美の女神の娘

 サラザト・エシヤはミナコを連れて宇宙空間へと飛び出した。それはちょうど、彼が2週間前に宇宙を漂流していたミナコを捕獲し、母船へ連れ帰ったのと真逆の行いだった。

 母船は金星航路を往く輸送船である。地球から遥々とミナコを迎えに来たコーポレート艦との結合作業中、その補助として船外作業機を操縦していたエシヤは、タイミングを見計らって船を離れていったのだ。船外作業機の中には密かにミナコを連れ込んでおり、いまごろ母船の中ではミナコの不在が大きな騒ぎを引き起こしていることが予想できた。

「ありがとう、エシヤ」とミナコは耳元でいった。船外作業機のコックピットの中は狭い。

「なぜ、礼を言うんだ?」エシヤは操縦席の上で身を捩り、怪訝そうに振り返った。

 ミナコは、小首をかしげた。──コンソールや計器類のランプの光に照らされて、彼女の顔は宇宙の暗闇の中にぼうっと浮かび上がっている。それは作り物のように美しい形をしていた。顔だけではない、身体つきだって、彼女は美しい。細い首、細い肩、細い手足と華奢な少女の身体、すなわち選りすぐりの遺伝形質──彼女はある意味において、比喩ではなく、文字通りに作り物であった。美の女神の星である金星で生まれ育った、半神の娘。

 彼女は控えめに顎をひいて、おずおずといった。

「だって、あなたはお別れの前に、わたしの願いを叶えてくれたのでしょう? 一度でいいからわたしもこれに乗ってみたいって。でも、お願いの度にあなたは困ったような顔をしていたものだから、わたしはてっきり無理なのだとばかり思っていたわ。だから、ほんとうにありがとう。……大丈夫よ、エシヤ。船長さんにも、お父さまにも、あとでわたしのほうから言ってあげるから。わたしがわがままをいって、あなたにつれてきてもらったのだから、あなたは何も悪くないって」

「……」

 エシヤは口を結び、真正面を見た。ミナコもつられてその方を見る。

 船外作業機の前方には、遥かな宇宙が広がっている──大いなる真空、暗黒、そして虚無。前方だけではない、全てだ。いま、果てしのない空間の中で、この閉ざされた機内は唯一の世界だった。

 ふと、コンソールにメッセージ着信の通知があった。母船からの連絡だろう。音声通話についてもそうしていたように、内容を確認することもなく、コンソールの操作によって通知を遮断した。続けざまに、次々と他の通信機能も遮断していく。直前に、毒々しいポップアップの警告と警報を受信したようだが、それも無視する。

 機内に沈黙が満ちる。

「ミナコ、おまえは」とエシヤは振り返らずにいう。「あの迎えの艦に乗るつもりでいるのか?」

「ええ。だって──」

 返事をしてから、頭を振った。エシヤはどういう意味でこの分かり切った質問をしたのだろう?

「わたし、お父さまのところにいかなくてはいけないもの。わたしはそのためにつくられたのよ。お父さまはわたしを待ち焦がれているわ」

「いや、そうはならん」

 エシヤはにべもなくいった。鋭い否定の言葉は冷たく響いた。

「ミナコ。おまえは、どこにも戻ることはない。お父さまに会うことはできない。おまえがそう望んだとしても、おれが認めない」

「エシヤ? あなた、なにをいっているの?」

「おまえを手放すつもりはない。おまえはここでおれと死ぬのだ」


 こんなことになるのなら、と輸送船ラインバーガー号の船長は悔やんだ。

 最初、救難信号を受信してしまった時点で見て見ぬふりをしてしまえばよかったのだ。いくら金星航路の船には遭難者救助の義務が課せられているとはいえ、本質的に人助けなんていうのは大損でしかない!

 エシヤが回収してきたあの棺のような脱出ポッドをこじ開けるのには苦労があったが──中からあのミナコという少女が出て来た時には、度肝を抜かれたものだ。明らかに金星育ちの少女だ。普通の人間は金星の少女を直接見ることなく生涯を終えるものだが、しかし金星航路においてその存在を知らないものはいない。一目見てそれだとわかった。常軌を逸した美しさがなによりの根拠であった。

 ほどなくして、ミナコは地球のさる大富豪の娘として作られたことが判明し、そしてわざわざこの宙域にまで運んできた。

 おれは浮かれていたんだ、と船長は思った。あの大富豪からならば、多額の謝礼金をせしめることができるのだと、すっかり舞い上がってしまっていた。(……もちろん、舞い上がる一方で、問題が起こらないように注意を払ってはいた。とくに、少女がエシヤに懐いたことについては、厳しく目を光らせていた。なにせ、あのエシヤというパイロット崩れは、何を考えているのかわからないところがある不気味な男だった。陰気で、人嫌いで、自閉的。彼のようにいじけた男のどこに少女が惹かれたのかは、全く不明であるが、しかし懐いてしまったのだからしかたがない。日々彼を呼び出して詰問し、立てた指を突きつけ、脅し、ひっぱたき、小突き、そして薬を飲ませて間違いが起こらないように努めていた)

 それがまさか、土壇場でこんなことになるなんて!

 もしかしたら、謝礼金は望めないかもしれない。いいや、そればかりか、莫大な損害賠償を請求されるかもしれない。なにせ金星の少女というのは、とんでもなく高価なものだから。

 コーポレート艦の応接室の中。船長はもどかしい気持ちを抑え込むこともできずにいた。肩は不安げに揺れ動き、脚も落ち着きなく痙攣するように震えている。彼は一人、待たされていた。

 エージェントの男は、ほどなくして通信室から戻ってきた。そしてきっぱりと言い放つ。

「会長との連絡はつきました。問題への対応にあたり、この件についての指揮権はわたしに委任されることとなりました」

「そ、そうですか。それで、その……」

 どう切りだせばいいものか、船長は皆目わからなかった。言葉が続かない。ふがいない。どうにかして自分を守らなければいけないが、けれど、どうやって? 相手は権力者だ。この宇宙開発時代において、地球のみならず月、そして火星から富を吸い上げる、宇宙規模の権力者だ。その権力者の代理人に、いったいどのような弁解が成り立つというのだ──

 そんな船長の内心を知ってか、エージェントの男は慈悲深く微笑んだ。

「ご安心ください、キャプテン。大丈夫です、わたしは状況を把握しています。あなたが彼女を救い出してくれたのだということを理解しています。……あれは大変痛ましい事故でした。彼女たちを金星から地球へと連れてくるはずだった船は、原因不明の大破で、乗組員の多くが今もなお生死不明です。その船の就航計画が機密に指定されていたことが、救出の大きな妨げになっていたのです。しかし、そんな中、たぐいまれなる幸運によって、彼女だけは生き残っていた。そしてそれを、あなた方が助けて下さった。まさか、彼女が生きてここまでやってくるとはだれも思ってもいませんでした。──たしかに、彼女はわれわれの裏をかき、いたずらのような脱出を成功させました。ちょっとは手を焼くいたずらですが、しかし大きな問題ではありません」

「それでは、その。以前の話した約束のとおりということで、よろしいので?」

「ええ、もちろん。謝礼金は支払わせていただきます。あなた方の行動には報いなければならないでしょう」

「──それはよかった!」

 船長は思わず声を上げた。胸に詰まっていた不安が、すとんとすべて解消された。息苦しさはなくなり、途端にあたりが明るくなったような楽観にとってかわられた。金を払わずに済み、金をもらえるのなら、もうまったくの問題はない。すべてはうまくいったのだ!

 感動に打ち震える船長にむかって、エージェントの男はつづけた。

「それでも一応、手続きというものがあります。形式的なものですがね。あなたがたのことを疑っているわけではないのですが、信頼を裏付けるための処置です。キャプテン、あなたの船の航行記録と船内の映像記録を確認したいので、メインシステムへのアクセス権を発行してもらえますか? それと彼女が乗っていた脱出ポッドも渡していただきたい」

「ええ、もちろん。そのくらいならお安い御用です。すぐに部下にいって、手配させます」

「それと、あの船外作業員のサラザト・エシヤという男ですが」

「……ええ」

 その名前に、気まずさを覚えずにはいられない。水を差されたような気分。

「いま、彼のことをこの艦の搭載機が追跡していますが、彼はなかなか腕のいいパイロットのようですね」

 これは皮肉なのだろうか? と船長はまじまじとエージェントの男を見るが、その内心が読み取れなかった。彼の穏やかな微笑は先ほどから少しも変化していない。堂々としたたたずまいの若きエリート。物腰の柔らかさが、なにか物事の裏面を示唆しているようにも感じられる。

「ええ、その、先の戦争では戦闘機乗りだったそうで。戦争が終わって、くいっぱぐれていたところを、拾ってやったんですが。しかし、まさかこんなことをしでかすような奴だったとは」

「責めているわけではありませんよ。それに、いいじゃないですか、人情があって」

「はあ」

「あなたの船の船員の方々からうかがっていますよ。彼は妙に彼女に懐かれていたそうじゃないですか。そして船外作業機に乗せるようにせがまれていた。安全上の理由や、母体保護法の理由を口にして、彼は断っていたそうですがね。しかし、最後の最後に情が移って、彼女の願いを叶えてあげたのでしょう。彼女も、いったん会長のもとに行ってしまえば、いまのような生活には戻れなくなると悟っていたんでしょうからね。……と、これが今現在のわたしの見立てです。どうですか?」

「それは、そうかもしれませんね、はい」

 口では相槌をうちながらも、船長にとっては違和感のある話だった。果たして、あのエシヤという男は、そういう男だろうか? これはあまりにも楽観的な予想ではないだろうか?

 ……とはいえ、わざわざその疑念を口にするのもはばかられた。黙っておこう。なにか余計なことを言ってしまえば、その余計なことが現実になってしまうような、そんな不安が胸の底に渦巻いている。黙ってさえいれば、もしかしたら、本当に何事もなくすべてが解決するのかもしれないと、すがるように思った。

「ええっと、それでは」と船長は話題を変えた。「メインシステムへのアクセス権を発行させるので、技術者の方をわたしたちの船のほうによこしてください。それと脱出ポッドですが、通常の規格とは異なっていたので、こじ開けるために少々手荒な──」


「おまえを××する」

 エシヤ口にしたその言葉を、ミナコは聞き取れなかった。まるで聞きなれない言葉、知らない言葉。けれどその言葉の響きは体の芯を不快感に慄かせた。目に見えないナイフが突きつけられている。

「エシヤ? いま、あなたはなんて言ったの?」

 ミナコは自分の声が震えていることに気づいた。

 エシヤはじっとミナコの顔を見た。彼の目は、まるで爬虫類のものだった。

「おれは、おまえを××するといったんだ。意味が分からないか? おれはおまえにこの上なく酷いことをするといったんだ。その身体をこね回して、手足を押し曲げて、押さえつけてやる。おまえを痛めつけて、苦しめて、泣き叫ばせてやる。二度と元には戻れないくらい蹂躙してやる。……おれはこれまでに××をしたことなんてない。しかし、それは××ができないということではないんだ。いつだって、その気になればできたことさ。おれがそうしなかったのは、単におれがそうしようと思わなかったというだけだ。しかし、やろう思えばいつでもできたことだ。だからいま、おれはおまえを××する」

 この男は本当にサラザト・エシヤだろうか? とミナコはまじまじといま目の前にいる男の顔を見た。乱視ぎみの細い目。どこを見ているのか、なにを考えているのか、わからない表情──。

 ミナコは否定するように首を振った。

「……あなたはそんなことをしたいの」

「おれがしたいのではない! おまえがおれにそうさせるんだ!」エシヤの怒声は悲鳴のようだった。「そんなことをしたいの、だと? まるで、とるにたらないようなことやりたがっているとでもいいたげだな。ふん。そうさ、くだらんことさ。なによりもくだらんこと、この上ない徒労でしかないことだ。愚かだし、みっともないし、恥ずかしい行いだよ。──しかしだな、ミナコ。おまえがそのくだらないことをおれにさせようとしているんだ。わかるか?」

「わからないわ、エシヤ。……わたし、あなたにそんなことをしてほしくなんかない。ひどいことなんて、してほしくない」

 ミナコの声は、いまにも消え行ってしまいそうだった。

 エシヤはずいっと身を寄せた。もはやミナコの視界はすべて、彼の体で覆われた。後ずさろうとするが、しかしどこにも逃げ場はない。船外作業機の小さな操縦席、閉ざされた空間。エシヤの身体がずっと大きく感じられた。

 エシヤの両目がぎょろりとうごく。気を吐く彼の熱い息。

「ちがうね。おまえは心の奥底では、ほんとうは××されることを望んでいるんだ。それがあまりにも根本すぎて、自分でも気づいていないんだろうが。それでも、見ていればわかる。おまえはおれを──男を──誘導している。確かに、それはお前の意思ではないのかもしれない、単に生物学的な形質なのかもしれない。しかし、それがなんだというのだ。汚らわしいなあ、ミナコ。たしかに、汚らしいのはおれのほうかもしれんが、しかしそれを誘発させているおまえは、なおのこと、輪をかけて、汚らしいよ。わかるか? ──この○○○め。おまえは○○○だよ、ミナコ。おまえはカマトトぶった○○○だ。たしかにお前は美しく精密に作りこまれているかもしれない。しかし、それは美しく精密な○○○だということにほからなんのだ」

 またわからない言葉。その言葉の意味は分からないが、酷い侮辱を受けていることは分かった。悔しくて、恥ずかしくて、ミナコの目には熱い涙があふれてきた。ついさっきまで抱いていた、浮かれた気分はすべて消え去った。胸の中には、寒々とした空虚さだけがあった。宇宙そのもののような、残酷さ。

「どうして? わからない、わからないわ。あなたが何を言っているのか、ぜんぜんわからないの……いやだ。帰して。もうこんなところにいたくない……お父さま……」

「お父さま、だと?」

 エシヤはあざ笑った。

「おまえはほんとうに救えない存在だよ。愚かだ、この上なく愚かだ……」


 輸送船ラインバーガー号は、メインシステムに仕込まれた強制排気プログラムによって、人間が生存可能な領域ではなくなった。空気は一瞬の間に荒れ狂い、奔流となって宇宙空間へ逃げ出していく。乗組員たちは全員、ふた呼吸もしないうちに窒息し、真空の中でもがきながら死に絶えた。いまや、船は宇宙を漂う強大な棺桶とあいなった。

 そのプログラムが正常に作動したことを、エージェントの男はコーポレート艦の中から遠隔で確認した。そして満足げにひとつ頷く。

「よし、これであとはあの船外作業機だけだな」

 コーポレート艦はすでに、その方向へと推進している。

 宇宙の虚空へと突き進むサラザト・エシヤの機体、それを一定の距離を保って追跡するコーポレート艦の艦載機群、そしてそのさらに背後から悠然と追いかけるコーポレート艦。

 その艦の艦橋にて、エージェントの男は声を張る。

「会長は、なによりも純潔を重んじられるお方だ。パイロット崩れの男とこれほどまでの長時間、閉鎖空間にいることを会長はよしとされないだろう」

「では、撃墜を指示しますか?」

 部下の一人に、エージェントの男は首を振って見せる。

「いや、なるべく生け捕りにしたい。結果的に死んだとしても、損傷は少ない方がいい。──わたしがいっているのは、男のほうだぞ? よりによって彼女に手を出すなんて、とんだ恐れ知らずだ。いや、それともすでに狂っているのか? 宇宙空間で一人となるパイロットは深層心理に精神異常の歪みを蓄積していると聞くからな……とにかく、可能ならば生け捕りだ。艦載機にもそう指示しろ」

「了解しました」

 エージェントの男は、いま一度満足げにうなずいた……そして、ふと思案した。

 これで、問題はすべて帰結する。自分に与えられた仕事はつつがなく終わるだろう。……しかし、問題の始まりのほうはどうだろうか? 本来ならば、金星の少女というのは、機密輸送船によって、なによりも安全に、なによりも密やかに地球圏まで運ばれてくるはずなのだ。それがどうして、このようなことになってしまったのか──それが今回の問題のはじまりだ。

 ラインバーガー号から抽出した航行記録、それと彼女を保護していた『鉄の処女』の内部ログ──金星の少女たちが地球に辿り着く間に仮死状態で収められる機械仕掛けの棺桶がこう呼ばれている──については、現在調査中である。しかし、有力な情報を得られるとは、あまり考えていない。

 それでも、おそらくは敵意をもった攻撃だ、という推測ができた。会長の財産に対する攻撃。

 会長は、この世界においてもっとも重要な人間の一人であるが、それゆえに敵も多い。地球連邦政府の情報機関がしかけたものかもしれないし、あるいは金星開発の共同出資者のうちのいずれかかもしれない。グループの反主流派の可能性もあれば、近年再興しつつある宗教家たちだってこれをする理由はあるだろう──

「隊長、よろしいですか」

 ログの調査解析を担当していた部下の一人が、おもむろに言った。

「どうした」エージェントの男はそちらを向く。「なにか、わかったか?」

「ええ、その。『鉄の処女』の内部ログに、奇妙な点がありまして……あのラインバーガー号に拾われるずっと前の時点のログなんです。おそらくは、機密輸送船が破壊される前後のものと思われますが」

「なんだと? なにかあったんだ?」

 エージェントの男は、意外に思った。『鉄の処女』の内部ログは、まさしくその鉄の棺桶の内側の記録に過ぎない。その外側の世界でなにが起こったかなんて、詳しくはわかるわけもなく、せいぜいが宇宙空間に放り出されたおおよその時間に見当をつけるくらいの役にしか立たないとばかり思っていた。

「それがですね……この『鉄の処女』は、宇宙空間へ放り出される直前に、一度こじ開けられているようなんです」

「馬鹿な、いったい誰がそのようなことをするというんだ。『鉄の処女』を開けてはならないというのは厳命されていて……まさか、機密輸送船を沈めた連中の仕業か?」

「ええ、その可能性が高いです。一度こじあけられ、そのあとまた閉じられ、そしてすぐに宇宙空間へと射出されているようですから」

「そうか、それは思ってもみなかった貴重な情報だな。……しかし、何のために? 彼女を殺すでもなく、連れ去るでもなく、わざわざそんなことを──」

 彼は、なんだか嫌な予感がした。


「ミナコ、おまえはお父さまのところに行きたいのか? お父さまのところにいたいのか? ……だが、どうだろうな。果たして、そのお父さまっていうのは、おまえが思っているようなものなんだろうかね。いいや、違う。まともじゃないよ、おまえのお父さまは。極悪人だよ、おれなんか比べ物にならないくらいの、ずっとずっと酷い悪人だ。世界で一番の下衆だといってもいい」

「……お父さまのことを悪くいわないで」

 エシヤはあきれたように肩をすくめて見せた。

「じゃあ、こうしよう。おまえに教えてやる。おまえは、真実を知る権利があるだろうからな。おまえは自分のことを、高齢のお父さまのために作られた特別製の愛娘だと思っているんだろう? そういうふうに教えられて、金星で育てられてきたんだろう?」

「そうよ。だって、そうだもの」

 成人の誕生日を迎えるまでは、金星の養育施設こそが、彼女にとって世界の全てだった。そして教育の一環として『お父さま』のことを教わりながら育てられてきた。

 お父さまは、立派な人間である。宇宙への植民──つまり、無限の虚空に対して人類が行う征服事業。何よりも輝かしく貴い仕事。それを統括する人間のひとりであり、この時代において最も重要な人間のひとり。しかしその激務が祟り子供を作ることがかなわなくなったお父さまは、最新の遺伝子工学の力を頼った。そうしてミナコ彼女が金星の養育施設で誕生するにいたったのだ。

 ミナコは、そう信じてきた。なぜなら、そう教えられてきたのだから──

「馬鹿め。そんなわけがあるか!」エシヤはせせら笑った。「そんなことを信じているのは、おまえだけだ、ミナコ! おまえが吹き込まれたのは、すべて嘘さ! ただ遺伝子工学的に自分の子供を作るだけなら、どうしてわざわざ金星で作る必要がある? あの荒んだ世界、死の世界。そこに半地下の人間生産工場を作る意味とは? そんなの、たったのひとつだ。──ミナコ、おまえは愛娘として作られたんじゃない。おまえは、△△さ。お父さまの可愛い可愛い、幼い△△。それがお前の正体だ!」

「──あなた、何を言っているの?」

 彼が何を言っているのか、ミナコにはわからなかった。わからないが、その言葉はミナコの心臓を強く締め付けた。

 うずくまってしまいたい、と彼女は思った。頭を抱えて、目を閉じて、耳をふさいで、何も考えずにうずくまってしまいたい。そのまま、すべてが過ぎ去ってしまうのをただ耐えて、全部が解決した後にようやく顔を上げたい。そうしたとき、きっと、目の前にはあらゆる困難はなく、迎えに来たお父さまのあの優しい笑顔だけがあるはずなのだ──

 エシヤの右手が、ミナコの顔の下半分をつかんだ。ガサガサの皮膚、手入れされていない男の指。それが強制的に顔を上に向かせ、うつ向くことを許さない。

 エシヤは正面からミナコをにらみつけて続けた。

「法律があるんだ。それはもう、歴として条文に定められている。未成年の人身売買を禁じる法律だ。これだけは、どれだけの金持ちだろうと、表立ってに違反することができない。たとい、おまえのお父さまだろうとな。

 ──しかし、未成年とはなんだ? 生まれてから18年が経っていない人間のことだ。じゃあ、18年とは? ……1年とは、地球が太陽の周囲を1周する時間のことさ、地球においてはな。しかし、金星では違う。金星での1年とは、金星が太陽の周囲を1周する時間のことだ。だからな、ミナコ。おまえは金星で育てられたんだ。おまえはまだ幼い少女さ、しかし、法律的にはすでに大人とみなされている。金星の1年は、地球の1年と比べるとずっと短いからな。

 わかるか? そして。おまえのような幼い△△を合法的に作り出すというためだけの目的で、金星航路は作られたんだ。……いまの科学技術じゃあ、金星開発なんていうのは、ほんの少しのもうけも生み出さない。穴の開いた袋に金貨を入れ続けているようなものだ。代わりに得られるのは、小さい小さい女の子だけ。おまえのお父さまを筆頭とする大富豪たちが、ただ単に自分の欲望を満たすためだけに、共同出資をして金星に人間牧場を維持している。まったく、大したもんだよ……

 そしてミナコ。おまえはそんなことも知らずに生きていたわけだ。しかし、知らないからといって事実というものから逃れられるわけじゃない。仮にいまおれがお前を解放し、あの迎えの艦に受け渡したとする。しかし、その後のことは、もうどうにもならんよ。おまえのお父さまは、おまえのことを××するだろうな」

「違うわ」ミナコは声を上げるが、口元をつかまれているためうまく声が出さなかった。それでも続ける。「お父さまは、わたしに酷いことなんてしない」

「いや、するさ。その点については、確信を持って言える。おまえのお父さまは、自分を慕う自分の娘を××するのが趣味のクソ野郎だ。誰だって知っている。それこそ、ラインバーガー号の連中だって、それにお前を迎えに来たあの艦の連中だって、だれだって知っているんだ。ただ、口に出さないだけ、ミナコ、お前に教えないだけだ。みんなわかっていて、お前のことを横目でちらちら見ているくせに、なにも言わないんだ。そそくさと口をつぐんでしまう。なぜなら屈服しているから……」

 エシヤはふと、口をつぐんだ。

 しばらくの沈黙があった。世界から言葉が失われたようだった。それから、彼はゆっくりと口を開く。

「……おれは、欺瞞が許せなかったんだ。

 世の中がクソなのは仕方ないさ。残念ながらそういうものだ。おれはもうほとほと理解した。

 しかし、欺瞞は違うだろう。真実だけは、どんな地獄にだって存在しているはずの、最後の美徳のはずなんだ。けれど、どいつもこいつも、嘘ばかり。恥ずべきことを恥じず、恥じるべきでないことばかりを恥じやがる。おれはそれが許せない。だから、おれだけは真実に接続して、真実に従って行動する。嘘だらけの世界の中で、俺だけが真実なんだ……おい、ミナコ。そんな顔をするんじゃあないよ。確かに、俺はいまから××をするが、おまえはもとより○○○じゃないか。だから、そんなに悪くなるってことじゃないんだ。なんなら、お父さまの所にいくよりも、よっぽどマシなことだろうよ……」

 そう言って、彼はいっそうのこと少女のほうへと迫った。

 コンソールには、接近しつつある機影が表示されている。しかし、すでにこの操縦席にはそれを見る者はいない。

 荒い息遣い、短い悲鳴、切り裂かれる音。

 一つずつ、エシヤは障害を排除していった。

 やがて、エシヤがミナコの存在領域の内部に食い込んだとき──彼女の体内に仕込まれていた仕掛けが作動した──

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

SF小説短編集 プロ♡パラ @pro_para

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る