18
「
「このお菓子、なんていうの?」
「パネトーネといって聖誕祭の時に食べられるお菓子だ」
パネトーネとは円筒型で焦げ茶色をしたずんぐりむっくりとしたパン菓子だ。スポンジの中にはオレンジやレモン、レーズンなどの干した果実がふんだんに散りばめられており、生地に練りこまれたラム酒が微かに香る。焼かれてぷっくりとドーム型に膨れた焼き目の上には白く粉砂糖が舞い、まるで初霜を迎えた朝の大地のようだ。
本来は聖誕祭に合わせて焼かれる菓子だが、その日持ちの良さと日を追うごとに味が変化して飽きが来ないことからエドワルドは好んで持ち歩いていた。加えて、使う材料や見た目に反して甘さは控えめで時間を問わず腹を満たしてくれる。
「エドのやつは?」
エドワルドが小脇に抱えた紙袋を指差す。摘み出していた一欠片を口に放り込むと、咀嚼もそこそこに飲み込んだ。
「これはムーツェン。……食べるか?」
差し出された掌にころころと丸い揚げ菓子を乗せてやる。エレノアは感心したように眺めてから一息に食べた。もぐもぐと懸命に口を動かして、ごくりと飲み込む。無言で伸ばされた手に、エドワルドは笑いを堪えながらもう一つ、大きめの欠片を渡した。
「もちもちしていて美味しいよなあ」
うんうん、とエレノアが頷きを返した。その間も咀嚼を止めようとはしない。
ムーツェンもパネトーネと同様に聖誕祭で食べられる菓子で、もちもちとした食感が特徴的だ。小さな球体の形をしたそれは所謂ドーナツの一種で、食べやすく病み付きになる。
フィリアへの手土産にはカヌレを選んだ。溝で囲われた固い表面としっとりと甘みと香りが滲み出る生地をきっと気に入ってくれるだろう。
「さっきね、林檎を見ていたら思ったのよ。
再びパネトーネに噛り付いたエレノアが、器用に生地から林檎の欠片を引きずり出して食べた。
「門の選定の時、絶対に楽園へ連れて行くって言ったじゃない? 絶対的な自信があったのよ。貴方が私を選んでくれるっていう自信。私、天使だし」
「それは……」
どきりと心臓が跳ねて、エドワルドは口に運びかけていたムーツェンを紙袋に戻す。何か言い繕おうとして開いた口にエレノアの指がそっと触れる。
「でも、気が付いた。私、貴方に何も与えてない。フィリアは元々ああいう気性だから世話を焼いて当然だと思っていたけど、そうじゃないのよ。エドに気を配って情報を与え、身辺を整え……そうやって信頼を勝ち得た。何もしていない、むしろ突っ撥ねるような行動しかしていなかった私が信頼されるはずがないわ」
自嘲的な独白にエドワルドはうんともすんとも答えることができなかった。下手な返しをすれば関係が悪化する可能性があると思ったのも確かだ。しかし、それ以上にエレノアの真っ直ぐ過ぎる言葉に罪悪感が芽生えて言葉を失った。
――俺は凄まじい過ちを犯したのでは?
無償で得ることに良心を痛め、自分の行いを省みる清廉な心持ち。桂冠を巡る場面での真摯な態度。意地っ張りでやさぐれる一面はあるものの、それこそがエレノアの本質ではないのか。既にフィリアの術中に嵌っていたのではないのか。エドワルドはぞわぞわと全身が粟立つ思いがした。
「……すまない」
それしか言葉にならないエドワルドを責め立てるでもなく、エレノアは静かにパネトーネを完食して立ち上がる。
「エドが悪く思う必要はないわ。むしろ気付かせてくれてありがとう。でも――」
半ば強引に腕を引き上げられて、エドワルドはつんのめりそうになった。紙袋の中でムーツェンが飛んで跳ねて暴れる。俯く顔をエレノアに向ければ、決意に満ちた双眸とかち合う。それは闘志に燃え盛るような紅。
「これからは私、遠慮しないから。覚悟しなさいよね、
高らかに宣言したエレノアは小脇に抱えたフィリアへの手土産を奪って自分の懐に収めると、急き立てるようにエドワルドの背を押した。それが彼女なりの歩みらしい。
「さあ、フィリアにお菓子を届けるわよ」
背中から聞こえる声は、雲一つない空のように澄み渡っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます