第26話 日本国内地、東京都立川市国際医療センター


 地球環境は繊細であり、不透明だ。些細なことで環境が変わることがあれば、巨大な器がどんな衝撃でも受け止めてくれることもある。

 単純な話だ。ガンジス諸島の海水面が上がったのが地盤沈下によるものだとすれば、もっと下の地盤が持ち上がればいい。

 そして地球はそれをやった。勝手に。誰の断りもなく。なぜそれが起きたのか、まではわからない。二百年前のような隕石衝突が原因ではない。もっと地球内部の作用だ。何が起きたかは、今後の研究でわかるかもしれない。

 それは、いい。


 かくしてガンジス諸島は海に沈む運命を避けることができた。誰に守られずとも、ガンジスは自身を守った。何もせずとも。何も騒ぎ立てることはなかった。何も、何もかも——無駄だった。

『つまるところ、気象研究者の提唱というのは、常に己の懐を潤わせるための欺瞞でしかないのです』

 こちらをご覧ください、と評論家が出した図は、今回のガンジス諸島の海抜低下騒動の流れであると題されている。だが実際のところは、どのような流れで海抜低下・相対的な海水面上昇が「捏造」されたかという説明になっている。図中には「研究員H」というのがいて、「最初に変動を提唱」したことになっている。さすがにニュースで名前が直接出ているわけではないが、それでも調べればそれが勇凪であるということはわかるだろう。レイラニが結婚して星見姓ではなくなっていることに安堵した。

 図では勇凪が多額の研究資金を得たことになっているが、特に大きな資金は得てはいない。科研費に応募してそれが通っただけだが、満額ではないし、計算機周りと旅費だけだ。特に人を雇ってはいないので、人件費すらない。学生時代に得ていた研究費とそう変わらないあたり、自分でも笑ってしまう。

 そういうわけで、多額かどうかはともかく、研究資金を得たことは間違いないわけだが、おそらくこの報道を番組を見た人々の多くは、勇凪が私腹を肥やしたのだ、と思うことだろう。だが実際のところ、数百年前ならともかく、現在の制度では研究資金を着服するのはほとんど不可能だろう。事務と手を組めばできるのかもしれないが、実行したという話は聞いたことがない。結局成果を上げなければいけないのだから、着服できるとしても雀の涙で、労力には合わないのだろう。

 テレビを消す。


 背の高い窓から漏れる陽は穏やかだ。苦労して起き上がり、窓へと寄る。十月、秋の空気が冬へと変わりつつあれば、窓を開ける気にはならなかった。病院の近くには国立公園があって、窓越しに見下ろせる。金曜なれば平日だったが、人の姿は少なくなかった。公園を行き交い、寝転び、フリスビーを投げ、犬と戯れる。家族と。自分はそうしてこなかったし、もし元気でもそうしなかっただろう。だが、こうして外に出られない身になってみると、あの風景が羨ましく感じる。


 午後、レイラニが見舞いに来た。

 彼女は筑波から、ほとんど毎日のように見舞いに来る。容体を確認して着替えを取りに来るのだというが、そう毎日来る必要はない。それでも彼女は来る。口には出さなかったが、それはありがたいことだった。

「ご飯食べたの? すごいじゃん」

 と今日の出来事を聞いたレイラニは手を合わせる。お腹切って、それなのに、もうご飯食べられるって、これ、すごいことだよ、ねっ、先生とか看護婦さんもそんなこと言ってなかった、回復力が早いとか、そんなこと、とレイラニは矢継ぎ早に言う。

 彼女は昨今の勇凪の研究分野や、ガンジス諸島の海水面変動のことをよく知らないだろう。夫の八尾は分野が違っても同じ研究者で、大部分を理解してくれているだろうが、彼女が理解してくれているかというとまた別の話だ。それに八尾はデリケートな部分は離さないだろう。せいぜい「テレビで研究者や研究費の横領の話がやっているので、さなちゃんもそういうことはしないように気をつけてね」と言う程度だろう。

 実際のところ、勇凪が気にしているような内容をレイラニは語らなかった。話題は勇凪の容体と、子どもの話に終始したからだ。


 レイラニの子どもが生まれたのは昨年だ。一度だけ見に行った。可愛がっている。レイラニも、八尾も。勇凪は誕生祝いにベビージムというものを買ってやった。メリーゴーランドとベッドが一緒になったようなものだ。喜ばれた。

 レイラニが帰ってひとりになっても、彼女のことを考えていた。自分もこんなふうになれただろうか。幸せに、穏やかに生きられただろうか。

 研究者になったのは、自分で目指したからだ。高校は理系クラスに入って、地球物理が学べる大学に入って、大学院に進学して、博士課程にも進んで、研究職に就いて——すべて、勇凪自身が決めたことだ。誰に指図されることなく、自分で選んだ道だった。

 だが最近とみに考える。自分は研究者には向いていなかったのではないか、と——いや、最近でもないか。何度も、何度も同じことを考えた。論文に、発表に、会議に、失敗するたびに思った。成功しても、迷った。


 研究というのは戦いだ。けして物語のように、ひとりでゆっくりと山を登っていくような行為ではない。狭い道を我先に争って進む戦いだ。

 あるいは、能力があれば違うのかもしれない。誰にも文句を言わせないだけの力があれば、孤独に、無欲に、ただ、ただ誰も傷つけず、傷つけられず、それだけで研究者として生きられるのかもしれない。だが勇凪はそうはなれなかった。資金を得るためには誰よりも先んじて計画を作り、成果を出さなければならず、発表や論文では相手をねじ伏せ、蹴落とす。そういうものだ。そういうものでなければ、やってはいけない。研究は戦いだ。今更、戦うのが厭だとはいっても、ほかに道はない。できることはないのだ。剣を握るしかない。戦うしかない。殺す気で立ち向かうしかない。そんなのは、向いていない。

 では、なぜそんな研究者を目指したのだろう。


 いや、違う。


 研究者が悪かったんじゃない。


 ただ、おれが——おれが駄目だっただけだ。何もなせなかった。自分のやりたいことがあったのに、それを達成できなかった。何もかも失敗した。

 だが、駄目なのは悪かったのだろうか?

 夜には何もすることがないので、夕食を食べたらさっさと寝てしまう。夕餉はすべて平らげることができた。ほとんど味がない食事は作業めいていたが、いくらかでも自分の機能が取り戻せている実感があれば、やり遂げられた。明日の昼からは少しメニューがまともなものになるという。


 眠ると、夢にレイラニが出てきた。まだ子どもで、海と同じ色の碧いパレオを着ていた。

「海が綺麗だね」

 とレイラニが言った。彼女は勇凪の家の——ガンジス諸島の実家の桟橋の上に立っていた。

「ずっと綺麗だと良いね」

 ともレイラニは言った。

 勇凪は彼女の海を守る騎士になりたかった。

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