第四行 鉄の短剣
第28話 日本国特区ガンジス諸島、自宅
竿先が下がる。
昔なら、この瞬間に竿を上げようと奮闘しただろう。実際、引きに合わせたほうが、針にしっかりとかかるため、釣り上げやすい。それは理解していたが、急ぎはしない。竿を手に取る間にも竿先は何度も下がっていた。浮きも引かれているようだ。一度目しかチャンスがないことなど、そうそうないものだ。竿を握ってリールを巻く間も、魚のしっかりとした引きがあった。
海面から姿を見せたのは、網目模様を持つ体長三十糎ほどの唇の突き出した魚だ。ムルーだ。釣り上げて桟橋の上に揚げられた拍子に針が外れ、ついでに餌を吐き出した。餌は紅生姜を出汁だの砂糖だの醤油だのの混ぜ合わせに漬け込んだものだ。新しい餌入れから紅生姜を取り出し、齧る。甘く、塩辛く、旨味がある。複雑な味わいだ。
釣れたムルーを桟橋に括り付けた生簀の中に入れて、さてどうしてやろうかと考える。刺身か、いや、バター焼きのほうが好みだろうな、と昼飯のことを考えながら、釣り道具を回収し、桟橋が突き出る玄関の横に置いた。
二〇〇年前、隕石衝突とそれに伴う地殻変動で、世界は変わった。気候変動は食い止められたのみならず、逆方向にシフトし、造山活動の活発化で新たな島々が現れた。ガンジス島もそんな地殻変動で出現した島のひとつで、まだ歴史は新しい。
だが星見勇凪にとってこの島は故郷で、生まれたときから変わらない場所で、目の前にはいつも通りの海があった。そして、島を刺し貫いているように見える、天から降りる剣も。
時刻は午前十時に差し掛かっていた。そろそろ時間だ。半ズボンとアロハシャツといういいかげんな恰好であったが、島にいるときはこんなものだ、勇凪はヨットに乗った。風は穏やかだったため、モーターを動かして海を駆ける。
二十分ほどで港に着く。ヨットを船着場に括り付け、そこからはぶらぶら歩きで空港へと向かう。ちょうど本土からの
到着ゲートから出て来る人々の多くは、島に戻って来た者ではなく、外からやって来た者たちだろう。盂蘭盆で、世間は夏休みだ。陽にあまり焼けていない肌を見ればそれとわかる。里帰りか、観光か。
そんな人々の中で、デニムの半ズボンに白いTシャツ、肩に鞄をかけた子どもの姿が見えた。あちらでも勇凪の姿を認めたのか、勢い良く駆けてきた。
「さなちゃん、久しぶり!」
と勇凪にほとんど突進するように抱きついて、子どもは言った。
「ひとりでちゃんと来られた?」
「来てるじゃん。そうじゃなかったら、ここに来てないでしょ?」
もう十歳だ。理屈もこねる。
「お昼食べた?」
「まだ。アオラも?」
「まだだよ。飛行機の中で、ずっとお腹鳴ってたよ」
と言いながら、アオラニは大袈裟に腹を抑えてくの字に身体を折る。
ガンジス空港は勇凪が子どものときとほとんど変わっていない。そもそも空港という名前だが、基本的に一般人が乗るのは海面効果機だけだ。陸の滑走路はあるにはあるが、大型旅客ジェット機の使用に耐えうるものではなく、セスナ便のようなチャーター機専用であり、緊急や特殊な要件がなければ使われない。今は盆休みだから人がいるが、平時はのんびりとした島なのだ。だから空港入り口の回転扉を開ければすぐに荷物受け取り場所兼ロビー兼荷物預けカウンターだ。カウンターはふたつしかなく、ガラスで区切られたところにある手荷物検査のレーンに至ってはひとつきりだ。勇凪が生まれ、育ち、そして戻ってきたガンジス諸島は、それで十分な島なのだ。
アオラの荷物を受け取って、空港の外に出る。
八月。夏の日照りは相変わらず眩しい。外の人間から見ると常夏に見えるガンジス諸島でも、多少の四季はある。勇凪はアオラに自分の麦わら帽子をかぶせてやった。
「さなちゃん、お昼ご飯はなんですか?」
アオラが手を引いて問いかけてくる。
「魚が釣れたから、焼こうかと思ってた」
「えぇ………」
「なに、魚は厭?」
「ぼくも釣りしたかったのに」
アオラは動きやすい服装と日焼けした肌が示すとおり、活発な性格だ。容姿は母親のレイラニに似ているが、縁石の上に飛び乗ってバランスをとりながら歩くことなどレイラニならなかった。もっとも彼女の場合は、しなかったというよりは歩行障害のせいでできなかったわけだが。
「やりたければ好きなときにできるよ」
アオラの手を引いて歩道に引き戻す。ガンジス島は車通りが活発ではないが、まったくないわけではない。アオラに母親のような目に遭わせたくはないと思う一方、あまり目くじら立ててもこの子には効果的ではなかろうとも思った。
空港の近くには少し特殊な標識が立っている。二百年前、ガンジス諸島が発見された時代のものだが、定期的に部品交換やメンテナンスがされているため古いようには見えない。東京や那覇といった日本の主要都市や、ニューヨークなど海外の都市までの距離が書かれた矢印型の標識だ。機能的には無意味に等しく、勇凪にしてみれば見慣れたオブジェだが、本土で暮らしているアオラには珍しいものなのだろう。以前来たとき同じように写真を撮ったというのに、標識の下でポーズを取るので、撮影してやった。
空港沿いの海に面した通りを港に向かってふたりで歩く。
空港の港にはアオラが乗ってきた海面効果翼機が着水していて、ドックに入ろうとタキシングしているところだった。碧色の海の中で、海面効果翼機はまさしく巨大な怪鳥だった。
「さなちゃん、エクラノプランって、なんで飛行機みたいに高いところ飛ばないの?」
急にアオラが尋ねてきたので、逡巡する。
「地面とか海に近いところで飛んだほうが、燃料が節約できるし重いものも運べるから」
「なんで?」
「えーと」また逡巡する。翼端渦という単語が出てきそうになったが、堪える。「こう、たとえば車が通ったりしたときに、空気の流れみたいなのができるけど、それと似たようなかんじで何か物が通ると空気の流れができる。飛行機の場合、そういう空気の流れが飛ぶのを効率的じゃなくさせているんだけど、エクラノプランだとそういう空気の流れを海が抑えてくれるから、飛ぶ力が強くなる……わかってないよね? 説明が悪かった」
「あとで絵に描いて説明してね」
海と並んで歩きながら、アオラは次々と質問をする。飛行機のこと、船のこと、空のこと、ガンジス島のこと、ガンジス島の人々の生活のこと、釣りのこと、勇凪のこと。平時であればなんてことのない道だが、アオラと歩いているとちょこまかと動き回り、あれやこれやと質問をしてくるので、それだけ色づいて感じられた。
「あれは?」
島の南を指差す。島に突き刺さらんとする剣。軌道エレベータ。
勇凪が研究者を辞めたきっかけとなったガンジス諸島の海抜変動問題の解消後、数年して軌道エレベータは完成した。まだ一般人が利用できる段階ではないが、すでに何度となく地上と大気圏外の輸送を成功させている。ロケットよりもはるかに燃料効率が良く安全なこの輸送手段は、今後の宇宙進出や研究を何倍にも楽にさせるだろう。
「さなちゃん、やっぱり博士なんだね。なんでも知ってるもん」
とひととおりの質疑応答で満足したのか、嘆息したようにアオラが言った。
博士というか、学者だろう。それを言えばアオラの父である八尾こそそうで、しかも彼の場合は成功している。少なくとも、仕事として続いている。そう言ってやると、「でもお父さんはそうは見えないもん」と来るだろう。
しかし博士とは、初めて言われたかもしれない。博士号を持ってはいるのだから、博士に違いなくて、しかし、そうだ、海外の学会だとかの申請で冠詞をどうするかという質問がよくあって、そのときはDrかMrか適当に目についたものにしてしまうのだが、英語でならDr付きで呼ばれたことがある。だが、日本語で「博士」と呼ばれたことは、思えばなかったような気がする。
「昔はそうだったかもしれない」
と勇凪は答えた。
「今は?」
「今は………」
レイラニの死から八年。勇凪は生まれ故郷の島に戻り、ひっそりと隠遁生活を送っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます