クルマダ診療所にて
その命令は、治安局上層部に対するいくらかの失望をホシイ・ロクオに抱かせた。
命令は一つ、そして目的は二つ。
命令とは、とある診療所におもむいて診察を受けること。その一つの目的はその診療所の偵察であり──そしてもう一つの目的は、ホシイ・ロクオ自身の治療だという。
ホシイにとってその副次的な目的というのが、はなはだ不本意なものだった。不愉快にさえ感じられた。
彼は自らのことを優秀な密偵だとみなしており、また治安局上層部にもそのように認めさせていたはずである。しかし、自らが治療が必要な精神状態であると認識されているという事実は、ホシイをひどく苛立たせた。無論、任務については個人の感情を挟むわけではないが──それでも、なぜだか、とても苛立たしかった。自分に対する侮辱のように思えてならなかった。
不機嫌にひそめられた眉の下でも、ホシイの両目は素早く左右に動き、職務に忠実に、その通された診療室の様子を盗み見た。低い天井と建材がむき出しの壁──まあ、月の中でも末端の区画は得てしてこのような類型をとるものだ。空気だって、きっと複次利用の安物に違いなかった。胸がむかつく臭いが染みついている──スチール棚、机と椅子、そして白いシーツの敷かれたベッド──これは医療行為に使用する道具そのものというよりも、それのパロディを体現するための大道具のように思えてならなかった。
全部が薄っぺらい空間だ、とホシイはその部屋の様子を総括した。体裁は取り繕っているが、どこか嘘くさい。現実感に乏しく、虚構性ばかりが目に付く、書割のようだ。
「──やあ、おまたせしました」
やがて、一人の男が身をかがめながら現れる。ホシイの脳裏には、目の前の男──この診療所の創立者にして代表者の男のデータが思い起こされる。
クルマダ・ミドリ。三八歳。男性。地球出身。職業は医者。かつては船医として宇宙探査船に乗り込んでいたが、事故によってその探査船は大破。この事故における唯一の生存者。生還後は受け取った見舞金で、地価の安い月の区画にこの診療所を創立。現在は自らの宇宙漂流体験に基づいた独自の手法を開発し、宇宙漂流者の精神的後遺症の治療を専門に行っている。
その腕の良さが広く知られている一方で、この男には怪しい噂も付きまとっていた。精神治療に際して、反総督府的思想を患者に植え付けているのではないかという疑いがあった。今回のホシイに下された命令のうち、主たる目的の偵察はそれを調査するところにある。
データで見たよりも老けて見える男だ、とホシイは目の前の医者について思った。肌の感じがそう思わせるのだろうか? 古びたように黒ずんでいて、ほつれかけの古布を思わせる。宇宙漂流中に浴びた宇宙放射線の影響があるのかもしれない。この宇宙開発時代において宇宙漂流は珍しくはない事故であるが、この医者よりも長い間その状態に置かれていた人間はいない──いや、この言い回しは厳密ではない。正しくは、生還者の中では、彼はもっとも長い宇宙漂流を経験している。それよりも長い宇宙漂流となると、いまだ生還した者はいない。つまりは、死者だ。そしてこの医者は、そのような意味では、生還者と死者との境目に位置しているのだ。
彼の体表組織はどこか非生命を暗示しているが──それとは対照的に、男の目は爛々と輝いているようだった。
クルマダの弛んだ瞼の奥で、じろりと彼の目が動いた。そしてホシイの顔をとらえる。
「ようこそおいでくださいました、ホシイ・ロクオさん」
「はあ、どうも」
「実はですね、この『おいでになる』というのが、なかなか難しい部分でもあるんですよ」医者は弛んだ口元をわずかに持ち上げて微笑の形をつくった。「宇宙漂流の後遺症には、自覚症状があいまいという特徴がありましてね。そして少なくない場合に、その症状を指摘した場合に抵抗的な反応を示すのです。……つまり、自分はそんなことはないと怒りだしたり、自分は本当に大丈夫なんだと言い張ったりするものです」
「──」反射的にくってかかりそうになるのを、ホシイはこらえた。
しかし、口には出さずともその不信感は胸に渦巻いているままだ。この薄ら笑いの医者は本当に信用に値するのだろうか? とホシイは考えた。つまり、口先だけが達者な詐欺師なのではなかろうかという疑念があった。
「これから診察を始めるのですが……漂流の前後についてお尋ねしていきますが、良いですか?」
「質問によっては、答えかねますが」
「ええ、存じています。ホシイさん、あなたが総督府の機関のいずれかに所属している身分だということは、すでに伺っております。そしてそれらには機密というものがある。しかし、できる限り正確に、そして隠さずに答えてほしいものです。わたしの精神分析というのは、結局はそれらの材料をもとにして行っているわけですからね。……では、そうですね。まずはあなたが宇宙漂流する直前のことを教えていただけますか?」
「それは……教えることはできません。機密ですから」
「ええ、ええ、そうでしょうとも。しかしですね、たとえばあなたの心の動きなどはどうです? あなたの内心には、何の機密もないでしょう。実際に何が起こったのかはこのさいうっちゃっておいて、あなたが何を感じていたか、どのような感情を抱いたのか、それを教えてください」
「……」
腹がたって仕方がない、とホシイ・ロクオは思った。こちらのことを病気だと決めつけてかかるだけでも無礼極まりないというのに、その上こちらの腹の中までを探ろうとしている! 彼の感情は怒りに昂り……しかし同時に、彼の頭の中では職業的な冷静さも並行して働いていた。あくまでも彼は、もう一つの目的の方を忘れてはいない。この診療所の偵察。
いいさ、まずはしたがって見せて、そちらの出方をうかがってやる、とホシイは思った。
「……そうですね。感情というのは、あまりありませんでしたね。頭の中にあったのは感情というよりか、思考でした。自分が置かれた状況の分析です。脱出ポッドに乗り込んでその場を離脱するというのは、緊急事態ではありますが、あらかじめ想定されている行動の一つですから」
「なるほど。では、その時点で宇宙空間に対する恐れなどは抱いていましたか?」
「いえ、特には」
「たとえば、あなたが選んだ脱出ポッドに不具合があるかもしれないだとか、それとも通信トラブルなどで救助がやってこないかもしれない、などは考えませんでしたか?」
「可能性としては頭の片隅にはあったかもしれませんが、それらの場合についてはわたしにできることはありませんからね」
「そうですか、そうですか……」
医者は興味深そうな素振りで手元の診療録に書き込んでいく。
本当だろうか? とホシイは思った。どういうわけか、目の前の光景が疑わしいものに思えてならなかった。たとえば、この医者を名乗る男は本当はいずれの意味でも資格を持たないただの詐欺師で、興味深いふりをしながらもこちらの言った言葉なんて端から聞き流していて、手元の診療録に何か意味のあることを書いているわけではなく、そもそもそのペンだってインクが出ない偽物かもしれない──
ホシイの疑念を知ってか知らずか、医者は顔を上げた。
「では、つぎは宇宙漂流の最中のことをお教えください。あなたはどのようなことを感じ、なにを考えたのか、なにを思ったのか」
「いえ、なにも、特には」
「なにも? 特には?」医者は怪訝そうに眉を吊り上げた。「あなたは宇宙空間を漂流していたわけですよね。その際に、本当になにも感じていなかったと?」
「ええ、なにも」
「なるほど?」
医者の声には疑いの色が差していた。
ホシイはうんざりとしてまくしたてる。
「別にわたしは先生をごまかそうとか、自分を偽ろうとして受け答えしているわけじゃあないんです。本当です。わたしが宇宙漂流をした時間は、そんなに長い時間ではありませんでしたけど──そもそも意識がはっきりとしていなかったんです。それに、多くの割合で睡眠についていました。たぶん、酸素が十分に供給されていなかったのだと思いますけど。それに、わたしはそれほど心配というものをしていませんでしたよ。さっきも言いましたけど、緊急事態ではありましたが想定されていない事態というわけではなかったので。しばらく待てば治安局が派遣する救助船がやってくることはわかっていたんです。救助されることのほうが道理であって、救助されないことのほうが非道理だったんです」
「なるほど、なるほど……」医者は再び手元に視線を落とし、また診療録になにごとかを書き込んでいく。しかも、先ほどとは打って変わってやたらと手を早く動かしている。
医者のその忙しない動作が、どういうわけかホシイを強く苛立たせた。まるで、いま自分が言ったことをすべて無視して、代わりにでっちあげを書き込んでいるように見えたのだ。
「──なにをそんなに書くことがあるんです、先生? わたしはなにも覚えていないとしか言っていませんが」
医者は神妙そうな表情をつくって顔を上げた。
「いや、これは失礼しました。しかし、お気を悪くしないでいただきたい。なにも、あなたがおっしゃったことを疑っていて、判断材料として棄却しようとしているわけではないんです」
医者は慌てもせずに、泰然とした調子で、なだめるような口調だった。
「ホシイさん、あなたは、今ではなにも覚えていないとおっしゃった」
「はいそうです」
「わたしのこれまでの経験とそこから導き出した理論によると──あなたが仰っていることはまったくその通りだ。その極限状態における記憶がはっきりしない、あいまいであるというのは、宇宙漂流における特徴のひとつなんです。わたしは、そのことをよく理解しています」
「……わかっていただいているのなら、結構ですが」
「しかしですね──わたしがこれから説明することは、あなたにとってはいくらか挑発的に聞こえるかもしれません。それを先に前置きさせてもらいますが──」
医者は、やや躊躇うそぶりをみせた。やがて、つづける。
「ホシイさん。宇宙漂流の最中、あなたはかつてないほどの孤独感と恐怖に苛まれていたはずです。けれどその極限の体験はあまりにもあなたの心を乱すので、自己防衛のために、深層心理の働きとして、その記憶は封印されているのです。宇宙漂流の最中の記憶があいまいである、というのはそういうことなんです。そしてそれは封印されてはいるが、確かにあなたの奥底に存在し続けていて、そしてあなたに影響を与えている」
「いいかげんにしたください、先生!」ホシイは思わず声を上げた。「そんなのは単なるでっち上げじゃないですか。深層心理の働き、なんていったらどんなでたらめだっていえる。わたしは身に覚えがないといっているんです。宇宙漂流の最中のことだって。それに、生還後の生活でも、なんら支障をきたしていない!」
「ホシイさん、落ち着いてください。認めがたい気持ちはよくわかりますが、しかし実際、あなたは後遺症を患っている可能性が高い」
「もういいです。わかりましたよ。あなたは──この診療所は、ハッタリだ。それがわかったのだから、もう用はない」
立ち上がって帰ろうとするホシイに向かって──医者はただ、こう言った。
「現実感の喪失」
その言葉は、ホシイの激高をぴたりと止めた。そして、続いて、彼を困惑させる。
医者は続ける。
「それがあなたの症状です。ホシイさん、身に覚えがあるでしょう?」
「なんなんです、それは」
「宇宙漂流に際して、あなたはある意味で宇宙の真理をみた。つまり、われわれが生きるこの社会を含めたこの宇宙というものは、結局は小さな粒子から始まり、そして最後には最終的な死に向かうのだということを、身をもって理解したんです。絶対的な虚空である死の真空から薄い金属壁だけを隔てた空間で、無防備に身を縮こまらせていたあなたは、なによりも強い孤独感と恐怖のなかで、この果てしなくむなしい宇宙の真理を身をもって体験してしまった」
「……」
「そして、その極限状態と比べると、生還後の世界というのは、実に嘘っぽい。社会だとか、組織だとか、人間だとか。絶対的な宇宙の虚空とくらべると、それらはあまりにも仮想的で、一時的なもので、虚構でしかない。大いなる逆説があるわけです。そういった意味では、あなたの抱いている現実感の喪失という現象は、むしろ正しい。現実の方が虚構だ。あなたはただ、宇宙そのものと同じ大きさを持つ無限の虚空の根本原理を体得したにすぎない──」
医者の話を聞いているうちに、ホシイ・ロクオの胸の中には、よみがえりつつある不思議な感情があった。あるいは、それは感情ではなく、感情の欠落に近いものだった。いつの間にか、あの苛立ちが消えていることに彼は気づいた。
「先生、あの、わたしは……」
「いいんです、いいんですよ、ホシイさん。あなたは正しい。……それでは、治療を始めましょうか」
医者は口元を微笑みの形にしながら、ベッドを指さした。
「そこに横になって下さい。目をつぶって、全身の力を抜いて──意識を発散させてください。何も考えずに、何も思わずに、何もせずに、ただそこに存在していてください。神経を休ませて、何も感じずに、何も動かさずに──」
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