第27話 日本国内地、東京都立川市国際医療センター


 病院食が出されるとき、毎度トレイの上に簡単な料理の説明が書かれたメモが載っているのだが、曰く半固形ということだった。五分粥は普通の粥と比べるとどろりとしていて歯ごたえがないが、米がそれと認識できる形状を留めているだけありがたい。重湯とは違う。味もついている。豆腐のそぼろあんかけ、里芋と人参の煮物、小松菜の煮浸しと、品数も増えた。ヨーグルトまでついてくる。

 ありがたかったのはそれだけではない。腕に刺さっていた点滴と、鼻から胃に届いていた胃内容物吸い上げ用の管が抜けたのだ。点滴はともかく、経鼻胃管は鼻の粘膜のあたりが痛むことがあり、不快なことこの上なかったので嬉しかった。抜くときは異様な感覚があったが、それでも自由になれるのはなんと素晴らしいことだろうか。縛り付けられるものがなくなり、飯が食えるようになると、急に前向きになるのだから不思議なものだ。


「どうだい、調子は」

 五分粥、八宝菜、人参と大根の煮物、トマトと胡瓜のサラダにマンゴー缶という夕餉が終わった頃、来客があった。研究所の上司に当たる存在である、井戸田である。

「面会謝絶と聞いていたのだけれど、メールもあったんで来てみたんだけれど……」

 一般病棟に移ってから電子機器が使えるようになり、学会のために予約したホテルのキャンセルをしたり、学会に改めて自分の文面でキャンセルの連絡をしたあと、研究所の秘書に現状報告のメールを投げた。怪我をしたが心配ないという内容で、もう少し復帰に時間がかかることなども添えた。しかし、面会謝絶になっていたとは知らなかった。数日前までICUに入っていたので、当たり前といえば当たり前なのかもしれないが。


「見ての通りです……午前中だったら、もう少し痛々しい姿をお見せすることができたんですが」

 勇凪はベッドに座ったままで肩を竦めてみせた。鼻からチューブが出ているわけではないし、点滴の針も刺していない。腹はまだ膨らんでいて熱を持っているが、包帯を巻いて服の下であれば、鑑賞するのに面白い病人とは言い難い。

「事故の話を聞いたときにはけっこう酷いかんじだったと思うんだけれど、思ったより元気そうだったので安心したよ」

 いつもレイラニが来たときに座るパイプ椅子を勧めたが、井戸田は「顔を見に寄っただけだから」と辞退した。実際、最寄り駅から研究所に徒歩なりモノレールなりで向かう場合、少し寄り道すれば来られる場所に病院はあった。


「ところで、葡萄って食べられる?」

 と彼は通勤用の鞄のほかに、もうひとつ持っていたビニール袋を持ち上げてみせる。中は葡萄の箱らしい。

「実家から送られてきてね、良かったらどうかと思って」

「葡萄ですか……」

 食事ができるようになったとはいえ、まだ十全とは言い難い。病院の外の食べ物で、おまけに生物となれば、食べていいのかどうか怪しい。

「ま、食べられなければご家族とかにあげてくれてもいいから」

 葡萄の袋を置くと、じゃあ、また来るよ、なんか面会時間ギリギリみたいだし、と言って井戸田は帰っていった。

 寝る前に様子を見に来た看護士に尋ねてみると、やはり生物はまだ食べては駄目だというので、葡萄はひとまずテレビの下の冷蔵庫に入れておく。明日、レイラニが来たときにくれてやれば良いだろう。


 夜、眠る頃になって胸が痛くなった。肋だ。骨が折れた場所だ。ナースコールで呼び出すと、痛み止めを貰えることになった。まだ、元気になったとはいえない。眠るだけでも一苦労だ。

 翌朝の朝食は、やはり五分粥だった。蕪の味噌汁に海老茶巾あんかけ、小松菜の煮浸し、牛乳。刺激物はまだ食べてはいけないといわれているが、粥に入っている梅干しは刺激物には含まれないのだろうか。

 午前中に回診に来た医師たちがぞろぞろとやって来て、腹の様子を確認した。一度切って小腸を一部切除し、また閉じた腹は、今は巨大なホチキス針で縫いとめられた状態になっている。その上に腹帯という、包帯のような素材のベルトで留めている。これがないと、腹の中身が飛び出そうな気がして辛いのだ。


 腹帯を外して改めて己の腹を見ると、鳩尾から臍の下にかけて、縦に冗談みたいな切れ目が入っているのだから笑えてしまう。ホチキスは一センチメートルよりもいくらか短い間隔で留めているらしい。縫合糸なら切れば良いのだろうが、ホチキスはどう外すのか、想像すると怖くはある。腹は未だ膨らんでいたが、熱はだいぶ下がっていて他の部分と同じ程度の体温になっているように感じた。

「経過は良好ですね。やっぱり若いと違うなぁ」

 と眼鏡をかけた青い白衣の医師が腹の具合を確認して言った。髪は豊かで黒々としていて、いまひとつ年齢のわからない風貌だが、四十代だろうか。勇凪とそう変わらない年齢だという気がするが、若いというのは彼と比較してというより、他の患者と比較してかもしれない。点滴が外れて多少歩き回れるようになったが、フロアを歩いて見て回る限りでは救急救命科病棟に入院しているのは、大半が高齢者らしかった。


 兎にも角にも、経過については太鼓判を押された。おまけに、シャワーの許可まで出た。

 五分粥ではない、通常の粥に鶏肉のムニエルトマトソースがけ、コーンスープとマカロニベーコンサラダという昼食を済ませたあと、早速勇凪はナースステーションに向かった。現在風呂場は空いているとのことで、ドアにかけておくための札を貰い、ナースステーションで右に折れたところにある風呂場に案内される。非常用の呼び出しボタンを教えて貰うと、あとは介助なしに自由に利用してよいということだった。

 ひとつきりの洗面台と木製の衣服入れが置かれた脱衣所で服を脱ぐ。つい二週間前なら立ったままでズボンを脱げたというのに、今は座ってでも一苦労だった。なにせ、膨らんでいる腹が邪魔をする。だいぶ引っ込んだこの状態でも苦労するのだ、妊婦ともなるとこの比ではないだろう。そう思うと、レイラニが妊娠していたときに気を遣わなかったことに対する後悔が生まれる。気を遣わなかったというよりは、会わないようにしていたというほうが正しいかもしれない。しかし、もし次にレイラニの子が生まれることがあれば、そのときは積極的に会いに行って、気遣ってやろうと思った。


 風呂場は左手に浴槽、正面と右手にシャワー付きの洗い場があったが、浴槽には水が張られておらず、使える状態ではない。よろよろと頼りない足取りで、正面の洗い場に椅子を持っていき、腰掛ける。今日はだいぶ運動した——歩いて、服を脱いで、椅子を運んだ。息が切れはしないが、疲弊を感じる。ずいぶんと体力が落ちたようだ。退院したら、まずは体力を取り戻さなければならないだろう。

 シャワーのお湯を浴びる。まずは手から。足、腿、頭と濡らしたあと、満を辞して腹に湯を当てる。徐々に。覚悟を決めて、腹に湯を当てる。傷口に。ホチキスで留められた傷口に。風呂を許可された以上は当たり前といえば当たり前なのだが、痛みはなかった。もちろん感覚はあって、暖かい。

 傷口は赤黒く、歪だ。それでも順調に治りつつあることを実感する。

 持って来たシャンプーで頭を洗う。最初はなかなか泡立たなかった。洗い流してもう一度。身体も洗う。腹のあたりはおっかなびっくりだったが、垢擦りがホチキス針に引っかかって引き抜いてしまったりはしなかった。身体を洗い終えて、ついでに髭も剃った。さっぱりする。髪も切ることができれば良いのだが。病院地下に床屋があるらしいので、体調が良いときに行っても良いかもしれない。


「おっ、男前になりましたね」 

 風呂を出てナースステーションに使用中の札を返しに行ったとき、担当の看護師が調子の良いことを言った。

 部屋まで戻って、ベッドに腰掛ける。一般病棟に移り、外部とメールのやり取りができるようになったおかげで、勤めている研究所とのやり取りをしなければならなくなった。目下しなければならないことは、事故当時の状況の調書作成と今後の自宅療養に関する手続きだ。だが書類を作成する気にはならず、勇凪はベッドの上に寝転がった。

 湯船に浸からなかったとはいえ、久しぶりの風呂だった。およそ二週間ぶりか。垢が落ちた肌を風が撫でるのが心地良い。今日は秋にしては気温が暖かなようだ。こんな気候では、モニタに向かって書類を書く気にはならない。それに、今後の療養に関して書かなければいけないのだから、ゆっくりと今後のことを考えなければならない。


 レイラニからは、退院後は一緒に暮らさないかと誘われていた。

 ひとりでは心配だと、ずっと一緒に暮らすのが厭なら身体が快癒するまではどうかと、一緒に暮らせば三食昼寝付きだと、今度はわたしがさなちゃんの歩く練習を手伝う番だよと、そんなふうに。

 八尾と相談したかと訊けば、していないと来る。でも、きっと大丈夫だと言う。そうはいかないだろう。

 が、少しの間なら世話になって良いかもしれない。一週間か、二週間か、長くてもせいぜいがその程度だろう。体調が良くなって研究所に戻れるようになったら、筑波から西東京に通勤するのは厳しすぎる。それに、レイラニは大人しくて引っ込み思案な性格のくせに、勇凪の生活に関することとなると、やれ野菜を食えだの、早く寝ろだの、運動しろだのと口煩い。快適な生活にはなるまい。昔、一緒に暮らしていたときもそうだった。長続きはしない。

 それでも少しの間なら、きっと仲良くやれるだろう。


 勇凪は退院後、レイラニと暮らすことに決めた。今日、見舞いに来たときに返事をしよう。

 おおよその予定が決まったところで、書類作成に移る。何も事態は好転していなかったが、勇凪は気軽な気持ちで前向きになっている自分に気づいた。原因はよくわからないが、たぶん生きているからだろう。生きていれば、どうにかなる。そんな気分だ。だから、やり直そう。食べて、休んで、寝て、元気になって、レイラニに葡萄を渡そう。

 だがいくら待っても、レイラニは来なかった。陽気にうつらうつらと微睡んでも。テレビをぼうっと見ていても。粥とチキンコーンソテー、アスパラのピーナッツ和えという夕餉を終えても。

 面会時間が完全に過ぎてから、担当の看護師が部屋に駆け込んで来た。事故があったという報せだった。見舞いに来る途中のレイラニが交通事故に遭い、病院に運ばれたが、死亡したという報せだった。

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