い、粉のようなものが入っている。


「どうやら重篤のようですねぇ。これを匙で一杯、水に溶かしてお飲みなさい。少し時間はかかりますが、必ず良くなりますよ」

「仕方がないからお代はこれで負けときます。どうも、おおきに」


 二人の男はぺこぺこと愛想よくお辞儀をしながら、中央広場を練り歩いて戻ってゆく。その様子に背を向けて、エドワルドは駆け足で家路を目指した。これで妹が助かる。その想いだけがエドワルドを走らせるよすがだった。


 ところが。それから二日が過ぎ、三日目の昼。エドワルドの家からは悲鳴に似た声がつんざいた。


「ああああああああっ!!」

「おい、セリー!」

「エドワルドさん、危ないですっ」


 薬を溶かした水を飲ませようとした手が勢いよく弾かれ、杯が宙を舞う。咄嗟にリアムが袖を引いたおかげで水飛沫を逃れた。だが、鬱陶しいとエドワルドは身を振ってリアムの手を剥がす。

 床に転がった杯を拾って、そそくさと桶の水を組み、薬を投じた。寝台の上で腕を振り回し暴れるセリーを刺激しないよう、今度は慎重に口元へ運ぶ。

 すると身体が強く押されて、手にした杯から水が溢れる。セリーの腕が当たったのではない。リアムが腰に抱きついたのだ。


「離せ、リアムっ。俺はセリーに薬を飲ませなきゃいけないんだ!」

「いい加減、認めてください! 僕らは偽薬をつかまされたんです!」

「違う、時間がかかるだけだ。飲めば今日には、いや、明日にはきっと――」


 視界が明滅した。遅れてぱんっ、と乾いた音がして、エドワルドは床に倒れ臥す。次第に痛みをましてゆく頬に手を当て、恐る恐るリアムを見上げた。


「目を覚ましてください、エドワルドさん!!」


 ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら陳情するリアムの姿に、逆上せあがった頭から血が引いてゆく感覚がする。鼓膜を突き破りそうな程の高音で叫び、腕をめちゃくちゃに振り回すセリーが目の端に映った。


「その薬を飲んだって良くなるどころか、悪化してるんです! お願いですからいつもの冷静なエドワルドさんに戻ってください!」

「くそっ。くそくそくそくそっ!!」


 エドワルドは自分の太腿にあらん限りの力で拳を入れる。自らに罰を下すように何度も執拗に、痛みが走ろうが関係なく打ち付けた。


「偽薬を掴まされた――? そんなこと誰よりも自分が一番理解している。家に戻って確認したらすぐに分かった。この粉は砂糖だ。ただの甘い甘い糖の塊なんだよ!」


 選択を間違った。判断を見誤った。胡散臭いと分かっていたじゃないか。どうしてあんな奴らに金を全て渡してしまったんだ。麺麭工房の店主にも頭を下げたが、金を借りることはできなかった。せめて好きな物を食べさせてやろうと思っても、無一文では何も出来やしない。情けなくて、不甲斐なくて、申し訳が立たなくて。きつく噛み締めた口の奥で、血の味が滲む。


 そこへ、張りのある若い声がした。


「エドワルド。ちょっといいか」


 はっと顔を上げる。群青の髪が特徴的な偉丈夫がそこにいた。貧民の中にも縄張りがある。彼は少し離れた区画の主導者的地位に立つ、ライレンだ。


「ライレン……。どうしてここに」

「医者を連れてきた。彼の妹だ。診てやって欲しい」

「失礼するよ」


 端的にライレンは語ると、連れ立ってきた童顔の青年を家の中へ引き入れる。阻もうとしたエドワルドをすぐさま制止させると、ライレンは声を潜めてセリーに寄り添う青年を見やった。


「今朝、急にうちの方にやってきた変わり者だ。流浪の医者だから診させて欲しい、ってな。お前のとこ、まずいことになってるって聞いてたから連れてきた。安心しろ、腕は確かだ」


 エドワルドは瞠目した。医者だという青年は暴れるセリーの腕を振り払おうともせず、優しく声をかけながら顔を覗き込む。目、口内、喉……素早く視線を泳がせながら一言、二言リアムに問いかけ、必要な情報を拾ってゆく。


「最近、この子が犬や猫に噛まれたことはある?」


 質問の答えに窮してリアムが此方に視線を向けた。エドワルドは必死に記憶を辿る。貧民街には人間だけでなく野良の動物も生息している。泥に塗れた犬や餌を求めて徘徊する猫は特に多い。どれも野性的だが、家に篭ったままのセリーが噛まれたとは聞いていない。


 ――噛まれた……?


 思い当たるものが、一つだけ。青年は急かさずにエドワルドの答えを待った。


「先生。それは例えば、鼠とかも……ですか?」

「僕は聞いたことがないけど、あり得なくはないね。いつ頃か覚えている?」

「……一月半くらい前、だったと思います。寝ている時に腕を齧られたみたいと」

「右? 左?」

「確か、右です!」


 駆け寄ってエドワルドが右腕を掴む。背中を容赦なくセリーの左手で叩かれるが、気にしている余裕はない。慧眼を光らせて青年は右腕を捲り上げた。腕の内側、色素の薄い部分に薄い内出血が見える。本人は齧られた程度と言っていたが、力づくで歯を突き立てられたらしくその時はもっと真っ青だった。


「先に結論だけ言ってしまうね。まず彼女は助からない」


 部屋の隅で静かに聞いていたライレンが言葉もなく、瞼を閉じる。隣でリアムが息を飲み、エドワルドは真っ直ぐに青年の目を見据えた。


「この街にいる医者に掛け合ってみるけど、おそらく誰もこの病気に対する特効薬を持っていないと思う。動物を媒介にする致死の病だ。今ならまだ楽に逝かせてあげることもできる」


 青年は「だから選べ」とは言わなかった。それがエドワルドにとって酷な選択だと分かっている。彼は為す術のない少年に、選択肢をくれたのだ。


「妹を、助けてやってください」


 リアムが明らかに安堵の溜息を漏らす。だが、エドワルドの心中は晴れなかった。口にした言葉は病に苦しむ肉親を前に、生きていて欲しいという願望を押し付けるようなもの。苦悶の表情を浮かべるエドワルドの頭を青年が優しく撫でた。


「酷な選択をさせてしまったね」


 その手つきがあまりにも穏やかで、母を亡くして以来、初めてエドワルドの目から涙がこぼれた。


 結果として青年リンデはセリーを救うことができなかった。当人が言ったように街の医者は誰も特効薬を有しておらず、まもなく息を引き取った。貧民街の端に皆で作った小さな墓場に眠ったセリーを前に、何度も何度も懺悔した。


 最期の時まで苦しみ抜いたセリーの顔を忘れることができない。誰も責め立てはしなかったが、他でもない自分が許せなかった。セリーの後を追うように日に日に痩せ細るエドワルドを見かねたのか、リンデが思わぬ申し出をしてきた。


「良かったら僕と一緒に旅をするかい?」

「え……?」


 問い返せば、リンデは穏和な笑みを湛えて繰り返す。


「一緒に旅をしようよ。僕は各地の教会を訪ね歩く流浪の医師だからね。見習いと称せば君を連れてゆくこともできる」


 街の外――それはエドワルドには考えも及ばぬ世界だ。いつかセリーと話した空と海の話が思い出される。


「もちろん、無理強いはしないよ。この街は君を苦しめる想い出を抱えているけど、それは同時に君を強く、優しくする。あと数日したら僕は街を発つから、それまでに決めて欲しい」


 そう言い残すと、リンデは手技を見せようと翌日から自分の仕事にエドワルドを同伴するようになった。貧民街や所得の少ない者が多く住まう区画に立ち入り、無償で医術を提供してゆく。教会の前の無言で患者を診察する医者たちと異なり、彼は一人一人の話をよく聞き、よく観察し、一片の手落ちもなくこなしていた。


「僕は人と話すのが好きなだけだよ。君は人あたりも、手際も、頭も良いから僕よりもずっと良い医者なるんじゃないかな。良い選択を、期待しているよ」


 思えば、その言葉が契機だった。答えを返さぬまま、門を出るための列に並ぶリンデの隣に立ちすくんでいた。無言で、白亜の壁を見つめる。少しずつ前進し、門番に対してリンデが教会に属する者である紋章を見せた。


「そちらは?」


 誰もが尊ぶ医者の横に並び立つやつれた貧民育ちの少年の姿はさぞかし奇妙だったのだろう。腰に佩いた剣に手をかけながら、怪訝な顔で門番が尋ねた。


「彼は――」

「リンデ先生の見習いです」


 エドワルドは迷いなく門番を見据えて言い切る。リンデが異を唱えなかったのもあり、首を傾げながらも門番は外へ促した。茫洋と彼方まで続く蒼穹にエドワルドは思わず笑いが出る。


 ――これは空の方が広いかもしれないぞ、セリー。


 手際良く馬車を準備していたリンデが手招きをした。御者と剣を携えた傭兵が同乗している。他の旅団に同行させてもらうようだ。招きに応じてエドワルドが素早く乗り込むと、まもなく馬車は出発する。


「僕はてっきり街に残ると思っていたよ」

「いいや。先生のことだから絶対分かっていた。俺には分かる」


 すっかり気安くなり、エドワルドが軽口も叩くとリンデも笑う。偉大な師匠は笑顔を絶やさないくせに、腹の底を見せないところがある。平気な顔をして人を試そうとするのは、彼なりの教育だ。


 ぐんぐんと速度を上げてゆく荷台から、エドワルドは街を振り返った。草原の真ん中に立つ白い壁は絶望するほど重厚だったのに、あっという間に遠ざかり、点となり、やがて見えなくなった。


  * * *


「すまない、セリー。本当にすまない」


 全てが明瞭になったとき、既にセリーの姿は消えていた。死んで記憶を失くした自分は街の中で狭い空を眺めて嘆く少年に戻っていた。今となっては単純明快。セリーの正体は自分自身エドワルドであり、過去に閉じ籠もることを許せず、叱責しにきたのだ。


 リンデを師匠と仰ぎ、医術を学びながら各地を放浪したエドワルドは、師匠からお墨付きを貰うと旅の途中で知り合ったテオドールに誘われ、騎士団に所属し、従軍医師となった。


 戦乱で荒れる時代にあって弱き者は翻弄されるしかない。自分の手で救える命は救いたい。それがセリーに対する償いであり、誓いだった。武運拙く、仲間を助けるために出た戦場で事切れたのは無念だが、悔いはない。天命は尽くしたと逝く前に清々しい気持ちになったのを覚えている。


 エドワルドは家を出ると、セリーが眠る墓を目指した。煉瓦の壁は道を開けるようと崩れて消える。開けた道の奥に、石の山が見えた。


 墓跡を用意できるほどの財力もなく、外に埋めに行くこともできない。だから、エドワルドたちは屍と共に石を火にかけ、残った石に名前を刻むことで葬いとしていた。セリーの名前を見つけて手に取ると、エドワルドは祈りを捧げる。


「心配かけて悪かった。ありがとう、セリー。それと――」


 少し気恥ずかしくなって、エドワルドは口を噤む。が、やはり言うべきだと己を焚きつける。


「あの時はお前の死を認められなくて言えなかったが……。ゆっくりおやすみ」

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