第八話 『忌み子の翼 Ⅱ』
数十分後 要塞都市カレイド 大隧道前広場
やや間を置いて。
私たち二人はいったん猫じゃらし亭を辞し、カレイド最奥層の市街へと繰り出していた。
赤煉瓦と漆喰の街並みはややその表情を変え、どこか雑然とすらしていた風景は、整然とした計画都市の様相を呈するまでになっている。
肌に感じる雰囲気も、活気に溢れたそれから一転、穏やかなそれへとじわじわ変わりつつあった。
大隧道を前にして円形に広がるスペース。出入りする幌馬車たちの列を横目に、私たちは東屋の下、行きがけに買ったサンドイッチを頬張っている。
今度は仲良く(?)同じベンチに座って、だ。相も変わらず地べたか下座に座ろうとするサイだけれども、流石に人前でそれを黙認するわけにもいかない。
というか、この期に及んでも彼女は背中に巨大な槍斧をぶら下げている。下手すると彼女の身の丈二つ分くらいありそうな、それこそ、三国志に出てくる豪傑が振るっていそうなハルバード。
それが当然と思っているようなのでツッコミこそしないが……宿に置いてきても良かったろうに。
きっと大事なモノなのだろうと、一旦興味から外す。
とりあえず、サンドイッチを処理しなければ。
「酸味が強いね」
「ここらで買える出来合いは、大抵お弁当用ですから。道中で傷みにくいよう、酢と塩を多めに使っているそうです」
そうでなくても、今はポポマの季節ですから、とサイは続ける。
「ポポマ?」
「この時期に生る緑色の果物です。天然の酢を実の中に溜め込むので、夏場の料理によく使われるんですよ」
なるほど、旬の野菜が酸っぱいのなら、それを使ったサンドイッチが酸っぱいのも確かに道理。
というか、それってトマトじゃないのかね?……蓄えるのは酢酸じゃなくクエン酸だった気もするけれど。
トクサ芋といいポポマといい、どうにも食品名は翻訳されにくい傾向にあるらしい。脳内翻訳が効かない以上、似て非なるもの、と覚えておくのが良さそうだ。
「詳しいね」
「クライ様を導くにあたり、知識の譲渡を受けましたから」
今なら学者にだってなれそうです、と薄く微笑む。口元にパンくずがついていたので、そっと指の腹で払い落とした。
無抵抗で受け入れるあたり、どことなく子猫のような印象がある。学者という貫禄ではないなぁと、私は苦笑してみせた。
「それにしても、譲渡、ときたか」
「
神に呪われ、翼と多くの権能とを奪われたらしい月虹族。彼らに残った数少ない特質こそが、結界術の適性と
媒体を要することなく遍く同族との意思の疎通を可能とし、その気になれば知識や体感覚といった属人的な情報まで送信できる。
人生の半分ほどを情報化社会の中で過ごした私からすると、それだけでも十分すぎる力に見える。あらゆる局面において、情報の早さは戦力になり得るからだ。
「便利だね」
「……はい。とても」
どことなく苦笑の気配。
どうにも、彼女にはこの権能に対して何か思うところがありそうだった。
さて、そろそろ話を戻すとしようか。
「『
空中に手を広げて呼び出したのは、万年筆とノート一冊。養娘の奨めで買った、大判の白無地ノートだ。
「サイ」
「はい」
万年筆を手渡して、書き方を知っているかを問うてみる。
……ためらいなくハートマークを
「手始めに、月虹族の状況と歴史、それから『争紀』について教えて欲しい」
『争紀』。あの手帳にも記されていなかったこと。
何はともあれ、まずは目立った不明点から潰していきたい。
問われたサイは少しだけ考えるように首をかしげて、それから奇妙な問いを発した。
「『争いの世紀』ではなく、『争紀』、ですか?」
「うん? そのふたつは別物なのかい?」
「指しているものは同じですが、ニュアンスが少し」
私は『争紀』を争いの世紀の略語であると予想したが、どうにも意味が異なるらしい。
「例えば、この世界――シャンバラの歴史を一本の帯とすると」
しゃしゃっと二本の線を引き、それを幾本かの横線で区切ってゆく。気がつけば、いびつな縞模様が仕上がっていた。
「世界の情勢は、このように二種類の層が交互に並ぶようにして推移していきます」
言わんとすることはだいたい分かる。そも、解説を求めた事項が事項だからね。
「平和な時代と、戦乱の時代、だね?」
「はい」
サイが頷く。
「そもそもの話、シャンバラでは主の許可なしに戦争をすることが許されていません。シャンバラ全域が、主の啓示に従って一斉に戦時へと移行するんです」
「それはまた、随分スケールの大きな話だ」
管理された戦争、ということは、何かしら目的があって神サマはそう仕向けたはずだ。
――『汝が人と認むるモノを、力の限り救うべし』。
異世界人に誰かを救えと願うような彼のことだ。まさか無意味にそうしたことはあるまい。
そう考える私をよそに、サイは黒い区間を囲うよう、大きな括弧をきれいに描く。
「この黒い部分ひとつひとつが、『争いの世紀』となります」
「神によって戦争を許可された期間、か」
「はい。そして、今お尋ねになった『争紀』というのが」
かりかりと、黒い区間の左端に矢印を書き加えてゆく。
「この時点、争いの世紀が始まる瞬間決定される、『あと何年、争いの世紀が継続するか』という残り時間のことを指しているんです」
「……ふー、む?」
一瞬では理解しがたい。
とりあえず、手帳を呼び出し確認してみる。
(今日のページを呼び出そう)
念じつつページを繰ると、『純歴二〇五五年 争紀三五年 竜の月 一一』と書かれた部分が現れた。
(一年後はどうだ)
本来の手帳であれば存在しないページだが、念のために呼びかけてみる。
ぱらぱらとページが不自然に走り始めて、やがて、純歴二〇五六年のページが示された。
書き込まれた争紀の数字は、
「なるほど、カウントダウン形式なのか」
「かうんと……?」
「ああ、ごめん。年号とは逆に、一年ごとに数が減っていく暦なのだね」
「はい、そうなります」
であれば、さらに三四年先に進めてみればどうなるか。
(三四年後のページを見せてくれないか)
ひとりでに紙がめくれて――白紙のページが飛び込んできた。
「白紙……?」
「おそらく、シャンバラが滅ぶせいです」
いぶかる私に、隣で見ていたサイが零した。
「主は私たちに、“
万年筆を静かに置いて、こちらの方をじっと見つめる。
「それが意味するところはつまり、」
――貴方が救ってくださらなければ、シャンバラは滅ぶということです。
そう、おずおずとサイは続けた。
「手帳クン、白紙ではない最後のページを」
呼びかけると、『純歴二〇五七年 争紀三三年 竜の月 七』のページが。
時間は変わらず流れるが、シャンバラに訪れた日からきっかり二年後、この世の暦は意味を失う。
つまりは――そういうことだ。
「ふむ」
一呼吸、東屋の天井を見て息をつく。
「『汝は争紀を、在るべき形に正すべし』、か」
……なるほどなぁ。
「責任重大だね」
「……」
返した私の言葉に対して、サイが小さく瞬きをした。
それはどこか意外そうな、奇妙なものでも見たかのような反応で。
「うん? どうしたのかね、きょとんとして」
「とても、自然体だったので」
自然体。……自然体か。
「人の命を預かることには、慣れてるからねぇ」
「過酷な世界にいらっしゃったのですね」
「いいや」
私の否定に、怪訝そうな顔をするサイ。
私の本来生きていた――ああ、まだるっこしいな。いっそのこと、『本来世界』と少し縮めてしまおうか――世界がシャンバラより過酷であったとは、私には思えなかった。
文明は大きく進歩し、発達した医学によって命を落とす者は減り、
そんな世界を、過酷であるとは評せなかった。
けれども、たとえそんな世界であっても、働けなければ食い詰めて死ぬ。
もしも事業に失敗すれば、『リデンテックス』社員たちは職を失う。よって立つ業界の性質上、事業が成長し続けなければ、株主たちは黙っていない。
成果、成長、進歩に対する飽くなき期待。それだけでなく、清廉さや付加価値としての社会貢献まで求められるのだ。
読みを違えてこれらを大きく裏切れば、全てはドライに
そんな世界で、私は『専務』として生きてきたのだ。多くの命をその身に背負い続けていたのと、なにが違うというのだろうか。
「ただ、そういう立場に有ったというだけのことだよ」
多くを語る意味はない。
サイはシャンバラに生きる
「そう、ですか」
それを分かっているからなのか、サイも深入りしようとはしない。
「でも」
「うん?」
「そういう方だからこそ、主はあなたをここへと招かれたのだと思います」
――ただ、その表情はどことなく不満げだった。
喧噪。
少しの間、私たちは黙したままにサンドイッチを片付けていく。
「私は、サイに出会えたことを誇りに思うよ」
ふっと零した一言に、「むごっ」と鈍い応えがあった。
隣を見ると、口を押さえてどんどんと胸元を叩くサイの姿が。
咽せたのか。
「失礼、驚かせたかな」
「こほ、けほっ……いえ、大丈夫です」
「水、飲むかい?」
「ありがとうございます」
ごっくごっく。
手渡された水筒を大きく傾け、勢いよく中の水を飲み下してゆく。
背中をさするのは――いや、やめておこう。
「聞いてくれるかい?」
返事はない。けれども、ちゃぷんと水筒を元に戻す音が聞こえた。
「出会ったとき、君は確かに『月虹族は滅んだ』と言ったね」
「はい。私が氏族の解散を命じ、月虹族を滅ぼしました」
「そこだ」
彼女の言葉に、私は頷く。
「君が望むなら、きっと月虹族としての役目を誰かに負わせることができただろう。でも、君はそれをしなかった」
「それは、」
「いや、理由はいいんだ。どんなものであれ、その選択に悪意は見えない」
だからこそ、と続ける。
「誰かを想い、自分の選択で何かを終わらせることが出来る。
そういう君と、一番に出会えたことを私は誇りに思うんだ」
言動から垣間見える主への敬愛、そして負った使命に対する責任感は相当なモノ。
それを以てなお、サイは月虹族の仲間たちを、そのくびきから解き放った。それは、己の価値観だけを至上としない、公平で清らかな心があることの証左になるだろう。
なるほど確かに、神サマの人選は的確だ。逆に言えば、彼女――あるいはその先代たち――以外には、任せることが出来なかったのだろう。
そのおかげで、極度に偏った情報提供を受けることは避けられたのだ。
無論、私自身の色眼鏡は危惧すべきだが……実際の所、コレばっかりは仕方がないと感じるところだ。
人間は、機械のようにはなれないのだから。
ただ、疑問は残る。
「どうして
思い出す。呪われた種族であると告白し、晒された翼の残滓を。
神に選ばれ、この世界の案内人となった月虹族たち。その一方で、彼らは神に呪われ、地に縛られた忌み子だという。
それは、衝撃故に少しだけ先延ばしにしてしまった、先のやりとりの再開であった。
簡単な話です、とサイはわずかに目を伏せた。
「この世界では、神と民、そして世界を縛る約束事が存在します。
……私たちは、それを破ってしまったのです」
「一体どんな?」
「『争うべからず』」
「……あぁ」
「私たち月虹族、その祖に当たる血族は、
おそらく、彼らは負けたのだ。そして、
迫害の理由も、なんとなくだが察せてしまう。
この世界には、きっと当時の歴史が残っているのだ。
あるいは、散逸した歴史をその根本とした、ある種の
「主は仰いました。クライ様を迎え、導くことで罪を贖うことが出来ると」
そう零すサイの姿は、どこか説法を施すシスターのよう。
いや、事実神の言葉を伝えているのだ。本質にさしたる違いはないはずだ。
「それは、私と一緒に『争いの世紀』に介入するということかい?」
――ただ、意図するところが物騒であるだけの話。
「はい。そのための
ぽんぽんと、布に巻かれた槍斧を叩いてみせる。槍斧をかけたホルダーが、きしり、とやや苦しげに軋んだ。
そうか、と納得。
「だから肌身離さず持っていたのか」
「はい。個人的な事情ですから、お話しするのもどうかと思って」
「なるほどねぇ」
貴重品はお手元に、っていうからね。至宝というに、貴重どころではなさそうだけれど。
「……うん。期待しているよ」
「はい、お任せください!」
ホルダーを元に戻しつ、そう言ってサイは笑った。
閑話休題。
何はともあれ、彼女にまつわる不穏な事実については、これで片付いたとみていいだろう。
概要さえ分かれば十分。無理矢理に掘り下げるよりは、この先の予定の話をした方がいい。
「とりあえず、散ってしまった月虹族を集めることになるが」
「はい」
「何か当てはあるのかい?」
先ほど風呂を頂いたとき、ライちゃんとサイとが話していたのを確認している。
その時に何かしらの情報交換があったとみるべきなのだろうけど――
「この街に、他の月虹族は居ないみたいです」
どうやら早々に、ここに滞在する意味は潰えたらしい。
「モァンたちは、怪我したライをここに預けて大隧道を抜けたらしくて」
「モァン?」
「弟です。一応、義理のですけど」
とにかく、とサイが無理矢理話を戻す。含みがあったし、あまり積極的に話したくないことなのだろう。
「旅の疲れは大敵です。二、三日休養しながら準備を整えて、
「あー……たびたびオウム返しですまない、その、クヴァラナーダとは何かね?」
「……あっ」
うん。一般常識なんてそんなもんだよね。
とりあえず、今後も分からないことは適宜聞き返していくべきだろう。
わざわざ教えなきゃいけないなんてこと、普通は思い至らないから。
「衛都クヴァラとは、
落ち着こうか。
とりあえずサイをなだめて、もう一度無地のノートを取り出した。紙の上に図示してもらって、ゆっくりと教えてもらうことにする。
で、まとめた結果が以下の通りというわけだ。
カリア・ケロス連合王国は、
この国は、二つの
そして
……とまあ、ここまでは一般常識の範疇。多分、手帳クンに聞いてもよかった内容だろう。
そしてここからが、サイがクヴァラを目指そうとする理由になる。
「クヴァラには、アリーシャ殿下……私たちが保護を求めようとした方が居るのです」
アリーシャ・ル・カリアケルス。
人族と竜人族との混血にして、カリア・ケロス連合王国、その第一王女であらせられるらしい。
「別れ際、モァンには言伝を頼んでいました。王女殿下に、私たち月虹族は滅んだと伝えてほしい、と。
「そういうことも分かるのか」
「近辺の街だとか、そういう範囲でしたら。モァンたちは覚醒していませんから、分かるのは生死くらいですけど」
ともかく、と続ける。
「慈悲深いお方ですから、そう言わなければ、きっと私たちを助けるためにかなりの衛士を差し向けるでしょう。……いま、不用意に帝国と渡り合うのは危険です」
「争いの世紀、だものな」
詳説されなくても分かる。
領土の外側――帝国に向けて、王国が兵力を出す。
それはみすみす、あちら側に大義名分を与えてしまうようなものだ。
衝突が起こるにしても、帝国側はあくまで傭兵、一方で王国側は、王女率いる正規の衛士。
帝国の戦略次第だろうけど、まあ、言いがかりをつけるにはもってこいの関係性だ。
「もしもきちんと伝わったなら、モァンたちは今頃、殿下のもとにいるはずです」
「そこに後から合流する、と」
「はい。そのまま、クライ様も傘下に入って頂くことになります」
「それも、神サマが?」
問うと、いいえ、と首を横に振る。
「これは私の判断です」
「理由を聞いても?」
「……えっと」
どうしてか、少しサイが恥ずかしげにする。
いじけるように両の手指をつんつん合わせて、おもむろに口を開いた。
「
“帝国”に抗しえ、かつわずかでも月虹族を受け入れてくれる素地を持つ国家というのは、存外に少ないという。
その数少ない国の中、一番近いところが
運がいいのか悪いのか。……まぁ、多分この位置関係も神サマの計画のうちなのだろう。
「そうか」
神サマも呪ったり助けたり忙しいな。
内心で皮肉を零すと、手帳クンがスパンと少し荒めに閉じた。
抗議のつもりなのだろう。元は私の物なんだから、乱暴にしないでほしい。
――
「では、お昼も終えたところで、見物がてら買い出しにでも行くとしようか」
「はい、そうしましょう!」
そう言って立ち上がるサイ。そういえば、出会ったときより表情も柔らかくなった気がする。
まあ、私が慣れたのもあるんだけども。
とまれ、なんだかんだで新しい街というのは楽しいものだ。市街地でのショッピングは、海外旅行の醍醐味の一つと言っても過言じゃない。
折角だから、サイに色々教えてもらって市場調査でもするとしよう。……ビジネスマンたるもの、商機を見いだすアンテナはしっかり張っておくべきだ。
と、考えた時。
「む?」
――がらんがらんと、大きな鐘の声が響いた。
いや、その表現ではいささかながら不十分だろう。
鐘の音はただ時を告げるそれとは異なり、荘厳で複雑な旋律を奏でているのだ。
「へぇ、カリヨンか」
あるとは思っていなかっただけに、この感動はちょっと大きい。
本来世界のそれと比べて、シャンバラは技術水準がかなり低めだ。だから文化に対する期待値も、それに比例して低めだったというわけで。
けれどもこの組み鐘音楽を聴く限り、それなりに発展していそうな気がすると、私はシャンバラに対する認識を改めていた。
中世に毛の生えたレベルかと踏んでいたけど、これは近世くらいに上方修正しておかないと。
まあ、考えてみれば納得は出来る。そもそもこの世界、『争いの世紀』以外は戦争なんて出来ないのだから。それはすなわち、文化が逸失する要因自体が少ないワケで。
まして、平和な間ただ惰眠をむさぼるということはなかろう。指導者はみな、国を肥やし、人を増やし、次の戦に備えるはずだ。そんな状態、文化が爛熟しないはずがないのだ。
(旅のしがいがありそうだ)
そう、内心で舌なめずりする。
この
だが一方で。
「……嘘」
傍らからは、打って変わって悲しげな声。
見ると、サイの顔が酷く青ざめてしまっていた。
「
ありがとう翻訳さん。
だがそのニュアンスは知りたくなかった。私の感動を返して。
天を仰ぎたくなる気持ちを抑えて、にわかに騒がしくなった大隧道の方を見やった。
ここに来た折、サイはこう解説してくれていた。
曰く、カレイドの大隧道は、それそのものが巨大な結界術式であると。
内壁が、両端に開く入り口が、それぞれ独立した結界術で維持されているらしいのだ。
何を隠そう、私たちも似たようなモノは経験済みだ。帝国側の城門にすら、隧道の入り口と同じ術式が施されていたのだから。
仕組みは単純。
特定の手形を持たずに結界をすり抜けることは出来ない……そういう壁だ。
この術式が解除される理由はふたつ。
ひとつは天災。
手形を配る余裕などなく、やむなく術を打ち消す場合。
他方は、戦争。
術式の鍵が切り替わるたび手形を配り直すのは、あまりに不合理。ゆえに、王族貴族、衛士士官の要請によって術式を止める場合だ。
その結界が――今まさに、一人の男に解除されようとしていたのだった。
しゃらん、と小さく鈴の音。
紫色のローブに細い身体を包み、下男らしき従者を連れた一人の男。いかにも魔術師然とした彼が、長杖の石突を突き立てたのだ。
『御床に仰ぎ奉る――』
杖をもたげて
一節区切りがつくたびに、杖に連なる鈴が鳴き、結界文様が解かれてゆく。なるほど、この文様こそが『鍵』であるのかと、なんとなくだが思い至る。
『恐み恐み申す――』
呪句を詠み終え、ふらりとよろめくローブの男。すかさずそばに控えたふたりが、彼を支えて門の脇へと運んでいった。
しばしの静寂。完全に解きほぐされた文様は、もはや窓か何かの飾り枠のようにも見えて。
ふと、高らかな角笛の声が聞こえた。
「……ふむ」
角笛の後に現れたのは、鮮烈な紅。
その正体は、整然と行進する衛士たちの一団だった。
帯状の唐草文を紅く染め抜く軍服と、金で縁取り、銀灰色に塗装された胴鎧とを身につけた武装集団。一糸乱れぬ洗練された歩みからして、念入りに訓練を施されたのが一目で分かる。
それが、大勢。小隊だとか中隊だとか、そんな半端な単位では決してなかった。
「旅団旗……」
サイが呟く。
中和された壁の中から、黒い十字で彩られた真っ赤な旗が現れた瞬間のことだ。
「クヴァラの衛士の半分が、ここに来たことになります」
「それは、多いね」
翻訳さんはサイの言葉を旅団と示した。ということは、おそらく数千人規模の部隊なのだろう。
……これはもう、買い出しなんてのんきなことを言っている場合じゃないな。
「一旦帰ろう」
「はい。……これではバザーも閉まってしまいます」
応えるサイは、ひどく憮然とした表情。
「そう腐しちゃいけない」
「わぷっ」
とりあえず、わしゃわしゃと雪色の髪をかき混ぜてみた。
「ううう、やめ、やめてください……」
撫でられるのに慣れてないのか、はたまた満更でもなかったのか、無抵抗で言葉の上だけ抗議する。
やっぱりちょっと猫じみてるな。反撃はしてこないけど。
「折角可愛い顔なんだから」
「……可愛くなんかないです」
「そう言うな」
でも、納得いかない気持ちは分かる。
彼女はこれをを防ぐがために、
「思うところはあるだろうけど、ここで睨んでいても仕方がないよ」
これだけ大規模に衛士たちを差し向けたのだ。住民感情に配慮する指揮官ならば、いずれ街へも大きく触れを出すだろう。
それを以て、情勢と真意とを確認すれば足りること。
彼女もそれを分かっているのか、右手の下でこくりと頷く気配があった。
「クライ様がそう仰るなら」
……素直じゃないなぁ。
ともあれ、だ。
まずはこの先起こるであろう渋滞に巻き込まれぬよう、猫じゃらし亭に戻るべきだろう。
そう思い、私たちは紅色の軍勢たちに背を向けた。
◆
今にして思えば。
それはある意味最善で――だからこそ、正解ではない選択だったと断言できよう。
少なくとも、あの瞬間に旅団を追って、その真意を確かめようと試みていれば、後に起こる一連の騒動はほぼ確実に避けられたからだ。
何はともあれ、その日の晩に。
『偉大なる王女殿下の御名にて告示す』
『カレイドに在る
この触れを受けた瞬間、私は嫌な予感を覚えた。
それは――ああ、マズったかもしれないという、ビジネスマンの直感だった。
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