6.塀の中の外国

【これまでのあらすじ】

・ジナイーダ・ナイジョノフは武装組織「シスコーカシア戦線」の構成員である。

・彼女の庇護者であるアリスタルフの派閥は紛争地帯をよく知るゼリムハン・バスタエフの派閥と共同歩調を取り、アフガニスタンでの戦闘をより激しく煽るべく前線・銃後の両方に対して偵察活動を強化する。しかし組織の本来の理念である反ロシア思想への姿勢には両派閥で温度差があるようだった。

・それとほぼ同時期、PRTO派遣軍のパイロットジーク・シィングはやむを得ない事情からジャラーラーバードで一日を過ごすこととなった。戦場に近いこの街は中央部が塀で囲われており、その中だけが外国のような有様になっていた。


◆   ◆   ◆   ◆


 アフガン東部ナンガルハール州、州都ジャラーラーバード。

 先進国の撤退以前は多くの米軍施設が存在していたこの町は、ほんの2年前までパシュトゥーニスタンの勢力圏だった。ジークが〈ヘルファイア〉と共に着任する前の話だ。


 PRTOとアフガニスタン政府の連合軍が街を奪回したのち最初に行ったことは『安全地帯』の確保だった。

 市街戦で荒れ果てた町の復興を進めるためにも、市内に留まっているであろうパシュトゥーニスタンの工作員や、現政府のハサン政権を支持しない市民たち――彼らは容易にゲリラやレジスタンス、あるいはテロリストの協力者となる――の妨害を受けない橋頭保が必須と考えられたからだ。


(……その結果がこの塀で囲まれた地区。政府側の施設を外から隔離した)


 ぎらつく日差しが照りつける中、整然とした街並みの中をジークが歩く。

 路上のあちこちには現地政府が派遣した警官が立っており、空には滞空監視ドローンが宙を泳ぐクラゲのように巡回飛行を続けていた。本来は戦地で使われる機種だが、PRTO派遣軍が警察組織に貸与しているのだ。


 品揃えの少ない商店、市役所で働く政府の公務員とその家族の住居。酒を提供する外国人向けの飲食店、暗黙の了解のうちに在る非合法の売春宿。それぞれ相応の装飾や看板が建てられているが、元となっているのはキャンプ・ビッグボードの建造物と同じ、PRTO派遣軍が建てた統一規格の建物だ。


 塀の外でも復興が進められているが、未だ予断を許さぬアフガニスタン情勢もあり、進捗はあまり芳しくない。塀外地域はほとんどスラム同然だ。

 そうしている間にも民衆の生活は困窮し、政府への不満が溜まり、そしてパシュトゥーニスタンの方に転んでいく。

 

 銃砲弾こそ飛び交わないが、この土地は未だに戦に荒らされ続けている。少年時代に内戦を経験したジークは、塀の外から漂ってくる荒廃した怨嗟を肌で感じていた――不愉快な既視感デジャブと共に。


(パシュトゥーニスタンと戦うにも、復興を進めるにも拠点がいる。だが塀外の人間にとって中央区は特権階級の住処にしか見えない。……こんな場所で気晴らしができる奴らは、幸せだ)


 釈然としない感情を抱えてあてもなく歩いていると――立ち並ぶ建造物の一つにかかった、開かれた本を模した小さな看板が視界の端に入り、彼は思わずそちらへ振り向いた。

 

「……本屋か? 紙の?」


 サイバネ義眼の疑似瞳孔が驚きに収縮する。今日日きょうび「本」と言えば基本的に電子書籍だ。紙の本は骨董品とまではいかないが、年寄りか趣味人の持ち物である。

 電気供給が不安定な場所ならばその限りでもないが――ネットワークと核融合発電の恩恵を受けるこの中央街で紙本商売が成り立つのかは、よく解らない。

 

(ちょうどいい。何か買って、どこか落ち着けるところで飯を済まそう。あとはそこで夕方まで本でも読んで、さっさと帰ればいい)


 彼はおもむろに本屋の方に進路を取り、ゆっくりと歩き始めた。

 

 ◇


 ドアを開けると古風な呼び鈴が鳴り、乾いた朽ち木のような紙の匂いがした。

 店内は薄暗く静かで、人の気配も感じない。通路は狭く、そのぶん本棚が店内のスペースを占有している。

 

(案の定、閑古鳥か)


 入口の案内板を横目に確認する。大体は現地語で書かれた書籍や翻訳書だが、外人ばかりの中央区にあるだけあって半分近くが英語本のコーナーだった。

 

(――『マハーバーラタ』の英語版、『指輪物語』『虐殺器官』『わたしを離さないで』『星の王子様』『狂気山脈』『アルジャーノンに花束を』……『華氏451度』まで。よくもまぁ古いフィクションばかり)

 

 コーナーに解説書や実用書の類は少なく、文学や詩集、それもSFやファンタジーといったジャンルが主のようだった。店の雰囲気といいどこまでも俗世離れを売りにしているらしい。


 ジークがそのうちの一冊を何気なく手に取る。刷られたのはかなり前のようだが、状態はそれほど悪くないようだった。そのままペラペラとページを確かめながら、惰性で文章に目を通す――。



 ――瞬間、奥の曲がり角からぬっと人影が現れた。



「わぁ!?」


 上がった声はジークではなく相手のものだ。ジークは反射的に本を閉じ、身構えて人影の方向を睨んでいた。その視線に驚いたのだ。


「……ええと――ごめんなさい、失礼を」


 涼やかな声が丁寧な発音の英語を紡ぐ。ジークが相手の顔を見た。


先天性色素欠乏症アルビノって奴か。初めて見た。ここじゃ日差しもきついだろうに)


 女、というか少女である。おそらくまだ20にもなっていまい。

 色白の肌に乳色のまっすぐな長髪、目は糸のように細められている。顔立ちは整っているが人種的特徴が薄く、素性ははっきりしない。まるで大理石像が歩いているようだった。

 服装は黒のレザージャケットとジーンズ姿で、つば付きのキャスケットをかずいている。外国人、それもそれなりに裕福な国から来た人間の服装と見えた。これから買う予定なのだろう、英語の文庫本を何冊か脇に抱えている。


「まさか他に人がいるとは思わなくて。お兄さんは軍人さんですか?」

「見りゃ解るだろ。あんたは」

「すげない言い方。――御覧の通りの女です」


 白髪の少女がアイロニックに笑って答えた。

 その友好的な態度がジークには不自然に思えた。詐欺か、ハニートラップか。どちらにせよ、よりにもよって自分を標的にするものか――ジークが内心にじわりと警戒を滲ませる。彼は他人の良心とか善性をまず信じない男だった。


「……観光客が来る場所じゃないだろう」

「ふふ、バックパッカーに見えますか? ――非政府組織NGOのスタッフですよ。紙の本屋さんは珍しいので、つい入っちゃいました。……あ」


 少女が視線をジークが手にした本に落とした。ぱちりと開かれた双眸は鮮やかな血の色をしている。白い顔の中でそこだけが・・・・色づいて見えた。


「何だ」

「あ、いえ……『虎よ、虎よ!』あったんですね」

「ああ――ほら」


 相手の意図を察したジークが文庫本を差し出すと、少女はきょとんとした表情を浮かべた。


「いいんですか?」

「探してたんだろ」

「でも、悪いですよ」

「手慰みにめくれる紙なら何でもいいんだ。欲しくて持っていたわけじゃない」


 ジークは半ば押し付けるようにして本を渡した。それ以上他人と会話を続けるのが億劫だったからだ。特に年下の少女への接し方など――解らないし、学ぶ必要もない。彼には関係のないことだからだ。


「ではお言葉に甘えまして。ありがとう、お兄さん」

「俺は何もしちゃいない。さっさとレジに行くんだな」


 取り付く島もなく答えると、彼はそれ以上何も言わず視線を本棚に戻した。少女が遠慮がちに何かを言おうとした後、結局何も言わずに小さく一礼して曲がり角を戻っていく。案外物騒な本を読むものだ、とジークが内心で独り言ちた。


(変な女だ。世間ずれしていないというか、お嬢様育ちというか……)


 結局――普段は見もしないようなパルプマガジンを三冊取り、また出くわさないように少し時間をおいてから、ジークはレジで会計を済ませて再び日差しの照り付ける大通りに出た。

 習慣的に周囲を見回すと、三つ向こうの交差点の手前で白い長髪が路地に吸い込まれていくのが見えた。――ドローンの目も届かない建物の陰に、一人で?


(……こまっしゃくれた口を利いておいて、警戒心はバックパッカー以下か!)

 

 ジークは己の背筋にムカデが這い登るような感覚を覚え、足早に少女が消えた路地裏の方へ向かった。『人食い虎』のあだ名そのままの殺気に恐れをなした通行人が道を開けていくが、彼はそれを気にも留めなかった。



「不愛想だったけど、親切な人もいたものね。善き哉、善き哉」


 本の入った紙袋を抱え、白髪の少女――ジナイーダ・ナイジョノフが、宿への近道となる路地を上機嫌に歩く。その首からはジャラーラーバード中央区への立ち入り許可証がぶら下がっていた。


 ワハーン回廊からいったんタジキスタン側に越境し、そこでシスコーカシア戦線のフロント企業――基地司令アリスタルフの経営する国際援助NGOと合流し、そのまま検問を通ってアフガニスタンに再入国。

 こういった手順を踏むことで、彼女は堂々と市内に入り込むことができていた。いったん他国を経由して入りなおすことで合法的な渡航者を装ったのだ。


 それ故に、PRTO派遣軍にも現地警察にも彼女らを理由なく拘束することはできない。ジナイーダの戸籍、NGOへの所属証明、立ち入り許可証――これらが取得されるまでの過程は限りなく黒に近いグレーであったが――彼らが参照する範囲において、不法なものは何もないからだ。

 「法と秩序の世界では『正当である』ことの重みは大きい」というのがアリスタルフの言葉だったが、なるほど真理である。


 ただ――彼女にとっての誤算は、この街の暴力の全てが権力の統制下にある訳ではなく、警戒すべきはPRTOや警察だけではないという点だった。


(……待ち伏せ? 警察ではない)


 二人がすれ違えるかどうかの道幅しかない細い路地で、向かい側に立ちはだかるように男がいた。薄汚れた民族衣装シャルワール・カミーズを着た男で、今にも泣きだしそうなやつれた・・・・顔でこちらに血走った視線を向けている。

 ジナイーダが横目で逃走経路を確認した。彼女の目には、男の焦燥と興奮が熱紋となって放たれているのがカラーコンタクト越しに見えていたが、それがなくとも明らかに危険と解る光景である。


「金くれよ」


 ジナイーダにゆっくりと歩み寄りながら、男が片言の英語で言った。栄養状態がよくないのか、その足取りはややふらついている。その利き腕は何かを隠すように背中側へと回っていた。


「何ですって?」

「貧乏なんだよ。戦争で失業してさ。外国人なら金持ってんだろ。くれよ」

「それは、お気の毒ですけど……」

「気の毒ってなんだよ。あんたらのせいだろ」


 男が引き攣った半笑いを浮かべて目を見開き、彼女にパシュトー語で何かをぼそぼそと呟いた。脳内でアドレナリンが出ているのか、覚束なかった歩みが徐々に早く、荒々しいものへと変わっていく。


「そうだよ。全部お前らのせいだ……殺してやる……!」


 反笑いから一転、狂気じみた怒りを顔一杯に浮かべた男が全力疾走に移った。背中側に隠していた腕の片方には、大振りのナイフ――家で肉でも切るのに使っていたのだろう、鞘すらない家庭用包丁――が握られている。


「なんと。これは良くない」


 それを見たジナイーダが即座に振り向いて走り出す――が、彼女自身の身体能力は一般的な女性の域を出るものではない。アシストスーツを着ている時ならともかく、興奮で身体のリミッターが外れた相手から逃げ切るのは困難であった。


(パシュトゥーニスタンじゃない。強盗化した一般市民……塀の外から?)


 ジナイーダは走りながらぞっとする寒気を覚えた。曲がりなりにも現代文明の秩序が存在している塀内に比べて、目の前の男の雰囲気はまるで地獄の亡者だ。

 内戦国ではこのような困窮した略奪者も珍しくないが――中央街の塀の内外でここまでの差があるという事実は、この国のグロテスクな側面をそのまま現していた。


「待ってくださいよ。お金ならお渡ししますから、落ち着いてください」

「金だ! お前ら! お前らのせいで!」


 譫言めいた呪詛を垂れ流しながら、男が刃物を腰だめに構えて突進する。

 どう見ても脅しの類ではない。まず刺して相手の抵抗力を奪ってから金品を奪う算段だろう。男の血走った目にはただ原初的な飢えだけがあった。


 やがて男との距離が5メートルを切る――そこでジナイーダは逃げるのを諦め、足を止めてその場で振り返った。


「ああ、もういいです。……可哀想っていうのも傲慢かしら」


 どこか悠長な台詞とともに、ジナイーダが紙袋を持っていない方の手を前に出した。

 刃を受け止めるつもりであろうか? だが体格は男の方が大きい。体重を乗せた突進を腕一本で受けたところで、腕ごと押し込まれて刺されるのが関の山だ。しかしジナイーダの表情には諦めの感情こそあれ、恐怖や絶望の色はない。


 その直後、刃物を構えた男が彼女に衝突した。


「……?」


 男が奇妙な感覚を覚えて困惑の表情を浮かべた。切っ先は当たっているのに、肉に刃が突き刺さる感触がない。自分は確かに相手を押し倒して突き殺すつもりで突っ込んだのに、腕一本・・・突進・・められている・・・・・・

 男が視線を下げると、ジナイーダの白い手が包丁の刃を無造作に掴んでいた。彼女が触れた瞬間、まるで不可視の吸着材に捉えられたかのように、全ての運動エネルギーが消失したのだ。


 何が起きた――男が無理やり切っ先を押し込んで目の前の少女を刺し殺そうとするが、やはり刃は動かない。包丁を掴んだ掌が切れる様子もない。


「刃物も銃も無駄ですよ。全部止まっちゃうんです。そういう体質でして」

 

 ジナイーダは虚無的に囁き、指先に意識を向けて己の特異なる放電体質にアクセスを試みた。ごく軽い放電で筋肉を収縮させてしまえば、興奮でアドレナリンが出ていても無力化は容易い。


 路地裏とはいえ、人前で電撃を見せるのにはリスクがあるが――次の瞬間、装甲義足の足音を響かせ、ジナイーダの背後から怒れる虎が乱入した。



「――Marchu talai(ぶっ殺してやる)!」



 ジーク・シィングのチタン装甲で覆われた拳が男を打った。痛々しく硬質な打撃音と共に男が仰け反り、よろめきながら数メートル後退する。彼はその隙に二人の間に割り込み、男の行動を阻止する位置についた。


「さっきのお兄さん!?」

「箱入り娘が! ここは内戦国なんだぞ!」


 彼の位置からはジナイーダの手元は見えておらず、またこの場に辿り着いたのもたった今のことだった。故に一連の超自然的な現象は彼の目には入っておらず、ただ少女と刃物を持った男が揉み合っている――ように見える――場面だけが映っていた。


「ち、畜生ーッ! 悪の根源め! ここは俺たちの国なんだ!」


 男がパシュトー語で叫んで包丁で反撃するが、その刃はジークの上着を少しばかり貫いたところで止まった。義肢同士をつなぐアシスト・スーツの強靭なCNT繊維が切っ先を食い止めたのだ。

 男が手を引くよりも早く、装甲義手がその刃を掴み――万力めいた握力によって、圧し折る。


「チンケな刃物を振りかざしておいて、今さら革命家ぶって自己擁護か? 強盗が!」

「お、俺たちは! お前らのせいで――」

「お前のことなぞ知るか! 死ね!」


 間髪入れずに金槌めいた正拳による反撃。転倒した男にジークがマウントポジションを取り――追撃の拳打、拳打、拳打! 打撃を受けた箇所の皮膚が切れ、血まみれになった顔がたちまち痛々しく腫れ上がる。乗用車が戦車の突進を受けて無残に轢き潰されるような光景だった。

 本人が言ったように、この場においてジークは男の事情を知らない。だが男自身も問答無用でジナイーダに襲い掛かったように、獣性と憎悪が渦巻く暴力の世界においては、理解など邪魔でしかない――相手が倫理的に正しかろうが、如何に完璧な理論武装をしようが、力で捻じ伏せれば全ては無に帰すのだ!


 顔を涙と血で濡らしてぐったりと倒れ伏した男をその場に放り出し、ジークは立ち尽くしていたジナイーダの手を引いて大通りへ早足で歩き始めた。相手が一人ならいいが、もし徒党を組んでいれば包囲される危険もあるからだ。


「怪我は?」

「平気です、刺されてません。――あの人は?」

「死ぬほどはやってない。少なくともあの場ではな」

「ならいい……いや、よくはないけれど。警察に通報は?」

「ここを出た後でやる。やったところで焼け石に水だろうがな」

「何故?」


 走りながら白髪の少女が尋ねると、ジークはまなじりを吊り上げて答えた。


「身なりからして塀外の奴だ。塀の外は場所にもよるが無法地帯のスラム状態で――2年前の市街奪還戦の時の銃火器が残ってるから、警官は撃たれるのが怖くて巡回できないんだ。……言っただろ、観光客が来る場所じゃない」

「ごめんなさい、私の認識の甘さでご迷惑を。――私、ジナイーダです。貴方は?」

「ジーク・シィング」


 振り返らずにジークが答える。彼はどのように路地裏から離れ、警官に声をかけるかを考えており――背後で驚愕に目を見開く少女の表情を見ることはなかった。

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