第3話

             ハムール


             序 章


 アラブ首長国連邦、アラビア半島の東端ホルムズ海峡近く、アラビア湾とインド洋に挟まれた砂漠の小さな産油国である。 アブダビやドバイなど七つの首長国から成り、それぞれの国にはシェイクと尊称される王様が君臨する。その北部にウム・アル・カイエンという小さな首長国がある。力の母という地名から油田を思わせるが、漁業とわずかな農業あとは砂漠しかない貧乏首長国だ。商業都市ドバイからホルムズ海峡へ、立派な四車線の舗装道路をひたすら北上すれば、途中ガスの出るシャルジャ首長国とこれまた貧乏小国アジュマン首長国を通過し、四〇キロ程でウム・アル・カイエンの入り口にたどり着く。ガソリンスタンドがポッンとあるだけ、回りは平坦な砂漠だから間違うことはない。その横から真北に四車線の舗装道路が、真っすぐ地平線にのびている。道路からは気づかないがここは半島になっており、西側は真っ白な砂浜に縁どられ、東側は紺碧の入り江が緩やかに蛇行しながら十キロほど先の町までつづく。見えるのは赤茶色の砂ばかりで町らしき風情はなかなか出てこない、平屋がチラホラと現れたらもう町中だ。五階建て二つに二階建てが数軒あとは平屋ばかりの本通りを、あっと言う間に通り抜けて小船が干された砂浜に出る。そこで道路は二つに別れ、真っすぐ行けば商店街の狭い道路に入り込む。両側には昔ながらの薄汚い平屋が軒を連ね、薬屋、雑貨店、電気屋、写真屋、大衆食堂など一応町らしい看板が並ぶ。雑貨店の前は埃まみれのマットレス、トランク、バケツ、ブラシなどが山積みされ、道を窮屈にしている。田舎にしては人がゴチャゴチャおり、いかにもアラブのスーク(市場)らしい。しかしアラブ人よりインドとパキスタン人が目立ち、歩いているのも男ばかりで女がいない。静けさを求めるならば、先ほどの砂浜の分かれ道を右に折れ、湾の岸沿いに進むと殺風景な倉庫街に出る。サンゴ礁を塗り固めた土塀の倉庫は真珠交易の栄華すら忘れたように、朽ちた木造の扉を海に向け開けっ放している。倉庫街の端っこは SHABURA と書いた大きな看板を掲げた大衆食堂、朝夕は漁を終えた漁師達が、お茶を飲み今日の成果を自慢して賑わう。 食堂の道路向かいの古ぼけた二階建ては、荒れはててはいるがもとイギリス海軍の事務所で、今この一階はUAE農水省の魚類飼育実験室と船外機の無償修理工場に占められている。この右隣は粗末な天井のない壁だけの建物で、魚臭の滲みこんだコンクリート台からいかにも青空魚市場だとわかる。魚市場の前には小さな古ぼけた桟橋が二つ、刺網の小山に占領され今はその名残すらないが、30数年前までは真珠採り漁船でにぎわったと言われている。桟橋の左側は幅の狭い緩やかな砂浜で、Johnsonマークの船外機をつけた木造船が三十隻ほどひしめいている。ここは入り江になっており、大小三十の小島が浮かび、時々ドジな漁師が座礁するほど複雑な水路が入り組む。浜から平坦な小島が三つ見える、左のシナーが砂浜の島、真ん中のハルマラはマングローブの島、右のガリーは赤茶色の島ですこしだけマングローブが生えている。道路は SHABURA 食堂の前をすぎ、半ば字の消えかかった看板Umm Al Qaiwain Port(ウム・アル・カイエン港)の前で終わる。港といっても建物のないコンクリートの広場で、申し訳程度に漁船が二隻暇そうに泊まっているだけだ。港から先は真っ白な砂浜が2キロほど広がり、岩積みの防波堤が港の突端から砂浜に沿って外海へ伸びている。

 アラブの4月は雲ひとつない青空である、地上は初夏とはいえ昼前の日差しは30度を超え些かきついが、海中はちょうど春の盛りになっている。砂浜の防波堤近くの水面では、時折大きなヒラアジに追われ逃げ場を失ったイワシの群れが水面で跳びはねている。賑やかに飛び交うカモメたちは、ここぞとばかり紺碧の水面に水音だけを残しては小さな獲物をすくい上げていく。水際の岩場には、イソガニとハゼがそれぞれの領分に陣取り、打ち寄せる波に洗い流されないよう踏ん張りながら何かを待っている。今日に限って静かな防波堤の上でも人影が揺れている、 日本人の親子とアラビア人が朝から釣糸を垂れていた。


            一 章


 「ハムール」私をアラビア人はこう呼ぶ。私の仲間は世界中の暖かい海の岩礁に住み、日本人はハタ、マレー人はイカン・バトゥー、英国人はグルパーなどと呼んでいる。しかし、こんなことは私には全く関係ない、私は一匹の魚として、今大変悲劇的な状況に置かれているのだ。涼しい海底の岩穴からいきなり引っ張り上げられ、熱い太陽の下にさらされる羽目にあっている。しかも砂漠に放り出されたので、焼け砂が体中にこびりつき痛くてたまらん。体中の水分がじわじわ砂に吸われて気が遠くなりそうだ。

 人間達に好かれるスマートなカンパチ、ヒラアジ、タイなど泳ぎの達者な連中は、陸に上がるとジタバタもがき体力を消耗しすぐに死ぬが、我々海底に住む不細工な魚は少々の事ではもがかない。いさぎよいからではなくジタバタが性に合わないのである。だからこんな砂毛布にくるまっても我慢できるのだ。エラにはあまり砂がついてないから、何とかもう少し我慢できそうだけど、こう水気を抜かれたのでは苦しいなあ。

 私の砂だらけの丸い目には、青空の中に立っている三人の人間がいびつに歪んで見える。背の高い方は白いカンドーラ(アラビア服)に頭をガトゥラ(白いスカーフ)で巻いた地元のアラビア人、こいつが私をこんな目に合わした悪党だ。そいつから少し離れた岩の上には、アジア人らしい背の低い男と子供が立っている。父親は丸帽にTシャツとズボン、子供は野球帽に白いTシャツと半ズボンで、二人とも陽に焼けて褐色の肌色をしている。

 釣りは先程からさっぱりだった。子供は飽きたのだろう、竿を放りなげると私に近づいてきた。子供は私と目を合わすと大声を発した。

「お父さん、このハムールの目青いよ!」

「どれどれ、本当だ、アラビア人は褐色だから、きっとそいつはヨーロッパ系だよ」

「もう死んじゃったかなぁ」

「駄目だろうね」

「そうかなあ」

 言いながら、子供は私を蹴飛ばした。ころげた拍子に湿った砂毛布が剥げ落ち、乾いた焼け砂がへばりつく。熱い!熱い!二度跳びはねたが、熱さはとれるどころか、砂がエラの中に入ってしまった。もう駄目だ!チクチク刺す砂粒の間から、青空に浮いた子供の顔が見えた。私は目を閉じることができない、残念なことに、魚にはまぶたがないのだ。

「見て!お父さん、まだ生きている」

「ほう、すごい生命力だね」

「ねえ、バケツに入れていい?」

「いいけど、スルタンに聞いてからだよ」

「スルタン!アテネ、ハーダー、ハムール(このハムール、ぼくに下さい)?」

「イェス、ノゾム」

「お父さん、バケツに海水入れてよ」

「そんなこと自分でやりなさい」

「ハーイ」

 小さな手の圧が砂毛布から伝わってきた、もうとび跳ねる余力はなかった。私は両手でしっかりつかまれ水の中に移された。

「ノゾム、まず体についた砂を落としなさい」

「ハーイ、あばれないかなあ」

 子供は体にこびりついた砂をこすり落としてくれた。バタツク気力もなく子供の為すがままになった。こすられながらエラ蓋を膨らませ深呼吸した。

「お父さん、生き返えったよ、エラに砂がつまって苦しそうだよ、エラも洗うの?」

「エラはいいよ、そこを傷つけると助からないぞ、ハムールが自分で奇麗にするよ」

 体の砂を落とすと、子供は私を両手でしっかり抱え新しい水に移してくれた。心地よい冷たさが体中に染み込む。手から放れるや、私は底に横たわり深呼吸を繰り返した。

「お父さん、ハムール寝ちゃったよ、やっぱりだめかなあ」

「いや、もう大丈夫だ、深呼吸をしているだろう、生きようと頑張っているんだよ、もう少ししてから水を取りかえなさい」

 体中がヒリヒリ痛む、こうやって死魚みたいに横たわるのが一番いい。エラについた砂は、呼吸の度に少しづつ落ちていく。どうやら助かったようだ。丸く縁どられた青空の中に、子供の顔がゆらゆら浮いている。

 しばらくして、私は新鮮な水に移された。子供にがっちりつかまれるのは、不快だが跳びはねる気力はなかった。

「ノゾム、もう終わるぞ! スルタン、ハラース」

「お父さん、今日はたくさんつれたね」

「うん、でもフエフキダイとクロサギの雑魚ばかりだよ」

「お母さん、きっとよろこぶよ」

「さばくのは、お父さんだからね」

 三人は釣り具を片付け、私を覗きこんだ。体のあちこちが痛いけど、腹ばいのまま人間達を見上げた。

「ねえ、お父さん、すごいでしょう、もう元気になっているよ」

「ハムールの生命力は本当にすごいね」

「家で飼っていい?」

「駄目だよ、第一ハムールを入れる水槽がないだろう」

「だって、せっかく生き返ったんだもの、海に帰したら死んじゃうよ、ねえスルタン」

「イケさん、ひとまず実験室に持っていきましょう」

「そうだ、まだヒゲヅラ君が実験室に居るはずだから、ノゾム、彼にハムールの水槽を頼んでみたら」

「うん、でもヒゲヅラさん大丈夫かなあ」

「とにかくハムールをクーラー・ボックスに移しなさい、海水がこぼれるとまずいから」

 私は水と一緒に四角い箱に流し込まれた。蓋が閉まり、暗闇の中を軽い振動が伝わってきた、やがて水は左右・上下に大きく揺れ出した。揺れ動く水中で体を定位するのは得意だ、胸鰭でバランスをとり壁にぶつからないようにした。こんな場合、下手に慌てると頭をぶつける。壁ごときにぶつかって死ぬことはないが、口先を打撲したら治るまでひもじい思いをしなければならない。

 振動が止まると水の揺れも次第におさまった。蓋が開き眩しい水面に子供の顔が見えた。

「お父さん、ハムール車に酔ったかなあ」

「吐いてないだろう、大丈夫さ」

「ハムールもボクみたいに吐くことがあるの」

「悪いものを食べたりすると吐きだすよ」

「吐かなくても、車酔いって気持ちわるいよ」

「気分は良くないだろうね、なにしろ車は初めての経験だろうから、ほらスルタンと一緒に実験室に運びなさい」

 再び箱は閉じられ、今度は大きく左右に揺れだした。のんびり定位するヒマもなく、いきなりドシンと置かれ、私は水と一緒に飛び上がる。蓋が開きヒゲヅラの大きな顔が水面に現れた、私は何かしら危険を感じ箱の隅に丸くなった。

「おっ!小粒だがなかなか立派なハムールですな」

「とっても強い引きでしたよ」

「ほう、ノゾムくんが釣ったのか、すごい、立派、偉い、賢いね」

「ボクではありません、スルタンですよ」

「スルタンか、スルタン!マブルーク(おめでとう)、アンタ、カビール(君は偉大)・・・・」

「ねえ、ヒゲヅラさん、このハムール飼えませんか?」

「刺身にしょうよ、この二百グラムサイズは生きづくりには多少足りないけど、頭と骨皮は煮付け、胃袋は塩焼き、これがビールと実によく合うんだ、シュクラン(ありがとう)、スルタン」

「ヒゲヅラさん!このハムールはボクがもらったんです、生かすんですから、もう全く」

「なんだ、ノゾムくん所有か、わかった、わかったよ」

「ヒゲヅラ君、ハムールを飼う水槽ありますか?」

「ええ、ありますよ、すぐに用意しましょう、ノゾムくん、その前にハムールにエアーをやろうか」

 私の側に小石を先に付けた細いビニール・チューブが落ちてきた。気持ちの悪いクニャクニャ踊りをしながら、小石がブクブク細かい泡を撒き散らした。私は仰天し飛び退いたとたん、頭を壁にしたたかぶっつけた。痛みを感じるまで数回ぶつかり、なんとか落ち着いて箱の隅に丸まりブクブクを眺めることができた。多少のことではビクつかないが、この時ばかりはさすがに驚いた。ブクブクの小石からは、空気が吐き出されていた。

「ヒゲヅラさん、びっくりしていますよ」

「大丈夫、こうしておけばしばらくは元気でいるよ、今から循環式水槽を作るからね」

「おねがいしまーす」

「スルタン、砂洗いを手伝ってくれ」

「イェス、外に干してある砂ですね」

 ヒゲヅラは外に出て行き、大きなガラス水槽を抱えて戻ってきた。砂洗いは時間がかかった。やがてヒゲヅラは、水槽の中に砂を敷き始める。

「ねえ、お父さん、循環式水槽ってなあに?」

「ほら見てごらん、ヒゲヅラ君が上げ底に砂を敷いているだろう、汚れた水や糞をこの砂の層を通して奇麗にする方法のことさ」

「ほんとうに水がきれいになるの?」

「本当さ、3ケ月ぐらい水を交換しなくていいだろうね」

「ボクのグッピーの水槽なんか、水交換してないよ」

「いや、時々交換しているんだよ、ほらお母さんがバケツに水ためて一日おいているだろう、あれはそのためだよ」

 子供はバケツの縁をつかんで見ていた。顔がブクブクで揺れている、突然小さな手が水面から伸びてきた。私は余裕をもってその手をかい潜った。子供は何度か私に触れようとした。

「オーイ、ノゾムくん、できたよ」

「ねえ、ヒゲヅラさん、この水槽にハムール入れて大丈夫ですか」

「心配ないよ、一週間ぐらい餌をやらなければ水槽は落ち着くからね」

「えっ!一週間も餌なしですか」

「ノゾム、循環式水槽が威力を発揮するには一週間以上かかるんだよ」

 ヒゲヅラが箱を持ち上げる、私は水と一緒に水槽に流し込まれた。そこは砂地で広く感じたが、平らで隠れ場所すらなく、真ん中では例のビニール・パイプが気ぜわしくブクブクを送っている。人間達が透明な四方の壁の向こうに見えた。開けっ広げの空間はなにか不安だ、まず隅に丸くなり周囲を眺めてみる。どうも、こうまる見えだと落ち着かない、とりあえずくぼみを掘ることにした。尾鰭を振って砂を掘り始めたら、前からノゾムくんの顔が近づいてきた。思わず後に身をひるがえす、硬い透明な壁に遮られ、思い切り頭をぶつけた。それからは恐怖にかられ、左右がむしゃらに突進し壁にぶつかった。

「ノゾム!水槽から離れなさい、ハムールがパニックになっている」

「ハムールはボクがこわいの?」

「多分怪獣だろうね」

「ひどいなあ、ボクが怪獣だなんて」

 ノゾムくんが遠ざかると、私は疲れ果てブクブクの根本にうずくまった。

「ヒゲヅラさん、水槽に顔をちかづけないでね、ハムールがショック死するとたいへんですから」

「ふん、私よりもハムールの方がよっぽど怖い顔していると思うけどね」

「ねえ、ヒゲヅラさん、一週間も餌なしで本当に大丈夫ですか?」

「心配ないよ、ハムールは断食に強い、なにせこいつはモスレム(回教徒)だからね」

「えっ!どうしてわかるのですか?」

「そもそもこのアラブ首長国連邦はモスレム国家だろう、だからこの国に住むすべての動物もモスレムなんだ、そうアッラー(回教の神様)が決めたそうだ」

「うそばっかり言って!」

「循環式水槽は二十日ぐらい餌なしでおかないと、砂の層に水を奇麗にする細菌が発生しないんだよ」

「でも一週間も餌なしなんてかわいそうです」

「そうか、よし!ではノゾムくんの要望に答えて特別サービスの四日にしょう」

「本当に四日も餌をやらないのですか」

「これ以下はだめだ、それにハムールは餌づいてないから食べないよ、餌が残って水が汚れたら死んじゃうぞ」

 私はこのままブクブクの根元に落ち着くことにした。今度はゆっくりくぼみを掘ることができそうだ。

「ねえ、ヒゲヅラさん、ハムールをここにおいていいですか?」

「あれ、自分で飼わないの」

「家にはグッピーがいるんです、お母さんが絶対反対するに決まっている」

「ノゾムが責任を持って面倒見ないからだ」

「ボクも時々世話しているよ!」

 尾を振って砂を蹴散らし、すぐに体半分が隠せるくぼみを作った。

「ヒゲヅラさん、ほらハムールはこんなに元気ですよ、四日も食べないとお腹がすいてたまらないと思うな」

「生かす為にはしかたがないのだよ、まあ四日立つと慣れて餌を食い始めるはずだからね」

「ノゾム、そろそろ帰るぞ」

「ヒゲヅラさん、ハムールを刺身にしないでね、それからちゃんと餌をやってくださいね」

「うん、酒のつまみはまだ十分ある」

 子供は近寄ると透明な壁に指を押しつける。今度は逃げ出すほどではない。こうして体半分を砂に隠せば、落ち着いて人間を見ることができた。

 子供と父親が去り、二人の男だけが残った。スルタンは網、ヒゲヅラは小さな機械をいじっている。四つの机が狭い部屋で向かい合い、私の水槽の乗っている机にヒゲヅラ、その向かい側にスルタンが座っている。南と西側に窓があり、地平線まで白い砂地ばかりの面白くない風景が見えた。痩せた木と丸まった草がまばらに生えているが、どれも褪せた緑で生気がなかった。

「スルタン、ハムールの釣り餌は何、ナガール(コウイカ)かい?」

「ラー、ルビアン(エビ)、今はこれが一番ですよ」

「釣り場は防波堤の例の根かい?」

「そうです、あそこはハムールの根城ですよ」

「そうだね、僕も先月あそこでハムールを釣ったよ、でもすぐに刺身にしたけどね」

 二人は話しながら、手は仕事に熱中している。しばらくして二人は立ち上がり、両側から私に近寄ってきた。二つの顔が水面にあった。背の高いアラビア人は痩せてはいるが、筋肉質の太い腕をしている。よく見ると褐色の大きな目がとても涼しそうだ。ヒゲヅラはがっしりしているが、背はそれほど高くない、顔つきは唇が厚くコショウダイによく似ている。

「お前さん、死ぬなよ」

「多分大丈夫ですよ、ヒゲヅラさん、ハムールは魚の中でも一番強いですから」

「うん、しかし火傷がひどいね」

「ヒゲヅラさん、クーラーは消しますか」

「いや、うるさいけど消すとハムールも暑かろう」

 人間達の去った部屋はブクブクとゴーゴーの唸り声に占められた。どうやら唸り声の持主も私に危害を加える相手ではないようだ。カーテンに仕切られた薄明るい部屋で、私は腹ばいのまま周囲を眺めつづけた。動き回るのを好まない性に、今の状況では探索などやる気になれなかった。

 薄闇が訪れてもブクブクとゴーゴー音は続いた。ふと周囲を見たい気になり、砂をはらいゆっくり浮上した。まず先程痛い目にあった透明な壁に沿って泳いでみた、長四角い箱に囲まれた空間は意外に狭かった。尾ひれのひとかきで壁にぶつかり、底から壁に沿って体を伸ばすとすぐ鼻先に水面が見えた。偵察を一通り終えると、またくぼみに戻り腹ばいになった。

 砂浜に放り出された時、死を覚悟していたが、よもや食い意地の結末がこうなろうとは。晩飯の時刻はすぎていたが、興奮と皮の痛みで食い物どころではなかった。どうやらこの箱が私の生きる世界になったようだ。

 突然ブクブクとゴーゴーがかき消えて、静寂が部屋を圧し包んだ。私はこの突然の静寂に戸惑ったが、すぐに快適な気分になった。だが、すぐにブクブクとゴーゴーが復活して元の騒音を撒き散らした。やれやれと思っていると、パチンという破裂音で周囲は明かるくなり白髭の老人が入って来た。

「やれやれ、クーラーをつけっぱなしだよ」 

老人がガーガー音と明かりを消すと、ブクブク音だけになりだいぶ静かになった。私は微かな明かりの中で、先ほどまで人間達のいた空間をみつめた。闇の中で私を見つめるハムールがいた。満身傷だらけで影の薄い奴である。私は呆然とそいつを眺めた、透き通った体の向こうは闇である。独りぽっちのハムールがそこにいた。

 私は独りである、ずっと独りで生きて来た。父母は知らない、数多くいたであろう姉妹達も離れ離れになり行方知れずだ。私はがむしゃらに生きてきた、そしてやっとあの快適な岩穴の棲家を見つけたのだ。生きる意思が私の命の基盤であった。

 

             二 章


 生きる為のもがきは、アラビアの冬の終わりも近い五月、海草の草原に流れ着いてから始まった。その時の私は孵化して一ケ月半ほどの稚魚で、プランクトンと称する微細な小動物を出合い頭に食っていた。そして私もまた小魚の餌としてはちょうどよい大きさであった。まずフエダイやフエフキダイの幼魚に何度も食われそうになった。食われる恐怖は、私を本能的に用心深さと常に隠れ場を感知する行動に駆り立てた。短い海草アジモに覆われた草原は、絶好の隠れ場と食い物を与える、しかしここに逗留する生き物は、自分もまた一匹の餌になり得る宿命を負っていた。小魚達は生き延びる為に最低必要なこと、食うと同時に素早く逃げ隠れる能力を備えてなければならない。私は小エビや小魚を襲い、イワシ、イサキ、クロサギ、アイゴなどの稚魚の群れには安心して突っ込んだ。餌の探索中にダツ、フエダイ、カマスの若魚に遭遇すれば、密集した海草の根本に潜り込む。遊泳力では到底彼らにかなわぬので、これが唯一の逃避方法だったと思う。しかし海草の陰には、コチ、イカ、ガザニ、イソギンチャクなどが潜み油断できなかった。

 草原での放浪生活は苦しかった、狩猟と逃避を繰り返すうちに、次第にフエフキダイとフエダイの若魚達は私を避けはじめる。いつしか私は成長していた、しかし体が草陰からはみ出し、獲物の待ち伏せは難しくなってしまう。海草の間に逃げ込む稚魚や小エビを追うこともきつくなる。しかも小さな獲物ではもう腹の足しにならないのだ。

 私はこの草原には不適格な魚であったと思う、他の魚達のように仲間で集うこともなく、草原の中を独りでもたもたしていた。不思議に、草原で自分の仲間を見たことがなった。生きるには食わねばならない。草原で若魚を捕えるには、カマスやダツのごとく相当のスピードが必要である。私の捕獲方法は急襲であり、追跡による捕獲は体型かつ体力的に無理であった。獲物が少なく空腹の日が続いたある日、私は草原を去ることを考えた。

 草原にはハゼやギンポのように定住している連中と、若魚になるとどこかに移動していく連中がいた。フエフキダイ、フエダイ、アイゴ、ブダイの若魚達は海草の茂る岸の方角、クロサギ、タマガシラ、ヘダイ、エビ達は砂底の深みへ移動して行く。彼らは本能的に行き先が分かっているようだ。私はどこに行くべきか、どう考えても分からなかった。取り敢えず、隠れ場になる海草の続いている浅い方向に向かうことに決めた。 

 昼間の引潮時、隠れ場から出て移動を始めた。浅くなった草原には大きな魚の姿はない。海草の茂みを伝い、なるべく底すれすれに泳いだ。岸に近づくにつれ草原は薄く、逆三角塔のハボウキガイがまばらに刺さるだけの砂地になった。海草の剥げた広場に出ると、左手に半開きの大きな逆三角塔がひとつ見える。私は少し浮上して砂底と水面に注意しながら泳いだ。広場の真ん中まで来たとき、真下の砂が舞い上がり、巨大な口が突進してきた。思い切り尾を振って左急旋回、コチの大口をかわし眼前の塔に飛び込んだ。塔の主は居らず、代わりにギンポが突然の侵入者に仰天し飛び出して行った。

 コチは逃がした獲物をしつこくつけ回すことはないが、ショックですぐには動けなかった。興奮がおさまると周囲を眺める余裕が出てきた。塔の主はとっくの昔に消滅し、内壁はフジツボにびっしり占領されている。地下の薄暗い鋭角部は、壁一面に白濁の丸い小粒が整然とぶら下がっており、なんとコウイカの卵であった。半透明な膜を通してチビが見えた、ギンポはこいつらが出てくるのを待っていたのだ。親がいたらただではすまない所だ。コウイカは普段から貪食だが、今の産卵時期はことさら興奮して凶暴になっているはずである。

 ボーッと卵に見とれていると、壁の外から水を吐く音が聞こえた。いつの間にか塔の側で、コウイカのつがいが交尾の態勢に入っているではないか。二匹はピッタリ寄り添い、流れのゆるい塔の陰で少しだけ水底から浮いている。やがて雄はゆっくり雌と向かい会う、雌は足を閉じてつぼませた。雄は雌のつぼみを包むように抱きしめ、触手をくねらせながら背中と腹を愛撫する。重い水の吐息、吐くたびに二匹の背中を濃い虹色のさざ波が流れていった。逃げ出す機会を伺ったが、雄は雌を愛撫しながらも周囲への警戒を怠らない。このままだと雌が卵を塔に隠す時に見つかってしまう。ギンポの隠れていた貝の下部は狭すぎる、私は塔の上部に体を丸めいつでも飛び出せるようにした。

 突然塔が激しく揺れた、イカが体当りしたらしい、シューという危険音とともにおびただしいスミが吐き散らされた。瞬時にして周囲は真っ暗、私は狼狽し脱出を躊躇した。だがすぐにスミが鰓にへばりつき息苦しくなる、思い切って外に飛び出した、瞬間大きな肉塊にぶっかった。反転し下に泳ぐと海草に触れた、そこに丁度てごろな陰があった。

 スミが潮に流され視界が広がる、水面では雌イカが背中をモリで貫かれ、スミをシューシュー飛ばしてもがいていた。なんと私は子供の足に隠れていた、彼はイカに気をとられ私にまだ気づいてない。雄イカが人間達と対峙していた。モリが雄イカの背に打ち込まれるや、視界は再び闇に包まれた。

 視界が戻る。串刺しにされた雄イカは、腕をクニャクニャ懸命に動かしながら、必死に何かにつかみかかろうとしていた。空をつかむ腕の隙間から、苦しげにシューシュー荒い息を吐いた。私の体は恐怖で硬直し、どうしていいのか分からなかった。

「じいちゃん!ここにハムールがいるよ、ほらぼくの足のそばに」

 頭上にモリ先の迫るのが見えた、ただ私は足にへばりつくことしかできなかった。

「殺すな!アリ、ハムールはお前に助けを求めたのだ、よく見ろ、突くには小さいぞ」

 モリ先は頭の上でとまっていた。

「わかったよ、じいちゃん」

 モリ先が水面に抜け、子供の足がゆっくり離れていく、だが動けなかった。老人の堅い指先が背に触れたとき、私は弾けたように彼方の草むらに突進した。

「じいちゃん、このナガール(コウイカ)は夫婦かい?」

「そうだ、この大きいのが雄でひと回り小さいのが雌だ、ナガールの夫婦はとても仲がいい。いいかい、つがいのナガールを見つけたらまず小さな雌を突くんだぞ」

「でも、大きいのが逃げちゃうよ」

「大丈夫さ、さっき見ただろう雄は決して雌を残して逃げやしない、雌を助けようとして向かってくるんだ。だが雄を先につくと雌は逃げてしまうのだよ、まあ、お腹の赤ちゃんを守るためにはしかたないけどな」

 私はいつの間にか草原の小さな窪地に潜り込んでいた。恐怖に圧し潰されそうで、体を堅く丸めたが震えは止りそうもない。早く日が落ちて欲しかった、暗くなれば少しはよくなるはずだ。さきほどからの上げ潮で草原は深くなりつつある。ずいぶん時が過ぎたような気がした。やっと満潮だ、夕暮れの草原に懐かしい賑わいがわいてきた。横をアイゴ、フエフキダイ、イサキのチビ達が餌をつまみながら通り過ぎていった。水面にはサヨリがのんびり浮いている。イワシの群れが真上を通っても襲う気にならなかった。大きなヘダイの群れが横を過ぎた後、私はくぼみから出て彼らが来た方角に向かうことにした。やがて草原は砂底にかわり、彼方に岩礁のそびえているのが見えた。近づくと大きな岩が積み重なった防波堤である。砂底を一気に横切って、近くの岩の隙間に滑り込んだ。岩棚は魚達の往来で賑わっていたが、みんな自分達の食事に忙しく、突然の侵入魚に気づく魚などいない。隙間は岩壁で囲まれた砂底だ、とりあえず奥の壁際に砂を掘り隠れる所を作った。

 一息ついて回りを見渡せば、ここは棲家としてはあまり上等でなかった。正面と上はオープンで外から丸見え、しかも奥は壁で逃げ道がなかった。こうしている間にもコショウダイの大きいのが正面から上に抜けて行った。テンジクダイの群れが整然と入ってきたのにはいささか驚いた。大きな目をした小魚達は、私のくぼみ近くでおしゃべりに夢中である。晩飯にちょうどいい大型サイズが中ほどにいた。チャンスはすぐにきた、群れがゆっくり隙間の上に動いたとき、突進してそいつをつかまえた。彼らはパニックになったが、再度の攻撃がないと知るや、平然と群れを整え上へゆっくり移動して行った。訪問者は絶えることなく続く、ヘダイ、チヌ、ブダイ、モンツキフエダイ、ゴマフエダイなどが入って来た。その度に私は頭を上げて挨拶しなければならなかった。

 隙間には数日棲んだ。外から丸見えでも、食い物が自分から来るのでなかなか便利だった。遠慮願いたい魚も頻繁にきたが、彼らの方が私を無視していた。ここは魚達の通り道である。しかしこの棲家は一ケ月ほどで離れざるを得なくなった。

 厭な奴が侵入したのは夕方である。そいつは海藻の塊と一緒に紛れこんできた。海藻の中からいきなりハサミを振りかざして襲ってきたから驚いた。腕の間をすり抜けうまく逃げたが、なんと敵はガブコプ(ガザミ)、生意気にもハサミを挙げて悔しがっている。それにしても獲物を逃がしたのにいやにぐずぐずしている。何を思ったのか、私のくぼみにしゃがむと、体を揺すりながら砂に沈んでいった。もっとも短い触覚と丸い目は砂から出し偵察も抜かりない。私にはガブコプと喧嘩して棲家を取り戻す勇気はなかった。とりあえず、近くの岩陰で休み、それから新しい穴を探すことにした。

 一息ついた後、私は岩陰に隠れながら割れ目や隙間を物色しながら泳いだ。岩場は彼方まで続いている。少し離れた所になかなか良さそうな割れ目が見つかった。入り口は体にピッタリで、奥行きもかなり深そうだ。儲かったと思いながら入った途端、誰かに鼻っ柱をしたたか噛みつかれた。驚いた、逃げようとした横っ腹に、強烈な頭突きを食った。どうにか外に飛び出したら、今度は尾に噛みついてきた。なんとこの凶暴な奴は、仲間のハムールではないか。その追撃のしつこいこと、とにかく岩棚をめちゃくちゃ逃げ回った。岩棚から砂底にそれたら、そいつは急に追撃を止めあわてて引き返していった。太いロープが砂から首を出している、私はその根本に隠れ一息ついた。頭から腹まで痛い、尾鰭の下の部分がぶざまにかみ切られている。ここはどうも落ち着かない、近くの岩陰に移って朝まで待とう。

 明け方から引潮に乗って棲家を探した。格好な割れ目や隙間は全部ふさがっており、挨拶が威嚇ですめばいい方で、ひどい奴だと入り口付近を通っただけで攻撃してきた。追撃は砂底の中迄に限られた、すぐに気づいたが、砂底では追う方が第三者の標的になりやすいのである。家はなし腹も減ってきた、焦りとともに先程から水面が気になった。いつの間にかオニカマスが私に狙いをつけていたのだ。なるべく底すれすれに泳いだが、砂に潜むコチにも用心しなければならない。オニカマスは音もなく接近してくる、私は全力で近くの物陰まで泳ぐとそれにぺったりへばりついた。 昼頃まで緊張が続いた。魚達の賑やかな群れが遠くに見えたとき、オニカマスは静かに離れていった。そこは堤防が崩れて砂底にせりだし、ちょうど岩を敷き詰めた広場になっている。広場の端に潮通しの良さそうな隙間があり、オヤビッチャとベラが出入りしている。早速覗くと、中にいたクロホシフエダイがあわてて奥に逃げた。そこはちょうど良い広さの通路が四方に別れ、ハムールがこんな良い所にいないのは不思議である。通路の奥も確かめたが敵はいなかった、私は即座にこの上等な隙間を棲家に決めた。

 新しい棲家は心地良く、食い物は広場の回りで容易に捕えた。イワシやアジそれにグルクマなど群れる連中は、後ろの奴に狙いをつけた。先頭は用心深いが、後は前に頼るから油断し遊泳力も多少劣っている。岩や砂の上をもたついているチビカニも食った。フエダイの若魚やテンジクダイも時々隙間に紛れこんできた。不猟のときはそこら中に泳ぎ回っているスズメダイを食った。ブダイは群れでよく通るが、鱗が硬く食えたものではない。私の胃袋はもう小魚二、三匹では足りず、若魚を一匹捕えるのが効率的であったが、遊泳力で勝てぬ連中と勝負する気はなかった。捕獲の基本は油断している獲物を急襲することだ。魚達が餌漁りに忙しくなる朝夕の薄闇や夜間の睡眠中が良い。岩陰から体勢を整えながら獲物に接近する緊張は快感だ。昼間は近くの岩陰でボケッと寝そべりながらドジな魚を待った。時々傷だらけのハムールが現れたが、どれも疲労した戦意消失の奴ばかりで、顔を見せただけで逃げ去った。

  ある日の午後、岩場はいつもより賑やかである。スズメダイとフエダイの一群が底に転がっているイカの切れ端を奪いあっていた。ベラ、ハゼ、クロサギ、タマガシラ、フエフキダイ、コショウダイも時々横合いからつついている。イカの匂いが流れてきたが、明け方にグルクマを食ったのでまだ食欲はない。フエダイの大きな奴がうまいことイカ肉を飲み込んだ途端、何かに引っ張られて急上昇した、必死に岩場へ逃げ込もうとジグザクに泳ぐが、頭を上に向けられてはどうしょうもない。抵抗が弱まると真っすぐ水面に引き上げられていった。我々は呆然とその光景を眺めた。数匹が水上に消えた後、小魚達が針からうまくイカをはずした。針は透明な糸に結ばれ地上に続く、その先には竿を持った人間がいる。それでもイカにつられて魚は引っ掛かった。針に掛かった奴は苦痛と死の恐怖に喘いだが、我々は平然と眺めた。ここでは我々は独りである、自分の選んだ行動の結果からそいつがどうなろうと関係ない。

 イカの肉はめったにない上等な食い物である。針つきにもかかわらず、みんなが夢中で奪い合うのも無理はない。スズメダイ、ベラ、ハゼなどの小魚は、小片でもせしめようと頑張っている。フエダイ、フエフキダイ、クロサギなど大口の魚は、思い切りよく飲み込んで、たちまち水面に引っ張り上げられた。

 あるクロサギは上まで引き上げられたが、もがいた時に唇が切れなんとか逃げてきた。彼は少しフラフラしていたが、残る力を振り絞り岩の隙間に飛び込んでいった。多くの魚が水上に消えても、相変わらず切れ端の回りは繁盛していた。

 小魚がパッと四方に散る、大きな影がゆっくり近づいて来た。このへんに住む年老いたチヌである。チヌは旋回しながら、イカの切れ端を念入りに観察した。彼はイカを丸呑みせず、ほんの少しだけかじった。またゆっくり観察する、少しだけかじる、これを数回繰り返した。針が見えると小魚も気をつけてつつきだし、イカは針からすんなり外れた。フエフキが慌てて食いつく以外、そうたやすく釣られる魚はいなかった。チヌが満足して引きあげても、スズメダイやベラなどの小魚はしばらくつついている。ドジな魚がいなくなると、イカの切れ端は落ちてこなくなった。

 岩場に住んでから何回も食い物競争があった。イカの切れ端、イワシやアジの肉片、貝にエビといろんなうまいものが投げ込まれた。競争にはとんでもない飛入りもあった。オニカマスは猛スピードで、もがいている奴の横っ腹を噛み切って走る。砂からいきなりパクリとやるコチは、簡単に釣り上げられた。ガブコプも参加した、そこのけとやたら凶器を振り回すので嫌われるが、当人ぜんぜん気にしてなかった。自慢のハサミで食い物をいじっている最中、甲羅を引っかけられバタバタする格好は面白かった。エイは無神経に針をくわえ込み、一進一退の迫力ある綱引をやらかした。彼が諦めても、平たくて重量があるのでなかなか引っ張り上げられなかった。綱引の最中に糸が切れて助かるのもいたが、長い糸髭を口から引いている様は哀れである。近所のハムールは、数日前にイワシ肉を食って綱引をした、なんとか割れ目に潜り込み糸を切ったが、針が喉に刺さり衰弱していた。

 人間達はあらん限りの知恵をしぼり、我々を捕まえようとしていた。ガルグールという鉄線の罠篭もそのひとつだ、これには私の仲間がよく捕まった。漏斗の広い口に導かれて、中のイワシを食いに入れば、もう一生出られない仕組みである。人間はこの岩場にやってきて、色々な仕掛けで魚をたくさん捕まえた。我々は腹一杯しか獲物を捕らない、しかし人間の胃袋は満腹を知らぬのか、いくらでも魚を飲み込んでいく。 

 私はこの岩場に半年ほど住んだ、そして最後の日は人間との関わりであった。その日の岩場は暗い内から人声とスクリュー音でうるさく、隙間にこもって様子を見た。やがて舟から細く透明な網が投げ込まれ、岩場と砂底を仕切りながら彼方まで延びていった。突然人間達は喚きながら舟縁と水面を強烈に叩き始めた。カマス、ボラ、アジ、グルクマ、フエフキ、ブダイは騒音に驚き、深みに逃げようと次々に網に絡まった。海底では驚いて砂から飛び出したコチとガブコプが絡まった。魚がもがけばもがくほど網はしつこく絡みつく。私達は岩の隙間から、この恐ろしい光景を息をひそめて眺めた。

 網が引き上げられても、岩場は死んだようにひっそりした。もう安全だと分かり、元の賑わいを取り戻したが、魚達は脅え遠くのスクリュー音でも我先に隙間に逃げ込んだ。昼になっても魚達はビクビクしていた、今や食い気よりも生き延びることに意識が集中していた。

私は昨日の朝から何も食ってない。昨日はカマスの群れが周辺をたむろし、魚達も警戒していたので、動きようがなかった。今日はこの網騒ぎで、昼間しかも魚達がこう用心深くては近寄るのも難しかった。フエフキとスズメダイの捕獲を試みたが無駄であった。諦めて隙間に戻り、近くを通る魚を狙うことにした。だがチャンスは一向になく、ますます腹は減るばかりだ。

 水面に音がして大きなエビが頭上をゆっくり降りてきた。突進し一気に飲み込み隙間に向かう、グイッと針が上顎に食い込んだ、驚きと恐怖が全身を貫き、必死に岩場の方に泳ぐ、だが頭は糸に引かれて水面に向かう。糸を手繰る力はますます強く、ついに力果て糸に引かれ水面に出た、空中に吊り上げられらもうバタツク気力もなかった。針をはずされ、熱い砂の上に転がされた。


             三 章


 私は陸で初めての朝を迎えた。生き残りの喜びはさほど感じないが、箱の中でなんとか生きようと思った。部屋は次第に明るくなったが、人間達の気配は一向になくブクブク音だけがうるさく響いている。砂漠の暑い日差しが窓の覆いを通して入ってきた。水は尿とやけどから出るヌルヌルで汚れ、しかもぬるいのでなおさら気分が悪くなった。私はこの気分のわるい水の中で、一日を過ごさざるをえないようである。日差しが少し和らいだ頃、突然ブクブク音が途絶え、部屋は静まりかえった。息がすこし苦しくなった、鰓蓋を広げ口から多めに水を送り込む。水は白く濁り実にいやな感じだ。しばらくしてブクブクは始まり、部屋は賑やかになったが息苦しさに変わりはない。夜になっても水は冷えず息苦しさは続く。これまで弾けていたブクブクの泡が、水面で大きな泡となり引っつきあい重なりだした。泡は水面を覆いつくすと溢れて机の上に落ちてく。夜中になり息はさらに苦しくなる。鼻先を水面に出し口をパクパクしたら、泡も吸い込み気持ち悪いがしかたない。窓が薄明るくなる頃は、もう窒息寸前であったが、ひたすらパクパクを続けた。

 ドアが開きTシャツにGパンの大男が現れた。パチンという音と同時にゴーゴー音が鳴り響く。大男は私を見るや部屋を飛び出し、すぐにバケツを下げて戻ってきた。私は褐色の大きな手で真新しい海水に移された。すぐ後からブクブクも下りてくる、鰓蓋を膨らませて息をした、どうやら助かったようだ。大男は水槽の汚れ水を、別のバケツに移し始めた。 ヒゲヅラが入ってきた。

「サバーヘー(おはよう)、マージッド」

「サバーヘー、ヒゲヅラさん」

「おっ!マージッド、ハムールの水汚れていたか?」

「危なかったですよ、もう少し遅れていたら酸欠で死んでいました」

「シュクラン、助かったよ、こいつを殺しでもしたらノゾム君から一生恨まれるからなあ」「水槽の水は全部捨てます」

「そうしょう、マージッド、海水の入ったポリタンクがよくわかったね」

「昨晩スルタンが電話をくれました、停電があったのでハムールが心配だったそうです」

「スルタンはどうしたの?」

「早朝お母さんをドバイのラシッド病院に連れて行きました、持病の膝痛が夜中にひどかったそうです」

「スルタンもたいへんだね、親父さんも一緒かい?」

「相変わらずですよ、親父さん漁に出たようです、女房が病気だというのに」

「そう言えば前もお母さんが倒れた時、息子がいるからバダバタすることはないと言っていたなあ」

 ヒゲヅラが指先で背をつつく、私はそのまま横に倒れ口をパクパクさせた。ノゾム君の父親も入ってきた。

「サバーヘー、みんな朝から忙しそうだね、ヒゲヅラ君、ハムールは生きてますか?」

「イケさん、昨日また停電したそうです、でもなんとか生きのびてますよ」

「またですか、飼育試験室のエビとアイゴは大丈夫ですか?」

「これから見てきます、スルタンが発電機を回したそうですから大丈夫と思います。マージッド、ポリタンクを三つほど用意してくれ」

「標本室にあるやつですね」

「ヒゲヅラ君、私は少しアイゴの標本を測定してから行きます」

 二人が出て行くと、イケさんは大きな丸い目で私を覗きこんだ。

「ハムールはしぶといなあ、これほど強いとは思わなかった、しばらく飼ってみるか」

 イケさんは部屋を出ると、しばらくしてアイゴの入ったガラス瓶を数本抱えて戻ってきた。彼は瓶からアイゴを取り出し、机の上に並べて観察し、終わると私の隣のバケツに放り込んだ。その内どう間違ったのか、大きなアイゴが私の所に滑り込んできた。アイゴはきつい異様な臭いを放ち、すぐに鰓を刺すはげしい痛みが起こった。アイゴから何かが染み出し、それが全身を刺す痛みに広がっていく。目と鰓の痛みにたまらず、壁に沿ってグルグル回ってみる。静止しているよりも動いた方がまだ楽のような気がしたが、もう水中にいることすら苦痛である。私は水から飛び出したい気分になった。

「ウェー!臭い、ホルマリン固定室だあ!」

 ヒゲヅラ達は入ってくるなり、急いで二つの窓を開け放した。

「そんなに臭いますか、そう言えば目が少しチクチクしますね」

「もう鼻と目をやられていますよ、本当に大丈夫ですか?」

「別に痛みはありませんが、臭いませんよ」

「あーあ、ゴミバケツにホルマリン標本を捨てましたね」

「臭いますか」

「たまりませんね、あっ!こりゃひどい、ハムールにまでこんなことして」

 ヒゲヅラはバケツからアイゴを取り上げて見せた。

「ほらイケさん、ハムールがくたばりかけていますよ」

「本当だ、バケツ違いですね」

「これで死んだら親父の責任だ、責任転換バンザイ!」

「早く新しい水に移して下さいよ」

 ヒゲヅラは私を新鮮な海水の入ったバケツに移してくれた。不快な臭いは消えたが、皮の剥がれるような痛みが残り、目と鰓はボロボロになったような気がした。私は底に横たわり深呼吸を繰り返した。

「まずいなあ、ハムールはかなり弱っていますよ、このまま死んだらノゾムくんには親父さんがホルマリン消毒したと弁解しますか」

「これぐらいの消毒では死なないと思いますけど」

「ハムールの気力次第ですか」

「ところでヒゲヅラ君、エビとアイゴは元気でしたか?」

「ええ、いまモハムードが水交換しています」

「ではマージッドに水槽の砂洗いとハムールの処置は任せて、我々は網いけすに行きますか、ヘダイが腹をすかしていますよ」

「そうですね、マージッド、ハムールのこと頼むよ」

 マージッドは水槽の準備ができると私を移した。ブクブクと砂底も同じだ、ひとまずブクブクの根本にうづくまる。水の振動でも痛みは疼く、鰓蓋を開きひたすら深呼吸を続けた。痛みを感じる間はまだ生きているはずである。

 ヒゲヅラ達は昼過ぎに帰ってきた、やがてスルタンも現れた。

「マルハバ、ヒゲヅラさん、ハムールは生きてますか?」

「ああ、この通りだよ、ところでお母さんの具合はどうだい?」

「前とおなじ症状です、鎮静剤で楽になったですが2日ほど入院させました」

「イケさん、神経痛でしょうか」

「そうですね、母親がこうなったのは、三年前にクーラーを取り付けてからと言っていましたから」

「近代病の被害者ですか」

「先進国家の全ての人間は、近代化の受益者かつ被害者ですよ、特にこの国は近代化を極端に圧縮して導入した為、近代文明の明暗が凝集して移植されてしまったようです」

「確かに生活は百倍豊かになったけど、昔は無かった問題がでているそうです。伝染病や成人病、アル中、泥酔運転事故、外国人による売春、麻薬、盗難、殺人、詐欺、青少年の不良化問題などですね。でも日本だって同じことが言えると思いますけど」

「ヒゲヅラ君、アッラーがモスレムにアルコールを禁止したのは正解だと思いますね」

「酒なしでは社会は真っ暗ですよ、モスレムだって好きな者はいるんですから。コラーンにはアルコールは絶対駄目と書いてないそうです、なあマージッド」

「そうですよイケさん、コラーンには絶対飲むなとは書いてないです、ただ良くないとあるのです。そうでないと、多くのアルコール含有薬も飲めません」

「ほう、ではマージッドにはビールも薬か」

「陽気になる薬ですよ、家族や他人に迷惑をかけないことが大切です」

「だからみんな砂漠や裏バーで飲むのかな」

「人目が怖いからですよ、でも本当に怖いのは我らがアッラーです」

「マージッドはアッラーが怖くないのかね」

「飲んでもアッラーに背いたことはないですから、それにコラーンに従い人助けを楽しくやっていますし。アッラーの御前では、はっきり飲酒してましたと答えます」

「ヒゲヅラ君、マージットみたいな気持ちで飲めば二日酔いはなくなりますよ」

「酒は楽しく、二日酔いは反省です。飲むのに宗教は要りませんよ」

「今やこの付近の海岸と砂漠はビールカンと酒ビンだらけ、泥酔運転で死亡事故も多いし、きっとアッラーは怒っていますね」

「そういえば、この前潜ったら海底にもやたらビールカンが転がっていました。でも日本や東南アジアそれにアメリカだって一緒ですよ、神様は汚染には寛大みたいですから」

 三日過ぎて皮の痛みは消えた、白濁した目には外界が霞んで見えた。息苦しいのは鰓が治ってないからだ、私はブクブクの根元に半分眠ったように横たわっている。半死の状態にありながらも、体には生きようとする意志が残っていた。

「イケさん、ハムール持ち直したようです」

「たいしたものだ、すごい生命力ですね」

「次は餌のタイミングですね、三、四日待って少し動けるようになってからやりますか」

「明日は市場調査ですから、標本用にアジを買ってきましょう」

 五日後、皮は白っぽく鰓もまだ完治してなかったが、視力はかなり回復していた。そういえば陸に上がってから今日まで何も食ってない。猛烈に腹が減ったが、いくら眺めても澄んだ水槽には、食い物らしきものは見当たらなかった。しかし、私はいつもの態勢で獲物を待つことにした。

 ヒゲヅラが近づいてきた。

「ハムール君、気分はどうかね?」

 ヒゲヅラは人差し指を突っ込んできた、獲物だ!突進して指に噛みつき、反転しょうとした。

「ギャーッ!」

 ヒゲヅラは飛び上がり、私は水中に落ちた。ああ、びっくりした、引き上げられた拍子に歯が3本も欠けてしまった。

「オー、イテェー、歯が三本も刺さっていますよ、何てぇ奴だ」

「ほう、すごい食欲ですね、たしか冷凍庫に要らないアジの標本がありますよ」

 ヒゲヅラはアジの切身をひとかけら落としてくれた、今度は確かめながら一息に飲み込んだ。冷たい!胃袋が震え上がる、たまらず吐き出した。味はたしかにアジだがこの冷たさはどうしたことだ。

「あれ、ヒゲヅラ君、吐き出しましたよ」

「凍ったままではまずかったようです」

「震え上がってますよ、凍ったアジなんて初めての経験でしょう」

「やっぱり指の方がうまいですか」

「君の指は油が乗ってますからね」

 ヒゲヅラはまた手を突っ込んできた、もう指なんぞに興味はなかった、水槽の隅に移り知らんふりした。

「かわいそうだから、解凍してやりますか」

 ヒゲヅラはアジの入った袋をつかみ部屋を出て行った。もう一度飲み込んでみる、冷たさが腹に凍みたまらず吐き出した。少し待ってみる、こわごわ飲みなんとか胃袋にとどめた、腹が冷え妙な気分だ。ひと切れ食うとますます腹が減ってきた。

「おっ、よっぽど腹が減ってますな」

「イケさん、できました、なかなかうまそうでしょう」

 ヒゲヅラはうまそうな肉をつまんでいる。食い物が手から離れるや、飛び上がって食らいつき、返す尾鰭で水面を思い切り蹴った。水しぶきがヒゲヅラの顔をもろに洗った。

「ペッペッ、ひどい奴だ、助けたお礼が噛みつきと水かけか」

「本来に戻った証拠です」

「いつか生き作りだ、頭はスープだしにしてやるぞ」

「一年はかかりますよ」

「うーん、では全快祝いをノゾム君からいただきますか」

「それがいいですね、伝えておきましょう」

 ヒゲヅラはぶっぶっ言いながら、アジの切身を落としてくれた。今度はあわてて食わず、底に落ちたのをゆっくり飲み込む。最後はアジの頭、もう腹一杯だ、一瞥して食うのは止めた。私がブクブクの根元に移ると、ビゲヅラは頭をすくい上げた。

「イケさん、やっと満足しましたよ」

「要らない魚標本まだ残っていますか?」

「数匹です、ホルマリン漬けならたくさんありますけど」

 澄んだ水と上等な食い物で、私は本来の体にもどった。海には自由があったが、ここには安全と食い物がある。本性が静止型の魚だから、別に泳ぐ自由が欲しいとは思わない。慣れてしまうと、目障りな人間達の動きも気にならなかった。

 ある朝、スルタンは一番に来て机を拭いている。

「サバーヘ!」

 ヒゲヅラが入って来た。

「スルタン、お母さんの湿布薬だ。これは前のよりきついから、もし痒みがでたらすぐ止めるように伝えてくれ」

「シュクラン、これを貼るととても気持ち良いそうです」

「病院からの薬はどうだい?」

「また痛み止めです、これも最近はあまり効かなくなりました」

「出稼ぎ医者の治療は実に簡単だからなあ」

 私は正面でヒゲヅラを眺めた。顔と口の周囲を髭が囲み、厚ぼったい唇はコショウダイに似ている。コショウダイは岩場を遊泳するおとなしい魚だ。周辺にいながら、彼らから一度も追いかけられたことはない。

 イケさんとマージッドがバケツを下げて入ってきた。

「ヒゲヅラ君、マージッドは昨晩なんと海に飛び込むベンツを見たそうです、港に行ったら丁度そいつを引き上げていました」

「へぇ、マージッドの知り合いだったの?」

「ほら入国管理局のラシッド局長ですよ、ウィスキィを結構飲んでいましてね、あれと思ったらゆっくり海中散歩に降りていきました。浮いてきたら、おおい!俺の車知らないかですよ」

「ヒゲヅラ君でなくて良かったです」

「ひどいことを言いますね、私は飲んでも安全運転です、なあマージッド」

「イケさん、私達は事故を起こすような飲み方はしないですよ。UAEで酒が自由に手に入りだしたのはここ数年です、だから飲み方を知らないのが結構いるんです」

「ヒゲヅラ君、君の二日酔はまだしも、最近の飲酒による死亡事故はひどい。やっぱりアッラーはこれが為に禁酒を説いているのです」

「酒は俗に言うヨーロッパの悪魔からの贈り物かもしれませんね。でも飲酒はモスレムに新しい何かをインパクトしています、マージッドの仲間達と飲んで気付いたのですが」

「飲酒による戒律からの離反ですよ、さしづめヒゲヅラ君は悪魔の子分だね、マージッド」

「イケさん、確かに禁酒を守るのは善いことです。でもモスレムの精神を失い、上辺だけ戒律を守っている連中の方が問題ですよ」

「毎日祈りの声が町中に響き、人々は朝から晩まで5回アッラーへの感謝を祈る、今日もコラーンに従って生きたのだと自省する、これは良いことだと思うね」

「祈りは大切ですが形です、アッラーは祈りだけでは満足しません。コラーンに従った生き方をすることがもっと大切だと私は信じています」

「戒律に従い真面目に生きることかね」

「そうです、欺かず、盗まず、殺さず、それほど難しくないですよ。それにザカート(定めの喜捨)とサダカ(自発的喜捨)、余裕ができたら貧しい人々に施しを行うことです」

「人は金持ちになると際限なく欲しがるもの、難しい教えだね」

「コラーンには富める者は貧しい者に施しを与えるように説いています。与える者はアッラーの評価という代償を得ますので、与えられた者は何ら卑下する必要はありません。しかし最近の多くの金持ちは、祈りはしてもザカートやサダカの心は小さく、ベンツに乗り御殿に住むという見えっ張りの生活に腐心しています」

「エジプトではいたるところでバクシーシ(布施)を当然のように請求されたけど、教えが染みついているね」

「喜捨は与える者の気持ちですから、物乞いはサダカを堕落させた行為です」

「ヒゲヅラ君、金持ちの富を社会に還元するのはなかなか難しいですよ、ザカートを戒律に入れているのはモスレムの合理的な特性ですね」

「日本では坊主がザカートを集めて御殿に住んでいますよ、これが日本仏教の特性、モスク(回教寺院)に坊主がいないのも合理的ですね」

「アッラーとの直接対話方式ですからね、でもコラーンの解説者集団がいて、社会的影響力も強いですよ。ほらイランではイマーム(解説坊主)が政治を牛耳っているでしょう」

「イケさん、ザカートとサダカの精神はおもしろいですよ、マージッド、もう少しイケさんに説明してくれないか」

「ザカートは持てる財力が主ですが、自分のできる事で人を助けるサダカも大切です。救いの門を開くのです、しかも入り易いように。私は資財がないので小さいですが、巨大な門もあります」

「巨大な門とはシェイク(首長一族)のことかね?」

「そうです、貧しい人々や困っている人々を助けるために門を開いています。救いを求めるローカル(現地人)は誰でも入れます」

「ローカルだけかね、外国人は駄目かな?」「ローカルがほとんどですが、外国人でもイケさんみたいなら大丈夫ですよ」

「虚偽の判定が難しいだろうね、平気で嘘をつく者もいるだろうし」

「当人の社会的評価やこれまでの行為を参考に、サダカを行う者が直接判定します。もし虚偽をなした場合、厳罰に処せられ社会から弾きだされます。またシェイクは福祉施設を作り老人、孤児、障害者の保護もしています」

「コラーンを守り人生をまっとうすると、アッラーから天国に入る許可を与えられるのだね」

「天国は水と緑豊かな美しい都だそうです、もっとも酒はありませんけど」

「イケさんには向いています、でも私やマージッドには物足りないですね」

「異教徒は入れてくれませんよ、マージッドの合否は飲酒罪をどう見ているかでしょうね」

「そうですね、飲酒は公言しているし、モスクでの祈りもなし、暇さえあれば私と釣りでしょう。まあ人の面倒をよく見ているからギリギリの所かもしれませんね。でもマージッドは気にしてないです」

「私はアッラーの御前で正直でありたいのです、それは人に対しても同様です。嘘をついて生きるのは性にあいませんし、モスクで形だけの祈りよりコラーンの教えを実践する方を選びます。私はアッラーの御前で自信をもって自分の人生を説明できると信じています」

「ヒゲヅラ君、そういえばスルタンもモスクに行かないね、真面目一筋で酒は絶対に飲まないし、人の世話にかけては村一番と有名なのに」

「スルタンの祈り場所は浜辺です、夕日が沈む頃浜辺でひざまずいていますよ。傍からみるとボケッと海を眺めているようですけど。時々マージッドも一緒です」

「スルタンのは簡単です、一日が無事にすんだ感謝の祈りです。魚がたくさん捕れたら、アッラーへの感謝の祈り。全然捕れなければ明日は頑張りますという報告の祈りです。我々はアッラーに期待してはいけません、結果を感謝するのです。今やモスクはアッラーに物を頼む所になってしまいました」

「ヒゲヅラ君、酒飲みの君達と付き合っていると、スルタンは天国に行きそびれますよ」

「大丈夫ですよ、アッラーはすべてを見通していますから、なあスルタン」

「少し前まで私達は自然の中で肩を寄せ合って生きていたのに、油ですっかり変わってしまいました。ラクダとロバを砂漠に捨て自然から去ったのです。私達は灼熱の数百年をしょっぱい飲水と少ない食物で精一杯生きてきました。ところがこの僅か数年で冷風も真水も贅沢な物資も手に入ったのです、夢としか言いようのない生活に人々は酔っているけど、私はどうしても酔えないのです」

「油というアッラーからの贈り物で、人が変わっていくのも試練でしょうね。田舎から東京に出ると人が変わり、いわゆる都会人になってしまう。でもそれは悪いことではありませんよ、もっともヒゲヅラ君のように適応できないのもいますけど」

「私はハムールのようにのんびり、怠惰に生きたいてすね、時間に追われる生活は性に合わないです」

 私は底に腹ばいになって人間達を眺めた。目を少し動かすだけで、部屋の全貌と四人の行動を追うことができる。人間達は私達ハムールのことを怠け魚のごとく考えているらしい。海底の岩棚にボケッと寝そべっているからだろう、今の私だってご覧の通りである。しかし私達はそれなりに精一杯生きているのだ。餌捕獲のタイミングだって他の魚に負けない、もっとも対象物を間違えるドジはよくやるけど。

 人間達が去ると部屋はブクブクの音だけ。私は聴くことはできるが、コトヒキやグチのように音を出すことはできない。薄暗い部屋に魚達の賑わいが伝わってくるような気がする。私は胸鰭を動かし底から少し浮いて定位し、それからゆっくり水槽を往復した。たいしておもしろくないが、ボケッと腹ばいでいるよりまだ良い。無目的に泳ぐ習性のない私が、こんなにのんびり泳ぐのは海では考えられないことである。

 ヒゲヅラは休日の金曜日を除いて毎朝一回食い物をくれる。イワシとアジの切身がメインで、だいたい同じ品が数日も続いく。エビが五日続いた日は楽しかったが、十日もイワシが続いた時はさすがに閉口した。たまに行う嫌な水交換で、ヒゲヅラの手際の良さには感謝するが、食い物に関する限り彼のメニューには配慮がなかった。

 休日の金曜日は誰も来ないはずだか、昼過ぎヒゲヅラがノゾムくんを連れて入って来た。ノゾムくんはすぐ水槽に顔をくっつけてきたが、私は腹ばいのまま子供を眺めた。色白で目が大きく頬はふっくらしている。

「ヒゲヅラさん、ハムール元気ですね」

「生かすのに苦労したんだよ」

「ちゃんと餌はやっていますか?」

「毎日だよ、ノゾムくんやってみるか、冷凍庫に釣り用のエビが入っているはずだよ」

「ハーイ、取ってきます」

「水道水で解凍してね」

「ハーイ、わかってます」

 ノゾムくんは小さな手にうまそうなエビを二匹つかんでいる。エビが落ちると、私は水面まで突進して飲み込んだ。水しぶきがあがり、ノゾムくんは驚いて手を引っ込めたが、すぐに次ぎを落としてくれた。エビを水中で吸い込むと、素早くいつもの場所に戻り腹ばいになる。

「ハムールってすばやいんですね」

「食う時だけだよ」

「合理的な魚だって父が言ってましたよ」

「僕には生意気な魚だけどね」

「ヒゲヅラさん、ハムールに噛みつかれたでしょう、痛かったですか?」

「痛かったよ、歯が3本も刺さっていたんだから」

「ハムールも歯が抜けて痛かったと思います、虫歯抜く時の痛さはすごいんですから」

「ノゾムくんは虫歯がないと思ったけど」

「お父さんです、この前虫歯抜いてウンウンうなってましたよ」

「鼻も悪いけど歯もひどいようだね、そうだノゾムくん、いいこと教えてあげよう」

「なんですか」

「このハムールは雄か雌、どっちだと思う」「顔つきからみて雄ですね」

「残念でした、雌だよ、ハムールの小さいのはみんな雌なんだ。アッラーがそう決めたんだから」

「またうそ言って!」

「本当だよ、小さい時はみんな雌で、まあ5年ぐらいなるとみんな雄に性転換するんだ、いいだろう」

「よくないですよ、気持ち悪い」

「だからこのハムールは女の子なんだ、よく見てごらん、なかなかかわいい顔しているだろう」

「ハムールは性転換すると顔つきがかわるのですか」

「そうだろうね、ほら市場に転がっているノゾムくんよりデカイ奴、いかにも生意気な面しているよ」

「ねえ、ヒゲヅラさん、潜ったら別のハムールに会えますか」

「ああ、例の岩場に新人がいるだろうね」

「行きましょうよ、ぼくそいつを見たいです」「よし、潜る道具を揃えるとしょうか」

「ヒゲヅラさん泳いだ後にサワルマ(アラビア風サンドイッチ)食べに行きませんか」

「いいね、でもサワルマ食べたら晩飯が入らないぞ、お母さん怒るぞ」

「大丈夫です、お父さんがハムールのお礼をしなさいって言ってましたから、ぼくがごちそうします」

「少ない小使いで足りるかい」

「ご心配なく、ちゃんと持っています」

「よし決まった、行こうか」

 私はノゾムくんが近寄るのを腹ばいのまま眺めた。

「バイバイ、元気でね、また来るから」

 ノゾムくんとヒゲヅラが去ると部屋はブクブク音だけ、私は沈んだままぼんやり考えた。海では何もなしに時を過ごすなんてあり得ない。まず食わねばならない、食い物を採ることが生きる基本だ、時は食う食われるの緊張の連続として過ぎていく。人間から食い物を貰うのも楽でわるくない、だが何か物足りない気がする。所詮私は底魚の惰性を持つハムール、それ以上は考えなかった。

 七月は盛夏である。アラビアの真夏の光りは強烈だ、影が濃すぎて本体の存在が薄くなりかねない。光りに体を突き通されぬよう、人々は白や黒い服を着ている。焼けついた湿度90パーセントの重い大気が、容赦なく大地に覆いかぶさる。人々は影に潜み、ひたすら熱き日が落ちるのを待つ。

 ヒゲヅラ達は部屋にこもり、あまり外出しなくなった。私はこの暑い時期に幾度か停電を経験した、ブクブクが止まり実に苦しかった。私の生活において、水温の上昇はあまり良い条件ではない。ヒゲヅラは停電の際の水質保持と称して、食い物を二日に一回しかくれないようになった。

 八月のある朝、スルタンが新聞を抱えて入って来た。

「サバーヘー、ヒゲズラさん、三日後からラマダン(断食月)が始まりますよ」

「ついに来たか、ビールとウィスキーを買い込まなくちゃいかんな」

「ヒゲヅラ君、ラマダン中ぐらい禁酒したらどうです、体中のアルコールが完全に抜けますよ」

「きびしいラマダンにビールがなければ真っ暗ですよ、ホテルのバーすら一ケ月も閉じるのですから」

「確かに、この暑さの中で、飲食なしを日の出から日没まで三十日も続けるのは辛いと思いますね」

「我々外国人も従えというのだから、むちゃくちゃですよ、最も表向きだけですけど」

「でも外で飲食したら、外国人でも罰せられますよ、去年英国人が町中でついタバコを吸ってしまい、ブタ箱入りしたのは本当ですよ」

「ラマダンになると町中が惰性とイライラで充満するし、喉の渇きが一番こたえるみたいですね。仕事はダラダラ、帰宅時はやたら焦るから、いたるところで交通事故です」

「夜中に動き回るから当然睡眠は不足し、夕方には喉の渇きも加わりヒステリー状態になるのでしょう」

「スルタン、毎年ラマダンして嫌にならないかい」

「いいえ、ヒゲヅラさん、ラマダンは苦しいけど一つの区切りになるのです、それにこれはアッラーとの約束ですから守らなくてはなりません」

「アッラーはラマダンを夜遊びせよと教えてないはずだけど、去年の町中は夜通し騒いでひどかった。静かにコラーンを読む気にならないのかな」

「私も読みませんよ、でも断食の後に飲む一杯の水のうまさ、最初に食べる一粒のデイツ(ナツメヤシの実)のありがたさをアッラーに感謝します」

「みんながそう思うとアッラーも満足だろう、でも今のラマダンはお祭りだよ。食い物に対する感謝も薄れているし」

「ヒゲヅラ君、苦行より楽しいラマダンの方が人々には馴染みやすいのでしょうね。車という便利な足で親戚や友人を訪問し楽しい一夜を過ごすことは非難できませんよ。でもラマダンで食物への感謝を再認識することは大切ですね、人は豊かになると贅沢になり食物を粗末に扱うようになりますから」

「デイツはアッラーの贈り物と感謝されても、今の子供達は虫歯のもとのチョコレートを好んで食べていますよ。我が農水省ではデイツ栽培を奨励しているというのに」

「仕方がないですね、これが子供の世界的な傾向ですから。ノゾムなんてチョコレートとポテトチップを昼飯代わりにしたいと思ってますよ」

「水に対してはもっとひどいですね、海水の淡水化で高価なエネルギーを使用しているのに、平気で毎日ベンツを洗っていますよ」

「でもこういう事はアラビア人だけの問題ではなく、先進国の問題そのものなんです。日本だって負けずに贅沢していますよ、規模が多き過ぎて気づかないですけど。どうも文明が進むほど人間は資源を無駄遣いする傾向があるようです」

「貴重なビールをシャワー代わりにする人種もいますからね。汗かいた後のあの爽快さを知っている連中が、平気でビールを粗末にする皮肉な国ですから」

「ヒゲヅラ君はビールが気になってしかたないみたいですね」

「七ケースは必要です、オーバー分はイケさんのリカーパーミット(酒購入許可証)の枠でお願いします」

「私は一ケースで十分ですから、いいですよ」

「ヒゲヅラさん、オフィスは平日九時から一時、木曜日は正午までになります」

「スルタン、午後はどうしょうか、釣りに行くには暑すぎるし、アパートに閉じこもるのはもっとつまらないなあ」

「ヒゲヅラ君、JICA(国際協力事業団)に提出する報告書を作成したら良いでしょう、時間がたっぷりありますから、素晴らしい報告書ができますよ」

「報告書で苦しむのは一日でたくさんです」

 ラマダーンはイスラム暦(太陰暦)九月に行う二九日または三十日間の断食で、モスレムにとってたいへん大切な生涯苦行である。日の出二時間前から日没まで、飲食や性交渉を完全に断たなければならない、そして日没後は正常な生活に戻る。この苦行は、妊婦、病人、虚弱老人、子供の断食免除、また外国旅行中の者は帰国後まで延期できるなど合理的な面をもつ。仕事などは頑張ってやる必要はない。この期間、レストランは夜間営業のみでバーや酒屋は完全休業、アルコール類は完全に姿を消す。ラマダーンの目的や効果など理解しようとしないことだ、これは宗教活動であり、経済効率なんぞから迫る範疇のものではない。

 ラマダーン開始の数日、人々は気負いがありいつもより快活になるようだ。しかし十日も過ぎた頃から疲れが出初め、それは町全体の雰囲気にずっしりのしかかってくる。農水省ウム・アルクゥエン事務所もラマダーン開始当初は、いつものように新聞の書評や世間話で朝が始まった、ただチャイ(紅茶)とタバコの煙りはないが。お茶汲みじいさんは、ヒマになり世間話に加わっている。この時期は訪問も遠慮され来客はほとんどない。就業時間は短縮されたが、いつもより頑張る者はいない、さらにスローペースでなんとか時間を潰していく。喫煙者には地獄の日々だ、トイレに隠れて吸おうものなら、臭いからすぐに発覚し全員の非難を受けよう。水道の栓をひねり、口をすすぐのさえ危ない、例え飲まなくとも、飲んでいると見なされてしまう。ラマダーンも中盤に入ると、喉の渇きから話すことも億劫になるらしく、よほどのニュースがない限り朝の世間話も始まらない。みんなボーッとし、時間の流れに乗ってなんとなく一日を過ごしていく。昼間の町は閑散とし、まるでゴースト・タウンのようだ。しかし日没近くになれば、町は買い物に出た人と車で騒然とし、車のイライラ・クラクションがやたらそこらじゅうに鳴り渡る。事故が起こっても、警察はなかなか来ない、運良くきてもすこぶる機嫌が悪い。

 スルタンとマージッドは、虚ろな目に唇はひび割れあたかも砂漠の迷い人のようだ。水槽の水交換すら、きつそうにやっている。ひび割れた唇は痛いらしい、しかし舌でなめて湿らすことすら、苦行に反する行為ということである。人々は無口にならざるを得ない、静かで緩慢な日が過ぎていった。

 ラマダーン二十日目の朝である。

「イケさん、ホメイドじいさんにラマダーンの挨拶をしてきます」

「じいさんは、今年もラマダーンをしているのですか」

「衰弱がひどいので止めるよう、医者から言われたんですが、そんなこと聞かないそうです、スルタンもあきらめていますよ」

「じいさんラマダーンで死んだら、それこそ本望だそうです」

「さすがは真珠採りの生き残りですね」

「ウム・アル・クゥエンの老人達は、みんなやっています。でもラマダーン中に死んだ者はいないですよ」

「ヒゲヅラ君、この過食時代にラマダンは体に良いのかもしれませんね。どうですこの際マージッドに見習って禁酒しては、肝臓がきれいになりますよ」

「汗かいてシャワーに入いると、どうしても体が欲しがるからだめですよ」

「意志の問題ですよ、そういう人は宗教で押え込まれた方が割合うまくいくかもしれませんね」

「私の胃と肝臓は上等です。第一異教徒がラマダーンしてもアッラーは喜ばないと思いますけど」

 ビゲヅラはスルタンの袖を引き部屋から逃げ出した。入れ違いに飼育室からマージッドが戻ってくる。

「やあ、マージッド、御苦労さん」

「イケさん、エビ3匹とアイゴ5匹が死んでいました。これが死骸です」

「餌の食いはどうだった?」

「少し残っていましたが、腐っていました。水温が三五度もありましたよ」

「たまらないなあ、これで停電でもしたら全滅だぞ」

「発電機は準備しましたが、夜中ですとアウトですね」

「しかたがない、餌の量と飼育数を減らすか」

 イケさんはマージッドの持ってきたエビとアイゴをテーブルに並べ、順番に重さと長さを測り始めた。

「マージッドはホメイドじいさんに挨拶にいかないの?」

「じいさんは苦手です、会う度に説教と酒飲むなですから」

「ほう、正直をまっとうするマージッドにも弱点はあったのか」

「じいさんや私のお袋なんか、もとから酒を悪だと見なすんで、いくら説明してもだめなんです」

「そりゃあ、理解しろというのがむちゃな話だよ」

「確かにじいさんの時代は、酒がなくて良かったと思います。あんなきびしい生活で、酒なんか飲んでいたらアラブは崩壊していますよ」

「わずか二十年前までは、アラブ首長国は貧困で、そのなかでも真珠採りは苛酷な重労働だったらしいね」

「砂漠のベドウィンは遊牧、砂漠沿岸の漁民は真珠取りしか糧がなく、どちらも油断すると命を失う極限の生活です」

「砂漠で生き抜くには、それしか方法がなかっただろうな。雨が年に2、3回、百ミリ以下の雨量なんて、日本人には想像できないね」

「この広い大地には水がないのです、ここでは必死に生きなければ日干しになってしまいます。生きるために、全力を尽くさなければなりません、これを我々の祖先は紀元前から続けてきたのです」

「しかし、そういう極限の生活でもロマンはあっただろう。ほらシンドバットの冒険みたいなもの、それに真珠採りの話も結構たくさん聞いたよ」

「じいさんが詠んでくれた詩があります、夢に憧れ、男達は遠き旅に出た、栄光をつかんだ者はほんの一握り、幸福になった者は少しいた、数知れない男達は異郷に埋もれた、やっと故郷にたどりついた男には、迎える家族はすでに亡く、老いた体に落胆と悲しみだけが残った」

「そういえば、じいさんは航海中に女房と子供をはやり病で亡くしたと言っていたね」

「最後に航海を終えたとき、じいさんは白内障、皮膚病、中耳炎それに脚気で体はガタガタだったそうです。水は飲料用だけですから、潜水した後はシャワーなんかありません。引っ掻き傷と塩漬の体で四ケ月ですよ、それに食い物は米とナツメヤシに魚ばかり、よほど頑丈でないともたなかったでしょうね」

「現在から考えると、真珠採りは本当に割に合わない仕事だよ。この前ヒゲヅラ君と二人で潜り真珠貝を千個集めたけど、消し粒みたいな真珠がたったの二つしか取れなかった。一隻の船が一週間に三万五千個の貝を採集したが、商品サイズはわずか三個だったという報告もあるぐらいだから、一獲千金になるような大真珠発見なんて宝くじより悪かったと思うね」

「家族を食わすには、それしか現金収入がなかったのです。船長から金を前借りして家族に渡し、四ケ月もの苛酷な航海にでていく男達の気持ちは、私達には計り知れないほど暗かったような気がします」

「その真珠産業は、世界大恐慌や真珠養殖などにより衰退したけど、タイミング良くアラビア湾岸で原油が発見され、ここも一九六二年から産油国に仲間入りだ。いまや人々の生活は大幅に向上し、真珠採りから解放されたわけだ」

「アッラーはこの苦難の民に、ひとときの安らぎを与えて下さったのですよ」

 ヒゲヅラとスルタンが大きなデイツの房を抱えて入ってきた。

「イケさん、立派でしょう、じいさんの庭にできていたものですよ」

 ラマダーン二八日目、今日のスルタンとマジッドは髭を剃り、さっぱりした服装で何やら楽しそうであった。マージッドは、ヒゲヅラに向かってタバコをふかす真似をした。

「ヒゲヅラさん、ラマダンは明日で終わりますよ」

「やっと終わりだね、でもサウジのお天気査定イマームが今晩の月を見て決めるのだろう、まあ雨は絶対ないと思うけど」

「多分大丈夫です、ラジオでは今晩も快晴と言っていましたから」

「ヒゲヅラ君、一週間のラマダン休暇がありますよ」

「私はアル・アインの鹿島農場に泊込みで行きます、イケさん一緒にいかがですか」

「ブレイミイ・オアシスも良いですね、オーマンのカトワ・オアシスも探索予定に入れて下さい」

「では決まりました、飼育室の餌やりは二日間休み、次の二日はスルタンとマジッドに任しましょう。後半は私がやります、ハムールはかわいそうだが六日ラマダーンだ」

 ヒゲヅラ達が消えて六日、事務所に人間の気配はまったくなかった、たまらなく腹が減った、動く気力もなくひたすらくぼみで眠りつづけた。七日目の土曜日の朝、やっとヒゲヅラとイケさんが現れた。空腹でうずくまっている私を覗きこんだ。

「イケさん、ハムール元気がないですよ」

「一週間も絶食させられましたからね」

「モスレム・ハムールはそれぐらい大丈夫と思っていましたけど」

 ヒゲヅラがそろりと指を入れる、私はくぼみから出て捕獲の態勢に入った。すると指は慌てて水面に退散した。

「ヒゲヅラ君、かなり飢えていますよ、冷凍庫に魚の標本がないですか」

「空っぽです、前の標本はイケさんが全部ホルマリン漬けにしました」

「じゃあ、もう一度その指をしゃぶらせたらどうですか」

「冗談を、結構痛いんですよ、とにかく何か探してみます」

 ヒゲヅラは隣の標本室で何やらゴソゴソしていた、やがて食い頃なエビを持ってくる。

「エビがありました」

「ほう、そいつはハムールが感激しますよ」

 飛び上がってエビを飲み込んだ。それから水面を思い切りたたきくぼみに戻る。厭な味と匂いが腹に充満した、腐ってはいない、刺すようなに鋭い痛み、もったいないが胃を絞りエビを吐き出した。

「おや、好物のエビを食べませんよ」

「やはり漬物は口に合いませんか」

「漬物エビですか?」

「ホルマリン漬けですよ」

「胃が固定されたでしょうね」

「水をたくさん飲めば大丈夫ですよ」

 私はくぼみにうずくまり、口を大きく開き水を胃に送りこんだ。体が不快な匂いで包み込まれたような気がする。あれはエビの味ではない、あの毒アイゴと同じものだ。

「イケさん、餌用のイワシを買って来ます」

「私も標本になるめぼしい魚が欲しいですね」

 ヒゲヅラ達が出て行くと、やたらうるさくなったクーラが部屋中に響いた。どうもついてない、やっと食い物にありついたら毒エビとは。胃はすこし痛むが、たぶん大丈夫だろう、それにしても腹が減ったなあ。

 大男のマージッドがバケツを片手に入って来た。大きなガブコプが詰め込まれ、みんな泡を吹いている。チビなら食欲もそそられるが、大きい奴だと危険この上ない。こいつらは凶暴なうえ、やたらハサミを振り回す無法者だ。大体小さい時から生意気で、相手構わずハサミを振り上げる性質から、その将来がわかるというものだ。

 ヒゲヅラ達が青いビニール袋を下げて帰って来た。

「おっ、マージッドか、ほらハムールの餌を買ってきた、これなら文句なしだ」

 ヒゲヅラはイワシを一匹落としてくれた。私はすぐには食らいつかず、すこし匂いを嗅いでから飲み込んだ。続けて三匹食ったが五匹目は残した、満腹ではないがどうも食欲が進まない。胃がまだ痛む、私はくぼみに潜り込みひとまず寝ることにした。

「マージッド、このガブコプどうしたの?」

「スルタンの親父さんからです、朝方地引き網で捕まえたそうです」

「うまそうだね、ビールに合うぞ、おっ、まだ元気そうな奴がいるぞ」

 ヒゲヅラは大きな雄をつまむと水槽に放り込んだ。半ば意識を失ったガブコプはグッタリと底に沈む。

「くたばったか、ガブコプ君」

 ビゲヅラが水槽から出そうとすると、そいつはいきなりスーッと立ち上がった。ヒゲヅラは慌てて手を引っ込めた。

「おっ、生き返った、まるでロボットですよ、イケさん」

「ロボットなら制御が効きますけど、ガザニは狂暴そのものですよ」

 ガブコプはハサミを頭上に振り上げ威嚇の態勢に入った。

「生意気にもうケンカの態勢か」

「ガザニは海底のヤクザみたい、よっぽどケンカが好きなんでしょうね」

「こんな狂暴な奴に、ガブコプなんて面白い名前を付けたものですね。市場ではブクブクでも通じましたよ」

「アラビア人は、海の生物を形から名付けるのが好きです。シタビラメをホビス・アル・バハールなんて海(バハール)のホビス(種なしパン)でしょう。面白いのがウニとナマコ、漁師達が何て呼んでいるか知っていますか? ヒゲヅラ君の好きなものですよ」

「海のハリネズミ(コンフィデル・バハール)と海のキュウリ(キャール・バハール)ではないですか」

「漁師達はウニのこと、エィズ・アル・アジューズ(老婆の性器)と言ってます、ナマコはずばりズッブ・アル・バハール(海のチンポコ)ですよ」

「今度ノゾム君に教えてやりましょう、きっとよろこびますよ」

 私は不愉快である、平和な水槽に突然狂暴な奴が喧嘩腰に現れたのだ。ガブコプはハサミを構え、あたりを伺いながら私に近づいてくる。小さなヒゲと目だけならまだ愛嬌もあるが、甲羅からくる冷酷な顔つきは厭味そのものだ。ハサミが鼻先に突き出されるや、砂を蹴って後に逃げた。追ってこないが、大事なくぼみを横取りされた。ガブコプは体を揺すぶりくぼみに潜り込んでいく。私は水槽の隅に移り、ひとまず相手の動きを見守ることにした。

「イケさん、ガブコプは強いですね」

「無法な世界を見せつけられて嫌ですね」

「今晩の肴にしますか」

「命拾いしたと安心して、肴にされるのもかわいそうですね」

「ではハムールには悪いけど、しばらくガブコプと同居してもらいますか」

 ガブコプにくぼみを占領されたのは悔しいが、こんなこと我々の世界では日常茶飯事なのだ。弱き者は食われる前に、すみやかに退散するしかない。反撃する気はなかった。当方は勝ち目はないし、生き延びるのに無用な闘いはしないことだ。今は自分が餌にならぬよう、のんびり寝そべってなんかいられない。彼は潜っているが、どうせ暗くなったら襲って来るだろう。ここには私しか餌はないのだ。

「イケさん、二匹ともおとなしいですね」

「夜になってから、ガブコプがハムールを襲うでしょうね」

「大丈夫ですか、ハムールが食われでもしたら、それこそノゾム君に会わせる顔がありませんよ」

「まあ、ドジなハムールならそれも仕方ありませんね」

「言い訳はドジですか、だいたい釣られたことがドジなんですけど」

「二匹の食うか逃げ切るかの生存闘争を見たいですね」

「徹夜で頑張ってみますか」

「見たいけど、そんな元気ありませんね、こんな場合こそビデオ・カメラてすよ」

「私はこいつを肴に飲む方がいいですよ、マージッド今晩どうだい?」

「いいですね、八時頃、アブドラ兄弟を連れていきます」

「スルタンはどうだい、ノンベエ達とは面白くないか」

「沖でシェリー(フエフキダイ)釣りです、朝五時頃までかかりますから」

「大丈夫かい、スルタンの舟は小さいからな」

「ご心配なく、海には小さい頃から出ていますから」


            四 章 


 アラブ首長国連邦農水省ウム・アル・カイエン事務所は、本通りの真ん中ほどに立つ古びた二階建ての二階にある。階段を上った右側がJICA水産専門家の Mariculture Project事務室で、二人は魚とエビの生態調査をしながら、飼育試験室と網いけすでアイゴ、エビ、ヘダイの養殖試験をしている。事務所は朝7時半に始まり、午後一時半に終了するが、定時前にくるのは日本人、スルタン、マージッドで、他の職員は八時頃に出てきた。余程仕事が好きなのか、一時半を過ぎても日本人は残っていた。他の職員は出勤するとまずチャイを飲む、そして新聞を読みながら世間話しをするが、彼等はチャイを飲みながら仕事をした。余裕がないのか、よく疲れないものである。

 午後、人気のない部屋は相変わらずクーラーとブクブクだけが響いた。ガブコプは砂に潜っで動く気配はない。目を砂から突き出し私を睨み、短い触覚はピクピクと忙しく揺れている。真剣に相対する気はなかった、来たら逃げるだけだ。

 闇が部屋を覆う頃、ガブコプは動き始め、砂を払いながらゆっくり立ち上がった。私が寝ていると思ったらしく、折り畳んだハサミを抱え後ろから忍び足で近付いてくる。私はガラスに沿って体を伸ばし、横目でかれとの間合を測った。ガブコプは思ったより素早くハサミを突き出してきた、すこしだけ前に動く、ハサミは空振りしてガラスにぶつかる。ガブコプが態勢を立て直す間に、私はゆっくりと向かいの隅に泳いだ。今度は全力で突進してきた、ハサミの下をかいくぐり向かいの隅に移る、甲羅がガラスにぶつかる鈍い音が聞こえた。また突進してきた、続いてガラスにぶつかる音が響く。甲羅はこれぐらいのショックではビクともしないようだ。それにしても彼の小回りのなさには失望させられた。

 ガブコプはしばらく追跡してきたが、そのうち時々立ち止まり休憩するようになった。やがて諦めたのか、ブクブクの下に戻ると砂に潜りこんだ。しかし明け方まで十回、飽きもせず砂から出て来た。部屋が明るくなる頃、本当に諦めたのかくぼみに隠れたまま、もっとも目とヒゲだけは砂の上で偵察している。私はガラスに沿いくぼみを掘ると、腹ばいになってガブコプの目玉を眺めた。

 ヒゲヅラとマージッドが入ってきた。

「おっ、ハムール生き残ったね」

「ヒゲヅラさん、ガブコプが見えませんよ」

「砂に潜っているんだよ、おい、マージッド手を入れるなよ、挟まれるぞ」

 ヒゲヅラはボールペンを水槽に突っ込み、ブクブクの根元にゆっくり近付けた、突然砂煙が舞うと、ガブコプががっちりボールペンを挟んでいる。

「ほら、すごいだろう、挟まれたら痛いぞ」

 スルタンが重そうなバケツを片手に入って来た。

「ヒゲヅラさん、ボラのチビがたくさん取れました」

「ほう、まだいたのか」

「飼育室の前の船溜まりです、パンクズを投げると集まってきました、でも全部ソベィティです」

「コボラだね、大きくならない奴だ」

「ビャハ・アラビ(アラビアボラ、タイワンメナダ)のチビなら良かったのですが、どうしますか」

「少し標本にして、後はハムールにプレゼントしょうか」

 ヒゲヅラはチビボラ数匹を標本瓶にしまい、残りを水槽に流し込んだ。チビボラはパニックに陥った、ガブコプはハサミを振り回して一匹捕まえる。私はフラフラ近寄って来た三匹をひと飲みした。チビボラは危険に気づき、すばやく群れを立て直すと我々から遠のいた。 ガブコプは獲物を食うと、ハサミを振り上げチビボラを追いかけ始めた、こうなると捕まる相手ではない。水面にいるチビボラには、ハサミを振って必死に泳ぐガブコプは道化者に見えるだろう。私とてボラは苦手な相手だ。なにぶん水面を泳ぎしかも遊泳力があり、とても捕獲の対象になる相手ではなかった。だが今は違う、彼らは私の捕獲範囲に収まっていることは確かだ。

 まず傷つき弱っているのを狙う、群れの後で遅れまいと必死に泳いでいる奴だ。体力が低下すると遊泳力も落ちる、しかも群れから脱落しまいと必死だからスキだらけ。チャンスは遊泳速度が低下した時だ、突進して水と一緒に飲み込む。元気な奴等は、群れを崩すことなくうまく私の攻撃をかわした。

 イケさんは、水槽の上から私の奮戦ぶりを見ている。

「ヒゲヅラ君、ハムールはなかなか頑張りますね、生き餌は久しぶりなのに上手に捕まえていますよ」

「ガブコプはどうです、まだハサミを振り上げて追っかけていますか」

「元気なチビボラはガブコプでは無理ですね、でもこれからはハムールも手こずりますよ」 

 私は満腹だ。ガブコプはあれから一匹も捕まえてない、まだハサミを立てチビボラを追い回している。彼等は元気一杯泳ぎ回った、無視され続けたガブコプは、やがて疲れ果て砂に潜り込んだ。

水槽の騒動が去るとヒゲヅラ達は自分の仕事に取り掛かった。ヒゲヅラとマージッドは、エビとアイゴの重さと長さを測り、イケさんは顕微鏡を覗きながらプランクトンのスケッチを始めた。

 スルタンがアバイヤ(黒布の覆い)を羽織りバルカ(カラス天狗の覆い)を顔に付けた小柄で痩せた老夫人を案内してきた。

「イケさん、ヒゲヅラさん、ミセス・アブドラです」

「イケさん、あの飲み助三兄弟の母親ですよ」

「ヒゲヅラさん、三人ともここ一週間行方不明で、心配のあまりマージッドを訪ねてきたそうです」

「まずいなあ、マージッド、彼等仕事も行かず例の巣にこもって酒盛りの最中だろうな」

「昨日の続きですよ、まさか母親に心配かけているなんて思いませんでした」

「マージッドどうする?」

「捜してくると言って、お母さんにはひとまず帰ってもらいます。あんな所を見たら卒倒しますよ」

「それが良い、私の車で送ったらいい」

 マージッドとスルタンは、両方から夫人を支え出て行った。

「ヒゲヅラ君、アブドラ兄弟というのはそんなに凄いのですか」

「ゴリラの太ったのがカンドーラを着ていると想像した方がいいです、長男が身長百八十センチに体重百キロぐらいですね、下にいくほど多少小さくなりますけど」

「そんなのが酔っ払うと怖いですね」

「イケさん、あの兄弟達は親父が死んでから飲み始めたらしいですよ、私より経験が浅いくせにもうアル中に近いですからね」

「中年以上は、青春を貧困と厳しい環境の下で過ごし自制の念がありますが、石油の富をもろに受けた若者達に今更自制を強いるのは難しいでしょうね」

「親父は厳しいモスレムで、酒は無論タバコも絶対駄目だったらしいのですが」

「親父という歯止めがなくなり、欲望が水鉄砲のように吐き出されたのですね、引金を離せばよいのだが、惰性に流れて引き続けるのでしょうね」

「イケさん、彼等には宗教の歯止めは効かないようですよ」

「マージッドのように自制してアルコールを飲めばまだしも、いったん欲望が宗教心を突き破ると後は惰性でしょうね」

「でも一緒に飲めば楽しいです、飲み方はすごいけど、人に迷惑をかけたことは一度もありませんよ」

「よくそんな凄い連中とつき合って体がもちますね」

「私はオン・ザ・ロック、彼らはウィスキィ瓶を抱えてらっぱ飲み、グラスなんか面倒で使わないのです。ビールは水ですね、冷したものはいやがるのですよ」

「酒の飲み方を知らない気がしますね」

「隠れて飲むのに、氷や冷えた物なんて贅沢は言えないと思います、暑いですが砂漠は飲むのに最高の場所ですよ」

「ウィスキィ瓶やビールカンが砂漠のあちこちに転がっているのは、君達のせいなんですね」

「酒飲んで砂漠をぶっ飛ばすのは気持ち良いですよ、この前トライしたら百六十キロぐらい平気でした」

「酔っ払い運転で自滅するのはまだしも、対抗車線に飛び出したり、ラクダや牛を轢き殺すのは犯罪ですよ」

 二人が魚とエビの標本を片づける頃、就業時間はとっくに終わっていた。ヒゲヅラは帰る気がないのか、糸と網を取り出してたも網作りはじめる。しばらくするとヒゲヅラは水槽に顔を近付けてきた。私は腹ばいのまま彼を眺めた、ヒゲヅラは悲しい顔をしている。

「ハムール、お前さんどう思う、アブドラ兄弟はもう後戻りできない。アブドラ長兄の心臓が駄目なことを、母親は知らない。もう手遅れだし彼はもうすぐ独りで死ぬだろう。祈りはとっくの昔に失ったけど、唯一人母親だけは祈ってくれるだろうね、アッラーどうかこの哀れな子を天国へと」

 存在は孤独である。それは死に至るまで続く旅だ。我々は自然の中でそれを忠実に守るだけ。生まれて存在するからには、文句など言えない、ただひたすら生きるだけだ。時の流れに乗って生きる、それほど無理なことではない。

 マージッドとスルタンが戻って来た。

「マージッド、お母さんどうだった?」

「ずっと泣いていました、父親が死んだ後、悪魔に息子達をさらわれたと言ってました」

「私達も悪魔の仲間かもしれないなあ」

「今から家に帰るように言ってきます」

「私も一緒に行こう」

 水槽は静けさを保っていた。チビボラは私から遠い水面に漂い、砂の上に出した目玉とヒゲが、その動きを追い続けている。急ぐことはない、暗くなればチビボラの動きは鈍くなるはずだ。

 夕方、帰ったはずのヒゲヅラ達が、ビニール袋を下げて戻ってきた。ヒゲヅラは袋から青色のカン・ビールを取り出しマージッドに渡した。スルタンはディキシー・ソーダだ。どのカンも海底によく転がっており、ハゼの棲家やスズメダイのチビの隠場に利用されていた。

「スルタンは酒を飲んだことがないだろう」

「一度ありますよ、近所に住んでいた英国人の家で、ジュースと間違ってワインを飲んでしまったのです」

「スルタンが! 余程甘いワインだね」 

「飲んだ後、頭がフラフラして気持ち悪くて吐きました、気がついたら前の浜辺に寝てました」

「それっきり飲まないのだね、そのフラフラが気持ち良いとまた飲むことになるんだけど」

「本当に気持ち悪かったです、二度と飲みたくないです」

「マージッドはいつから飲んでいた?」

「クゥエート研究所に居た頃、日本人研究者の為にヤミ酒を買い集めていましたが、いつの間にか自分も一緒にノンベエになっていました」

「クゥエートはサウジアラビアと一緒で厳しい禁酒国家だろう。飲酒は公開鞭打ちの刑及び国外追放、禁酒ができそうな気がするけど」

「怖くても、ノンベエは酒をどこからか手に入れるものですよ、例えそれが非合法でも」

「私は大学生になってからだ、親父がひどいノンベエで家族に迷惑をかけていたから、絶対に飲むまいと思っていたのに」

「ノンベエになってから、母親が一番悲しみましたよ、でも父親は早く亡くなっていましたから、文句いう者もいませんでした」

「ヒゲヅラさん、アブドラ兄弟ちゃんと家に帰ったでしょうか」

「大丈夫だよスルタン、車に押し込んで見送ったから。マージッド、家に電話してチェックした方がいいね」

 薄暗い部屋にいきなり明かりが灯った。水面でまどろんでいたチビボラがいっせいにざわめいた。ガブコプは半身を砂から出していたが、眩しさに慌てて砂に潜った。

「ヒゲヅラさん、まだ帰ってないそうです」

「やっぱりか、あれほど約束したのに」

「多分、カジノ・バーでしょう」

「しかたがない、家まで引っ張っていくか。スルタンお前は残れ、カジノに入るのを知り合いにでも見られたらまずい」

 ヒゲヅラ達は一息でビールを飲み干し、急いでカンを袋にしまいこむ。スルタンは二人を戸口まで送り、椅子に戻るとソーダを飲みながら新聞を広げた。

「ファル・アラージュ・ムラ街道で二名死亡、酒酔い運転でラクダに衝突。昔はこんなことはなかった。石油が出てから、人は平安を疎んじ欲望の赴くままだ。我々は一体どこに流れて行くのだろう」

 隣部屋で電話が鳴った。スルタンは立ち上がり部屋を出て行く。

「今からアブドラ兄弟を送っていく、チョット手こずったよ」

「良かったねマージッド、お母さんきっと感謝するよ」

「スルタン、もう帰った方がいい」

「わかった、では気をつけて」

 スルタンは机の上を片づけると明かりを消した。突然の暗闇にチビボラはパニックだ、めちゃくちゃに泳ぎガラスに衝突する。私は一瞬目がくらみ動けない。ガブコプは砂に潜ったままである。

 闇が落ち着くと、まずガブコプが砂から出てチビボラを追い回した。水面を泳ぐチビボラを捕まえるのは、かって経験したことのない至難の業であろう。ヘラ足を器用に使い、水面に昇りハサミを振り回すが、音に敏感なチビボラの動きは余裕があった。空腹のガブコプは必死で私とチビボラを追い続ける。こう邪魔が入ると、私もチビボラどころではない。チャンスは意外にもガブコプが作った。ガブコプのしつこい追跡に、一匹がガラスにぶつかりフラフラ沈む。私は突進するや、ハサミの鼻先でチビボラを頂いた。ガブコプは怒り狂い、ハサミを上げて突進してきたが軽くいなした。

 ガブコプは執拗に私とチビボラを追い続けた。ハプニングは起こらず、ただ無駄足ばかり踏んでいる。私はチビボラを二匹、追われてたもとに飛び込んできたのを頂いた。当事者のガブコプは、あれから一匹も捕えることができない。朝日が窓一杯差しても、砂に潜るのを忘れ私とチビボラを睨んでいる。

 ヒゲヅラとイケさんが入って来た。

「ヒゲヅラ君、ガブコプ頑張っていますよ」

「チビボラが減ってますね」

「ハムールでしょう、暗闇に紛れて捕まえるは得意ですから」

 マージッドがドアから顔を覗かせた。

「やあマージッド、昨晩は御苦労さん、アブドラ兄弟の様子はどう?」

「二,三日は家に居ると思います、少しは母親を安心させる気になったはずです」

「アブドラ長兄は病院に行くだろうか?」

「駄目でしょう、日頃から外人医者にろくな奴はいないと言ってますから」

「まあそうだろうけど、それよりも禁酒を宣告されるのがいやなんだろう」

 ヒゲヅラ達は我々の食い物を忘れていた。私はチビボラを貰ったのでまだいいが、ガブコプは空腹のため恐ろしく凶暴になっている。今や彼は砂に潜らない、ひたすら私とチビボラを追いまわすだけであった。 

 ドアが叩かれると、三人の巨人が入ってきた。男達が水槽の近くに来ると、私は大きな影に脅えくぼみに丸くなって隠れた。ガブコプは、大胆にもハサミを振り上げ威嚇の態勢を取っている。ひと通り握手がすむと、ひときわ大きなアブドラ長兄の太い声が響く。

「ヒゲヅラさん、昨晩はすみませんでした」

「お袋さん、安心したろう」

「一晩中涙の説教です、参りましたよ」

「これからどうする?」

「ひとまずこいつ、末弟を家に残そうと思います」

「いやだよ兄貴、お袋の面倒なんて」

「お前、軍隊の休暇はとっくに終わりだぜ、それに無断欠勤は営倉行きだ」

「覚悟しているさ、俺嫌だ!一人だけ家に残るなんて」

「お前は職業軍人で公務員、俺達は輸入代理店の経営者で立場が違うんだ、それにお袋はお前が居れば安心する」

 ふて腐れたアブドラ末弟は、大きな手を水槽に突っ込み、太い人差し指でガブコプをつつこうとする。それよりも早く、ガブコプは飛び上がり指をガッチリ挟みこんだ。

「ギャー」

 水しぶきが撥ね、ガブコプは指を挟んだまま空中に引っ張り上げられたが、自分の重みでハサミを折り水中に逃げた。ハサミはしっかり指に食い込んだままだ。

「イテェー、なんてえガブコプだ、俺に恨みでもあるんか、兄貴何とかしてくれ」

「お前、ガブコプとケンカしてどうするんだ」

アブドラ次兄はハサミをはずすとクズカゴに投げ捨てた。挟み跡から一筋の血が滲み出す。ガブコプは水底で、片方のハサミを振り上げまだ戦う余力を見せている。

「イケさん、ガブコプなかなかやりますよ」

「本当に凶暴ですね」

 アブドラ末弟は、指をティッシユ・ペーパで拭きながらガブコプを睨みつけた。

「俺帰るよ、兄貴達にはつまはじきにされるし、ガブコプにまでコケにされたんじゃ面白くないや、さいならヒゲヅラさん」

「アブドラ、そんなにがっかりするなよ、時々呼ぶから」

「皆さん、俺達帰ります、どうもお騒がせしました」

「またな、おいマージッド、一緒に行って様子を見てくれ」

 巨人達はサンダルを踏み鳴らして出て行った。ガブコプはハサミを降ろしたが、砂に潜らずボ-ッとしている。興奮と空腹のあまり狩猟のパターンを忘れたのか、日中なのに私に近づいてくる。私は少しだけ動き間を取ったが、彼は一本ハサミを立てながらしつこく迫ってきた。

「イケさん、ガブコプいやに頑張りますね」

「腹が減ったのですよ、何か餌はないですか」

「スルタンから刺身用のイワシを貰いました、冷蔵庫に入っています」

「もったいないけど、少し分けてあげましょう」

 ヒゲヅラは一握りの小イワシを持ってくると、まず一匹目をガブコプの上に落した。私は水中に漂うイワシを、ガブコプの真上ですばやく飲み込んだ。二度目は、ハサミでつかんだところをもぎ取った。ガブコプは怒りハサミを振り回しながら追ってきた。

「イケさん、ハムール張り切っていますよ」

「ガブコプが鈍すぎるんです」

 ヒゲヅラはイワシを、ガブコプの真上と水槽の端に同時に落とした。私はまず片方を飲み、すぐに反転しガブコプの頭上に落ちてくるイワシをくわえて逃げた。

「イケさん、すごいですねハムールの動きは」

「ガブコプが頭にきてますよ、でも一本バサミでは撃退さえ無理ですね」

「これならハムールも勘弁するでしょう」

 イワシが五匹ばらまかれ、あとから一匹がガブコプの上に落とされた。私はゆっくり五匹のイワシを食った。ガブコプはハサミでイワシをしっかり握り、私を牽制しながらブクブク下のくぼみに移動していった。

「ヒゲヅラ君、一本バサミのガブコプは哀れですね」

「ハムールに完全にコケにされてますよ」

「強力な武器も片方欠ければ、半分の威力もないとは」

「バランスも悪るそうです、再生するまではハムールの天下ですね」

 私は満足だ。水槽の縁に新しいくぼみを掘り腹ばいになった。ガブコプは肉片をポロポロ落としながら、ガツガツ懸命に食っている。 この日から冷凍イワシが一週間も続く。これは水っぽくてまずい、しかもガブコプは食い方が下手くそで、内蔵や肉片をバラバラ撒き散らし水を汚した。まずくとも食い終われば、私は昼寝、一本バサミも砂に潜ったまま夜まで動かない。夜の散歩では相変わらず私を邪魔するが、もうしつこく追い回すことはなかった。

 チビボラは活発に泳ぎ回っている。彼らにはガブコプの食い散らかしがちょうどよい餌になった。私はイワシで満足し、彼等を追い回す気にもならない。

 ガブコプとの同居生活は結構長く続いた。チビボラは間引いたおかげで、今残っているのはいづれも俊敏な連中である。ガブコプは一本バサミを振りながら、相変わらず私のくつろぎを邪魔しにきた。

 水は日増しに冷たくなってきた。部屋に入る日差しはまだ強いが、アラブの冬が近いのを感じる。

 最近の食い物は、これまでとはずいぶん変わっている。魚味のする小さな粒だが、味はどうしょうもなく、おまけに胃袋でゴロゴロして気持ち悪い。ガブコプはハサミで器用につまんだが、粒はかじるそばからバラバラ飛び散った。もっともチビボラにはその食い散らかしがちょうど良い大きさだ。

 水が冷たくなるにつれ、我々の食欲は減り、食い物は残り出した。ガブコプは相変わらずひどい食い方をしている。そんな日の続いた翌朝、水は白く濁り息が少しだけきつい。

「ヒゲヅラ君、水が濁っていますよ、濾過システムが駄目になっていますね」

「配合餌料がだめでした、マージッド、砂を交換しょうか」

 私とチビボラは、小網で掬われバケツにほうりこまれる。次にバタバタ抵抗するガブコプが落ちて来た。掃除で移されるのは慣れているが、ガブコプと狭い所に入るのは少し不安だ。壁に沿って向かい合うが、彼はハサミと足を縮めてうづくまり、短い触覚を忙しく震わせ動く気配はなかった。チビボラは気ぜわしく水面を走り回っている。

「イケさん、いやに二匹とも静かですよ」

「呉越同舟ですな、さすがのガブコプも緊張しておとなしいですね」

「そういえば稚魚網に紛れ込んだガブコプは、ほとんどの奴が小魚を挟んでいますよ」

「あれはパニックですよ。いきなり網にすくわれたから、もがいてハサミを振り回したのでしょう」

 清掃が終わると、ビゲヅラはまずチビボラ、その次の私もおとなしく水槽に戻った。ガブコプは水面にヒゲヅラの影が写るや、壁を背に片方しかないハサミを立てた。

「ヒゲヅラ君、相変わらずガブコプは好戦的ですね、一本バサミでも威力がありそうですよ」

 ガブコプはハサミを立てバケツの底を逃げ回るが、無駄な抵抗、網をがっちり挟んだまますくい上げられた。すぐにヒゲヅラは網を逆さにして水槽に落とそうとしたが、彼は自らハサミを根元から折って落下した。水底に降りるや、ハサミを立てる恰好をしながらブグブクの根元に隠れた。

「イケさん、まずいです、これじゃガブコプ食うのも大変ですよ」

「ハサミの再生まで餓死しないよう見守るしかないですね」

 ガブコプは砂に潜ったまま朝まで出てこず、久しぶりに静かな夜であった。

 掃除から3日目、水はきれいだが肝心の食い物はまだもらえない。腹が減ってたまらないのか、ガブコプは砂から出ると、ハサミを立てる恰好で近づいてきた。逃げることもないが、細い足先でごそごそさわられてはたまらない、とりあえず向こうの隅に移った。六本の足は歩行用であとのヘラ足二本は遊泳用、物をつかむようにはできてない。

 四日目、久しぶりにアジの切身を腹いっぱい食った。ガブコプは腹が減っているのに立ち往生である、食おうとしても手が出ないのだ。まもなくしゃがんで食い始めたが、足がやたら動き回り口を切身に寄せられない。焦るほど食い物を蹴散らしている。やっとくわえても口元の押えがきかず、口が動く度に食い物を取りこぼした。こんな食い方だから、一切れ食うのにずいぶん手間取っていた。

 ガブコプの邪魔がないので、私は闇の中で獲物の追跡を楽しむことができた。頑張ってチビボラを五匹まで減らしたが、残りの連中は感が鋭いうえ泳ぎもとびっきり速くとても捕獲できそうもなかった。


            五章


 一月はアラブの冬の真っ只中、日中はそれほどでもないが朝方はめっきり冷えこむ。こうなれば夏の暖かい水でも恋しくなる。ゴーゴー音は止まって久しく、ブクブク音だけが部屋中に威勢よく響いている。

 マージッドが入って来た。日頃はジーパンにTシャツ、無精髭の大男が、今日に限って純白のカンドーラを着てガットラとアガル(黒紐のわっぱ)を被っている。さっぱりするとなかなかの男前で立派な口髭をしている。

「おっ、マージッド恰好いいじゃない、見合いでもするんか?」

「ヒゲヅラさん、ホテルの裏バーでアブドラ長兄が倒れましたよ、」

「パレスホテルかい、病院は?」

「近くのクゥエート病院、でも担ぎこんだ時は、手遅れだったそうです」

「あんな巨体、運ぶのに大変だったろうな、ホテル側も警察のチェックで迷惑だろう」

「でもあれだけ飲んだお得意さんです、最後ぐらい我慢してくれますよ」

「お袋さんは大丈夫かい、卒倒しなかった?」

「危なかったです、でも気を取り直して祈ってました。アッラーどうか息子を地獄に送らないでくれと」

「アブドラ長兄は天国に行っても喜ばないね、地獄で鬼達と飲む方が楽しいはずだよ」

「彼は望み通り地獄かもしれません」

「イケさん、アッラーもひどいですね、アル中でも世間様には無害、ただ陽気に生きただけなのに」

「初めに契約ありき、神様の慈悲は契約を順守した者にしか与えられないのです」

「神様はきびしい保険屋さんですね」

「神は人間のすべての行為を容認しますよ、いかなる残忍な犯罪や戦争ですら。歴史はその繰り返しですからね、しかし神と契約しない者や破棄した者は、地獄に落とすのですから怖いです」

「人間だけですよ、有史以来殺りくと自然破壊を繰り返しているのは、神様は実に寛大じゃないですか」

「ヒゲヅラ君、気まぐれな神様は人間に自由を与えたのです。しかも社会生活が必要なくせに、アリやハチのような本能的な社会体制は与えなかった。我々は個々に自由な存在ですが、社会の一員にならないと生活できません。そこで社会の維持という大前提の下で、二面性の社会的規制ができたのです。自由な精神を宗教や倫理で押え、行動を戒律や法律で規制するやり方です。人間が造った物ですから常に不完全で、しかも時の権力者の都合通りに変更・規定されてきました、現在もそれは続いていますね」

「規定に神という権威をかぶせれば戒律になり、その威力は巨大になりますね」

「法律は規定に罰をかぶせて威すわけです。社会には必要なものですが、問題なのは、それが作る側の利益に基づいていることです」

「ヒゲヅラさん、今からアブドラの葬式です、行きますか?」

「ああ、一緒にいくよ」

 今日は水の濁りがとくにひどい。ここ数日ガブコプが少食に徹したからだ。どうしたことか、砂に潜ったきり夜の散歩もひかえている。短い触覚は気ぜわしく揺れているが、何かしらいつもより元気がない。この濁りのせいでエラもつまり気味、私も朝から気分が悪かった。

 真夜中、ついてないことに停電だ。ブグブクが消え、無音の闇が我々を包む。静寂は長い、永遠に続くように感じる。水が腐った食い物で汚れていく。私は体を真っすぐ伸ばし、エラを大きく広げた。

 砂の中のガブコプがゆっくり動きだした。砂からはい出て、ふらつきながら壁を支えに水槽の隅へ向かった。なんとか隅にたどりつくとそのまま座り込んだ。一息ついて、立ち上がったが、体が小刻みに震えている。やがて、甲らの後側と腹との境に裂け目ができ、新しい甲らがわずかに見えた。なかなかスムーズに脱げない、全身の力を集中しているが難しそうである。やっと体半分脱いだが、全部脱ぎ終わるにはまだ時間がかかりそうだ。

 突然ブクブク音が飛び出し、ゆるい流れがわずかな酸素を運んできた。ガブコプは甲らから体半分を出したままだ、触覚だけがゆらゆら気ぜわしく揺れている。 

ブクブクが始まっても、気分は悪くなる一方だ。私は水面に浮くと、チビボラと同じようにエラをいっぱい広げ、パクパク口から空気を送り込んだ。

 翌朝、一番に来たヒゲヅラが私達の酸素欠乏を見つけた。水面をふらふらしていた私達は、すぐに水の入ったバケツに移された。

「イケさん、やばかったですよ、でもハムール頑張るなあ」

「濾過システムが駄目になったですね、それに昨夜の停電は長かったらしい」

「ガブコプはかわいそうなことをしました」

「脱皮しょうとしたのですね」

「脱皮で体力を消耗したうえ、水質の悪化で酸素が足りなかったようです」

 机にはガブコプのぐったりした死骸が二つ乗っていた。

「イケさん、砂が臭いですよ、ガブコプはほとんど餌を食べなかったようです」

「ハサミのないカニは、エビよりも弱いですね、武器に頼るものの末路ですか」

 スルタンはガブコプの死骸をつまみ紙に乗せた。

「ヒゲヅラさん、ガブコプどうしますか?」

「埋めてやろうか」

「ヒゲヅラ君も情が移りましたね」

スルタンがガブコプを包む側で、マージッドは水槽の砂をバケツに移し始めた。

「ところでヒゲヅラ君、アブドラ長兄の葬式はどうでした?」

「アブドラ兄弟にお悔やみをした後、大部屋でお茶を飲みながら故人の生前の話しです、何人かは涙をためていました」

「お母さんは大丈夫でしたか?」

「女部屋で女性客と一緒でしたから、会いませんでした」

「お棺は例の通り、肉親や親戚が担いで墓地に運んだのですか?」

「シャルジャ野菜市場裏の墓地です。お棺から出された遺体は、ミイラみたいに白布で巻かれていました。顔をカーバ聖殿に向け、右肩を下にして砂穴に埋める砂葬です。埋めた後拾って来た石で安置場所を囲み、大きめな石を真ん中あたりにポンと置いただけです。これでは次にお参りに来た時迷うでしょうね」

「モスレムに墓参りの風習はないのですよ、ときたま思い出して故人に挨拶に来ることはあるそうですが、まあ今度来るときは誰かの埋葬か自分のですよ。それに、砂葬は王様や平民の区別なくみな同じ、これはなかなかいい方法ですね」

「肉体は大地に帰り、魂は永遠ですか」

「モスレムは死んでも大地には帰りませんよ、魂が肉体より一時離れるだけです。肉体は大地にのこり、魂がアッラーのもとに昇ることが至福なのです。そして最後の審判では、肉体は魂と一緒に復活させられ天国に入りますから、日本のように火葬で肉体を焼却するなんてとんでもない話しでしょうね」

「教えに背いた者は、永遠に大地に閉じ込められるわけでいすか。まずアッラーの保険に入り、それからコラーンに従って頑張らないと大変ですね」

「モスレムの子は誕生よりモスレムです、でもコラーンの教えに従うかどうかは個人の生き方でしょうね。例えばスルタンは定められた回数の祈りをしないし、モスクにも行ってないけど他の人よりモスレムらしいと思います」

「マージッドも酒はよく飲みますけど、良い性格をしていますよ、二人とも天秤にかけられますか」

「アッラーは天秤なんか使いませんよ、死んだら即裁定でしょうね、ほらモスレムは即断が好きでしょう」

「そう言えば凶悪殺人犯の死刑執行なんかはすごく早いですね。神様も即断でいかないと昇ってくる人数はさばけないでしょうから」 マージッドは水槽に新しい砂を敷き、ポリタンクから海水を流し込んだ、ブクブクが勢いよく鳴り始める。私は水槽に移されると、ブクブクの下にゆっくり移動し腹ばいになった。

「ヒゲヅラ君、ハムールは元気みたいですね」

「でも濾過システムが駄目になりましたから、数日間は絶食ですね」

「この際ハムールを飼育試験室に移したらどうです、あそこなら水交換も楽でしょう」

「そうですね、試験室にミニ水族館を作りますか」

 絶食は五日間させられた。六日の朝、私達は空腹のままバケツに放り込まれ、マージッドの太い腕を眺めながら外に出た。ゆれる水面に丸い縁取りの青空が見える。

「マージッド、海水がこぼれないようこのビニールでフタをしてくれ」

「ヒゲヅラさんの車も随分サビましたね」

「海水のせいだよ、ここは塩分が強すぎるんだ、車体がもうボロボロだよ」

 軽い振動が起り水は上下・左右に揺れたが、バケツにぶつかるようなヘマはしなかった。 車は少し走って見慣れない所についた、ヒゲヅラは道路横の崩れそうな古い二階建ての前にいる。マージットが正面の鉄壁を、ガラガラものすごい音をさせながら持ち上げた。部屋のほとんどは、大きな四角い水槽に占められている。この水槽を見下ろす壁沿いの棚に、ガラス水槽が八つ並び馴染みの魚が見えた。チビボラとはここで別れ、私は左端の空の水槽に移された。隣は大きなツバメウオで、背鰭が水面から出て窮屈そうである。他の水槽にはフエフキダイ、フエダイ、チヌ、、ヘダイ、モヨウフグ、ブダイが入っていた。水槽はヒゲヅラの胸あたりの高さに置かれ、ちょうど向かいの食堂で漁師達がお茶を飲んでいるのが見えた。大きな水槽にはうまそうなエビが砂の上を這っている。

「マージッド、ついでにエビとアイゴの水交換もやろう、海側のシャッターも開けてくれ」 

鉄壁がガラガラ上に上がると、すぐそこに海が見えた。前の砂浜は漁船がひしめき、カンドーラや腰巻の漁師達が忙しく透明な網を繕っている。この界隈は騒音だらけだ、船のエンジンや大声でしゃべる人間達、ブーブー通り過ぎる車の雑音であふれている。

 ヒゲヅラはエビの水槽の水交換を終えると、あのまずい粒を水面にパラパラばらまいた。マージッドが隣部屋から出てきた。

「ヒゲヅラさん、アイゴの水交換も終わりました、餌はいつもと同じ量ですね」

「うん、すこし海藻も入れてくれ」

 ヒゲヅラは私以外の魚に食い物をやり、自分達は食堂からお茶を運んできた。お茶を飲みながら、飼育室を訪れる漁師達とひとしきり話しをした。

 ヒゲヅラ達が帰った後、外界の騒音はシャッターですこし遮断されたが、こんどはブクブクの合唱が部屋中に響いた。私はブブブクの下にくぼみを掘り、いつものように体半分を入れ腹ばいになる。エビの水槽横のガラス窓から漁師達の往来が見えた。それにしても腹が減ったが、とても食い物は期待できそうもない。闇が降り人間達の往来が途絶えると、ブクブク音にまざり浜に寄せる波音が聞こえた。

 浜は朝暗いうちから、漁師達のかけ声と船外機の騒音で活気にあふれた。波音に混ざり、闇の海へエンジン音が威勢良く遠ざかっていく。船が出払うと、うそのような静けさが浜周辺を覆いつくした。

 柔らかな朝日が差す頃、浜辺は漁から帰る船で再び賑やかになった。エンジン音の往来はいよいよはげしく、浜では魚のせりがはじまっている。船の水揚げは一括してせりにかけられ、いい魚ばかりの部分買いは許されない。買いつけられた魚は、ほとんどがドバイの魚市場に運ばれ、残りは隣の青空魚市場に卸される。

 道路側のシャッターが上がりビゲヅラ達が入ってきた。つづいて海側のシャッターも上がり、朝の眩しい光が水槽に入る。

 飼育室のちょうど前に船が着き、漁師が魚を詰めたカゴを降ろしはじめた。スルタンは知り合いらしく、挨拶がてら十匹のフエダイをカゴからつまみ出した。その中の小さな奴が私の朝飯、水面に飛び上がって飲み込む。勢いに応えて、スルタンはもう一匹小さいのを落としてくれた。

「よっぽど腹へっているなあ、スルタン、その大きな奴もやってみな」

「エビには配合餌料ですか」

「今日は魚の切身でいこう、それからアイゴ水槽の水交換を頼む、終わったら配合餌料と海藻をやってくれ、私は魚市場を覗いてくる」

 スルタンがエビ用に魚を切っていると、ガットラで頭をぐるぐる巻いた漁師が入って来た。

「アッサラーム・アライクン、スルタン、ルビアン(エビ)とサーフィ(アイゴ)は元気かね」

「マルハバ、イブラヒム、今日の水揚げはどうだった?」

「ホッバート(サワラ)が少し、後はシェリー(フエフキダイ)、ベダ(クロサギ)、ジッド(カマス)の小物ばかりだ」

「それじゃ、あんまり金にならないね」

「昔に比べて魚が随分減ったよ、どうしてだろうか、お前の所の先生に聞いてくれよ」

「捕りすぎではないかと言っていたよ、昔に比べて漁師や船の数が多くなったからね」

「農水省が無計画に補助金を出したからだぜ、漁師じゃない船主がやたらに増え、奴らの雇ったインド人やバングラデッシュ人が増えたからだよ」

「我が農水省のことをつつかれると、耳が痛いね」

 ヒゲヅラが自分より大きなバショウ・ガジキを引きずってきた。

「サバヘー、イブラヒム、このカイル・バハールはどこで捕れたかなあ?」

「沖ブイの先で、ユスフの刺網に絡まった奴だよ」

「網がメチャメチャになっただろうね」

「たまらないよ、こいつに飛び込まれたら一日の漁が駄目になってしまう」

「これが二十ディルハム(千四百円)だから、網の修繕代の方が高くつくね」

「スルタン、ちょっとこいつを持ってくれ」

「ヒゲヅラさん、これどうするんですか?」

「まず写真を撮る、尾柄をつかんで持ち上げてくれないか」

 スルタンは両手でなんとか持ち上げるが、長い口バシの頭は地面についたままだ。こんな巨大な魚を見るのは初めてだ。ビゲヅラは写真を何枚か撮ると、カジキを浜の水際に引きずっていった。

「スルタン、解体するからナイフを取ってくれ」

「食べるのですか?」

「刺身だよ、これ日本では高いんだ、イケさんが喜ぶぞ」

 ヒゲヅラはカジキの頭部を切り捨て、長い胴部を十個に切断した。スルタンは油の乗った赤身の肉片を我々にも配給してくれた。その肉は柔らかくおいしかった。


           六 章


 ヒゲヅラ達の朝の日課は、エビとアイゴの入った水槽の水交換と餌やり、魚市場の水揚げ調査、それに網いけすで飼育しているクロダイとアイゴの世話、浜につないであるゴムボートで餌やりに行く。

 ミニ水族館の水槽は、今や漁師達の持ってきた魚で賑やかだ。クロサギ、ヒメジ、イサキ、オヤビッチャ、ブダイなどが雑居している。隣の魚市場と漁師達のおかげで、私達は毎朝新鮮な小魚を食うことができた。

 四月、朝夕の水がやっと暖かくなった。周囲は相変わらず人間達で賑やかである。私は平穏な水槽から人間世界を眺めた。覗きに来る子供の中には、手を突っ込んで悪さするのもいたが、スルタンとマージッドが追い散らした。

 いつもより日差しが強い早朝、ヒゲヅラとスルタンは一緒に来たが、いつものマージッドはいなかった。彼等は水交換をすると、ゴムボートで網いけすへ向かった。

 漁を終えた船が次々に帰り、浜はせりで賑わいをみせる。今日の水揚げは少ない、漁師達の降ろすカゴの中身はクロサギ、フエフキ、ブダイ、カマスとたいしたことがない。ほとんどの船は昼前には浜に上がった。しかしヒゲヅラ達は昼になっても戻らない。

 カンドーラで正装したマージッドがタクシーから降りて来た。ヒゲヅラ達が海に出たのに気づき、私達の食い物を向かいの食堂からもらってきた。マージッドは配りながら、しきりに海の方を見ていた。漁を終えた昼間の浜は、波音に合わせてゆらゆら船が揺れている。マージッドはまだしばらく遠くの海を眺めていたが、あきらめてSHABURA食堂に向かった。中では知り合いの漁師達が、チャイを片手に今日の成果を話している。

 静かな浜に微かなエンジン音が届き、二隻の船が波間に小さく見える、なんとゴムボートは小船に引かれて浜についた。ヒゲヅラ達は小船の漁師と握手を交わしてから、疲れ切った足取りで飼育室に入ってきた。

「ヒゲヅラさん、随分遅かったですね、一体どうしたんですか?」

「まいったよ、エンジンが故障して漂流だ、ちょうどイスマイルの舟が通ったので助かったよ」

「私はこれ以上遅かったら、誰かに頼んで船を出そうかと思っていました」

「ところで、どうしたの?、いつものジーパンからカンドーラに正装して」

「今度はアブドラ次男ですよ、昨日ファル・アラージュ・ムラ街道でラクダと正面衝突しました」

「命は、重態なの?」

「死にました。事故は間夜中で、明け方発見されたのです」

「砂漠で飲んでいたんだなあ、マージッドは行かなかったの?」

「誘われたのですが、ちょうど兄がクゥェートから来たので行けませんでした」

「砂漠での酒盛りか、星明かりで飲む酒はうまかったなあ、時が止まったようで」

「親戚の連中はアッラーの罰と言ってました」

「もう葬式は終わったの?」

「暑いから早めにすませました」

「あっ、アブドラ末弟はどうした、飲む時はいつも一緒のはずだけど」

「あいつは牢屋に入ってました、今日から三日間だけ特別恩赦で出ましたけど、多分数年は入りますよ」

「喧嘩して相手を傷つけたのかい?」

「いいえ、詐欺の片棒を担がされたのです。あいつスーパーマーケットの開店資金七十万ディルハム(5千万円)を銀行から借りたのですが、これを相棒のパキスタン人に持ち逃げされたのです。当人は銀行から訴えられて警察に拘置されました。こんなですから、軍職も解かれました」

「どうしょうもない兄弟だなあ」

「お袋さんは半狂乱ですよ、頼りの親戚連中は恥じさらし者に関わりたくないそうです」

「七十万ディルハムは大きすぎるなあ、おい、スルタン、なにか良い知恵はないか」

「あいつはシャルジャ首長国出身だから、シェイク・スルタン(シャルジャ首長国の首長)に事情を話して、嘆願するのが良いと思います」

「首長はそう簡単には会えないと思うけど、マージッド、この線でいってみるか?」

「やってみますか、このままではお袋さんが発狂しかねないですから」

「イケさんに事情を話して、マージッドの特別休暇をもらうか。スルタン、どれくらいかかると思う?」

「まずお城に行って嘆願申し込みをやり、順番を待ちで最低一週間、査定から首長拝謁まで十日ぐらいですね」

「よし二十日ぐらい貰うか、マージッド、なんとかこの間で頑張ってくれ」

 夕闇の迫った飼育室はシャッターが閉まれば薄暗い。私は底から少しだけ浮き、ゆっくり水槽を一回りした。隣のツバメウオは顔を会わすと、あわてて方向転換、水槽の端に逃げた。平安である、新鮮な食い物それに水も気持ちいい状態に保たれている。行動の自由はないが、この快適さに比べれば何でもない。 隣のツバメウオは不幸だと思う。彼女は寄り添う家族からの離別があった。海底で見たツバメウオは、いつもつがいで泳ぎ周りには子供達が群れていた。生きることは孤独だ、連れ合いを持てば離別の悲しみを負う。モンゴイカのつがいもそうだった。私は生まれたときから独りだ、悲しみや苦痛を独りでしょって生きてきた。存在は単独で背負うしかないのだ。

 毎日の日課からマージッドが抜け、代わりにイケさんが来た。水槽のエビは、大きくなり今がちょうど食い頃だ。ヒゲヅラは時々死んだばかりのエビをくれた。

 今日、スルタンは一人である。エビとアイゴの水槽の水交換をしたあと、私は新鮮なガルファ(グルクマ)をもらった。

 船が浜に着き、漁師のイブラヒムが小走りで飼育室に入ってきた。アローサ(ユカタハタ)を両手で抱えている。アローサは赤膚に青い斑点をちりばめ、とても目立つ恰好をしている。ハタの仲間では大きくならない種類だが、どう猛でケンカ早い連中だ。イブラヒムはそいつを私の水槽に放り込んだ。

 アローサは私を一瞥し、すばやく水槽の隅に移動した。私よりひとまわり大きい、彼も私の大きさを感知したはずだ。何かしら、いやな気がした。

「どうだいスルタン、ハムールよりアローサの方が見栄えがいいだろう」

「シュクラン、でもケンカをしないかな」

「ハムールの方が強いに決まっているさ」

「このアローサは元気がいいね、ガルグール(鉄線で作った罠篭)かね?」

「そうだよ、五個を三日間も沈めたのに捕れたのはこれだけだ」

「おかしいね、三日間でこれだけとは、誰か揚げた奴がいるな」

「最近は海まで欲で汚れているよ、覚えているだろう、昔は誰のガルグールにも魚が詰まっていた。だいたい他人の物を揚げる奴はいなかった」

「油が出てからインド人やバングラディッシュ人のお雇い漁師が随分増えたからね、お前の所だってインド人を八名も雇っているじゃないか」

「俺は船頭で乗っているから、悪いことは絶対させない。ひどいのは船をインド人やバングラディッシュ人に貸して儲けている町の金持連中だよ」

「漁師も年寄りばかりだね。親父なんかきついらしく、最近はあまり漁に出てないよ」

「俺の息子なんか漁師は嫌だとさ、若い連中は海で遊ぶよりベンツを乗り回す方が楽しいんだ。仕事もクーラの効いた部屋でなければ駄目だ。俺達はもうインド人やバングラディッシュ人なしではやって行けないね」

 若い痩せたインド人がイブラヒムを呼びに来た、船からはみ出した網の山に七名の真っ黒なインド人が乗っている。

「スルタン、今から地引き網をやってみるよ」

「今なら潮もいい、がんばってな」

「インシャ アッラー」

 飼育室の作業が終わってもヒゲヅラは来ない。シヤッターを降ろしかけた時、浜の方から誰かが大声でスルタンを呼んだ。頭を布切れでぐるぐる巻いた真っ黒なおやじである。

「どうしたアブアンタ」

「スルタン、日本人の先生はいないのか? でかいカイル・バハール(カジキ)が3本 入ったぞ」

「生きのいいのを一本頼む、ついでに頭と内蔵を除けてくれよ」

 スルタンはシャッターを閉め、おやじと一緒に浜へ降りていった。

 飼育室が暗闇につつまれると、アローサは思ったより早く挑戦してきた。たいした傷もないらしく、もう捕まったショックから立ち直っている。我々の戦いは、腹部への頭突きと尾鰭に噛みつくことである。アローサの頭突は強烈かつ正確で、同じ回数かましても、ダメージは私の方が大きかった。反撃を弱めるや、今度は傘にかかって攻撃してきた。完敗である、逃げ回ったが、アローサは疲れるまで攻撃を止めそうもなかった。

 朝日が窓に射す頃、私は疲れ果て水槽の隅に丸くうずくまった。腹の肉はささくれ、尾鰭もボロボロである。アローサはゆっくり回遊しながら、側を通るたびに腹や尾鰭に噛みついてくる。痛い!どうにもならない、体がピクピク動く、だが逃げる力はとっくに消え失せていた。

 シャッターが上がりヒゲヅラ達が入って来た。私を見ると大声を発し、逃げ回るアローサを網で掬い上げた。

「スルタン!なんでこんな奴を入れた、見ろハムールが死にかけているぞ」

「おっ、ひどい、イブラヒムですが、始末しますか」

「いや、ツバメウオを他に移してこいつを入れよう、イブラヒムの好意もあるし」

 アローサは隣の水槽に移されても、ガラスごしにしつこく威嚇してくる。私は疲労と痛みでうずくまったまま動かなかった。

「ヒゲヅラさん、大丈夫でしょうか?」

「うん、これぐらいでくたばるようなハムールではないさ」

「どうしますか?」

「しばらくは餌なしだ、食えないからね、水交換を毎日やるか」

 翌日、私は隅にうずくまり動かなかった。

「さっぱり元気がないなあ、おいハムールなんとか頑張ってくれよ」

 ヒゲヅラが水交換をしていると、イケさんとノゾムくんが入ってきた。ノゾムくんは私を見るや、大声で父親を呼んだ。

「お父さん!、ハムールはどうしてこんな大ケガしているの?、とても痛そうだよ」

「このアローサとケンカして負けたんだよ」

「アローサってそんなに強いの?」

「まず体力の差だ、二匹の大きさを見てごらん。それに戦意の差、アローサは仲間同士でよくケンカするが、ハムールは縄張り争い以外にはケンカしないんだよ」

「ひどいなあ、ケンカしたくないのにいじめられるなんて」

「自然界では逃げれば良いけど、水槽の中はどうしょうもないからね」

「怖かっただろうなあ、アローサって本当に意地悪な顔してる」

「学校のいじめっ子と同じだろう」

「ねえ、ヒゲヅラさん、ハムールにつける薬ありませんか?」

「薬はあるけど、こんな場合自然に治すのが一番いいんだ」

「ハムール、元気になりますか?」

「大丈夫さ、これまで生き延びてきたガッッがあるからね」

「もう怖い目に会わさないで下さいね」

「うん、わかった、今回は大失敗だ」

 ヒゲヅラがシャッターを降ろす時、ノゾムくんは背伸びして顔を私に近づけた。

「ハムール、頑張るんだよ、傷はすぐ治るからね」

 四日経過した。傷は一向によくならず、白っぽくジクジクうずいた。

「まずいなあ、イケさん、ハムールの傷は深そうですよ」

「抗生物質を使いますか」

「テラマイシンがあります、明日から処置しましょうか」

 五日目の朝。ヒゲヅラは水を交換した後、青い粉を水面に振りまく、水はたちまち青く染まり少し息苦しい気がした。その日から水交換の後に、青い粉はまかれ、傷の痛みも日が立つにつれ和らいでいった。

 九日目の朝、ヒゲヅラとイケさんが私の前にいた。

「ヒゲヅラ君、薄皮ができましたよ、ハムールなんとか頑張ってくれましたね」

「テラマイシンが効きました、抗生物質も馬鹿にできないです」

「あと三日ほど続けた方がいいですね」

 動くと痛みが走ったが、隅からブクブクの下にゆっくり移動した。いつものくぼみに体を丸め、ひたすら傷の癒えるのを待った。

 空腹を感じたのは、それから数日後である。体が生きようともがき始めていた。少しだけ泳いでみる、あの引きつる痛みはなかった。気配を感じ、アローサがガラスに顔を押しつけ威嚇してきた。

 翌朝、ヒゲヅラはエビを落としてくれた。ゆっくり飲み込む、うまい!。一匹づつ満腹になるまで食った。アローサが何とか自分もともがき、ガラスに何度も頭をぶっけた。今日は他の魚達もエビである。ただしアローサだけはフエフキの切身であった。

 今日はシャマール(北風)の強い日だ、しかも珍しく朝から曇り空で、シャッターが上がっても部屋は薄暗い。浜は漁に出れぬ船であふれ、ヒマを持て余した漁師達が飼育室にたむろしている。傷跡はまだ残っているが、回復の証拠にブクブクの根本を尾で堀ってみた。早速、アローサが隣から威嚇してきたが取り合わなかった。

 飼育室の前に車が止まり、マージッドがアブドラ末弟と一緒に入ってきた。ヒゲヅラ達は二人を囲み握手する。

「マブルーク(おめでとう)、アブドラ」

「シュクラン・ジャジーラ、皆さんにはご心配かけました」

「マージッド、本当によくやったな」

「順番待ちと書類審査で二週間かかりましたが、拝謁は一番に回してくれました。嘆願は五分です。首長は母親の話に涙を流され、すぐ側近に借金七十万ディルハムの穴埋めを命じ、さらにアブドラが元の軍職に戻れるように手配して下さいました」

「すごいなあ、民衆の相談に乗ることは聞いていたけど、ここまでやってくれるとは」

「ヒゲヅラ君、アラブ首長国連邦の七首長は超法規的存在ですよ、政治、経済、司法の頂点にありますからね」

「この処置に対して、アブドラは首長と契約を結びました。母親の面倒を見ることと軍務に励むことです」

「マージッド、禁酒はなかったの?」

「なかったです、軍務に忠実ならそんなに飲めないでしょう」

「もしその契約を破ったらどうなるの?」

「今まで破った者はいないようです、恐らく一生牢屋でしょうね」

「おい、アブドラ、酒はどうする?」 

「止めます、もう牢屋はこりごりです。暑くてたまらないですよ、蚊とナンキンムシに食われるし、まずい飯でも腹一杯食わしてもらえないんです。なあマージッド」

「当たり前だ、罪人には人様と同等の資格なんてないさ。お前は銀行をだまして金を盗んだ悪党の仲間なんだ」

「俺、本当に馬鹿だった。兄貴達みたいに自由になりたかったんだ。でもわかった、俺には軍隊の方が性に合っている」

「それにお前は、お袋さんより先に死んではならないんだぜ」

「分かっている、では皆さん、本当にありがとうございました」

 ヒゲヅラ達は車を囲み、再びアブドラと握手を交わした。アブドラを見送ったあと、ヒゲヅラ達は戻ってきた。

「イケさん、もうアブドラと飲むことはないと思いますよ」

「神よりも首長の方が怖いようですね」

「現実の刑罰は地獄より怖いですよ」

「ヒゲヅラくん、それにしても詐欺の相棒は、天国でしょうね、あれだけの大金があれば、パキスタンでは最高の暮らしができますよ」

「スルタン、こんなのはまだ序の口だろう」

「外国人の詐欺は多いです。去年ウム・アル・カイエンのシェイクがインド人に百万ディルハム騙され、アジュマンでもイラン人に百五十万ディルハムやられています」

「イケさん、シェイクの周辺には、英国人をはじめ外国人アドバイザーなる者が利権を貪っていますよ」

「急激な経済成長に対応する人材が足りず、重要ポストをお雇い外国人に任しているから、どうしても腐敗が出てきますね。彼らは自分の地位保全のため、ここの若者達に知識や技術を移転しょうなんて思わないから、人材の育つのも難しいでしょう」

「経済の発展とともに、人々の心もすさんでいくでしょうね」

「確かに砂漠の民は近代文明に埋没するかもしれませんね、でもスルタンやマージッドのように逞しさと優しさを持ったモスレムは消えませんよ」

 ポツリ、暗い空から水滴が落ちた、続いて大粒の雨が激しく乾いた地面を叩きつける。白い湯気がゆらゆら立ち昇り、周囲は霞みの中に消えていく。道路は川と化し、あふれた水は地面を削り、砂浜をすべって海へ流れ込んだ。スルタンは雨に打たれている。ずぶ濡れのまま両手を空に差しのべ、楽しそうにほほ笑んだ。

「アル・ハンドリラ、今日は最高の天気だ。恵の雨ですよ、ヒゲヅラさん」

「そうだね、スルタン、実に久しぶりのマタールだ」

「雨はアッラーの最高の贈り物です」

「ヒゲヅラ君、雨はアラビア人の命の源ですから、雨天を最高に良い天気だと言うのが分かりますね」

「せっかく磨いたベンツが汚れると、若者達は文句を言いますよ、なあスルタン」

「雨への感謝は、水の命を知っている人間にしかわかないと思います。小さい頃、井戸から苦労して汲んだ水は、しょっぱかったけど本当に貴重でした。今では油を燃やせばいくらでも海水から作れるし、若者はそれほど深刻に考えてないですね」

「イケさん、我が日本も同じことをしていますね」

「そうですね、総合開発と称する自然破壊をした後に、さあ自然を大切に一億総反省しましょうなんて、マスコミが先頭になって騒いでいます」

「人間というのは実に愚かで、昔からアホなことばかり繰り返している。神様はとっくに愛想を尽かしていいはずですよ」

「隣でやっていた戦争はその最悪例ですね。国民一致団結して戦争をやり、後に国民総反省の繰り返し、日本なんかは異常な自虐的猛反省を現在に至るまでやっている」

「でもイラ-イラ戦争後のイラクなんか全然反省してないですよ、むしろ逆ではないですか」

「独裁者は自己を絶対正義にしなければ存続できませんから、あのようにバース党で国民を縛り、反対者は抹殺する以外に道はないのです」

「あの国では国民が真実を認識することを、教育とマスコミが率先して阻害していると、イラク人のハッサンが言っていました。真実を流さないマスコミは、国民には害毒ですね」

「真実にはリスクが伴います。日本では見ぬ振りだけど、イラクの場合は抹殺ですね。でもほとんどの途上国が、日常茶飯事に真実を抹殺していますよ」

 鋭い閃光が暗い空を走る、続いてものすごい破裂音が黒雲の彼方から響く。雨は前にも増して激しく降ってきた。

「ヒゲヅラ君、雨宿りは長くなりそうです、帰りましょうか」

「そうですね、マージッド、アブドラの救済祝いに一杯やるか」

「アッラーの贈り物に乾杯しましょう」

 シャッターが閉まる。飼育室はガラス窓を叩く雨音にブクブク音の合唱で賑やかだ。雨は深夜まで降り続いた。

 翌朝、窓からさす日差しは暖かかった。シャッターが上がり、浜の騒音がいっせいに入ってきた。水揚げをする漁師、せりの人垣、いつもと同じ朝の風景である。澄んだ青空にはカモメが浮かび、ときどき急降下しては漁師の捨てた小魚を拾っている。飼育室前の水たまりに青空が見えた、その周りにはたくさんの足跡がグシャグシャに重なっている。

 恵みの雨はそれから二度降り、最後の雨でスルタンは風邪をひいてしまった。


             七 章


 七月、アラビアの熱い夏、太陽は晴天の青空でギラギラ輝き強烈な光りを地上に投げつける。水は一日中温く、気分の悪い日ばかり続く。ヒゲヅラ達は汗びっしょりになりながら飼育室で動き回っている。

 静かな朝だ、漁に出る漁師もなく浜はひっそりしている。ヒゲヅラとイケさんはいつもより遅くきた。

「イケさん、さすがに誰も漁に出ませんね」

「ウム・アル・カイエンの全員がシェイク・ラシッド(ラシッド首長)の葬式に出ているはずです」

「スルタンとマージッドも線香に行きました。それからマージッドは、母親に会いにクゥエートに帰るそうです」

「ヒゲヅラ君、弔い休暇は一週間もありますよ、どうします?」

「酒屋も一週間閉鎖です。ビールの買い置きがないんで参りましたよ。少し分けて下さい」

「残念、私もありません。この際喪に服して酒を断ちなさい」

「冗談を、イケさんが駄目なら、ドバイの知り合いに頼むとしますか」

 入り江は波ひとつない、人気の絶えた水面では鵜が小魚を追い回している。

「ヒゲヅラ君、それにしても静かですね、ほら桟橋のカモメ達も不思議そうですよ」

「あの桟橋、昔は真珠採りの船で賑わったことでしょうね」

「百年程前のアラビア湾岸は真珠貿易で繁栄していますから、このへんも潤ったと思いますよ。もっとも五十年程前には真珠産業は衰退してしまいますけど」

「ここはアブタビやドバイと違って、昔から貧しかったようです。毎日が苦しかったけど、みんな助け合いながら生きていたと、ホメイドじいさんは言ってました」

「しょっぱい水しかないのに、よくここで生活できたものだと思いますね。当時は輸送手段がないから、漁業で生計は立てられませんし、真珠採りで何とか食っていたのでしょう」

「人々は富とは無関係に、砂に埋もれながら生きていたのでしょうね。今は石油の恩恵を受け、生活ははるかに楽になったはずですが、人々の心はバラバラになってしまった」

 ヒゲヅラ達は昼前に日課をおえた。周囲には人影はなく、暑い日差しが地上を照りつける、すべてが焼けるように熱い。まばゆい光りがいたるところに反射し、目の奥まで飛び込んでくる。地面に写る影は深くて、実在が吸い込まれそうだ。静けさの中にブクブク音が染み出ていく。

「ヒゲヅラ君、我々も帰りますか」

「暑い、暑い、こんな時こそビールがうまいのに」

 アラブの昼間、人々は暑い日差しを避けて昼寝をする。それは都市とて同じこと、クーラーの効いた事務所でも、昼間は四時まで休むのが普通である。しかし、休んではならない所がいくつかある。そのひとつが発電所、ところがこれがクーラーの一斉使用で、オーバー・ヒートして突然休むのである。貧乏首長国ほど頻繁に起こり、町中が蒸風呂と化すのでたまらない。

 音がスーツと引いてブクブクが消えていった。町の騒音は消え去り、涼しげな波の音だけが流れてくる。熱い大気がジワジワ飼育室に侵入してきた。

 やっと日が暮れた、飼育室の窓からは明かりひとつ見えない。魚達の微かな吐息が闇に消えていく。最初にツバメウオが顔を水面に突き出し、苦しそうに口をパクパクさせる。やがて全員が水面に浮いた。私はまだすこし余裕があった、底に腹ばいになりエラを広げた。隣のアローサは、水中を往復しながら時々顔を水面に出している。

 私が水面に浮上する頃、ツバメウオはすでに横たわり、他の連中も窒息寸前であった。アローサはパクパクしながら水面をフラついている。私は水面に鼻先を出し、エラを広げ口から空気をパクパク吸った。不快な泡はないが、苦しいのはいつもの通りだ。

 朝日が射してきた、浜はいつものように賑やかになる、だがまだブクブクは出てこない。アローサは先ほどから底に横たわったままである。どうやら生き残ったのは、私とエビだけのようだ。

 ヒゲヅラとスルタンはいつもより早くきた。

「あっ!全滅だ、また停電したのか」

「おかしいなあ、昨日停電はなかったですよ、ちょっとシヤブラ食堂で聞いてきます」

「ああ何てこった、一年の試験がパァだ」

「ヒゲヅラさん、この一帯は昨日の昼過ぎから停電です。魚市場の横にあるトランスが焼けたのですが、水・電気局の連中は休日だと言って来ないそうです」

「スルタン、すぐ水・電気局に行き電気屋を連れてこい、エビを生かさなくては」 

私は海水の入ったバケツに移された。なんとか助かった、まだ息苦しい、底に横たわりエラを膨らませた。

 スルタンが二人のインド人電気技師を連れてきた。ヒゲヅラは彼らを怒鳴り散らしたが、ヘラヘラ笑うばかりで、すぐに修理に取り掛かろうとしない。

 イケさんの車が食堂の前に止まる。一緒にノゾムくんが降りてきた。

「ヒゲヅラ君、生き残ったのはエビとハムールだけですか」

「アイゴも全滅です。水・電気局の奴等、責任者がいないから、パーツが出せないとぐずぐずしているんです」

「有力者の所なら必死で頑張りますよ、誰か知り合いはいないですか」

「スルタン、近くにシェイクはいないか?」

「ヒゲヅラさん、シェイク・アブドラ(首長一族)に頼んできます」

「頼むよスルタン」

 スルタンをタクシーに乗せると、ヒゲヅラは浜から水を汲んできた。私は小さな手で新しい水に移された。ノゾムくんの顔が水面に揺れている。

「ねえ、お父さん、ハムールは元気だね」

「底に住んでいるハムールやエビは酸欠に強いんだよ」

「でも電気がこなかったら、ハムールも死んでしまうよ」

「確かにそうだ、どうしたらいいかなあ」

 白いベンツが SHABURA 食堂の前に静かに停車した。スルタンが背の高い恰幅のいいアラビア人と一緒に降りて来た。 

「ヒゲヅラさん、シェイク・アブドラがアハメッド部長を遣してくれました」 

 ヒゲヅラ達はアハメッド部長と握手を交わした。それから飼育室の状況を見せた。

「あなた方日本人が貴重な試験を行っていることは、シェイクもご存じです。今回は本当に申し訳ないことをしました」

 アハメッド部長はインド人技師を呼び、パーツをすぐに取り寄せるよう命じた。

「トランスの修理はすぐに終わります、ご安心下さい。」

 アハメッド部長は、しばらくインド人達の修理作業を監督し、パーツが届いたのを確認すると飼育室に入ってきた。

「修理はもうすぐ終わります」

 イケさんとヒゲヅラは礼を述べた後、アハメッド部長にひとしきりエビの養殖試験と将来性について説明した。食堂からスルタンの注文したお茶が届く。お茶を飲み終えると、アハメッド部長は握手をし暇を告げた。

「スルタン、シェイク・アブドラは何かあったらすぐ来いと言われたぞ」

「シュクラン、シェイク・アブドラによろしく伝えてくれ」

 再び握手だ、走り去るベンツを見送りヒゲヅラとスルタンが戻ってきた。

「ヒゲヅラ君、スルタンもなかなかの者ですね、シェイクの威光を間近で見ましたよ」

「スルタンはここでは名士なんです」

「しかし、上の命令なしでは働かない連中には困ったものです」

「出稼ぎ外国人の常套手段ですよ、地位保全と責任回避それに怠惰です。 命令されるまで何もしないのが得策ですから」

「それは植民地時代からの防御本能かもしれませんね、支配者は自由意志を嫌いますから。自由意志に基づく行動は、民主社会でこそ保障され、勿論この行動には責任がつきまといますけど」

「世の中には、 行動の責任をごまかす人間が多すぎます、とくに政治家なんか」

 静かな暑い午後だ、浜辺に人影はなく波の音だけが単調に聞こえてくる。突然ブクブク音が飛び出した。ヒゲヅラは魚の死骸を集め海に捨てている。スルタンは家主のいない水槽から水を抜き始めた。イケさんは空の水槽を見つめ何やら考え込んでいる。

「ノゾム、ハムールを海に帰そうか」

「逃がしちゃうの?」

「このままでは又いつ停電するか分からないし、みすみす見殺しにはできないだろう、ヒゲヅラ君、どう思いますか?」

「所有者はノゾム君ですから、彼に決めてもらいましょう」

 ノゾムくんはしばらく私を見つめていた。

「海に帰していいですよ、ヒゲヅラさん」

「よし決まった、刺身を逃がすのはチョット惜しいけど」

 ノゾムくんはバケツを下げると立ち上がった。揺れる青空の中に、細い腕と小さな手が見え、波の音が近づいてくる。バケツが砂の上に静かに置かれた。

 私は小さな手に抱えられ、波打ち際に放された。寄せ返す波にもまれながら突然の状況に途方にくれた。

「お父さん、ハムール動かないよ」

「状況が分ってないのだよ、少し押してやりなさい」

 ノゾムくんの小さな指に押され、フラフラと少しだけ泳いだ。すぐ近くの石に丸まって水面を見た、揺れる波間にノゾムくん、後にヒゲヅラ達がいる。

「ハムール、大丈夫かなあ?」

「すぐに本能に目覚めるはずだよ」

「大丈夫さ、こいつには根性がある」

「インシャ、アッラー」

 どうやらあの時に戻されたようだ、体の中で何かがうごめき始めている。生きなければならない、思い切り尾をふって石を離れ、深みに向かい全力で飛び出した。何をすべきか、今私は思い出した。

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