2章 Bパート 2
覚えているのはその日は朝早くから大雨だったということ。
いつものように巨大怪人は街を守る巨大ロボットに返り討ちにあい、最後まで見届けた恵里佳は傘をさして帰路へとついていた。組織の秘密基地で着替えは済ませていて、傘を指しながらまだ早い時間帯の路地を歩んでいく。闘いが長引いた場合は直接登校することもあるが、今回のように簡単に片付いてしまうと一度家に帰る時間ができる。もっともその場合は組織の怪人があっという間にやられたということになり、なんとも嬉しくはない自由時間になる。
腕時計で時間を確認してこのまま寄り道をせずに帰るか、それとも寄り道をするか考える事数秒。体の向きを変えて寄り道をすることに。
「朝ごはんを買わなくては」
思ったことを口に出したのは訳がある。空腹に耐え切れずにお腹が鳴ってしまったので、それを隠すために言葉を発した。記憶にあるかぎり一番近いコンビニへと向かう途中、視界の端になにかが見えた。それはほんの一瞬で気にしなくてもいいような感覚。それなのに恵梨香は足を止めていた。止めただけではなく今きた道を戻って、もう一度足を止めた。
「そこで……なにを?」
声をかけた。けれども返事はなかった。
この大雨の中、傘もささずに細い路地の真ん中に少年は立っていた。俯いているので表情はわからない。大粒の雨が少年の体にたたきつけられている。
「そんな格好をしていると風邪を引くぞ」
再度声をかけるが反応はない。
「おい、聞こえているのか。風邪を引きたいのか」
まだ反応はない。
「風邪をひきたい馬鹿者ならそう言ってくれ。そうでないのなら」
少年へと近づいて
「おせっかいな人間が行動を起こすぞ」
少年を叩きつける雨が遮られる。
「まったく、こんなに濡れてなにがしたんだ」
少年はようやく動きを見せた。ゆっくりと顔を上げて口を動かすが、肝心の発声ができていない。傘に入れてくれた恵里佳を見上げる視線もちゃんと見えているのかどうかもわからないほどに虚ろ。
「家はどこかな。こんな格好だと知ったら両親も悲しむぞ」
またリアクションが無くなった。少年は彼女を見上げたまま口も動かさない。
「まさか家出か? いやそれにしてはあまりにも用意がなっていない気はするが……」
雨は止む気配を見せない。少年がどこか避難できるところに動く気配はない。この場合は警察に頼むのが一番なのだろうが、この付近の警察はいま先ほどの怪人騒ぎに駆り出されていてそれどころではないだろう。まったくいないわけではないが、その騒ぎを起こした張本人としては今は警察のお世話にはなりたくなかった。その結果。恵里佳は少年の腕を掴んで歩き出した。
傘を少年の真上に配置してこれ以上濡らさないよう注意する。それによって自分が濡れ始めたのには目を瞑る。少年は抵抗することもなく引っ張られるがまま歩き出す。数分歩くと彼女の住むアパートが見えてきた。
建物に入ってようやく雨から避難できた。そのころには恵里佳もずぶ濡れで、足元から水を流しながら階段を上がって2階の自分の部屋に。鍵を開けてまずは少年を中に入れてから自分も入る。時期が時期なので暖房器具はしまったまま。急いでお風呂を沸かし始める。それから大きめのタオルとなにか少年に着替えをと探し始めるが、見つかるのは当たり前だが女性ものばかり。
「仕方ないか。少し大きいかもしれないが我慢してくれ」
そう言って押し入れから男性物の服を取り出してタオルと一緒に少年へと手渡した。まだ少年はうつろな目をしていた。足元には水たまりができつつある。
「その服は私の死んだ父のものだ。だが構わない。
いまお風呂を沸かしているから入ってから着替えてくれ」
自分もタオルで頭を拭きながら
「ふむ、ここまで濡れてしまっては今日は休みを申請した方がいいかもしれないな。
まぁ仕方ないな」
一度風呂場に行って湯加減を確認して戻ってくる。
「もう少しだ。もう少しでいい湯加減になるだろうから沸いたら先に入っていいぞ」
先ほどから何度か声をかけても、少年からのリアクションはひとつもない。恵梨香はため息をついて少年の前に立った。そして手を差し出す。
「いまさらかも知れないが私は亜久野恵梨香だ。奇妙な縁だが、よろしく頼む」
少年は差し出された手を見つめながら自分も手をのばそうとして、途中まで伸ばしたところで手を引っ込めてしまう。
「どうして」
そこでようやく少年は言葉を口にした。視線を上げて恵梨香を見上げる。
「どうしてオレをここに……?」
握手を成功させることはできないと悟って手を引き戻して
「さてな。なんでだろうな」
引き戻し建てで髪を梳いで
「あのままあの場所にキミを一人でおいておけば、そのことに私自身が後悔しそうでな。
キミこそなぜあの雨の中、傘もささずに立っていたんだ? 家の人が心配するぞ。電話、貸そうか?」
少年は首を振る。それを、家に電話をしたくない理由があるのだと恵里佳は察したが、違った。
「思い出せない」
「ん?」
「オレは……オレが誰なのかが思い出せない」
目を丸くする恵里佳。溜息ついて
「もしかして……記憶喪失なのかな」
記憶喪失かと問われて、そうだとすぐに答えるのなら、自分に失った記憶があることを認識できているということ。しかし少年は焦ったように視線をグルグルと動かして
「わか……らない」
元々の、記憶を持った自分がいるのかどうかもわからない。
その様子にもう一度ため息をつく。
「思ったよりも厄介な出会いのようだがまぁいい」
ポンと、少年の頭に手を置いて
「まずはお風呂に入って温まってきたらどうだ。その冷えた体じゃ思い出せるものも思い出せなくなるだろう」
結局少年が思い出せたものはひとつもなかった。
名前がないのは不便だろうと、恵里佳がつけた名前が鏑木宗次郎。宗次郎とは恵里佳の父の名前。思い出せるまでと一緒に生活をすることになり、では学校にも行ったらどうだと提案をしたのは恵里佳自身だったが、学校に通えるように手配をしてくれたのはクラスメイトの赤城風だった。
「んー。じゃあこっちで色々手配してあげようか?」
身元不明の少年、しかも記憶喪失の少年の戸籍を手配することが容易では無いことは理解している。それなのに彼女は会話の流れの中でそう答えていた。
「亜久野さんも知ってのとおり、あたしはこう見えてもいろいろなツテを持っているからね。多分そのくらいなら簡単に、とはいかないと思うけどできないとは言わないよ」
胸を張る。
「ありがとう、感謝する」
「いいってことさ」
そして今も鏑木宗次郎は亜久野恵梨香とともに住んでいる。
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