不穏な影

20


「少し外に出てくる」

「あ、うん。分かった」


 未だに荊棘のような紋様は身体中に絡みついたままだが、幾分か落ち着いた。寝台に横たわり安らかな寝息を立てるフィリアを見届けると、エドワルドは足早に部屋を後にする。

 門を開け、イェソドに入った途端に魂が抜け落ちたかと錯覚するほど呆気なくフィリアは気絶した。軽口を叩いてはいたが身体的な負担は相当なもので、気力だけで乗り切ったのだ。瞬時の判断を誤らなかったことに心の底から安堵した。


 水差しを掻っ払いつつ宿屋を出ると、どこか最初に訪れたケテルと似た街並みが広がっている。セフィラを転々とした今は、この風景がエドワルドの生まれ故郷のそれであると確信できた。


 道沿いに連なる露店を横切り、裏道に入る。薄暗く、煉瓦の端々から苔が顔を覗かせる寂れた場所に人気はない。雨ざらしにされた木箱が僅かな枠組みだけを残して朽ちている。念のため周囲を見渡し、万が一にも人目がないことを確認してから、その裏に身を隠すようにしてエドワルドは蹲み込んだ。腹部から胸部へと身体が大きく波打つ。


 次の瞬間――。


 桶の水をひっくり返したような音が耳に響く。口から、鼻から、所構わず拒絶された諸々が後から後から押し寄せる。下手に息を吸えば噎せ、噎せたそばから溢れ出す。


 気が遠くなり始めた頃にようやくエドワルドは水差しの飲み口を唇に押し当てた。時間をかけ総計で十回ほど繰り返すと、残りを目の端にやっていた溜まりへ。実物のそれとは異なり、無臭で害はないが見て嬉しいものでもない。流してしまうのが一番だ。


「ったく、ほとほと相性が悪いな」


 水差しを放って、壁に身を預けた。天上に空の色はない。賑やかな表通りと打って変わって、路地裏は街の陰を映すかのように静かで薄汚れていた。


 此処にいると無性に懐かしい気持ちになる。だが、それと同時に陰鬱で、二度と踏み入れたくはないと忌避する自分がいることに気が付いていた。


 子供の頃は庭として駆け回っていたのに、どうして。


「知りたい?」


 どこからか、声が届いた。悪戯っぽく問いかける少女の声だ。空に向けていた視線を声の出所へと移し、エドワルドは努めて穏やかに返す。


「出来るなら」


 足音も気配もなく、セリーは路地の奥から霧のように不意に現れた。ケテルで遭遇した時と寸分変わらない。彼女にしては珍しく頰を小さく膨らませ、不貞腐れていた。


「あんまり驚いてくれないんだね」

「この街に行き当たれば接触してくるとは思っていたからな。予想通りで助かるよ」

「それは何より」


 テオドールと同様、セフィラで干渉してくる特異点シンギュラリティ。何を契機にセリーが関わりを持つのかは判然としない。だが、ケテルに似た街並みのセフィラなら若しくは――。


「立てる? 肩でも貸そうか」


 駆け寄るセリーの申し出を断って、壁伝いにずるずると立ち上がる。空になった身体が軽い。横並びに立つとセリーはうんと小さく見える。胸元の辺りで猫のような灰褐色の瞳が細められた。


「お兄ちゃん素っ気なーい。そんなに警戒しなくてもいいのに」


 図星を突かれてエドワルドは口を噤む。エレノアが存在を裏付けたテオドールと対比してセリーの正体は、未だ謎のままだ。


「おいで。こっちだよ」


 気にした風もなくセリーはむんずとエドワルドの手を掴み、路地の奥へと引き込んだ。こちらの腹づもりが整うのを待つつもりは微塵もないらしい。少女は細い道も気にせず、身軽に通り抜けゆく。街の賑わいや光の注ぐ暖かな場所に背を向けて、ずんずんと奥へ。

 まるで洞窟の深みへ嵌まってゆくような錯覚に襲われるころ、ようやくセリーは歩みを止めた。眼前では煉瓦造りの壁が行く手を阻む。


「本当に此処なのか? どう見ても行き止まりだぞ」

「そう。行き止まり。誰かさんが頑丈に塞いじゃうから」

「誰かって……」


 セリーが思わせぶりな態度で壁に触れる。何も起こらない。

 否。なだらかな湖面に水滴を一つ、落としたように壁が波立った。


たわんだ?」


 瞬きをすれば元に戻っている。気のせいかと思い直した途端に、また波紋が起こった。先程よりも大きく景色が揺らぐ。刹那。どん、と突き飛ばされるような衝撃があった。不意のことで踏ん張れず、慌てて地に手をつく。


「やめろ、セリー!」

「大丈夫だよ、お兄ちゃん」


 悪魔に取り憑かれでもしたようにセリーの顔が歪んだ。

 今度は音を伴って波紋が起こる。襲いくる衝撃に身を固める中で、煉瓦がずれる音を聞いた。


 ――まずい。崩れる。


 顔を顰めて壁を見れば、擦れた部分がぼろぼろと砂状になって流れ落ちている。セリーはそれでも壁から手を離さなかった。波が生まれ、消える。生まれ、消える前に次が生まれる。

 ごとり、と上部の煉瓦が落下し、地に当たって砕けた。それを皮切りに随所から抜け落ちて、少しずつ向こう側が見えてくる。道だ。どす黒い闇に包まれた道がある。


「自分で出来ないなら、私がやってあげる」


 だん。頭の中で発破が炸裂するような音がした気がする。獣のような雄叫びを上げて、エドワルドは喚いた。

 やめろ。やめろやめろやめろ。


「やめてくれええええ――っ!!」


 エドワルドの眼前で最後の煉瓦が無残に砕けた。

 ぼろぼろと欠けて、砕け散り、開けた通路。

 その最奥にお粗末な入り口が――エドワルドが幼少を過ごした懐かしくも苦々しい、我が家が見えた。

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