11
二人を伴って食堂の隅に控えた階段から二階へ上がる。こぢんまりした宿だが物静かで居心地が良い。最奥の二つが一行に充てがわれた部屋だった。とはいえ、記憶の中の人々は何も語らないし、何もしてこない。要は不干渉だ。食事も宿も、そこにあるものを拝借しているにすぎない。
エドワルドは質素な扉に手をかけ、ふと背後を振り返る。
「フィリア、お前の部屋は隣だったと記憶しているんだが」
「あら、そうでしたっけ?」
これ見よがしにすぐ横の扉を指差すが、悪びれもせずにフィリアは惚けてみせた。エドワルドの手に自身のそれを添えると一息に扉を開け放つ。
「迷える子羊の導き手である以上は傍に控える方がよろしいかと思いまして。こんなところで押し問答していても仕方ないですから、さっさと入りますよ?」
そう言って半ば強引にエドワルドの背を中へと押し込んだ。僅かに遅れてぱたんと呑気に扉の閉まる音がする。窓からは
「で? どうしてエレノアもいるんだ?」
「べっ、別に私は好きでいるわけじゃないわよ! でも貴方がうっかり桂冠を渡してしまうかもしれないじゃない。だから見張っているのよ。ええ、そう。見張っているだけ!」
「だったら二人とも戻ればいいだろ……」
「だって、フィリアが」
「私は微塵も出て行くつもりはありませんよ?」
エドワルドも負けじとぼやくが、素気無く却下されてしまった。部屋の奥では敷き布の皺を丁寧に伸ばして満足したフィリアが手招きをして、横になるよう促す。
「三人も寝れるほど空間は余ってないぞ」
よもや一緒に寝るとは言い出すまい。疑念の目を向ければ、フィリアは首を振った。
「ご心配には及びません。我々は睡眠を必要としませんから。どうぞごゆっくりお眠りになってくださいませ」
いよいよ寝た事を確認するまでは出て行かない気であるとエドワルドは悟った。外が明るいせいか、元より眠気はなく、寝るつもりもないのにこれは由々しき事態である。
一策を講じなければ、と大人しくフィリアの言に従う振りをしてエドワルドは思案した。
――ここは狸寝入りでもしてみるか。
寝台の縁に腰掛けるのを確認して、フィリアは
甲斐甲斐しく世話を焼く二人に関心しながら、エドワルドは毛布を受け取って横になった。毛布は硬く枕も少々高いが、寝心地は悪くない。目を閉じれば、窓の外から雑踏の喧騒が聞こえる。幼少の頃はこうして遠くの声に耳を傾けながら寝入ったものだ。
郷愁の念に駆られて瞼の裏に思い出を描いていたエドワルドの双眸がやおら開かれる。
「そう見下ろされていると大変寝にくいんだが」
立ち去る気配もなく、二人は寝台の横に並んで立ち尽くしていた。寝る気がないにしてもこれでは落ち着かない。
「それは困りましたね。私たちとしても門の選定が控えているのでしっかりお休み頂かなくては」
フィリアが人差し指を口元に当てて、思惟する。上手く言いくるめれば立ち去ってくれるかもしれないと暗に思わせる素振りだ。エドワルドの口の端が微かに上がる。
「そうそう。俺としても慎重に検討するために休息をとっておきた――っ!?」
得意げに口上を述べていれば、その間隙を縫ってエレノアが動いた。寝台の反対側に周り、あろうことか乗り上げてくる。
「お、お前は何をしているんだ……!」
「見下ろされてて眠れないなら私たちも横になればいいわけでしょ。ほら、もうちょっとそっち寄って。狭い」
動揺して思わず退いたエドワルドの頭上でフィリアが一興とばかりに声を上げる。
「あらあら。私としたことが出遅れましたね」
エレノアの侵撃を前にして咎める間もなかった。人の気も知らずにもぞもぞと動くせいで、身体の奥で鼓動が爆音が鳴り響く。鼻先をエレノアの金糸が掠めて、うぐっと蛙を潰したような声が出た。思わず阻むように伸ばした掌が毛布とは違う柔らかな何かを掴む。それはもう、しっかりと。しまった、と喉元まで込み上げた言葉を慌てて引き戻した手で塞いだ。
――考えるな。考えるな。考えたら心に毒だ。
意味もなく懺悔の念に駆られて必死に反芻する。綿布のように手に馴染む感触だが、あれは決してそれではない。似通った何かだ。他の何かだ。ふとエレノアの豊満な胸元を追想してしまい、エドワルドは心の底から叫び出したい気分になった。そこへ宥めるように優しい手が背中に添えられる。嫌な予感で冷や汗が出た。
「……勘弁してくれ」
脱力のあまり盛大な溜息が漏れる。背後にはエレノアに乗じたフィリアがちゃっかり寝台の上に収まっていた。それを見て、くすくすとエレノアが眼前で笑う。
「下手くそな演技は止めた方がいいわよ、エド。貴方、思っていることが顔に全部出てる」
心底面白かったのか、エレノアは肩を震わせて必死に堪えていた。吐息すらも直に感じられる距離に耐えきれずエドワルドは身を捩って降参する。
「分かった分かった。もう大人しく寝るから。頼むから降りてくれ」
「あら、見下ろされていると寝にくいんじゃありませんでした?」
言葉と共にフィリアの吐息が
ここまでの道程よりもたった一瞬の出来事に気力を根刮ぎ奪われた気がしてならない。漏らした溜息は途中で欠伸に変わった。エドワルドが瞼を閉じると、二人も静かに息を潜める。
街の喧騒と三つの息遣い。両腕の傍にあるほんわりとした温度。
仄かに香る金木犀の甘い匂いに包まれながら、エドワルドの意識は静かに遠のいていった。
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