3
「あらあら、可哀想に」
エドワルドの目線の高さまでしゃがみこんで、猫を相手をするかのように手招くのは闇を
金色の瞳を優しげに向けるその腰元には朽ち果てた蝙蝠のような翼があった。
「あ……あ、あく――」
その先は言わせまいと、悪魔は人差し指をそっとエドワルドの唇に乗せる。途端に感じる、指の腹の柔らかな感触にエドワルドは口元を引き結んだ。
「大丈夫。怖くないですよ」
腰に佩いた長剣をかたかたと鳴らしながら無遠慮に躙り寄る悪魔の腕に、腰の抜けたエドワルドは為す術もなく掴まってしまう。
肩、腰回り、脚部――四肢を隈無く見渡して、悪魔の
その手つきはひどく優しげで、惜しむらくは背徳感を煽りに煽るその容貌と、控えめな身体つきぐらいか。
「ようこそ、迷える子羊さん。
金色の瞳が穏やかに弓形を描く。
エドワルドの頭部を離れた右手がすっと背後を指差した。つられて振り向けば、仁王立ちする天使の姿が見える。既視感を覚えるのはその顔立ちが似通っているからだろう。
「あちらはエレノア。貴方は?」
「……エド……俺は、エドワルドだ」
促されるまま名乗ってしまい、慌てて口元を押さえた。悪魔に名乗れば、たちまちのうちに魂を抜かれて食われてしまうという。幼少の頃に誰からともなく教えられることだ。
エドワルドの焦りを悟ってフィリアが悪戯っぽく微笑む。
「エドワルドですね。残念ながら取って食いは致しませんよ。ご安心なさい」
不思議と慈愛に満ちた瞳でそう諭されれば、嵐の航海のように吹き荒ぶっていた心が凪いだ。
もっともエドワルドは尚も警戒を解けずに怖々と距離を取ろうと試みていたが、フィリアに気を悪くした様子はない。ただ、為すがまま見守ることに徹していた。
エレノアとフィリアを視界に収めたまま、周囲を見回し、錯綜する思考を何とか纏める。
眼前に迫るのは大樹だ。数人がかりで腕を回してやっと一周という太さの幹から、空を覆うように葉を茂らせている。漏れ出る光条と共に綺羅綺羅しく映るのは白い花弁。風に攫われ、丘陵を渡ってゆく。
「ここは一体……」
「
どうにか落ち着きを取り戻したエドワルドが声を発すると、幹に凭れかかったエレノアが気怠げに応える。相変わらず、ぶっきらぼうだが先程のような居丈高な雰囲気はなくなっていた。
「その……子羊というのは、俺のことを言っているのか?」
「他に何があるっていうの?」
じろり、と睥睨される。そんなエレノアのつっけんどんな態度をフィリアがやんわりと嗜めた。慎ましく胸元の前で祈りを捧げるように指を絡ませ、言葉をつなぐ。
「子羊は皆、生者の路を辿って此処を
「まあ、空から落ちてくる子羊は貴方ぐらいのものだけど」
意地悪くエレノアが付け足す。大樹の傍には硝子細工の階段があった。大地と蒼穹を繋いで螺旋状にとぐろを巻く。陽光に目を眇めて先を辿れば、確かに路のようなものがあった。
フィリアは無残にも圧し折られた枝葉を一房見繕い、野草の生えてない砂地を選んで複数の丸を描き上げた。
「私たちがいるのは此処――ダアト」
最初に指し示したのは他から離れて位置する円。フィリアが何やら文字を書き込んだが、生憎とエドワルドが理解できる言語ではなかった。
「此処からセフィラを通って、子羊は逝くべき場所を目指すのです」
「セフィラ……?」
「そう、セフィラ。天なる意志が宿る場所。そこには二つの門があるわ」
エドワルドが復唱すると、エレノアが頷いた。語りに合わせて、フィリアが流れる手つきで線を付け加えてゆく。
「一方は
戯言だと一蹴するのを躊躇うほどにはエレノアの声音は真摯だった。
――楽園と地獄。
エドワルドは口の中で二つの言葉を転がす。
ふと脳裏をよぎるのは聖典の一節。楽園を目指す旅人の前に二又の路が現れて、天使と悪魔が指し示すのだ。あちらが楽園の道ですよ、と。自分は今、同じ岐路に立っているというのか。
「つまり、俺はどちらかの言葉を信じていくしかないっていうことか」
「そういうこと」
満更でもなさそうにエレノアはふふん、と鼻を鳴らす。差し伸べられた手を頼ってエドワルドは立ち上がった。フィリアも膝下の土を払って、ぐっと背を伸ばす。
「分かったら、さっさと行くわよ」
エレノアが丘陵の向こうに見える路を指差して言った。いつの間にか腰には剣が収まっている。エドワルドは両腕を引き摺られるように大樹の横を通り抜けた。
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