8
人並みに流されるまま進んでいけば、押し出されるようにして広場に出た。怒涛よろしく人がなだれ込もうと余りある規模の中央には石造りの豪奢な噴水が鎮座し、天使を模した十体の彫像が据えられている。腰に佩き、掲揚し、胸に抱く――十人十色で手にする剣は各々を示すための
息も整わぬエドワルドは暫し歩調を緩めたが、エレノアは目もくれず素通りしていく。無論、袖を掴まれたままでは否応無しに従うしかなかった。
疲労を覚え始めた脚元に溜息まじりの激励を落とすと、聞き分けのない
しかし、やむなくその脚がぴたりと止まったのは、噴水も通り過ぎようとしたときだった。
――お……にい、ちゃん……。
消え入りそうな童女の声がして、反射的に振り返った。噴水の縁には誰の姿も見えない。ならば周囲か。エドワルドは素早く視線を彷徨わせた。
街の子と思しき娘、違う。路地裏から顔を覗かせる少女……違う。可憐な衣装を纏う者、煤に塗れた襤褸を羽織る者。声音から察せられる年頃の童女を目に映るそれと比較するが、めぼしい者は見当たらない。
エドワルドは唇を噛み締めた。急き立てられるように血眼で誰かを探す様子にフィリアが訝しげに首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「……いま、セリーの声が」
口をついたのは一人の名。懐かしい響きを伴うそれが、紛う事なく童女の名だという確信があった。あの苦しげな声を聞き違うはずがない。
「セリー、ですか?」
「ああ、耳元で確かに俺を呼ぶ声が聞こえた。俺の……」
知らず言い淀んだ。はたとエドワルドの視線が虚空に縫いつけられる。水の跳ねる音が奇妙なほど鮮明に聞こえた。
――俺の、何だ?
無下にすること叶わないあの声音の主は、一体誰だ。兄と呼ぶからには妹だろうか。砂利の上を歩いているように小さな、しかし無数の疑念が雑音となってエドワルドの思考を阻む。脳裏に描き出そうとする少女の輪郭が絶えず明滅する。
両手で顔を覆った。閃光で視界は白く染まる。ずきずきと刺さる頭痛が警鐘のように鳴り響いていた。
――どうして忘れている。思い出せ、思い出すんだ。
どうして、こんなにも心をざわつかせる程の存在を忘れているんだ。
「……エド?」
「……っ!」
不意にぽん、と肩に手を置かれてエドワルドは現実に引き戻された。覆っていた両手が外れ、世界に色彩が戻ってくる。遠慮がちに覗き込むエレノアの姿が視界に映り込んだ。背骨を辿ってフィリアの掌は上下に動く。
「貴方、酷い顔してるわよ……?」
「慌てないで大丈夫です。ゆっくりと息を吸って」
茫然自失と立ち尽くすエドワルドの肩が改めて揺すられる。そこでようやく呼吸をしていないことに気が付いた。肺腑に溜まった空気を吐き出せば、憑物が落ちたように頭痛も治まる。同時に幾度か瞬いて心を落ち着ける。耳の奥に焼き付いたはずのか細い声は思考の途切れた間を塗って跡形もなく消えていた。
「何か聞こえたの? その、セリー? って人の声とか」
「いや、悪い。俺の聞き違いだ。忘れてくれ」
エレノアに問いかけられ、咄嗟にはぐらかしていた。ケテルに降り立ってから見苦しい姿ばかりで羞恥が先に立ったのだと胸中で申し開く。濁る空気を断ち切ろうと、押し黙る二人を尻目にエドワルドは足早に教会の前に立った。
扉には見慣れた意匠が施されている。細剣を象った金具は、その威容で俗世との明確な境界を示していた。左右で対をなすそれは天使と同数の十。ともすれば荊棘の門のようでもある。
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