04 魔王、姫に脱走される。

 執務室に戻った魔王は、アースに休みを与え、自分の仕事に取り掛かった。山ほどある書類の山から次々と手に取り、室内にペン先が紙の上を走る音だけが響く。


 しかし、屋敷内の異変を感じ取った魔王はペンを止めて顔を上げる。


「……ずいぶんと騒がしいな」


 魔王が目を伏せて耳を澄ませると、遠くの方からクスクスと笑う声が聞こえてきた。


『ほら、私の言う通りじゃない』

『まるで白いドレスがスズランのようね』

『何言ってるのよ? スズランのようなお淑やかさなんて微塵にもないじゃないの』


 まるで淑女達が小さな子どもを見ているような語らいに、魔王は立ち上がって窓を開けた。


 そこには中庭が広がっており、色とりどりの草花が咲き乱れている。その中でひと際目立つ一輪の白い花が見えた。


 花びらのように広がる真っ白なドレス。風に吹かれて揺れる銀色の髪、透明感のあるアイスブルーの瞳をした少女は小さな金魚鉢を抱えていた。


「ひぃっ! 揺れる! 水が零れる!」

「情けない声を上げないの! 多少水が減っても入れてあげるから!」


 そんな喧しいともいえるやり取りが聞こえ、魔王はそれを見てため息をついた。


 外に出ないように監視を置いたというのに、監視と一緒に外に出るなんて考えてもなかった。


 少々頭の痛みを覚えた魔王は窓から中庭に飛び降りて、二人の元へ足を向けた。


「何をやっている?」


 魔王が二人に声を掛けると、姫がこちらを向いた。

 彼女の腕の中にいるセイレーンがびくりと震えて、顔を青く染める。


「ま、魔王様!」

「セイレーン、お前は監視が仕事だろう? なぜ、姫が中庭にいるんだ?」


 咎めるように魔王が問うと、彼女は震える唇を必死に動かした。


「ご、ごめんなさいっ!」


 ようやく言葉を絞り出したセイレーンは金魚鉢の中で、小さく震える。それを見た姫は柳眉を逆立てて、魔王を睨む。


「何よ。この子は、ちゃんと監視の仕事をしてるでしょう?」

「何……?」


 魔王が眉間に皺を寄せて姫を見やると、彼女は胸を張って答えた。


「私は屋敷から出てもないし、悪さもしてない。それをずっとこの子は見張ってるの。ちゃんと働いてるでしょう?」


 なんて屁理屈だ。

 セイレーンを姫の部屋に置いたのは、部屋から抜け出した時に伝えるためだ。それなのに、金魚鉢ごと運び出すなんて考えてもいなかった。元々臆病な性格のセイレーンだ。それを逆手に取られた。


 魔王は苦虫を噛み潰したような顔をすると、彼女はそれを満足そうに見ていた。上手く言いくるめたとでも思っているのだろう。


 痛む頭を押さえたあと、魔王は平静を装って言った。


「とにかく、部屋に戻ってください」

「嫌よ。私はこの屋敷の探検をしたいの。そのぐらい良いでしょう?」


 つんっと言ってのける姫に、魔王は顔をひきつらせた。


「貴方は、ご自分の立場を分かっていないようですね?」


 彼女は人質だ。彼女の身の安全は魔王が全て握っている。ましてや彼女の祖国の命運も魔王が握っていた。脅しのつもりで魔王がそういうと、彼女は形の良い唇を持ち上げて、にんまりと笑った。


「あら、分かっていないのはどちらかしら?」

「は?」


 彼女の意図が分からず顔をしかめる魔王に、姫は抱えていた金魚鉢を高らかに持ち上げた。


「この子は人質よ」

「ちょっと待て」


 すでに人質を手に入れていた彼女は今日一番の笑顔を浮かべて言った。


「待つ必要なんてないわ。私は屋敷を出て行くつもりはないし、ただ屋敷を探検するだけよ? 人質で監視役は私の手中にいて、貴方は屋敷を探検する許可を出すだけ。答えはイエス以外に存在しないわ!」


 人が魔族を人質に取るなんて馬鹿げたことがあってたまるかと魔王は頭を抱えた。監視役から人質となったセイレーンがぷるぷると震えながら魔王を見つめていた。


「ま、魔王様ぁ! このお姫様は本気です! 助けてぇえええっ!」


 半べそかきながら助けを求めるセイレーンに魔王は呆れてため息をつく。

 セイレーンである彼女が本気を出せば、姫から逃げることも簡単にできる。臆病な性格なことは分かっていたが、まさか人間に怯えるとは思わなかった。


「魔王さまぁ!」

「セイレーン!」

「ぴゃいっ!」


 ぴーぴー泣くセイレーンに一喝すると、彼女は悲鳴のような返事をする。魔王は静かに口を開く。


「少し黙っていろ」


 魔王の言葉に、セイレーンは泣くのを必死に抑えて大人しく金魚鉢の中に入っていった。


「姫、部屋にお戻りください」

「嫌よ」


 頑なに首を横に振る姫に魔王は苛立ちを覚え、眉間に皺を寄せた。


「一体、何が目的ですか?」


 彼女の行動が全く理解できない。しかし、彼女がただ探検をしたいという理由で屋敷を出歩く許可を求めているわけではないだろう。


 彼女は魔王の言葉を聞くと不敵に笑った。


「本よ」

「本?」

「本が読みたいの。だから、本がたくさんある場所を教えて。それから本は自分で選びたいから敷地内を自由に出歩く権利を。多少の自由と読書することが私の目的よ」


 彼女の言葉に魔王は頬をひくつかせる。彼女の予想外の行動にもう言葉が出なかった。


 それは、多少の自由ではない。彼女にとって最大限の自由だ。

 本を読みたいからと言って、堂々と人質をとって魔王に直訴してくる根性に一周回って感動すらも覚える。


 天使のごとく笑みを浮かべて魔王の返答を待つ彼女は、間違いなく鬼だった。


「…………分かりました。考慮しましょう」


 散々悩んだ後、魔王は仕方なく頷いた。そう言った時、ぱっと姫の顔が輝いた。


「本当⁉」

「ええ……ただ、すぐにとはいきませんが」

「え……?」


 露骨に残念な顔をした姫はおもむろに金魚鉢を掲げた。


 コイツがどうなってもいいのかと、無言で訴えてくる姫に魔王は顔をひきつらせた。


 さすがに魔王もこれ以上、彼女に好き勝手させるわけにはいかない。


「貴方はご自分の立場だけでなく、この私が誰なのか分かっていないようですね?」


 魔王はにっこりと笑って踵を鳴らした後、姫の影を踏んだ。彼女の影に呪文が書き込まれていき、姫は目を見開いて体をのけ反らせようとする。しかし、彼女の体はぴくとも動かなかった。


「え、何⁉」


 そのまま魔王は姫の影を足で引き寄せると、姫の体も引き寄せられ、彼の胸にすっぽりと収まる。


 そして、彼女から金魚鉢も取り上げると、姫を小脇に抱える。


「強制連行です」

「キャーーーーッ! セクハラ! 乙女の体に気安く触らないで変態!」

「なんとでもどうぞ」


 魔王はようやく姫を部屋に連れ戻し、再び執務に戻るのだった。

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