¶-Alicia 『竜人族の王女/嘆息するもの』
????? ジンの手記 大陸語訳 抜粋
ボクが『月狩り』の名を冠してから、一体どれほど過ぎただろうか。
戦勝祭というものも、一月と続いてしまえばそろそろ飽きる。そも、ボクはハナから参加する気が無いのだけれど。
さて、あまりに長い祭のついでに、ボクは一つ、この本に仕掛けを遺してみることにした。読み解かれれば『歴史』が変わる、期限未定の■■■■だ。
最後まで読み解かれる前に、焼かれちゃう気もするけどね。それはまあ、ボクがあえて家名を付さないことで避けるとしようか。運が良ければ、酔狂な一人の戯曲家が書いた、乱雑な習作とでも言われるだろう。……存外、その方が平和に終わるのかもしれないしね。
さて、ここまで読んでくれたのは、これから生まれるボクたちの子の子孫かな、それとも、■■からの
それが誰でもいいけれど、ボクが言いたいことはたったひとつだ。
ただ、それだけ。
◆
カリア・ケロス連合王国 北西部
この王国では、逆らってはならないモノが三つある。
ひとつは母親。
己を生み、乳を与えて育んだ強い命を、無碍にするなどあってはならない。
ひとつは先人。
生まれ落ち、何をも為せぬ己を鍛えた強い心を、踏みにじるなどあってはならない。
そして最後は――
「こぉおら、ラッツ! ちょこまか逃げずに私の本を返しなさいッ!」
延々続く回廊を、男の背中、軍服――紅色に唐草文を染め抜く長衣を纏う
当の獣人族はといえば、鼠型の頭部を小刻みに振り回しつつ、走りながら逃げ込む先を探索していた。
「殿下、ここでは
当然ながら、逃げ場はない。もとよりここは軍事施設だ。壁の隙間、柱のアラが見当たるようなそこらのあばら屋とはワケが違った。
だが、ラッツの強いバリトンボイスは、それでいてなお諦念を欠片も見せない余裕なそれで。
「今日こそはこのご本を没収いたします、いい加減絵空事に現を抜かさず生きてくだされ――」
逃げ切れるし、もっと言うなら傷つきもしない――そう言外に侮られる気配を感じて、私はカチンときてしまう。
「言いましたね! 今日という今日はレア程度では済みませんよ、覚悟なさいっ」
そう。
どうして私が、城の中をドレスと髪とを振り乱しつつ走っているのか。
その理由は、ラッツの胸に抱えられた本にこそある。
まあ、有り体に言うとだ。……私は、彼におもちゃを取り上げられた格好なのだ。
「承服いたしかねます! 今までも十分レアどころの火力では、」
「問答無用ッ、『血令』――」
一声吼えて、胸元から一本の棒きれを出す。
根元に大きなルビーの埋まった、クリスタル製の短杖だ。ルビーにも、杖自体にも、内側に複雑怪奇な刻印が施されている。
すぅっ、と一息。
全身を巡る血潮の流れを意識して、それをわずかに、手に持つ柄に流し込むさまを想起する。
刹那、刻印が水門を開け放たれた水路のごとく紅に満たされ、
「『閃』ッ」
「しまっ……ぐわーっ!?」
たった一言。
至極短い呪句と同時に、ラッツの背中は爆轟に蹴り飛ばされた。
この王国では、逆らってはならないモノが三つある。
ひとつは母親。
ひとつは先人。
そして最後は――怒れる
まあ、竜人族がそもそも短気だという話だけれど。
さて。
「うぇ」
息を整え、それから続いたわずかな吐き気に、私は小さくえづいてみせた。
原因は分かっている。
「焦げくさ」
白亜にめり込むラッツの身体が、プスプスくすぶる臭いのせいだ。
ただまぁ、脈拍は
遠くから慌ただしい足音が聞こえてくるから、そう間を置かず治癒士がここに来るはずだ。ちょっとよく焼けた程度であれば、数分もあれば治せるし。
とりあえず、壁の中にめり込んでいては体面が悪い。
「よいしょ、っと」
ずぼっ。
ほんのり熱いラッツの身体を壁から剥がして、廊下の上に横たえる。そのまま、彼が壁に打ち込まれてなお大事に抱えた本を奪還。手の中にずっしりとした重みを感じて、ようやく私は人心地つく。
題名の箔押しも、留め金や背バンドもない特殊な装丁。
経年劣化でわずかにたわみ、小口部分もうっすら黄色くなっている。けれども、傷んでいるというほどではない。
装丁に使われた素材でさえも、革でなく、布ですらない異様なそれで。
極めつけには――厚みと比して圧倒的に頁が多い。めくれどめくれど、本の末尾に至らないのだ。
異様に丈夫で、素材が不明で、内容がやたらと多い。……総じて奇妙な本だというのが、この本を知る者たちの見解だった。
製造時に魔術を編まれた本というのは、確かにかなり貴重なものだ。だがその価値も、好事家の持ち物を漁ってみれば稀に見られる程度のそれで。
それだけであれば、何もこうして私が取り返すまでのことはなかった。
「中身は……うん、焼けてない」
問題は中身の方だ。
まぁ、これだけ妙な要素を併せ持った本なのだから、中身もまた奇妙であるのは当然だろう。
ただ、この本はそれが飛び抜けていた。
「相変わらず、何書いてるのかさっぱりね」
開かれたのは、未だに線引きや付箋が一つも為されていない、
几帳面に角張った、紋章にも似た硬い文字。
対称的にまろやかな、まるで紐で編まれたようなやわらかい文字。
これら二つが組み合わさった、自分たちの用いるものとは全く違う言語の文が綴られている。
文字も含めて全くでたらめ、というわけではない。なぜなら、十分に整合性ある文法が、冒頭部に執拗なまでに明示されていたからだ。
加えて、もうひとつ。
「まったく……始祖様も、どうしてこんなものを遺されたのか」
パラパラとめくった先の、最序盤。扉頁と称すべき場所に書かれた、ジンという名に目を落とす。
ジン・ル・カリアケルス。
著者として明記された人物の名は、カリアケルス家の始祖の名前と一致する。
そういうわけで、ここ最近のライフワークは、この本の解読を進めることと相成っていた。
……まあ、それに没頭するせいで、ラッツにまで厭われているのだけれど。
「それで、ラッツ」
「……はい、何でしょうか、殿下」
燻る鼠男から、ややしゃがれた声。私の魔法を受けたとき、熱気を吸ってしまったらしい。
「
「伝令を出しております。……ただ」
「ただ?」
「もし本当に“帝国”が動いているというのなら、いささか遅きに失しているかと」
「間に合わないと?」
「ええ。……お覚悟が、必要かと存じます」
未だ細かく煙を上げつつ、ラッツは語る。
「
「いいわ、ありがとう」
みなまでは言わせない。それ以上聞いたら、今度は本当に消し炭にしてしまいかねない。
彼を制したその瞬間、衛士たちと妖精族の治癒士がひとりやってくる。
「上佐!……失礼します、『萌ゆる肉、湧き出ずる鉄、我願う快癒の秘蹟』ッ」
ボロボロのラッツを見るや、妖精族の少女は私の方をキッと一瞥、すぐに治療に取りかかる。
ああ、これはひどく嫌われてるなぁ。……そう思いつつ、私は『王女』の仮面を被る。
「慕われていますね、
「……滅相もございません」
「今後一月、書室に入ることを禁じます。これは命令です」
「は。寛大な処置、痛み入ります」
治癒を受けつつ、膝をつくラッツ。傍らの少女がいやに苛立つ気配がするが、受け流す。
私はアリーシャ。アリーシャ・ル・カリアケルス。栄えあるカリア・ケロス連合王国の第一王女だ。
多少部下に嫌われてしまったところで、くよくよ悩んでいてはいけない。
「では、伝令が戻り次第連絡しなさい。……即応部隊の準備はとうに出来ていますね?」
「抜かりなく」
「そう。では私は」
執務に戻ります――そう、続けるべく口を開いた瞬間だった。
『通してくれ! ボクらはアリーシャ王女に会わなきゃいけないッ』
遠くクヴァラの門前で、甲高い声が発されるのを聴いてしまった。
「殿下?」
「静かに」
ラッツを鎮めて、耳を澄ます。いかな竜人族の耳とは言っても、至近で声を発されては聞き取りづらい。
どうやら、西門側で押し問答が行われているらしい。……大方、入城理由を問われて引っかかったクチなのだろう。
王族すらも出入りする大都市のひとつ、衛都クヴァラ。当然、そこに怪しいものを入城させるわけにはいかない。身だしなみが乱れていたり、流行病を思わせるほど異様な疲れを見せていたり、そういった理由でも堰き止められる街なのだ。
『大人しくしろ! 貴様らのような浮浪児を通すわけにはいかん』
『ダメだ! 急がないと、急がないといけないんだッ』
門方面から聞こえてくるのは、門衛らしき太い声と、明らかに疲労がにじむ、少年らしき甲高い声。
もみ合いもみ合い、どうにかして門の中へと向かおうとするのがありありと分かる音が続いた。……同時、激しく打擲される音。
『この、こいつ!?』
『いくらでも打て! それくらい、気にするもんかっ』
『くっそ、……おい、誰か応援を呼べ! 思ったより強い!』
ここまで事を急ぐのだ。門衛に突っぱねられてしまう前に拾った方がいいかもしれない。
……特に、
「ラッツ、西門に、」
言いかけた途端、盛大に魔術が突き刺さる音。
……門衛が、電撃の魔導具を持ち出したらしい。どう、とひとりが大地に倒れる音が聞こえた。捕らえろ、だの、畜生、だのと門衛たちが悪態をつく声もする。
倒れた誰かが、鉄鎖で縛り上げられる音。そうせざるを得ないほどには、強いと判断されたらしい。
『文句は詰め所で聞こう。もっとも、まずは十分懲罰を受けてからだが』
『そうか。それなら』
弱り切った少年の声は、それでも言葉を紡いでみせる。まるで、使命感に突き動かされているかのように。
どことなく既視感を覚え、その正体に行き着くより、先。
『――“
「ッ!?」
続いた言葉に、私は思わず呼吸を止める。胸に抱いた本の留め具が、握力に耐えかねてきしりと呻いた。
――『
やっとの思いで解読せしめた冒頭部分を思い出す。
『ボクたちを通せないならそれでもいい。そう、第一王女様に伝えてくれ』
お願いだ、と絞り出すような言葉が続く。
『それが、
もう、限界だった。
「殿下!?」
「『血令』――」
誰もが驚愕の表情を浮かべる中、私は回廊の西側の壁へ短杖を向け、
「『閃』!」
爆轟の中、外の世界へ飛び込んだ。
◆
カリア・ケロス連合王国 北西部
砂礫、衝撃、次いで叫声。
まあ、当然だとは思う。いきなり空から少女がひとり飛び込んできたら、誰だって驚くだろう。
それが、国民に広く知られた
でも、今はそれどころじゃない。
「答えなさい」
詰問しながら、水晶の杖を突きつける。その鋒には、鉄鎖に縛られ、立ち尽くす少年の姿があった。
白銀の髪に紅い両眼。……思った通り、月虹族だ。
幼い。おそらくは、未だ性の
そんな少年が、こうも諦念にまみれた顔をするのかと、哀れにも思う。
――でも、今はそれどころじゃない。
「……何を?」
「今、零した名を持つ
サイ。
月虹族において、意味を持つ名を備えたものは多くない。それが、自分もよく知る響きであるならなおのこと。
「サイ?」
「ええ、そう」
既に周囲は
ならば、今ここで問わねばならない。
『
『それが、サイの願いだから』。
二つの言葉が、何を意味しているのかを。
「サイは、」
応えによっては。
「いま、どこに居るの?」
――帝国と事を構えることも辞せないのだから。
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