第5話
今日も今日とて、私は夜勤で暇を持て余していた。
作業が一切ないわけじゃないけど、自分の髪をいじったり家のカビのことを考えたりする時間はある。
先日の除湿剤の件は気になるが、換気のために普段から出かけている時も小窓を開けているので、もしかしなくてもその風が当たったのではないかと私の中で決着がついた。
除湿剤が倒れて転がっても容れ物を戻して床を拭けばいいだけだし、大した問題じゃなかった。
壁のシミに気付けば漂白剤をかけ続けているけど、根が残っているのかなかなかきれいに消えない。
キッチンは、買い足した珪藻土マットが湿気を吸ってくれているみたい。
居間にも珪藻土マット置いたらいいの?
「木村さん」
「─、はい」
声をかけられて考えていたことは霧散する。
一拍遅れて返事をすると、先輩が搬入口を指さしながら口を開く。
「悪いんだけど、もうすぐしたら搬入のトラック来るからシャッターお願いできる?俺ちょっといま手が離せなくって」
「はい、わかりました。行ってきます」
ちょうど暇でどうしよっかな~とか思っていたところなので、引き受けて搬入口へ歩みを進めた。
こちら側には誰もいない。
少し離れたところには世間話に勤しむ深夜作業員たちがいる。
節電で作業場以外の電灯は消されていて、搬入口の外側がライトで明るいこともあって中は真っ暗だ。
目的の場所に近づくにつれて、異音がすることに気づいた。
鈍い音だ。
重いものが壁に当たっているような音。
ゴツ、ゴツ、と音は繰り返す。
搬入口は目と鼻の先だ、この異様な音もシャッターの向こう側から聞こえているようだった。
なにか風にあおられてシャッターにぶつかっている?
シャッターのすぐ隣にある作業員用入口の鉄扉を開ける。
外の様子を窺い左右見回しても誰もいない。
戻って、シャッターを開けてももちろん誰もいない。
風にあおられているなにかしらも見つからなかった。
何の音だったのかしら。
搬入の手続きは責任者が行うので、私はここにいても仕方ない。
シャッターも開けたことだし自分の作業に戻ろう。
大して作業ないけど。
そう思って背を向け踵を返そうとすると、またあの異音が鳴り出した。
原因はわからないし、なんだか怖くなって、私は自分の机に戻った。
「ごめんんくださああい」
突然聞こえた何者かの声にビクッと顔を上げる。
周りには誰もいない。
影もない。
震えるような高い声だった。
聴き慣れた声ではない。
体中の毛が逆立って引っ張られているような変な感覚がする。
「ごめええんんくださああいい」
もう一度聞こえた。
音の方向を探る。
外だ。
シャッターを開けた向こう側に誰かいる。
輪郭だけの真っ暗な影がある。
逆光で顔はよく見えない。
誰か、いる。
そう思った時、ガシッと誰かに腕を掴まれた。
反射的に掴まれた腕を見る。
「あなた、見えているんでしょう?」
そこには誰かがいた。
なんで、どうしてだとか、いつの間に近づいてきたんだとか、そんなことは考える間も無くて、掴まれた腕が痛いってことで頭がいっぱいになった。
それはにっこりと唇の両端だけが異様なほどに吊り上がっていた。能面を貼り付けたような笑顔の誰かだ。いや、なにかなのかもしれなかった。
顔ははっきり見えない。
口元だけがやけに印象深く目に焼き付いた。
「ひっ…!」
驚いて誰ともわからない相手を振り払い、その勢いのまま私は椅子から転げ落ちた。
パッとあたりが明るくなって、消されていた蛍光灯が点いたらしいことがわかった。
「木村さん…?どうしたの、大丈夫?」
顔を上げられなかった。
目の前にはたくさんの足があった。
その誰かはそこにはもういなかった。
代わりに私を取り囲む先輩と同僚たちが不審げにこちらを見ているだけだ。
「あ、いや、すみません…ペ、ペンを落としたので、横着して取ろうとしたら椅子から落ちちゃって…」
「そう?危ないから気をつけてね」
「はい…」
見間違いだ。
きっと見間違い。
こんなことあるわけない。
きっと暇すぎて夢と現実がわからなくなっちゃっただけなんだ。
きっと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます