19


 宿に戻るなり、エレノアの変化に気が付いたフィリアは相好を崩した。カヌレの入った紙袋を受け取ると揃えられた夕餉の卓に飾ってゆく。既に食べ始めていたようだ。そして案の定、何か腹に入れていることを見据えて、エレノアとエドワルドには軽食が用意されていた。


 有難くそれらを平らげると一行は束の間の休息を取り、選定に入る。ケテルと異なりビナーには一つの門しかなく、難なくゲブラーへと続く戦車の路ヘットが開かれた。名の通り二頭立ての馬車がテオドールによって用意されると、三人は身を寄せ合って乗り込み、新たな門を潜る――そんな調子で次のセフィラであるホドを出るまでは順調な旅路であった。


 次第に霞んでゆくホドの街並みを尻目に、エドワルドは目を矯めた。次のセフィラであるイェソドの方角は目を焼くような煌々とした光に満ちている。ホド=イェソド間を結ぶ路はレーシュ、太陽の路だ。名前に劣らず熱を孕んだ道中はまるで砂漠を歩いてる気分になる。


 ひーひー悲鳴を上げながら足を引き摺るようにして前へと進むエドワルドに対して、二人は事ともせず。むしろ今にも干からびそうなエドワルドに憐憫の視線を向ける。


「あれは楽園マルクトから漏れる無限光。もうすぐ旅も終わりですね」


 道半ば、口慰みにフィリアは嫌味なく言い切った。エレノアの手うちわで気休め程度の涼風を受けながらエドワルドはげっそりと返す。


「その前に焼き殺されそうなんだが……」

「魂が昇華されつつあるから仕方ないのよ。ほら、エド。頑張って」

「あんよが上手。あんよが上手」


 もはや気安さを通り越して、無遠慮に茶化して囃し立てるフィリアへ一瞥をくれる。そんな視線さえも受け流して不敵に笑う。やはり見立ては間違いはない。彼女は正真正銘の悪魔だ。


「ちょっと休憩、させてくれ」


 弱音を吐くなり、ぐったりと道端に座り込んだ。腹をすぼめて絞り出した吐息はそこはかとなく熱い。ちりちりと熱波が肌を掠め、悪い風邪に罹った時のような倦怠感が込み上げる。


「実は地獄バチカルへまっしぐらだったりして」

「有り得なくもないわ」


 ちょっとした軽口のつもりで空笑いした頬が、ぴくぴくと引きった。


生命の樹セフィロト邪悪の樹クリフォトは表裏一体。謂わば光を目指して天へと伸びる大樹と水を欲して地へと潜る根っこの関係だから、一見すると同じなのよ。路の名だけが異なるの。ね、フィリ――!?」


 得意げに略説していたエレノアの表情がみるみるうちに凍りつく。釣られてエドワルドも視線の先を辿る。そこには苦しげに眉を顰めるフィリアの顔。咄嗟に駆け寄ったエレノアの背が壁となり垣間見えたのは一瞬だが、確かに異変を認めた。


 エドワルドも慌てて身を起こし、対比的に膝から崩れ落ちそうになったフィリアを支える。端正な顔立ちは痛みを耐えるように歪み、首元からは赤い筋が這っていた。脈動に合わせてうねうねと模様を描いてゆく。まるで荊棘いばらだ。


「……どうしよう」


 茫然自失としてエレノアが漏らした。その唇は青ざめ、戦慄わなないている。その間にも首筋を伝う模様は頬を赤く染め上げる。


「戻ろう、フィリア! やっぱり私が……!」

「ひとまず落ち着け。ほら、フィリアも肩貸すから」


 今にも泣き出しそうなほど悲痛に訴えるエレノアを制して、脇下から顔を潜らせ腕を背負い上げる。禍々しい紋様はそこにまで伸びてきている。何が起きているかは分からないが、異常事態であることは明白だった。


「いつからだ」

「大袈裟ですねぇ、エレノアは。貴方もそれだと休憩にならないですよ」


 白々しく、しかし常況よりも抜けた調子でフィリアが笑う。エドワルドは頑なに首を横に振った。繰り糸の切れた傀儡のように力の抜けた肢体ではまるで説得力もない。だが、フィリアも食い下がる。ホドへ戻ろうと踵を返したエドワルドの足に、自分のそれを引っかけ、抗議する。


「私には構わず、イェソドへ。貴方の道行きを私が留めるわけにはいきません」

「でも、フィリアっ!」

「エレノアも早まらない」


 ぴしゃりと言い退けると、フィリアは自ら前進を試みる。今度はエドワルドがそれを引き止め、膝を折って半ば強制的に背中へ負ぶさった。吃驚の声を上げるフィリアを遮って、神妙な声音で肩越しに問う。


「イェソドに行けば少しは楽になるのか?」

「……恐らくは」

「分かった。エレノア、行くぞ」


 そうして伸ばした一歩は強く地を叩いた。疲労を蹴飛ばして、イェソドへの路を少しでも早く。うだるような暑さの中を駆けるのは懸命ではない。急く気持ちを抑止しながら歩幅を広げて懸命に動かす。


「いつから、と聞きましたね」


 囁くような吐息がうなじを撫でた。


「最初からですよ。だから貴方が心配する必要はありません」

「嘘だな」


 そう思うのはひとえに直感だ。フィリアの為人ひととなりからして弱みを見せるとも思えない。敢えて吐露するなら、それは偽りフェイクだとエドワルドは理由づけた。それはエレノアが動転していることからも推測できる。


「おそらく……そうだな、ホドを出てから」


 息切れ混じりの言葉に対するフィリアのいらえはなかった。視界の端に映る手の甲には赤くレース模様が目立つ。頭を預ける感触があったのを最後に彼女は口を閉ざした。


「私のせいよ」


 代わりに放たれたエレノアの言葉は酷く無機質で、あらゆるものを拒絶する凄みがあった。

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