内部に人気はなく、静謐な空気だけが満ち満ちていた。立ち並ぶ列柱に支えられた天井は高く、嵌め込まれた磨り硝子から木漏れ日のような光が降り注ぐ。内陣には祭壇、その卓上にきらりと光るものがちんまりと控えていた。


 ――あれが桂冠か。


 常の如く、エドワルドは前室に備えられた水盤で末端を禊ぐと身廊を楚々として歩いた。三対の靴音が反響して十重二十重とえはたえに賑やかす。

 不意に、その中に新たな響きが加わった。同時に祭壇の奥――アプスの陰からぬっと男が姿を現した。うっと詰まった息を無理くり嚥下する。


 悠然と祭壇に登る男は柔らかい榛色の髪を肩ほどで切り揃え、祭服キャソックに身を包んでいた。対して黒檀の落ち着いた色合いで浮き彫りにされた身体の線は、修道院に籠って日々祈りを捧げる敬虔な信徒からはまるでかけ離れている。


 ――むしろ、あれは。


 祭壇の前に直立すると、男は無感情にエドワルドを見据えた。日に焼けた肌と高い鼻梁が印象的な顔貌でもって見下ろす様は、聖職者というよりは軍人と称すべき風体であろう。筋の通った背中は天窓に向かって屹立と伸びていた。

 その不思議な威圧感と沈着な佇まいには見覚えがある。アルベルト、ユリウス、リシャール……。答えはすぐに出た。


「テオ……そうだ、テオだ。どうしてお前が此処に」

 エドワルドは苦い顔をした。


 テオドール・エンヴフォン。従軍聖職者チャプレンであった彼が教会にいると、どことなく胡散臭さと違和感を覚える。

 綺麗な顔に見合わず、誰よりも戦場を駆け回っていた男の記憶は決壊した河川のように止め処なく溢れてくる。あの日、彼は逃げ遅れた子供を庇って事切れた。野郎に囲まれた日々の中でにこりともしなかった男が、幼い命を腕に抱いて無事で良かったと至極の笑みで逝ったのだ。


「愚問だったな」


 独り言ちるエドワルドの声音は落胆よりも安堵に満ちていた。これは自分の記憶に生きるテオだ。その事実を思い出して、エドワルドは引き結んだ唇を解く。


 テオドールは沈黙を貫き通し、目で屈むよう促した。背後に控えた二人は憚ったのか、静々と後退した気配がする。調和的にエドワルドも膝を折った。聖職者らしからぬ精悍な顔つきで見下ろされると身体が従ってしまうのは摂理だろう。


 俯いた拍子に濃紺の髪がはらりと頬を撫でる。がさごそと祭壇の周囲を漁る音がした後に、露わになった頸にひたりと水滴が落ちた。生温いそれは聖水だろう。ぽつ、ぽつ、と続けざまに九つ。首筋を伝い、顎から滴っていった。


 祭壇を回り込んだテオドールの、長い裾に隠れた靴先が視界の端に映る。穏やかな心持ちで瞑目すれば、程なく桂冠が頭頂に載せられた。想定したよりもずっしりとした重みがある。


「天より光の言祝ことほぎを」

「地より水の咒言まじないを」


 二人が儀式を締める祝詞を口ずさんだ。静謐な空間に余韻が溶け入ってゆく。エドワルドは頭上の冠に意識を向けながら怖々と立ち上がった。テオドールの姿はない。いつの間にやら霧のように行方を眩ましたようだった。


「……彼、顔見知りだったの?」


 機を逸したと悔いるエドワルドに、エレノアが問いかける。広場でのことがあるせいか、その口調はどこかぎこちない。


「家族、みたいなもんだな。敬虔な信徒だった」


 桂冠に手を添え、収まりの良い位置を探る。金属で彫像された葉や蔦が髪に絡んでどうにも落ち着かなかったのだ。


「寡黙だが悩んでる時には欲しい言葉を的確にくれるもんだから皆に慕われていた。まぁ当の本人は鬱陶しがってたけどな」


 思い出して口の端からくすりと笑みが漏れた。露骨に嫌な顔をするから意図しておちょくっていた節がないでもない。


「だから天の代人に選ばれたのね。桂冠を授けるのは子羊にとって最も天に近い人だから」


 エレノアはきちんと応対が取れたことに安堵した様子を見せた。セリーと違い、不思議とテオドールについては次々と言葉が出る。口にする毎に懐かしい記憶が心を満たした。


「ところで――」

「ともかく無事に戴冠が済んで何よりです。このまま次のセフィラに向かいますか? それとも宿を探して休息を?」


 不意にエレノアの言を遮って早口にフィリアが捲し立てる。適当な位置で妥協すると、エドワルドはふむ、と唸った。


「少し気がかりなことがあるから街を散策したいんだが」

「ええ、構いませんよ。『肉体に時間は有限、されども御魂にとりてはもあらず』ですからね。貴方の御心に従いましょう」


 聖典の一節を引用して、フィリアは恭しく頭を垂れる。はらりと耳に掛けた一房の髪が溢れ落ちる様は実に艶やかだ。一瞬、見惚れたことを誤魔化すようにエドワルドは振り向きざまにエレノアに問いかける。


「エレノアもそれでいいか?」

「反対したら貴方は翻意してくれるっていうの?」


 これは意地の悪い反語だ。口を尖らせ、むくれる少女にエドワルドは声を失った。端正な顔で不満げを表されると罪悪感も一層増すものだ。どうにか穏便に応えようと上手い言葉を探せど、思い付くのははぐらかす事ばかり。


「冗談よ。いいわ、仕方ないから付き合ってあげる。貴方の街を案内して」


 だが思いの外、エレノアは可笑しそうに相好を崩した。狼狽えるエドワルドに満足したのか、教会に似つかわしくない軽快な足取りで街へ繰り出そうとしている。鼻唄まじりだから、本当に冗談のつもりで問い質したのだろう。


 風船が萎むようにエドワルドは盛大な溜息とともに屈み込んで脱力した。いそいそと歩み寄るフィリアに詰るような目を向ける。


「妹御は大層意地が悪いようで」

「あら、ご存知ありませんでした? 私の妹はとても純真で可憐な悪戯っ子ですよ」


 エドワルドの恨み節にさらっと言い退けると、フィリアは妹に似た快活な表情で不敵に片目を瞑ったのだった。

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