第二十九話 つま先
馬車は順調に歩を進めた。俺とハルが交代で空から先導すれば、道に迷う事も、盗賊や大きな獣に遭遇する事もなく、野営に適した場所も見つけやすい。
天気の変化も風が教えてくれるし、美味しい果物も枝ごと運んで来られる。想定外の出来事といえば、夕立のあとのぬかるみに、馬車の車輪が嵌まり込んでしまった事くらいだ。
「いやー! 鳥の人良いね! 空飛べるってやっぱ羨ましいなぁ!」
クルミが、イチジクによく似た果物を頬張りながら言った。ハナが無言でコクコクと頷いた。クルミの言葉に同意しているのか、イチジクウマイの意味なのか、定かではない。
クルミは英雄の神殿が近づくにつれ、黙って考え込んでいる事が増えた。ぴーさんにワクチンを打ってもらうかどうか、思い悩んでいるのだろう。
ナナミに骨格が耳なしに一番近い獣の人を、尋ねたりもしていた。
パスティア・ラカーナには、類人猿の人はいない。ぴーさんにさんのいた時代に、獣化ウィルスによって絶滅してしまったらしい。
バレリーナにとって、つま先を失うのは、俺が考えるより重大な事なのだろう。
「鳥の人になれば、ヒュールーとも、話せるようになるんだよねぇ……」
「クルミ、急いで答えを出す必要はないぞ。ぴーさんに会って、話を聞いてからでも遅くないだろう?」
「うん、おじさま、わかってる。わかってるけど……」
「クルミねーたんのあしが、ピンってのびて、ふわぁーってあがるの、しゅごい。
「ありがとうハナ。ねーたんも、ハナのお耳とお尻尾、
ハナの尻尾にスリスリと頬擦りをする。
「
……だよなぁ。家族全員で転移した俺たちでも、諦め切れない事も多い。家族や幼い頃からの夢を、地球に置いてきたクルミ。全て断ち切って、獣の人となる決断は、出来るものではない。
だからと言って、ワクチンを打ってしまえば、地球に帰れなかった場合、一生この地で異形の異邦人として暮らさなければならない。
「クルミ、泣くな。俺がなんとかしてやる。一生掛けて、帰る方法を一緒に探そう。ダメでも、俺がいる。クルミはそのままでいい」
「「「「えっ??」」」」
全員が振り返った。昼間の疲れでウトウトと船を漕いでいたハルまで、パッチリと目を開けた。
今の声はアンガーか?
「えっ……と……ずっと一緒? って……」
クルミがびっくりした顔をして、目を泳がせる。
コレ、俺がちゃんと訳して伝えてやった方が良いのか? 余計なお世話か?
ナナミがクルミに、こしょこしょと耳打ちする。途端にクルミの顔が真っ赤に染まっていく。
クルミはもうすぐ十四歳、アンガーは二十歳。日本の常識だと犯罪だが、パスティア・ラカーナなら
「アンガー、クルミはまだ子供だ。あと三年は自重しろ」
爺さんが、腕を組んで言った。尻尾がピンピンと跳ねている。冷静に見えるが動揺しているらしい。
「三年か。わかった」
素直に頷くアンガー。こいつの、こういうトコロ、ほんと可愛いんだよな。
「ガー(アンガーのこと)、ねーたん、
「ヤー(肯定の意)、ダイスキだ」
日本語で言った。
ナナミが俺の背中をバシバシと叩く。『きゃー』っと声を出さずに口をパクパクさせている。
「あ、あの……! 私、もう……寝るね!!」
クルミが立ち上がり、赤い顔のまま、あたふたと馬車に向かって走って行く。どうやらキャパオーバーらしい。
俺たちがいない間、大岩の家でも色々あったんだろうな。
「ハナ、私たちもそろそろ寝よう!」
ナナミがハナを抱き上げて、クルミの後を追う。
「あーたん(ナナミのこと)、ハナちゃん、まだイチジク食べてるよ! 歯もみがいてないよ!」
「いーからいーから。お休みなさいーい!」
ナナミがいて良かった。俺では、なんと声をかけて良いやら、さっぱりわからん。
「今日の夜番はハザンですよね? 私たちは、少し呑みましょうか」
ロレンが物入れから、果実酒を取り出す。梅に似た酸っぱい果物で、初心者でも呑みやすい。
「ああ、風も、月も、良い夜だ」
爺さんが
「ぼくもちょっと飲んでみたい!」
ハルが自分のコップを差し出した。
「「ハルは成人の儀が済んでからだ」」
爺さんと俺の声が揃った。
ハルが『ちぇーっ!』っと口を尖らせ、全員の目が穏やかに緩む。黙ってカンパイして、初々しい恋の前途を祝福する。
アンガーはいつも通り、何もなかったような顔をして、酒に口をつける。尻尾がゆらゆらと揺れているから、平常心ではないらしい。大人たちはみんなそれに気づかない振りをして、黙って月を眺めた。
ああ、良い月だな。良い夜だ。
虫の声と焚き火の爆ぜる音を聴きながら、静かな夜が更けてゆく。夏の終わりの風が、遠ざかった海の匂いを、微かに連れて来た。
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