おにと、かぞく
今いるところからほど近いある街に、吸血鬼が出たという噂が、彼女の耳に入りました。
その時少女の胸を焦がした思いは何という名前だったのでしょうか。喜悦か、安心か、殺意か、緊張か、待ち焦がれたディリーフとの再会は眼前に迫っているのでした。
「お父様」
一声目は何年も前から決めていました。
「久し振りだな、俺の可愛い娘」
そして、その返答も何年も前から知っていたもののようでした。
「本当に、美味しそうに育ったものだ。でも、俺をそう呼ぶってことは、食べられに来たわけではないんだろう?」
「ええ、私は貴方の家族になりに来ました」
「そりゃあ嬉しい。歓迎するよ、我が娘。瞬きするほどの間に随分育つもんだな、子どもってのは」
大きく広げられた腕の中は牢獄のようなのに、抗い難く甘やかで、少女はまるで吸い込まれるかのようにその場所に収まりました。
「貴方は、相変わらずですね」
こびり付いた死の匂いも、長い髪も、なにもかも。
私は、母さん譲りの金髪も、父さんから継いだ緑色の瞳も、妹と同じだった好きな食べ物も、あの時のままではいられなかったというのに。
「ディリーフ」
名前を呼ぶと彼は腕に力を込めて少女を抱きました。
「あれ、俺、君に名乗ったかな?」
「いいえ、お陰様で探すのに手間取りましたよ。お父様」
「あはは、ごめんねえ。そこまで気が回らなかったや。ああ、愛しい娘。俺はお前の名前も知らないね。名はなんと言う?」
ぐ、と唇を噛み締めて、絞り出すように答えを紡ぎ出します。
「…………ダロンドー。アレクシア・ダロンドーと申します」
『鬼に家族を食われた子』と『鬼』の奇妙な家族関係はそうして始まりました。家族のあたたかさは遠くのもの、想い出を棄ててでも生きることを選んだ少女と、家族など知らぬ故に無邪気とさえ言える穏やかさで彼女を誘った鬼。何ひとつとして噛み合わない二人は二人なりに二人で生きようともがいたのです
「アレクシアー? これ、お前の舌に合うかは分からないけど拾ってきたよ」
そう言って持ち帰ってきたのは不定形の化け物でした。少女はまるで幼き日のように家で本を読み、編み物をし、そして、化物を食べました。
「ディリーフ……?」
化物の大きさはどんどんと大きくなり、人の形をしたものも抵抗なくたいらげるようになっていきます。それをじいっと静かな瞳で見つめるディリーフに、少女は首を傾げました。
「……今は良くても、その徴はいずれ人の血を求めだすよ、アレクシア。お前は俺の子だから」
「そうしたら、私は貴方を殺して人に戻りますよ。……それでいいんでしょう?」
「うん。それでいい。お前は俺が死ぬまで俺の娘だけれど、その後まで縛られなくともいい。ただ、忠告しておくよ、アレクシア。あまりだらだらしないことだ。お前は今、幾つになる?」
「…………そうですね。四十になるのでしょうか。覚えていませんが」
「そうかい。アレクシア、鏡に映らなくなったのはいつからだい?」
「…………それも、覚えていませんよ。私は貴方の娘ですもの。吸血鬼の家に鏡なんて置いていないじゃないですか」
「俺が見た限り、お前は俺に名乗った時から姿形に変化がないよ。まあ、俺っていう親の欲目だからなあ、本当はちゃんと歳をとっているのかもしれないが」
そんな会話をして、しばらく経ったある日のことです。
「アレクシア」
「はい、おかえりなさい、ディリー…………」
その日、彼が持って帰ってきたのは化物ではありませんでした。人、人間の女。ああ、それは
「ん? お前と同じ年頃のヒトだよ。成長の具合を比べるのに丁度いいだろう?」
「彼女は、」かつての私の親友ではないですか?
「ん? そんなに外れてたか? ちゃんと確かめたぞ、何年の生まれですか、って」
的外れなことを言いながら首を傾げるディリーフには目もくれず、彼女はもう動かないかつての友人に縋りつきました。四十を超え、家族を持って、少女とは関係のない場所で幸福に死ぬはずだった彼女を。十で別れて、三十で別れて、でももう二度と会うことは、別れることだってできないのです。
「ああ、ああ……、私は、とうに人ではなかったのですね」
冷たくなった友の首筋に歯を立て、流れが止まった血液を吸い上げ、哀しみの涙を流す資格などないから、瞳を濡らすのはきっと歓喜からのものなのでした。そう、思わなければならないのです。それを、美味しいと思ったから、少女はここにいるのです。
「アレクシア……?」
何を察したのか、珍しく娘の機嫌を取るような慎重な声で鬼は呼びかけました。
「お父様。忠告してくださったのに、守れなくて申し訳ありません」
旧友の命の雫を吸い尽くし、ほろほろと崩れゆく骸を眺め、見送ってから彼女はそう言いました。
「俺を、殺すかい?」
柔らかで甘い、いつかと同じ。いっそ残酷な声色で鬼は問いかけます。
「……そう、ですね。人に戻れないとしても、私は貴方を殺さずにはいられない」
銀のナイフにも、神を表す十字架にも触れられなくなった彼女が鬼を殺す為に取れる手段は限られていて、彼は大人しくそれを受け入れて跪きました。
「さようなら、我が娘。お前が俺のようにならないことを祈っているよ」
熱い血を啜りながら、少女はただただ泣いていました。もう手遅れだというのに。
「さようなら、お父様」
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