第2話
老ピエロの独り言
玉栄茂康
プロローグ
-と+=0の人生
私の一日は不愉快と愉快の繰り返し、まあ、-と+で差し引き0になれば今日は良しとしよう。こんりんざい、彼女はてきず恋もなかったが、今は女房と子供が3名いるから、まあ、-と+で差し引き少し+で良しとしよう。私の人生は、たくさんの小さな失敗と小さな成功の繰り返し、-と+で差し引き0に近いから良しとしよう。ところで、あなたの人生はいかがでしたか?
幸福
人は幸福を望む。
幸福に大小や価値があるのだろうか、
なぜか人は過大な幸福を求めて苦しむ。
人は金持ちの幸福をもとめて失望する。
自分の手のひらにある幸福で十分幸せになれるはずだが。
存在
全ての存在は走馬灯のように過ぎ去る、今私は一瞬で過去となる現在に存在してすぐ老いて消滅する。私の持てる真理と思われるものは私の死滅、これだけは絶対である。
私の存在が少し先の未来に続くという保障はない。存在の軌跡はもうすぐ終点でその先はない。それは悲劇ではなく喜劇で生ける者の帰結である。新しき者達のために古き者は消滅しなければならない。
課題
2千余年前にソクラテスが死を賭けて提起した課題、
人は如何に生きるべきか、そして、如何に死すべきか。
我々は、未だに回答できずにいる。
若者
社会が発展していくために大人は若者が夢を持てる社会を創らなければならない。若者が成長するために夢は必要である。夢がなければ精神は萎んでしまう。夢は若者が未来を創るエネルギーを生み出す源である。世界は夢を失くした大人で溢れている。若者は大人の欺瞞に満ちた世界で自ら夢を創造して未来に進まなければならない。
老人の毒素
IT時代となり貴重な経験と知識が老人達に独占されていた時代は終ったがいまだに老人達が社会を掌握している。羊の如き青年大衆に未来を担う能力が欠如していると老人達はわめく。彼等にはそのような羊青年を育成したのは自分達であるという認識はない。理由を付けて何時までも権力の樹にしがみ付いているセミの如き醜悪な老人は社会に毒素をたれ流しているという自覚はない。若者が自分達の新しい社会を創造するには勇気の刃で権力の樹にしがみ付いて喚いているセミの如き醜悪な老人を切り離すことである。
像とアリの話
世界は多様な生き物たちが自由に生きていたはずなのに、いつの間にか世界は像たちの支配する所になっていた。地上は、着飾った像たちが闊歩し,他の生き物たちは小さくなって生きるしかなかった。その中でも取り分け傲慢で巨大な像は自分の思想を世界に押し付けていた。巨像が周囲かまわず闊歩するので小さな生き物たちは大きな足で踏み潰されていたがその悲鳴すら像には聞こえなかった。ある日、踏まれそうになった一匹のアリが巨像の足に噛み付いた。像は悲鳴を上げて驚いた、自分に噛み付く奴がこの世界にいたとは。像は慌てて世界中の像を一同に集めて叫んだ、こんな危険な奴は踏み潰すべきだと。集まった像たちは、口々にそれに賛同した。アリは小さな巣穴に逃げ込んで大声で叫んだ、踏み潰せるものならやってみろと。他のアリたちは、像の機嫌をそこなわないように声を潜めてそのアリから遠ざかった。やがて像たちの激しい攻撃が始まったがアリは穴から出て降伏することはなかった。像たちは、近代兵器を使いアリの穴を攻撃したがアリは穴から出てこなかった。そして、地の底からアリの叫び声が地上に届いた、踏み潰せるならやってみろと。像たちは躍起になってすべてのアリの穴を攻撃した。巻き添えを食って無関係な多くのアリたちが殺され住家を失った。像たちの総攻撃の甲斐あって、反抗的なアリは地底奥深く葬り去られた。戦闘は像たちの圧倒的勝利に終わった。像たちは勝利記念に国際的なお祭りを開催して二度とこのような反抗が起きないように監視することにした。像たちは反抗的なアリの死骸をまだ確認してなかった。生き残ったアリは世界に対する憎悪を糧にさらに地底深く潜行していた。やがて、暗い地下で醸成された憎悪を装備したテロアリが像たちの世界に這い上がってきた。テロアリは既存世界の破壊と混乱を目的とする虚無主義に染まっていた。世界は像たちとテロアリとの戦争の場となり、多くの罪無き生き物たちが戦闘に巻き込まれて死んでいった。戦闘は何時果てるともなく続いていくだろう。
闇
荒涼たる大地は長い間闇が支配していた。
突然、明かりを点した者がいた。
光が闇を貫き大地は明かりに照らし出された。
闇から開放された大地は歓喜に満ち溢れた。
人間達は地上から闇は消えたと歓喜した。
だが、闇は光の届かぬ人間の精神奥深くに潜み哄笑していた。
生きる意志
全ての生物に内在する生きる意志は生命連鎖として自然には存在する。
自然は生きる意志の存在で弱き意思を排除する。
生きる意志は遺伝子の基盤で触れてはならないもの。
人類がそれを撹乱し弱き意思の遺伝子が拡散したとき自然は人類を滅ぼす。
歴史
歴史は過去から現在まで深淵に架かる長い石橋で、石橋を支えている小石は大衆の人生で何等の輝きと色彩もなく存在しただけである。
流れ
すべては流れゆくもの、
この世に留まるものはない、
どんなに固執してもいずれは流れてしまう。
ニーチェと神
ニーチェは神の死を明言した。神を信じていたが問いかけても反応しないことからり神の不在を予感した。矛盾に満ちた世界と実存という迷路の中で苦悩し神に救済を求めたにもかかわらず、神は何らの救いの手(教示)を差延べてくれなかった。ちょうど、あの時のイエスのように。しかし、イエスは神を最後まで信じて、彼を侮り唾棄した大衆に愛を投げ続けた。ニーチェは大衆に高みに飛翔する知恵を与えようとして愚鈍なる大衆の中で苦悩した。神を否定することはキリスト教徒にとって自己存在の基盤を破壊することである。彼はその基盤に代わる者としてツアラトゥストラを創造した。だが、ツアラトゥストラは神に代わることはできなかった。彼もまたニーチェ同様地上に降り立ち、大衆の中にとどまることを忌避した。大衆の幸福は地上にしっかり立つことで不安定な高みは望まない。イエスは高みから地上に降りて大衆に手を差延べて受け入れられた。ツアラトゥストラは低きを忌避して高みを志向せよと叫んだが大衆には理解できなかった。
公務員
公務員は昔の役人と変わることなく、弱者には冷たく、権力者には嬉々として奉仕する集団である。この集団は数億という国民の金を平気で無駄遣いしているくせに、弱者には国民の金であるという理由で規約条項を盾に出し渋る。国民の金で雇われているのに、権力者集団に奉仕する行為は政治家どもともに国民に対する背任である。国家に寄生する集団、公務員と政治家というシロアリは国が潰れるまで飽くことなくむさぼり食い続けるであろう、。
哲学
「汝自身を知れ」という言葉は古語で現代には通用しない戒めである。我々は、科学と言う道具を使って、古代から不可知と言われたものを解明して現代に至る。その間、哲学はいくつかの体系的な体裁を確立しながら近代社会に適応したかのように見えた。しかし、今哲学は現代社会における人間存在について新しい見識を示すことができない。科学的に解明し難い領域としての霊とカルト的な古代からの妄想は社会の暗部に巣食い生きながらえていくであろう。精神は文明の進歩とともに強化されたとは言えない、むしろ、虚弱化と幼児化に向かっている。科学という鎧を被った虚弱な精神の群れる現代世界に哲学はどう対峙すべきか問われている。
歴史
歴史は大衆の流れてきた道程である。偉大な英雄、宗教家、思想家、哲学者、科学者たちも又その道程の中で生きていた一人にすぎない。人は大衆の中の一人であり、いかにもがこうとその時代の大衆から離れることはできない。彼等が自分は大衆から超越していると意識していたとしても、また、後世の学者たちがそう解釈してくれても錯覚にすぎない。偉大なる人々も我々と同じように社会から認められ賞賛と評価を得ることで歓喜する。人は社会との関りで存在し。人の動かす社会変化が歴史を創造していく。
民主主義
如何なる国家においても人は平等にはなれない。民主主義は人を平等にする手段ではなく人を平等に取り扱う欺瞞的手段に過ぎない。民主主義は人を幸福にする手段ではない。幸福は個人の内なるものであり、どの時代、どんな場所でも人は幸福になれる。民主主義は少なくとも現在、国家が国民を統制する大儀で抵抗の少ない手段でありただそれだけのものである。
病める時代へ
これから我々は病める時代に入る。もう手遅れかもしれない、病める精神が世界のあらゆる場所に出現し拡散していくであろう。富める国家は未来への展望を失い、貧しい国家は生きる希望を失うであろう。富の毒に汚染された人間と貧困の腐臭にまみれた人間たちは治癒のできない永遠の病に侵される。人間はあまりに傲慢すぎた、自己の存在規範を破壊したが、それに気づかず、ますます傲慢になった。人間を育んできた自然すら、もう二千年前から人間の果てしない愚行にもだえ苦しみ続けてきた。人間は自然から限りなく略奪し、破壊しているにもかかわらず、他方では自然を愛していると平気で接吻する。自分の母体である社会に対しても同様な愚行を繰り返して滅亡に突き進んでいる。
祈り
人の悲しみわかるなら、貴方はどうして祈るだけ、世界は涙で溢れている。
人の嘆きがわかるなら、貴方はどうして詠うだけ、世界は怒りで燃えている。
あれから2千余の時が過ぎたというのに、悲しみの涙は地上に溢れ、怒りの炎は空を焦がす。
人よ、人よ、貴方方は悲しみと怒りを背負いいつまで祈り続けるのか。
人類
喜びと悲しみという感情は人類共有のものである。
そこから、生まれる思いやりは人間の思いやりであり、神からの施しではない。金持ち、偽善者、宗教、社会、民族、人種、国家はすべて自己中心エゴの塊。これが消滅すれば人類は幸福になれるかもしれない。
労働
汗水流して働くよりも経済という化け物リバイアサンの走狗になる方が大金が手に入り社会的にも高い評価が得られる。人は汗水流して働くことを口先で推奨しながら、高い給与と社会的評価を求めてその手段となる高学歴の獲得に必死になる。労働は体を使うものであるがいつの間にか死語になった。今や、汗水流して働く階層は社会の下位に置かれている。経済のグローバル化は労働者を自称したがる偽労働者階級、汗をかかないホワイトカラーの支配するバーチャル世界への過程である。
虚飾
人間は古代より虚飾を好んだ、それは人類に共通するものである。虚飾の中で人は陶酔し狂乱する。
そのまま醒めなければ幸福であろうが時の流れは確実に虚飾を剥ぎ取る。それでも、人は虚飾を好むのである。
種保存
私の存在は過去・現在・未来をつなぐ掛橋である。総ての生物に与えられた責務、種保存のために生きること、私は種保存の掛橋としてDNAを子供に渡す役割を終えたので死ぬことで橋桁になる。
地球上の生き物
地球上に生息するすべての生物、人類を除く微生物から鯨・像に至る生物は自己保存本能に従い自己の属する生態系の中で共生しながら生きている。突然変異は何らかの原因で変化した生態系に対応する集団的な自己保存本能であり生態系そのものを破壊する行動ではない。生態系は共生により再生産が円滑に行われる機構である。捕食者-被捕食者の関係はその過程の一部であり、ある生物だけが優位的に存在することはあり得ない。ある生物の優位性が突出すると生態系はバランスが崩れ崩壊する。人類はその出現初期においては生態系の一員であったが知能の発達により生態系の中で優位性を持つようになった。そして今や、地球上のあらゆる所で生態系の破壊を繰り返している。地球は巨大な生態系であるが人類により連鎖が断ち切られる寸前にある。人類がこのまま破壊を続けていけば悪性のがん細胞のように自分の宿主・地球を殺すことになる。それとも、地球は人類の行為を逆手に人類に対してウイルス感染、遺伝子機能低下、食物連鎖汚染、異常気象、自然災害などにより人類を極限にまで減少せしめるであろうか。
怒り
日本人は怒りを忘れた国民ではないだろうか。事態は最悪である、国民を大事にしない国家とそこに巣食う政治家と官僚の集団。北朝鮮による拉致事件は、その最たる例である。反面、国民にはまだ良心が満ち溢れている、今回の中越地震などにおける国民の支援活動がそれを実証している。政治家と官僚たちは、それをよく熟知しているのであろう、現在でも国民の将来より自己の利権を保守することに懸命である。それでも、国民は怒らない、実に冷静に見守っているが怠惰と無関心にすぎない。国民は不正に対して真摯に怒らなければならない。そこに冷静という臆病ないし偽善は必要ない。
富める者と貧しき者
およそ人類の歴史において、国家の保持する法律から基盤となる経済に至るまで、その機能は富める者(支配層)の都合に合わせて作られたものである。民主主義は富める者が自己正当化のために平等という幻想を演出しているにすぎない。富める者の存在 (上部構造) は、貧しき者(下部構造)の存在を必要とする。また、一見矛盾しているが、下部構造も上部構造を必要とする。上部への移動が、下部に希望と目標を与えているのである。国際社会におけるグローバル化は、その構図を地球上に創り上げていくであろう。国際連合ですら、富める国の都合に対応して動いており、貧乏国はそれに翻弄され続けている。富める国家は民主主義の人権を魔法の杖のように振りかざし、貧乏国を羊群のように追い立てるのである。
ピエロの人生
ピエロの悲しみは笑いを誘う、
ピエロの怒りは笑いを誘う、
ピエロの嘆きは笑いを誘う、
そう、結果は同じなのだ、
それでもピエロは演技をする、
自分のために、大衆のために、
大衆の中で生きるために人はピエロになる。
在るがまま
人は在るがままに個として存在する。人は集団において否応なく相対的な存在として扱われる。現代社会では子供たちも早くから相対的に取り扱われる。子供たちの存在価値は試験で獲得した偏差値で決められる。これこそ大人たちの作った愚かな評価方式である。子供たちの存在は在るがままの個でなければならない。この基本的な存在を現代社会は守れない。子ども達の未来への可能性を紙上で決めつける社会に未来はない。
話題
人には他人に見せたい・話したいという内なる欲望がある。自分自身、経験、行為、結果、作品など、あらゆるものがその対象となる。さらに、単に見せる・話すだけではなく、その対象に他人から興味・評価が得られることを期待する。人間関係を円滑に進めようと思うなら、それに対応をしなければならないがさほど苦痛なことではなく、自分の知らない世界を垣間見るということで楽しむことができるが耳をふさぐ時も必要である。
賑わいの後
祭りの賑やかな情景とその後の寂寥とした情景。私はいつもそうだが、友人たちと酒を飲み楽しく談笑したあと、独りになると酒場における自分の舞踏を哄笑する。ピエロが自分を哄笑するなんて、笑いぐさにもならない。酒を飲んだら、すべてを忘れて寝るだけだ、酒がもったいないではないか。そうだ、愚鈍な思考など相手にせず、さっさと寝てしまうのが良いのだ。
国家
国家はその国益を第一として行動する。それは人類が国家を形成するにあたり、古今東西に共通する基盤である。ただし、この国益とは国民ではなく、統治する権力者たちの利益を意味する。国家間の紛争において、自国の保持する慣習や価値観は通用しない、さらに国際的な道義などというのは期待できるものではない。国際的な道義はその国の保持する国力に対応し、国連は国家間の紛争解決には何の役にも立たない。我々は、そのことを明確に認識しておく必要がある。国際的な対話の陰には国力という暴力と同一のものが隠れている。
物質文明の陰
物質文明は日々発展しているにもかかわらず、我々の精神は古代からほとんど成長してない。社会自体は表面上は発展に対応し同化していくように見える。そこにはねじれが生じ個々の人間はその軋轢を受けている。虚弱な精神の人間はストレスを制御できずに爆発する。犯罪が社会の至る所で頻発する。それは社会の弱い部分に対して、あたかも小動物を惨殺するように暴力的・残虐的に行われる。軋轢の下の精神的弱者は自分よりも弱い者に対する優越的行動に歓喜を感じる狂人となる。
発展
科学は何のために発展しなければならないのか、科学者たちはこの単純な疑問を真摯に考える義務がある。進歩という名のもとに造られた怪物どもが世界を蹂躙する人類にとって危機的な状況が出現している。哲学を持たない科学者たちのは科学が人類を滅亡の危機に陥れる歴史的な功罪である。
国民
人は自己の属する国家を愛する。国家を愛せない国民は不幸であり、このような国民が多数を占めたとき国家は存在の根本を失う。国家は国民を守護し、幸福で平安な生活を国民に保障する義務を負う。そして、そのような信頼できる国家であれば、国民は国家を自然に愛するようになる。実に単純は原理ではないか。闇雲な経済発展により世界の富を集積することで国民は幸福になると経済学者たちは考えている。政治家たちは自己の権益を死守せんと白日の下で紛争を繰り広げている。死を賭して国家を憂うる志士たちはすでに過去の話しである。
砂漠
渇きに悶える砂漠に、
雲の涙が雨となり、
渇いた苦痛を癒す、
汚れた足跡の砂漠に
雲の嘆きが風となり、
汚れた傷跡を癒す、
眩しい真昼の砂漠に、
空の眠りが闇となり、
降り注ぐ星明に独り吠える、
暗闇の砂漠が哄笑する。
踊れ悪魔の娘達、
罪のバランスシート
犯罪は人権のバランスシートの上で同等に取り扱わなければならない。被害者と加害者は人権の上で同等でなければならず、結果において生じた被害と加害も同等に処理されなければならない。現在の弁護士先生方の立場は、加害者の加害量を如何に軽減すべきかに奔走しており、被害者の人権を著しく踏みにじる行動をしている。刑法は加害者の加害量を被害者の被害量と同等にすべく、加害者に責任を認識・償わせることが責務である。例えば、殺人に対しての刑量は如何なる理由や年齢に問わず、被害者と同等な加害量は死でしかないはずである。刑量の削減はバランスシートの上で被害者の立場から行われるべきであり、加害者の立場から行われている現在の減刑方法は法の下の平等から明らかに逸脱している。弁護士の能力は量刑の削減にソフィストチックな技法を多用する詭弁能力により判断される。この詭弁により裁判における弁護士主導の引き伸ばし策が常習的に行われる原因になっている。このような刑法が存在する社会は、法の下の平等からかけ離れた犯罪者優遇社会である。刑法にそのような撹乱が生じたのは、本来冷徹であるべき刑法にヒューマニズムという幻想を注入した人権擁護団体の独善的行為に帰する。
支配者
人類は如何に文明が発展しても、総ての人々が社会的存在において同等にとり扱われることはない。支配者(指導者と名を変えても良いが)の下に社会が動く図式では、支配者(指導者)の数に関係なく、支配者と被支配者たる大衆との支配関係は存続する。支配者は大衆に寄生することにより存在し、大衆はその社会形態を維持するために暴力的な拘束力を有する支配者を必要とするのである。
哲学
過去において、人間に対する洞察は、ある者を死、ある者を狂気に至らしめたが、また、最高の学者にも至らしめた。文明の進歩した現代社会では、人間に対する洞察で死や狂気に至る者はいないが、最高の学者も出現しない。大学の遊具と化した哲学にはもはや人類の未来を洞察する力はない。
歴史
歴史において、大衆は歴史の礎でありながら埋没して時代区分の中で無名に取り扱われているが、時代の主流には大衆が常に存在していることを忘れてはならない。歴史は、有名人だけではなく、無名の大衆も必要とする。そう考えた場合、人は自己と他人の存在をもっと大切にしても良いと思うのだが。
進歩
なぜ我々は、それほどまでに進歩しなければならないのか。時間と空間を縮めたところで、生活が忙しくなるだけで人生にとってはあまり有意義ではない。
現代人は、古人に比べて時間を有意義に使用していると断言できるだろうか。
管理機構の腐敗
国家のあるべき基本的な態勢は、国民を大切にするという概念の徹底である。この態勢が、国家を運営している管理機構に欠如している場合、社会には無数の棄却された人々が生まれることになる。管理機構は、法律の枠外としてこれを認識しようとしない。また、これを救済するために、新たな法律を立法することも、国民からの圧力を受けない限り、自ら率先して行うことはない。憲法においては、国家は国民の生活を保障する義務があり、それを履行できない管理機構はすでに不要である。管理機構が保身と利益を追求する日本国は果たして民主主義国家と呼べるに値するであろうか。
富
自由社会においては持てる者はさらに欲しがり、持たざるものは更なる貧困に追い込まれて行く。地上の富は限られており、富の一部階層への集積は片方に貧困という対極を生み出す。将来経済が進化して貧困が消滅し人間が平等になるなんて、偽善的なノ-テンキどもの考えることである。国際社会において、社会において、自己の周囲を見回しても、いかに富の不均等が存在するか馬鹿でも分かるはずである。自由競争社会では金持ちは際限なく金を稼ぐことが保障されており、貧乏人には際限なく貧困になることが認められている。この人間社会のみに見られる格差は古今東西常に存在しており、未来社会においては、自由という大儀の下にさらに拡大する方向に進行するであろう。
無責任
現代は無責任な人間の闊歩する社会である。それは第二次世界大戦後のねじれた社会から始まった。戦争責任、死んだ人々には罪はないというが殺された人々に対する責任はどうなんだ、国家の無責任は今でも続いている。大臣から代議士、官僚から小役人、大企業の社長から部長に至るまで日頃偉そうにしている人間が事あれば見苦しいまでに責任を回避しようとする。権威と地位を傘に着た小心者達のパニック症候群、その挙句の果ては、外部と下部への責任転載に奔走する破廉恥行動、今ではこれが日常茶飯事として社会に定着している。
醜悪なる老人
権力と地位を糧に生きている元気な老人達よ、これ以上社会に老醜を撒き散らさないで欲しい。貴方方は、社会は自分達を必要としていると自負しているようだが、周囲はその老醜に辟易しているである。ただ、貴方方の権威による逆襲が怖いから誰も言わないけれど。これ以上、その醜い醜態を社会に見せなくてもよいではないか、モデルでもあるまいし、誰も喜んで見てくれないのだから。老人が社会の中枢に居座ると、社会全般に動脈硬化現象が発生する。老人はいくらあがいても、若者に同化し未来を創造することはできない。同化できると言う老人は、ホラ吹きないしは偽善者であろう。社会は次世代の若者に運営されることにより、健全に作動をして未来に連なるのである。
枯葉
年をとったら、枯葉になろう、
煩わしい過去など捨て去り、
フワリ地面に落ちて、
風とカサカサ騒いで踊るのだ、
溝に落ちても、川面におちても、
ただ朽ちるだけ、良いではないか、
つかの間の真の自由、
自然がお帰りと言うまで。
人類の残虐性
人類は、地上に出現した時より、侵略と略奪さらには殺戮を飽くことなく繰り返してきた。それは、素晴らしいと言われる哲学の時代、ギリシャにおいても例外ではなかった。支配者の欲望は支配権の拡大と富の集積であり、侵略と略奪さらには殺戮がその手段であった。大衆は国家の繁栄という名の下に、その侵略と略奪さらには殺戮の片棒を担いできた。担がされたのではなく、自ら参加したのである。地上のあらゆる場所とあらゆる時代、そこにはおびただしい殺戮の足跡が残っているはずだ。この人類の残虐性は歴史という時間の流れの中で恣意的に拭いさられるか、英雄談義に美化されるか、または、復讐の増幅マニュアルとして悪意に利用されるか、そのいずれかである。我々は歴史から何を学ぶのか、過去の過ちを繰り返さないため、なんてアホな答えなど聞きたくない。歴史の価値など、時代によりいくらでも入れ替わるのだ。人間の記憶は曖昧なものだ、それに人は平気で嘘をつく、過去の出来事が真実であるという保障はないのである。ただ人類史の底辺には、数限りない侵略と冷酷な略奪そして殺戮による死骸の山脈が横たわっていることは確かである。如何なる哲学、思想、宗教も、この死骸の山脈を越えることはできなかった。地球上では、いまだに侵略と略奪そして殺戮が続いており、その兆候が見え隠れする国家群も存在する。人類の残虐行為は何等歴史から学ぶことなく、これから先も続いていくのである。
神
神の非存在を証明した者は、世界中から憎まれるであろう。神は、それを信奉する大衆にとっては精神の基盤であり、支配者にとっては権威を保持する最大の支柱となる。「凡ては神の思し召し」という金字塔の下で大衆は跪き、支配者は同調するだけで事足りるのだ。神への絶対的信奉は大衆を保守化に導き、さらには原理主義に染まった集団を形成する。支配者が神の教条に反する過失を犯さない限り現体制は維持されていく。大衆は貧困に喘ごうとも、神という支柱により平穏をひたすら維持しようと頑張るのだ。神のご意思というおふだより、大衆は自己保存本能という生物的なものである怒りと造反を消失する。生きる為には戦わなければならない、それが自然の法則であるにもかかわらず。
何処へ
我が求むるところは、
自然に従うことなり、
波浪に向かうことなく、
風に逆らうことなく、
流れに流され、
風に飛ばされ、
漂着を憂うることなし。
願い
高き空から落下する雨よ、
地上に染み込んだ血を洗い流してくれ。
海洋を旅する烈風よ、
地上の汚れた足跡を吹き消してくれ。
世界を照らす太陽よ、
路地裏の人々に温もりを与えてくれ。
権威
権威には、人々を圧倒するだけの複雑で難解な教条なるものが必要である。学問、文化、伝統芸能、宗教などにおいては、それが顕著に現れ、人はその堅牢さ故に権威に跪き、拠り所にするのである。権威は、人を抑圧するのに実に便利な手法である。そこには対等な議論など存在しない、過去の遺物を突き出して事象を断定するという、あらかじめ決められた結論しかでてこない。しかも、権威という裏づけに人は安心するのである。権威の中に安住する人間は、権威という牢獄を認識できないであろう。例えば、経文という権威、それを諳んじていれば、極楽に行けると坊さん達は本気で思っているのであろうか。
老人の生き方
我々は何のために生きているのか、
カビの生えた疑問は喘息のもとである。
背中一杯の荷物を誰に見せたいのか、
腰痛でベッド生活を送る原因になる。
生活に足る金があり、たまに美味い酒
と美味い食い物に当たればラッキー。
今さら重い荷物なんか必要ないのだ。
日々を楽しく生きなければ損ではないか。
子供
私は子供を不幸のどん底に放置している社会を憎む。子供たちに虐待と恐怖を与える大人と社会を憎む。子供たちの夢を毟り取る者たちが如何に正義を掲げようと私は彼らを憎悪する。我々は子供たちの笑顔と笑い声に溢れ未来に夢を持つ社会を創る義務がある。
情報洪水
マスコミの加工した情報洪水の中では虚像と実像が混在して真実を見つけるのは困難である。そもそも加工された情報に真実を期待すること自体馬鹿げているが。真実を期待できない代わりに洗脳という要らざる物が我々の意識の中にアメーバーの如く侵入してくる。マスコミは事象の一部を切り売りしておりそれから事象全体を鳥瞰することは不可能である。加工された切れ端から真実を見つけるのは難しい。我々の理性は情報洪水の中で退化していずれ情報を鵜呑みにする大衆に化す。情報洪水の瓦礫の山は無秩序な仮想世界を創りだす。仮想空間の社会では退化した理性は生きられない。
歴史
人類は歴史より多くのことを学んだと知識人は歴史を賞賛する。私はこれまでの人生において何一つ歴史から学ぶことはなく、むしろ歴史の試験で苦しめられた思いの方が残っている。今に残る巨大な遺跡を見ても建造に費やされた巨額の費用と膨大な労力、収奪した富と農民・奴隷の強制労働、大量の人間の血で塗り固められた怨念の残骸しか連想できない。歴史は巨大な河の流れのように停滞することはないが、行き先と流れ方は予測不能である。賢明なる学者たちはそれを科学的に解明すべく頑張ってきたがその成果はいずれもハズレであった。歴史に流れている法則は如何なる国家といえどもいずれは衰退し滅亡する。原因はどうあれ、現在栄華を誇っている民主主義国家群もいずれは衰退し滅亡する。滅亡することにより現代社会の撒き散らした悪臭は地上より永遠に消失するはずである。
嘘
世界中で通用する嘘は「皆さんのために」という常套句である。この嘘は政治家から戦争推進者・武装闘争集団、大企業など過去から現代に至るまで実に世界中でよく使用されている。革命者は熱狂的に人民のため、世界のため、と闘争の暇をみては叫ぶ、多分そのときは自己陶酔しているであろう-演技では信者は出てこない。その熱気に酔って、信望者と呼ばれる多数の踊るアホが出現する。やがて、大衆も熱に浮かれて踊りだす。その結果は嫌になるほど無数の例が残っているではないか。
ピエロ
私にとって、見世物小屋のピエロは悲しみである。見世物小屋ではピエロは二役を演じなければならない、自己ピエロと笑誘ピエロを同時に演じるのである。多くのピエロは見世物小屋に出演したがる、自分の存在と演技を観客に見せたいからだ。私のピエロは見世物小屋を忌避するのピエロくずれである。
軍隊
権力者と支配層は自己を守護するために軍隊という番犬を必要とする。囲いの羊群の防衛は大義で羊群の反乱鎮圧に番犬を飼っている。番犬群は羊群の一部から軍隊に取り込まれることにより番犬に変質する。軍隊は国家機密の下に守秘されて国民にはまったく知ることのできない全体主義組織である。国防上それが当然といえば誰にも異存はないだろう。我々は軍隊を疑問も持たずに信頼して良いのだろうか。それが国民に対して牙を剥くことは過去に数え切れない程の例がある。現在でもいくつかの国で起こっている。軍隊の文民統制は弱腰官僚が猛犬の首輪を抑えているようなもので役に立たない。番犬はひとたび飼い主の命令を受けると躊躇することなく相手を攻撃する。それが自分たちが守るべき羊群であろうと攻撃の対象になる。
武力組織である軍隊は武装することでその数百倍の大衆を屈服させることが可能である。軍隊は必要悪であり両刃の刃としての存在であることを認識しておかなければならない。
攪乱
生態系の撹乱は自然界を支配できるという人間の傲慢から引き起こされた愚行である。この災いはこれから全世界に拡散していくはずである。人間世界でも社会的攪乱が発生している。グローバル化は、経済の拡大による富の増大が期待されたはずだが、大量の人間の南から北への移動、それに伴う宗教、文化、人種差別、貧富の較差、などの混合による社会的攪乱が発生した。生態的攪乱は人間の手で元に戻すことは不可能で自然の浄化作用に委ねるしかない。人類はこれから起こる社会的攪乱を克服できるであろうか、これが人類滅亡の序曲にならねばよいが。
評価
組織の活性化を維持するためには業務結果に対して正しい基準に基づく評価が必要である。現在の腐敗した官僚体制を正常に戻すには、彼らの政策結果を第三者が評価し、その成果の合否を判定すること、さらには失策に対する責任の所在を明確にすることである。人は仕事をする以上その成果に対して査定を受け評価されなければならない。少なくとも、普通の社会ではそれがなされている。日本の官僚組織は自己の業務に対する評価を忌み嫌っている。彼らは、この評価から派生する責任を負いたくないのである。公共プロジェクトの失敗による膨大な税金の無駄遣い、その責任を前任者に押し付けるか、陳謝で済ませるのが役人のパターンである。役人には自分の首を賭けてまで国民に奉仕する意識が皆無と言って良いかもしれない。責任回避の精神が官僚組織に染込んでいる腐敗の元凶である。
単一思考
我々は自分の行動と結果に責任を負って社会生活をしている。大衆は多様性の生き方をしており類似はあっても同一なるものはない。人間が自由である所以はその行動が自己の意識による判断に基づくからである。情報のグローバル化とITネットにより大衆の意識と行動の標準化が進行している。自己の行動と結果が他人と相似することで安心と満足する社会では多様性の喪失という面白くない現象が起こる。自分の意識と行動が隣人と同じならば-考えただけでもおぞましい世界ではないか。
多様性
国家、人種、民族における宗教、文化、思想の多様性は人類の特性であり、歴史はその接点において特異な断層を表出している。歴史には民族が自らの多様性に固執し、自らの個性のために闘争した足跡が無数に残っている。多様性の衝突では対話による平和的解決などありえない、武力による片方の制圧がその解決手段である-実に動物的ではないか。キリスト社会(米国・ヨーロッパ)のイスラム社会(中東)に対する憎悪は宗教の多様性を容認すれば問題は希釈されるはずだ。しかし、キリスト社会は自ら発明した民主主義という社会体制を最高の思想と信奉し、それをイスラム社会に導入することが正しいと信じ込んでいる。即ち、米国・西欧諸国は、先進性・キリスト教・民主主義-後進性・イスラム教・王政ないし独裁という図式で問題をとらえている。多様性の衝突は、対話では解決できないことは歴史が示すとおり武力闘争しかないが、それを避けるには互いに多様性を認め合うという、実に簡単なことなのに何時まで経ってもできない人間の愚かしさは人類の滅亡まで続くであろう。
物
人は物がなければ、ないですまして生きていける。最低必要な物があれば、それで十分生きて行けるが、便利さという-労働軽減・時間節約などという効用で物を抱え込むことになる。さらに、便利で快適な時間を過ごせるというマスコミの口車に乗せられ、色々な物を買い込む羽目になる。企業は、その商品を売るためにマスコミとITまで駆使して大衆の意識の中まで侵入してくる。企業の戦略の成果であろうか、最近では自分に必要な物と不必要な物の区別ができない人が増えている。日常生活において、如何に不必要な物を買わないようにするか、貧困ならば悩まないですむであろうに。
暴力
民主主義においては暴力は強く否定されている。この暴力とは民衆のいわゆる怒りによる暴力であり、権力者の行う陰険な見えない暴力についてではない。見えない暴力は国家間においても行われ弱小国は泣き寝入りするしかない。体制側による見えない暴力に対して、民衆の抵抗手段は怒りの胆略的暴力しかないのである。もっとも、この胆略的暴力は統制が利かないため集団略奪に変貌するという衆愚性を含んでいる。民衆は思想により行動するのではなく、物資的動機により発作的に連鎖行動を起す。宗教はその保守性にもかかわらず、時としてその連鎖行動の精神的発火剤としての役割をも内在している。
物質文明
文明の進歩に従い、日常生活に必要(便利)な物は風船のように膨れ上がった。おかげで人間の存在する空間が狭くなり、その軋轢から精神がおかしくなる者さえ出ている。無ければそれで済むはずだが、金さえ出せば手に入るので始末が悪い。狭い住居になぜそれほどまでに物を詰め込むのか、人間とは実に不思議な習性を持つ動物である。我々は科学文明により生活の利便性と時間の短縮を手に入れたが、肝心の生活と時間の有効利用については未熟な段階で止まったままである。
意識の層別類似性
ある集団(階層と言えば語弊が出るだろう)に属する人の意識は、その所属する集団の特性に染色されている。文化人、宗教人、政治家、芸術家、教育界、スポーツ界、企業家、職業団体などなど、彼らの行動・発言パターンは所属集団特有の意識が内在している。多様性を基本とする芸術家にも芸術家(集団)としての階層-大衆とは区分された優位的存在(集団)-として意識が心の片隅に燻っている。芸術家の中には香水の如く芸術家臭を身に付けマスコミに出てくる者もいる。人は自分の能力・頑張りにより希望する集団(階層)に加入することが可能である。集団に加入することは自己の意識がその集団に染色されるリスクを負うことになる。大衆も例外なくどこかの集団に属しており、その集団の特性に染まっているが染まり方はまだ薄い。私も無論何かに染まっているはずだが、残念ながらこれは自分では認識できない。ソクラテスの対話のように、真摯に質問してもらえれば気づくかもしれないが。
自己主張
自己主張、現代世界では成功者の付帯条件である。科学の世界(学会と呼んだ方が良いだろう)でも、自己主張がなければ自己の学説は埋もれてしまう。社会では自己主張をしない者を-出来ない者と同じレベルで影の薄い存在のように見なす。自己主張は自己の他との差別化であり、自己の優位性を主張することである。古き世ではそれは醜悪とされたが今は異なった見方がなされている。自己主張、そのためには人は実に多くの荷物を持ち運ばなければならない、これらは自分を際ださせるための小道具である。人々はそれを重たいと感じないのだろうか。
権力
人は権力を掌握した時点から腐敗へと堕落する。巨大な権力ほど腐敗速度は速く、腐敗による犠牲者も増加する。腐敗臭に魅了され、権力に吸い寄せられた多くの人間がいつもの地獄を目指す。悲しみである、もう何千回となく繰り返された人類の愚行、今でも人間は飽くことなく繰り返している。
HEROのいない世界
現代世界は自己の思想や信念のために死ぬことが出来ない世界である。大衆が熱狂するHEROは現代世界では出現の可能性は少ない。HEROが現れないため人々は仮想の世界にそれを求めて群がる。ないしは、仮想の世界で自分をHEROに擬すことで満足している。マスコミも大衆にうける記事を作るためにHEROを求めている。マスコミのスポーツ・HEROに対する異常なまでの喝采は大衆を巻き込んで低質のHEROを増産するまでに堕落している。かってローマ帝国の大衆が堕落したように現代社会の大衆もまた強烈な刺激を求めて堕落の一途をたどっている。
贈り物
科学は自然からの贈り物を探す道具である。
自然は我々に実に多くの贈り物をしているが、我々はそれに気がつかないだけである。その贈り物の発見では科学は実すばらしい役割を果たしたが自然に対して無礼なことを多数行ってきた。現代社会は自然を収益の場と考え感謝よりも略奪・破壊という人間独特の野蛮・傲慢性を発揮して自然を痛めつけている。それでも贈り物を送り続ける自然に対して人間は恩知らずの行動を繰り返しているだけある。
認識は科学を道具に自然の法則性を見つけたが法則性の応用には理性によるコントロールが必要であった。しかし、多くの科学者には科学の暴走を食い止めるだけの理性が備わってなく-利潤優先という企業倫理の走狗に成り下がっている-これは人類にとって実に不幸なことである。彼らは科学の暴走により、数万の人命が失われようと研究室から想定外で遺憾ですと述べるだけで許される。科学者は研究分野において卓越した頭脳を有していても結果を制御する理性はきわめて貧弱である。
前触れ
砂漠の青空は、もう何百年も地平と連なり平安であった。数年前、西の果てから黒雲が沸き出でて、天空を暗闇に覆いつくした。やがて、その荷重に耐え切れず大気が砂漠に落下した。砂漠に烈風が走り、民族の叫びが雷鳴となり大気を切り裂いた、それは世界を混沌に陥れる前触れであった。
政治家
日本の政治家は、悲しいことに自己の政治理念を持たない低レベルの人間がほとんどである。彼らは国家と国民の過去現在の分析は無論、未来に対する展望すら持ってない-勉強する意思もないようだが-街の古狸が政治家に化けたのだから当然であろう。政治家は政治理念がない故に、果すべき国政よりも権益と保身しか頭にない官僚どもに牛耳られ、権力と収賄の織り成す魑魅魍魎の世界に安住するようになる。政治の面白さは自己の理念に基づき国家と国民の未来に寄与できるという光栄さだと思うのだが。国会討論を見る限り、国民の幸福と未来を見据えた議論ではなく、野党も単に独善的与党に反対することだけの党利党略の茶番で自己ピーアールしている。多くの国民が国会という舞台で何百回と繰り返されてきた茶番にはもう辟易しているにもかかわらず、政治家達は相変わらず低級な議論を続けている。政治の混迷責任は低級な政治家ではなく、むしろ政治に対する無関心から彼らを選出した国民に責任がある。この混迷の下で官僚の権益体制は国民のあらゆる隙間に入り込み血税を吸い続けている。それを排除して正常な官僚体制に立て直すことが大切であるが、その実践には強烈な政治理念を有する政治家とその支持基盤となる国民の政治認識が必要である。
身体
私が身体について真剣に考えるのは、愚かなことに病気になって生活が不自由になったときである。ある日から身体を動かす度に両足の太ももから足首にかけてズンと痺れが走るのだ。筋肉が痺れて行動が実にスローモーション的となり不快である。周囲は病院に行くことを勧めてくれるが、医者に原因を解明してもらっても、通院治療してもらう気はない。自分の身体不調は自分にしかわからないのだから、ひたすら自分で治すしかない。私の身体には、身体の不調を調整する機能が備わっていると信じている。それが機能しなくなったら、あきらめて死ねば良いだけで科学の世話で長生きしたいとは思わない。
神の概念
本来、宗教は人を幸福にする手段でそれ自体に目的はないはずである。しかし、宗教のために殺し合い、憎みあい、人を不幸にする原因になっている。なぜ宗教は過去から現在に至るまで愛を唱えながら人類に幸福をもたらすことができないのであろう。
地球上における初期の人類は、現在のように略奪的食物連鎖の頂点ではなく、捕食者であるが被捕食者にもなる存在であり、常に食物を探索する飢餓と食われる恐怖の両端の中で生きていた。自然現象に対する彼らの感覚は日常経験を基盤にした狭い範囲に限定されていたはずである。人類が獲得した知能の発達、経験を通して知恵を生み出すという特異な現象は人類が発展する過程で大変重要な役割を果たした。やがて、古代人は経験の積み重ねより自分たちを取り巻く自然に対して、自然の周期性とそれを支配する力-その力を有する何かの存在を想起したのではないだろうか。自然界では彼らの知恵では理解できない現象が多々発生したはずだ。異常現象を支配する者(実に人間的発想ではないか)の警告と怒りであると考え、その見えない支配者を恐れ敬う(崇拝)ことにより自然災害を防止ないし緩和することを考えついたとしてもおかしくない(自然を支配する者に、自分たちと同レベルの範疇で対応する(ごますり的対応)というこの稚拙さは、現在でも継続して行われている)。原始社会における自然への恐れが、アニミズムを発生させた原点とすれば、そこに感受性の高い者が出現することにより祭りごとの基盤は容易に整えられる。霊に通じる者(自己陶酔を強烈にアピールできる者である)を中心に、自然の怒りを静めるため(まさに人間的所産ではないか)という名目で祭祀が形式化されてきたのであろう。その社会において、祭祀をとり行う者(形式を知る者)の発言力(権力)は見えざる支配者に通じる者として必然的に増してくるはずである。
祈りの誕生
祈りそのものは人間の美しい行為であるが、その対象の有無により宗教という枠がはめられる。日本人の祈りは、現在と未来における不確実(意識ないし無意識的かかわらず)な存在に対する内部から表出した精神の切ない吐息であろう。それは刹那的に祈りとして表出し、祈りの対象は認識されても、それに固定されることなく一過性で完結する。宗教では祈りの対象を規定(神)することがその始まりであり、そのような宗教的概念ではこの祈りは捉えられない。祈りは古代社会において自然発生した祈祷(対象物が限定されている)とは明らかに異なるものである。祈祷は時代の流れの中で自然淘汰され進化し宗教となった。宗教は祈祷に絶対的対象と司祭形式を付加することにより、祈祷者自らの差別化と権威を構築するに至った。
自然の中に神を感じた古代人は、自然に抱かれた存在として彼等の生き方は正しかったと思う。やがて、人間は神を自然から引き摺り出し神輿に乗せて選ばれし自然の支配者たらんといまだに腐心している。
神の概念は、如何に発想を拡大しようと所詮は人間の範疇に留まっているにすぎない。人間の創造した概念を宇宙にまで拡大しようとする試みは人間の傲慢である。
正義
正義は普遍ではない。正義は時代により変化し、また相反する立場においては、双方の正義なるものが独善的に主張される。正義を貫くには、強力な意志と力が必要であり、弱者の正義などは沈黙の片隅に追いやられる。結局、普遍的な正義など存在しない。社会においては何時の時代でも、正義とともに道徳、礼節、博愛、など一見普遍的な代物が用意され、大衆はその代物で作った壁紙に取り囲まれて生きている。その普遍的な代物は過去から現在に至るまで支配者層の都合に合わせて塗り替えられたものである。しかし、大衆は現在の正義に関しては多少敏感に反応するが、過去の壁紙についてはむしろ郷愁を感じるようである。
人間の本性
過酷な自然の中で自然と融和しながら質素で高貴な気質の生活をしていた人間が、武力による他集団からの略奪と奴隷使用で生活が豊かになるや自然との融和を捨て同じ人間からの略奪を正業とする野蛮人に堕ちた、ちょうどギリシャ文明のように。
本性
人間の本性は幾重にも積もった恥辱で覆われている。人類の恥辱はおぞましい腐臭であるが何時の時代においてもその腐臭に郷愁を感じる集団はいる。人間の本性を取り戻すには数千年の間に積もった垢を剥ぎ取り、洗濯したあと強烈な日光にさらしてカビを除去しなければならない。垢の中には、真珠が埋もれている可能性もあろう、それを見つけ出すには垢で曇ってない健康な目が必要である。
座禅とて現在に戻ればただの余暇
孤独
大地に植物が生えていることは自然からの大いなる恵の証である。砂漠ですら、雨季には可憐な草花の賑わいが与えられる。塩を擦り込まれた大地サブカには自然の恵などひとかけらもない。生命を拒否する大地に卑小なる者が何を為そうというのだ。
時の中で
時はすべてを洗い流し、未来に続く道を開く、
現在の悲しみを過去に葬ってくれるだろう、
存在を謡おう、僕らの時は現在しかない。
時の流れの中で私は一瞬の夢を見た。
教育の醜悪
子供たちの国を愛する意識を評価する。教育の評価主義は国を愛することまで評価しなければならないほど堕落している。個人-家族-故郷(社会)-国家、愛する心は社会に育まれ自然に芽生えて連鎖的に拡大していく。国家と社会が、現在のように欺瞞に満ちていれば強制的に愛せよと子供に強制しても点数稼ぎのレベルに終始する。文科省の役人どもは点数で国創りができると浅薄に考えている程度の無能集団である。
没頭
私は我を忘れて研究(生態観察)に没頭している間が、精神的・肉体的に高揚する時間であり実に快感である。研究結果(論文)は単なる抜け殻であり、そこにはあの時の精神的・肉体的な快感は残ってない。人はやり遂げたという満足感を味わうらしいが、私は終わってしまったという脱力感しか残らない。私は自分の研究結果に執着しない。現象は常に進展しており抜け殻になった研究結果はすぐに古く錆びてしまう。
人はあらゆる分野で精神と肉体を没入させることで高揚・快感に浸ることができる。しかし、その高揚感は長期に維持することはできない。対象を完遂することで精神と肉体は没入すべき目標を失う。創作過程で芸術作品に注ぎ込まれた作者の肉体的・精神的高揚感(エネルギー)は完成した瞬間に消滅してしまう。その抜け殻は金銭的な秤にかけられて大衆に晒される。
凡人においては、日常生活における倦怠の中で時たま起こる没頭で快感を体験する時間が多いほど人生は意義あるものになる。
アラブのモンゴイカ
アラブ首長国連邦の3月は大変過ごしやすい季節である。当地の人々は冬と言っているが、日本の秋のような季節である。灼熱の夏の日々から比べると嘘のような涼しい日々で突然の豪雨もこの時期にはある。この時期に当地を出張で訪れる人々は良い所ですねと言うぐらい実にすばらしい季節である。
海の中も春となり、プランクトンの増加とともに多くの魚たちの産卵期でもある。この時期にモンゴイカの交尾のシーズンがある。 モンゴイカの交尾は夕暮れ時の海藻ホンダワラの茂った岩場の上とアマモ場で行われる。雄は大きく雌は小さな体形をしておりほとんどがつがいで行動している。岩場のくぼみで安全そうな場所を見つけると、まず両者向かい合い、息が合ったところで雌が腕をすぼめると、雄は10本の腕の中に雌の体を包み込む。雄は雌をしっかり抱えながら、数本の腕をゆっくり動かし雌の体をやさしくなでる。二匹の体表には美しい虹模様の小波が連続的に流れ、まさにエキスターシーに入っている状態である。この状態が1時間以上も続くのである。私のような邪魔物が近づくと、まず、雄は雌を抱いたまま2本の食腕を角に似せて威嚇する。そして、雌を抱えて安全な場所に少しずつ移動する。それでも、しつこく追うと、雄は雌をゆっくり離し、雌を守るように自分の影に隠して敵に対峙したまま、2本の食腕を上げて迎撃体勢に入る。ほとんどの雄はこの迎撃体勢を保持したままで決して逃げ出さない。その後ろで雌は雄を見守ったままでいる。
当地の漁師は、モンゴイカのこの性格をよく知っている。つがいのモンゴイカを見つけると、まず小さな雌をヤスで刺す、すると大きな雄は雌を求めて攻撃体勢に入るので、簡単に雄まで捕獲できる。逆に大きな雄を最初に刺した場合、ヤスに背を貫かれた雄イカはシュウシュウと懸命に墨を吐きながらもがく、雌イカは吐き出された墨煙幕に紛れて素早く逃げ去ってしまう。人はモンゴイカのこの習性を人間の男女に例えて笑う。しかし私はモンゴイカに生物としてのすばらしさを感じる。雄は雌を守ることを絶対の義務とし、雌はその雄を信じているが、それがかなわぬ時、腹の子供達を抱えて逃げ出すという利発さは人間顔負けではないか。現在社会ではこの生物的な義務さえできない男女が多数いるというのにモンゴイカ社会ではそれが本能のままに確実に守られている。
地球上に存在する生物は、人類と類人猿を除いて雌が社会の主体をなしている。これは自然的なことであり、生物が子孫を残して生きのびるには雌の存在が絶対的な必要条件になる。雄の役割は多くの生物では精子を運ぶだけだが進化した生物では雌を外敵から護り、生まれた子供たちを保護することまで広がる。
人類はその歴史が始まって以来、男は外敵との戦いと力が必要である社会規範の維持を大義に力で女性を支配下(保護下と言うべきか)においてきた。戦いや社会規範はすべてが男の意思決定で行われ女性の意思はほとんど反映されなかった。その結果これまでに人類は実に膨大な破壊と殺戮を繰り返してきた。現代社会は民主主義の理念により男の特権は排除されたとはいえ、その遺骸は社会に温存され男の精神内部に巣食っており男優越感は時として無意識に表面に噴出する。政治家は男女平等と言いながら男女格差は未だ解消されてない。
日本の女性は良く働く、東南アジアや中近東の女性も良く働く、世界中の女性は、家庭と子供を守るためによく働く。それに対して、男性はどうであろうか、評価は女性に任すとして、現在の日本の社会的閉塞状況について、少なくとも男性は責任を感じなければならない。グローバル経済と会社組織の中でどうしょうもないというなげやり意識では、日本の未来は危ぶまれるであろう。我々は子供たちの未来に責任があり、そのためには現在の閉塞状況を打破していかねばならない。男性の発想が行き詰っているならば、女性の自然的な合理性で打開していけばよい。グローバルゼーションという幻影に惑わされることなく国家が生き残るには女性の子供達に対する母性本能と良識ある状況判断が必要になるである。
命
人の命は地球より重い-実に偽善的な言葉である、その重いはずのものが毎日何百人も消滅されている。命なんて実は軽いものだ、自分でも、他人でも、いとも簡単に始末できる。そもそも古代より人間の命なんてその辺の草花と同じ程度でしかなかった。ヒューマニストと偽善ぶった連中が地球より重たいなんて唱えだしたから誤解が生まれてしまった。命は総ての生物の存在の基盤であり重量の比較などできない。草花と人間の命は、存在としては同等で人間優位という世界が存在するが故に草花は下位におかれているにすぎない。ともあれ、現代社会における命は騒ぐほどに大事にされてない。人間は地球生態系という残虐で悪魔的なシステムの中で他の生命を食って生きているのである。
精神の垢
人は歳を取るに従い、身体と精神に人生の垢とカビがまとわりつく。身体の垢は、風呂に入りごしごし擦ればよく、カビも薬剤で落とすことができる。精神の垢とカビは理性と認識がなければ洗い流すことはできない。老化すると、肝心の理性は鈍化して垢とカビを認識することが難しくなる。世間には自分にまとわりついている悪臭に気がつかない老人が実に多く存在する。
私もそうなりつつある自分に嫌悪している。
高所
高所から見た人間社会は卑小で蟻のごとくうごめいている世界である。自分もその中の一匹にすぎないと思うとあまり愉快ではない。地上にはこのような社会が数百万以上存在し、アリ人間たちが毎日懸命に働き生きている。時たま災害が発生すると社会は右往左往するが、すぐにこれまでと同じ生活に戻る。戦争という殺し合いを何千回と繰り返しているが、いまだ懲りずに戦争の準備をしている連中もいる。金儲けだけが正義の銀行や大企業、権力闘争に明け暮れる政治家、利権を追い求める官僚、多発する知能犯罪に機能不全な司法組織、などなどいたる所に社会の病巣が巣食っているがそんなことには構わず社会という有機体のなかで大衆はウジ虫のごとく黙々とうごめいている。
老化現象
人は老化すると、過去の業績を吹聴する傾向が現れる。若いときには自慢できる業績がないから吹聴することもできないが、人生経験を積んでくるとどうしても自分を大きく見せたいという要求が出てくる。勲章と賞状がその良い例である、社会的に評価されたという満足感、老人は誰もが嬉々として受けるのである。過去の業績は著名人であれば、講演会や著作などで良い飯の種になる。大衆は金を払ってでも、過去の遺物を拝聴してくれる。老人たちは、若者が辟易しているにもかかわらず、自分の過去の業績を吹聴したがる。業績など後生大事に抱え込まず、前方の夢を追うことの方がはるかに面白いのだが。
存在
若い頃、存在は実存などと称して重いものだと思っていた。存在が重かったら、飛翔なんてできないのにやたら重力に反することを考えていた。齢を取るにつれ、存在などは紙切れ同然に思うようになった。いまさら飛翔しようとは思わないが、重力の範囲内でふわりと浮くことはできそう気がする。浮いたからどうってことはない、所詮、老人の独りよがりにすぎないのだから。
存在の軽さ
人間の尊厳性、おかしなことに私はそれを未だに信じている。カントは近代文明の到来において、人は目的としての存在であり、手段として処せられるべきではないと危惧していた。現代社会では人はすでに手段として処せられ、その最たる商品になってしまった。しかも、我々は使い捨ての商品として取り扱われている。商品と化した存在に人権という人間的な生存基盤を求める滑稽さが現代社会には満ち溢れている。これから出現するコンピュータ世界は人間の尊厳性など求める必要はないかもしれないが。
酔うこと
酔うことには2通りあり、恋に酔うことと酒に酔うことがある。恋に酔う、そのような経験は金輪際なかったので、小説や詩の世界の風景としてしか想像できない。私はそんな経験を持つ人々をとても羨ましいと思う。彼等は人生における甘美な酔いを味わったのであるから。その酔いの甘美さについては数多の詩人たちが詠っているが、こればかりは、経験した人しかできない快感である。私の酔いは酒ばかりで一般的なものである。片思いの相手に振られて飲んだ酒、酔いの中で自分のピエロを嘲笑しつづけ眠りこけるのである。目が覚めると、二日酔いと現実に頭をぶん殴られた痛み、自己存在の不快さ、穴倉で丸くなりひたすら時間の経過を待つだけであった。私の青春は恋を欲するピエロ、一人で酔って踊り、一人で失望して笑いこけていた、ピエロは泣いてはならない、泣くと化粧が剥げてしまう。私の友人達は私の性格を物事にめげない明るい奴と思っていただろう。不器用な私は今でもそうやって生きている。
弱肉強食
生態系を論ずる上で、大変誤解されやすい言葉がある。生態系は輪であり、その輪は平衡に保たれている。輪の中である種が突然優位性を持つと平衡は崩壊して生態系は消滅する。ライオンがやたら増えたらアフリカの草原生態系は成立しなくなのでライオンは急激に増えない。生態系の輪は生殖というDNAの転写により維持され環境に適応した生命は膨大なVariationを保持している。生態系の中で生き残るのは必ずしも強者ではなくむしろ環境適応者である。我々は自然界の生物を強弱で判断しているがその尺度は人間的ドグマで生態系に応用するにはあまりにお粗末なものだ。生態系の輪の中で道端の雑草や飛び回る昆虫の存在について我々の科学はその価値すら解いてないのである。
存在
存在は或る時には苦しみであり、悲しみであり、儚い物である。しかし、存在は或る時には喜びであり、歓喜であり、幸福である。そのどちらも続くことはない、糾える縄の如く我々は時の女神にもてあそばれている。貧しけれどこの一杯のワイン極上なり、人生はひとつまみの満足で一瞬だけ幸福になれる。
ツクシの詩
生きる苦しさに耐える毎日だけど、春になればいつものように希望が湧く。冬が長くとも辛抱さ、ただ我慢して待つだけ。この小さなツクシのように、踏みつけられてもひたすら生きる。春が来れば小さな芽を出し生きる喜びを歌うのだ。そんなささやかな幸福で人生は楽しいではないか。
軽やかな旅
人生が苦しいと思うのは、その背負っている荷物が重すぎるからだ。人生を旅するのに過去から溜め込んだ荷物を寝床まで持ち込むなんて煩わしいではないか。我々は過去を捨てることに躊躇してはならない。過去を捨て去ることで、精神は軽くなり楽しい夢を見ることができる。時というやさしい女神が囁くではないか、過去なんか忘れ去りなさいと。
Illusionの時代
未来では虚無空間に幻影化した無数の哀れな精神が漂うだろう。精神の幻影化に気付かないほど人間は鈍感になっている。
歴史=虚構
歴史はその時代に生きる人々の生活と背景であり、後世の人間たちがいかに工作したところで過去を再現することはできない。紙上の歴史は大いなる虚構である。とくに近代歴史は科学的という名のもとに歴史家と呼ばれる作家が創造した独善的作品である。基礎になる人文資料が誰かの作成文書である以上科学的なものではない。
過去
現在の我々は前に進むしかない、過去の事象を持ちだして現在を避難するのは愚かである。我々は過去から何を学んだか考えてみるとよい。化石はその形跡で過去の事象を表象するが、人間の痕跡はその時代の人的表象でありながら多量の誤謬と虚偽を含み時代を表象する固定的な化石標本にはなり得ない。
自分のロープ
我々は毎日が同じ生活で倦怠と安泰を裡に同居しながら生きているが自分が存在不安定なロープ上を歩いていることに気づかない。自分の意志でロープを投げているにもかかわらず、それを認識することはないのである。大衆は倦怠から抜け出すために少しだけの変化で快感を味わい、満足して生きている。変化の後すぐに元の安泰の戻ることがロープ上を安全に歩くコツである。ロープの存在を認識することで自己存在の深淵を眺めることになるだろう。それがその人にとって幸福か不幸かは彼自身が決めることである。
体制
権力者たちの闊歩する世界、それがはるか古代より人間たちの歩んできた道である。弱者には救いはない。神に希望を託す人々よ、今更神に加護を求めるなかれ。希望が欲しければ強くなってその手で勝ち取れ。権力者たちは貴方たちに羊になれと囁く、柵の中で満足して生きていけば幸福だと。権力者たちは反抗者を狼に譬える、狼は羊を襲い平和を乱す危険な存在として排撃する。その狼は、あなた方を柵から出して自由にしてくれるかもしれない。しかし、あなた方はいつものように権力者の側にそそり寄るだろう。
2007年1月10日
米軍によるソマリア空爆、多くの人間が殺された、悲しさの上に情けなさと怒りが同時にこみ上げてくる。今日も世界の片隅では、弱き人々が悲しみのどん底で泣いているのだ。我々人類は、いつになれば殺戮を止めることができるのであろうか。
ペン
ペンには権力に対抗して人間の自由を求めるという崇高な目的意識があった。現代社会でペンは堕落し人間を商品として売買する社会風潮の片棒を担ぐ親方にまで成り下がった。膨大な情報洪水で溺れているのは大衆だけではなく、情報ダムを管理すべきマスコミですら自分の役割を見失い、自分たちの放流した情報に流されている。もう遅いかもしれないが、我々は、見ざる・言わざる・聞かざるという手法で自己をマスコミから防御すべきである。
幻影
幻影に幸福が在ると信じる者は阿呆か誑かされているのである。虹の向こうに幸せなどない。幻影に真理などは存在しない。
恥ずかしながら、私の大切なもの
私の一番大切なものは、私の嫁さん恵である。私が虚無に落ち込まないでいるのは、彼女が支えているからである。その支えがなければ、私はとうの昔に虚無に落ち込んでいたであろう。愛-そんな綺麗なものではない。私たちは、見合いにより結ばれて現在に至っている。愛という情緒的なものより家族という動物的な結びつきが底辺に流れているような気がする。いずれにせよ、未だにその理由はよくわからないが、恵は私の一番大切な存在である。
アホな性格
風邪を引く度に日頃の不養生を反省する。大体、風邪の兆候は数日前から感じるものだ、それを不養生から見逃してしまうのである。体力の減退は認識しているが、それに対応した行動ができてない自分が情けない。無理をしてないつもりが、いつの間にか限界を超えて行動している。腰痛もそれが原因だった。所詮、私の脳みそは身体をコントロールできないほどアホなのである。
発見
発見とは、自然に存在するものを最初に認識したことに過ぎない。科学的な予測に基づいて導きだした法則であっても、その法則は以前から存在しており、認識されるまで誰も気づかなかっただけである。地理上の発見、なんて言葉を歴史の授業で習ったが、これなどはヨーロッパ人が自分たち以外の人間(当時は人間ではなく動物ぐらいにしか思ってなかったであろう)と彼等の生活圏に侵略したという悪事の記念碑である。いまさら言っても始まらないが、地理上の発見がなければアフリカ・南米はもっと幸福だったかもしれない。我々は、発見に冒険というベールを被せ、彼らを英雄・偉人扱いしているが、所詮、冒険も人間の欲望を裡に秘めており、侵入される側にとっては大変迷惑な話であった。
願望
自分の信念に従って生きること、それは自然を愛する者として、自然との関り合いの中で自然に生きることである。無力である、悲しいほど私にはその愛する自然を守るべき力がない。机上の自然愛好家ではないと叫びながらも、何もできない私はそれ以下の虫けらである。私に力があれば、私は私自身を含めたこの現代文明を最初に破壊して消滅させるであろう。傲慢な人間なんかを創造した神は阿呆でしかない。
酒
私の愚鈍な脳みそは酒が注入されると通常の思考経路を遮断して哄笑の世界に導いてくれる。過去の情景-なぜか苦い思い出だけが最初に浮かんでくるアホな脳みそである。若い頃は酒を友に閾を飛翔していたような気がするが、今は飛ぶ意思さえ萎えてしまった。それで良いのかもしれない、年老いてまでも飛ぶことに執着することはない、もう老年という重りを抱えているのだから。それでも、酒はしきりと私に飛翔を囁く。
自然科学
幾ら頑張っても、自然は自分の期待どおりに結果を示すとは限らない。文献・資料をもとに自然の中で何かを画策してみるとよい、多分結果は期待したようにはならないだろう。自然は貴方を微笑して眺めているか、それとも嘲笑しているか、それは貴方自身が判断するしかない。私は自然に何度も嘲笑されてきた部類である。今でも、何か新しい試みを行う度に自然から嘲笑されている。科学論文には自然の微妙な変化要素-適切な言葉ではないが-を取り込むことできない。畢竟科学はその微妙な変化要素を省略した形でしか結果を出せないのだ。自然の中で、文献・資料に基づいた試験を行うとき、その変化要素が予想を超えた形で攻撃してくる-そう思いたくなるぐらい結果はが期待通りにならない。その変化要素を楽しむには、自然と遊ぶ心が必要だと思うが、なかなかそこまで行き着かない。
女神
私のような不細工な男にも二人の女神は実にやさしくしてくれる。時の女神は、私の日々の面白くない記憶を何時の間にか消してくれる。酒の女神は私を詩の世界に誘ってくれる。彼女達以上のホステスはこの世に存在しないだろう。
酔い
ウイスキーにチーズ、それが今晩の私の糧。これだけで幸福なひと時が過ごせる。あとは飲みすぎないよう気をつけることだ-こんなことを考えているのは、まだ理性が麻痺してないからだ。酒を飲むのはこの無粋な理性を黙らせるためである。理性が眠ると日頃理性に押さえつけられた本性、実に醜悪な私が解き放たれて舞踏を始める。自分のための舞踏、人様に見せられない、不細工な舞踏である。
冒険者
青春の素晴らしさは、先が見えないことにある。若者は未知の世界に突入していく冒険者である。そこには大いなる不安が存在する、若者は不安の中で自分の道を求めて模索するのだ。老人には先が見えている、だから偉そうに人生を語るのである。老人は如何に頑張っても冒険者にはなれない、かろうじて案内人にはなれるかもしれないが、本当の冒険者には、案内人は邪魔になるだけだ。若者よ、先が見えないからとて不安になることはない、君らは冒険者だ、見えない未来を旅するという喜びを楽しまなくてはならない。それが、青春という君たちに与えられた時間なのだ。
老人
老人は、如何に頑張ろうと未来を創造することはできない。老人は過去という荷物にとり囲まれて身動きができない-昔はそれが経験と呼ばれ老人が尊ばれる所以であったが-その経験という知識はすでにPCに奪われてしまっている。老人の存在する意味は何か、老人はその地位から高圧的に彼の存在を若者に認識させるのではなく、真の自己存在、そのものについて考えなければならない。
自然
深い傷跡に呻く大地に、大気は豪雨を降らせ大地の傷跡を癒さんとする。大地の嘆きに、大気は竜巻を起こし大地の傷跡を吹き消さんとする。大地の怒りに、大気は稲妻を放ち、大地に巣食う蛆虫どもを焼き尽くさんとする。自然よ、貴方は人間に対してあまりに寛大すぎる。
時の旅人
人は時の旅人である。時の流れでひと時の喜びと苦しみ、悲しみ、怒り、愛などに巡り合いながら旅を続けていく。明日は保障されてないが、旅とはそんなものだ、偶然の連続なのだから。如何なる事象に遭遇しても旅人は留まることなく駆け抜けて行く。旅人よ、旅をするのに思い出という仰山な荷物は要らない。我々は時の女神に感謝しなければならない。彼女は全てを過去に放り投げる手伝いをしてくれる。旅人は偶然を楽しまなければならない、そうでないと旅する甲斐がない。旅人は希望の杖を携えて明日という架け橋に向かって行く。
生態学
生態学は動きのある学問でなくてはならない。生態学者は、自然現象を数式と体系化された図式で表現することが好きである。数式と図式は、自然の微細な事象を除去した搾りかすかもしれないのに。それでは学問にならないと、学者達は嘲笑するであろう。自然を見るときに、我々は数式や図式を考えるであろうか。道端の雑草は春に花を咲せるが去年と同じ花ではない、自然は常に動いている。「アソファルト道に顔出す草に花一輪」誰も見向きはしないが雑草は時の流れで花を咲かせて枯れてゆく、ピラミッドの謎かけのように人は誕生から壮年を経て最後に老いて死ぬ。人間の一生はこの道端の雑草とたいして変わらないものである。
登山
人は高山の頂上を目指して勇者の如く頑張る。頂上に登りつめた者は努力と忍耐の精神を周囲から賞賛され人格すら美化される。頂上に達した勇者は下山の勇気が要る。頂上は次に上ってくる者のために空けなくてはならない。頂上に居座る者が増えると頂上は彼らの廃物で汚染され腐臭が漂う。腐臭に慣れた者は堕落した自分の醜い姿を見ることができぬほど精神は毒される
選挙
選挙はポピュラリズムの椅子取りゲームという茶番である。彼らは利権と権力を勝ち取るために議会の椅子に腰かけねばならない。座っているだけで全ては周囲の者がやってくれる。大衆は権力に弱い。民主主義はギリシャ時代にすでに腐敗していたのに未だにそれに代わるものを構築できず同じ失敗を繰り返すアホな人類。
黒子
私は社会の黒子達を誇りに思う。彼らはTVやニュースの光を浴びることはないかもしれないが。彼らこそ社会の礎である。このような人々がいるおかげで世界は正常に機能している。社会を支えている本当に必要な人々は彼らである。ヒーローは消えても惜しくはないが、人知れず消え去ってゆく彼らは本当の黒子で惜しまれる人々である。
サクラ花びら風に舞いてドブに落ちるも優雅に浮かぶなり。
雑木の若芽青空に望むなり。
雨粒の落ちて賑わう庭の花木。
風と竹林のダンスに拍子木鳴る。
時は音もなく過ぎて行く、気が付くのは老いてからだ。ああ、私はこれほど老いたのかと、そうだもう遅いのだ。
それからは過去の思い出しか出てこない。悔やんでもしかたのない過去だけだ。死ぬまでそれを抱えて行くのだ。
権力
どんな人間でも権力を握ると傲慢になり腐敗する。それをにぎるためには善人面をして虐げられる者の如く振る舞うことも厭わない。そこに厳しい圧力があれば愚かな世人は彼を聖人の如く讃える。これまで世界に聖人が現れなかったから彼らはそういうカリスマを欲しがっていた。彼が権力を握ったらどう変貌するか歴史からみればすでに予測はつく。世界には偽聖人が実に多い。
思想家
世間では孔子と孟子は偉大な思想家と言うけれど私はこの二人が嫌いである。彼等は権力者に慮り大衆を手段としてしか見てない。資本主義における人を金儲けの手段と見做す企業家と同じ浅薄で破廉恥な思想である。人は皆平等であると言った偽善者も民主主義の大思想家として讃えられているが。彼は自分の醜悪な行動を糊塗するためにそれを考え付いたのである。識者と呼ばれる人種の名誉欲と物欲は世界中同じである。
虚無
極端な富の偏りで貧困が慢性化すると地下に虚無がカビの如く蔓延する。それは精神の奥深く潜り込み蓄積された虚無の胞子は地上に暴発的に出現する。富裕層から成る権力はこれを抑え込むためにあらゆる手段を施す、慈善事業等富裕層の偽善的行為と福祉と言う権力の飴と公安・警察による弾圧という鞭で彼らを飼いならせばまだましな方だ。しかし根本的な解決にはならない。彼等は革命を望み体制を破壊することを目的にする。弾圧が強くなればテロは地下に潜り一般市民を巻き込んでいく。彼等からすれば大衆はすべて体制に属しており弾圧の傍観者でしかない。権力の弱点は大衆である。大衆が離反すれば体制は自然に潰れる。富裕層の特権も体制の崩壊で消滅する。
富める者達よ貴方がたは何時まで富を追い求め続けるのだ。地上の富はもう余り残ってないのに、それでも欲しいのか。路上に寝転がっている人々の存在の苦しみ、希望を持たない子ども達。怒りの若者達、全てあなた方の欲望から生まれたものだ。彼らの怒りは貴方方を地獄に引きずりこむであろう。
怒りの渦が世界を包みやがて爆発する日がくる。
清貧
清貧に生きるには妻の小言に耐えねばならない。
濁流に身を入れるより阿呆となり眺めるにしかず。
貧しき者は清貧に生きよ、そのためには日頃から欲望を持たずに見栄をはらず身を慎まなければならない。
小人は窮して不善をなす。
我如何に窮しても身慎み不善をなさず。
親
親は子の礎であり黒子でなければならない。黒子はそのままでなければならない。下等なマスコミに引きづり出されて黒子の本分を忘れて有頂天になるべからず。
民主主義
民主主義はポピラリズムであり、その律法は一般市民よりも不善者を人権と称する盾で擁護する不公平なものである。こんなものは暴力で簡単に崩れる。
政治家は権力の椅子を得るために人生の前半を費やす、後の人生はその椅子に居座って生きるだけである。それを世間では成功者と賛辞する。
存在
あらゆる存在はそれ自身の空間と時間を占有する。東京という大都会で我々は限りなく無に近似する存在となる。隣人と空間が重複しないよう卑小になり時間すら極小で隣人の存在を認識できないくらい瞬間の時間しか持たない。
存在は無限であり認識を超えている。時間は有限を断ち切り無となす。如何なる存在も風化して消滅する。
時間の女神は存在する全てを平等に扱う。
細胞遺伝学
人類はどんなに科学が進歩しても人は創れない。未来において細胞遺伝学が幾ら臓器を創りだせても病気と老化による死を止めることはできない。人類誕生より遺伝子に組み込まれた癌細胞は人間を確実に殺し続けていくであろう。遺伝子は水素‐炭素分子配列のバランスを基盤とする。そのバランスは自然であり人工的に創りだせるものではない。癌はそのバランスが崩れた時に現れる遺伝子の逆襲である。
男女
女は胃袋と子宮で物事を判断し、男は感覚で判断する。残念ながら両者を具有することは難しい。歳を取るとそれが一層鮮明になる。従って女性とうまく付き合うには哲学と思想の話は避けるのが賢い生き方だ。無論男にも話すに足る人物は少ない。
嫌われ者
世間には自分が周囲から嫌われているのに気がつかない無神経な人が多々存在する。私も前頭葉右脳の神経細胞が死滅してから無神経な人間になってしまった。
生きること
この世界に生まれたるすべての生き物は生存するために精一杯活動する。雨後の紫川の濁流の水面に一点あり、子鴨が流れに逆らって留まっていたがやがて思い切ったように濁り水の中に潜りこむ、しばらく出てこない。こんなに濁っていたら餌は見つかるまい。そんな心配をよそに大分離れた水面にプカリと現れて流れていった。
黒子
歴史は大勢の黒子達によって支えられて流れる。
名もなく歴史に埋もれた人々よ、貴方方一人一人は本当のヒーローだった。名声を勝ち得た者の後ろには大勢の黒子が居たことを我々は認識しなければならない。マスコミに祭り上げられたヒーローはいずれ地に落ちる。マスコミはポピラリズムと正義の双頭の化け物である。そんな化け物とは付き合わない方が無難である。
思い出
人から楽しい思い出は何ですかと聞かれると私は戸惑ってしまう。私の人生には楽しいことはなかった、苦い思い出ばかり、適切な決断ができなかった人生に今更の後悔で繕う。大切な場面でも決断は正しくなかった。私は誕生から死ぬ瞬間まで時間軸と空間の3次元ブラウン運動をしていたにすぎないゴミだ。軌跡など無い、苦い思い出なんか背負いたくない、捨て去るだけだ。
さくら
満開の桜からひらひら花びらが川面に舞い落ちている。さくらの花びら川面に浮かび優雅に流れゆけどハヤがパクリと飲み込んだ水底の虫けらと同じように。腹に収まれば同じ事とハヤは泳ぎ去り。
老葉
若葉茂れる下陰の老葉枯れ落ちて朽ちる定めなれど、
枯れてもしがみつかんとするは哀れなるより醜悪なり。老葉は枯れ落ちて腐れて堆肥となるが幸なる。自然は輪廻を守る。
行動
科学的思考と黙考は常人には怠けているように映る。
良く動く人は真面目に働いていると評価される。
地球という限られた空間の中で国家群が利己主張を繰り返し反目する世界において資源の争奪戦は必ず到来する。地域紛争が拡大してついには世界大戦争に突入、人類が死滅する日は近い。
国家を構成する上部組織は優秀な官僚を配して如何にして下部組織の国民から合法的に金を搾り取るか知恵を駆使する。法律はその方策の主体であり大義名分は国民の福祉と称しているがその実態は上部組織の安泰とそれを支える公務員、我々はその中の警察という番犬を恐れる。番犬の飼い主は国民であるが。下等な番犬は飼い主ではなく餌を与えてくれる者に従う。
大衆と異端
大衆は同様な認識と意識を持つ人間の集合である。大衆は異端を嫌悪して憎悪する。宗教も大衆化すれば異端が出てくる。人間には個性があり当初は大衆に紛れ込んでもいずれは異端的な行動と意識を持つようになる。
大衆
大衆は豚に似ている。物事を解決し満足させてもあの時はああすれば良かったと陰でブーブー囁くのである。大衆のために先頭に立つことは一見ヒーローの様だが後に残るのは何もしなかった豚どもの陰口の残渣である。大衆を崇高な思想で教化しようなんて考えないことだ。彼らは移ろいやすく忘れやすい。ソクラテスは豚に理解できない哲学を説いて恨まれた
勲章
何のために重荷を背負うのか。名声の刻まれた御影石の墓標か。苔が附いた墓標など誰も顧みない。権力への協力賞をありがたく頂く一部大衆が腐敗政治を支持していることに彼らは永遠に気づかないであろう。我々の支えている国家権力は巨大であり我々の精神の末端まで管理支配している。
食べ物
美食家は何でもうまいと言って食べる人間を味の分からぬ者と軽蔑するが、その味のわからぬ者は食べ物と料理する人に感謝しながら少しも残さずに食べるのだ。美食家は表面上感謝するが、理屈を並べて平気で残飯を出す。飢餓の苦しさと惨めさは現在の美食家日本人には理解できないだろう。
社会奉仕
ボランティア活動は現状の不足部分に労働奉仕するだけでは単なる余暇の運動に過ぎない。現状から未来の展望を模索することで奉仕の精神は生きてくる。
終末
今の私には未来に生きる希望がない。
笑うこともなければ感動することもない。
一日は妻の愚痴と姑のような小言ばかりで精神は萎えるばかりだ。生きていることが苦痛になる。惰性で生きていくことが長くならないよう願うだけだ。
存在は個なり
全ての生きる者は単独者である。親子であれ個として独立に存在する。子が病気で如何に苦痛のどん底にいようと親は代わることはできない。死も同様に個の問題であり代用はできない。死んだ者に対する後悔は自己欺瞞でしかない。供養は自己欺瞞を鎮静化する精神安定剤である。坊主の欺瞞で死人は救われない。
泡の行方
哀れなるかな人の世は川の淀みに身を寄せ合う泡の如く、傍らの泡消えゆくを如何にし難くただ身を震わせど、やがてわが身も同じ定めなるが傍らに小さき泡生まれたるを喜ぶべきなり。
無私
善を為して良き事を期待するは心卑しき不善なり。
最善を尽くして何事も期待すべからず、心平安なることに優はなし。
存在は認識を越える。認識を現象学で真理として支えても、認識は頭脳の働きの一部であり誤謬を含むものである。認識で得た知識という情報は時間経過により忘却の淵に落ちて行く。認識の誤謬は教育と社会環境の刷り込みにより精神に刻みつけられる。
路傍の石は認識しなくとも存在する。認識しなればその石につまずき痛い目に合うだけだ。それは感知であり哲学的な意味など皆無である。
認識と存在は互いに独立している。存在するものは認識されなくとも存在する。都会では我々は行きかう人々を認識してなく彼らも私を認識してない。我々は単独者として存在している。他人から存在を認識されずとも存在していることは確かである。
鏡
鏡は暗闇の中では役に立たない。投影は光のいたずらである。
金の亡者集団
経済会は現在社会におけるカネゴンである。金を食らうために国家をも貪り食う怪獣。自分の立脚する国家の将来を考えずひたすら儲かることを画策する人間どもでできた複合怪獣である。やがてこのアホな国を食らうであろう中国という豚オオカミを育てたのも彼等である。彼らは自らの行為を美化して反省することない。
幻想社会
現代社会は実体のない幻想社会である。我々の存在は闇に浮かぶ卑小スポットで、思考と行動は仮想空間で行われる空ごとだ。如何なる悲惨な出来事も現代社会では仮想である。そんな仮想を実体化しようとするアホなマスコミ。吐き気を模様する仮想がゴミクズの如く巷に投げ捨てられている。人は商品の如くTVに陳列される。それを見て喜ぶアホな社会。古くなった陳列品は捨て去られていく。自分を大きく見せたい自己誇示の世界、チョットでもTVに出て話題になりたい大衆はマスコミに操られたピノキオである。社会が狂瀾に陥っている。思想と哲学のない不毛な狂瀾社会は滅びの前兆である。
黙して死を迎えるは幸なるかな、
死にあがない生に執着するは醜なり。儚き世に何をば望まん。
科学者の無責任さ
島原湾の干拓地の水門の開閉問題は農民と漁民の深刻な対立を生んでいる。政府の間抜けな対応に両者とも振り回されているがこの原因を作った原案者とそれに同調して理論的バックアップをした科学者達の責任が抜け落ちている。過去の事だから彼らに責任はないというのか。干拓により膨大な沿岸生物を殺戮し、有明海生態系を攪乱した科学者達よ恥を知れ。日本には思想と哲学を持たない大勢の科学者が大学と研究所に居る。彼らは権力と大企業の走狗であることを恥じない。
科学者は社会の黒子である。表に出たいと願うと悪魔に精神を売らねばならなくなる
傲慢
傲慢は人間を堕落させる悪魔の囁きである。人間だけではなく国家も傲慢により滅亡する。衆遇国家は経済の発展により傲慢になる。日本はその失敗を3度繰り返している、第一と2次大戦そして経済バブルには国家ばかりでなく国民までも身の丈知らずの傲慢の悪臭が充満していた。経済界と識者と呼ばれる人々は傲慢の神輿の先頭にいた。隣国にそのような傲慢国家が出現して不快な顔つきをしてもかっての貧乏国に経済技術援助をして太らしたのは貴方自身なのだから。
希望
人は希望を失うと生物学的にただ生きている虚ろな屍になる。内在する精神は萎えて腐敗しはじめる。希望は精紳の存在する為の糧である。病んだ精神を治癒するに希望から出る乳が必要である。希望のない精神は、日々飯を食らい糞をするしかない肉体の抜け殻に閉じ込められたおぞましい虚無の鬼となる。これを避けるには破滅しかない。肉体を死滅させることによりこのおぞましい精神は消滅する。永遠に。
刈払い機
刈り払い機で密生した雑草を破断するのは爽快さに罪悪感が伴なう。チエンソーで竹を切断する際にも同様な気分になる。青空に真っ直ぐ伸びた竹を卑小で薄汚れた私が切断して地面に転がす。竹の美に対する羨望と嫉妬が私の内部で蠢いている。
政財界
政界と財界の権力欲に取り付かれた悪臭の充満する糞溜には腹の突き出た無数のウジ虫が蠢いている。
狂瀾
マスコミによる狂瀾の演出とそれに観入り嘲笑する大衆、彼らは気づかないがそれ自体が総体として狂瀾なのだ。
空間に存在する生物はある一定の占有密度を越えると強烈なストレスを受けそれに対応できない者は弱者を迫害し始める。激しいものでは弱者をつつき殺して抹殺してしまう。水槽の魚と鶏小屋のつつき現象である。社会の自己保存本能が機能すると紛争と戦争により相手社会を抹殺しようとする集団が暗躍し始める。
人生
何事も無くスムーズに定年までたどり着く者を人生の成功者と世間では呼ぶ。その点では私は失敗者の範疇に入る。私は岐路の選択でリスクのある方向に進んだ、そのアホな選択は時折苦い思い出として表出し自己を責めるが、今更どうにもならないことばかりだ。これももう少しで終わりだ。死は私に安息をもたらしてくれるだろう。
無責任な国
この国は政府から大企業さらにマスコミから個人に至るまで無責任な者ばかりである。こんな社会で育った子供達は無責任になる。大人は道徳云々と騒ぐだけである。教育で子共は健全に育つと思う教育万能馬鹿が教育関係者に多すぎる。健全なる精神を持つ子ども達は健全なる社会でしか育たないのは当然のことだ。
気億
現在は過去と未来の結び目である。過去は空間に残る時間の軌跡だ、軌跡は脳みそに記憶されて残っているが曖昧なもので余り信用できない。脳味噌は歳と共に朽ちる。記憶は朽ちたザルから零れ落ちて闇の彼方に消えてゆく。記憶をため込んでいると重荷になる。零れ落ちた記憶等捨てておけ、闇の中で探し回って見つけたところでせいぜいまがい物だ。
宗教の真実
我々はイエスキリスト、仏陀、マホメッドの考えた本当の思想と言葉を知らない。あるのは彼らの周辺に居たであろう人物たちから得た曖昧で誇張された記憶をもとに伝道者と自称する連中の創りだした創作でしかない。彼らは伝道に都合の良い作品で我々民衆を騙し続けてきたのである。高僧と呼ばれる連中は無知な民衆を騙すために天国と地獄、悪魔、鬼、死霊などという虚言を発明した。幼子の純真で柔らかな意識にそのおぞましき虚言を坊主どもは数百年にわたりのすり込んだ罪科は人類の巨大な負荷となっている。そもそも口承とか伝承は曖昧な記憶と個人的な恣意で変化する。それが記載されるまでは数百人の伝承を経過し加えられた恣意はおびただしい量となり、真実はそれに埋没してしまう。歴史上の偉人と言われる人々の伝承にはおびただしい恣意が含まれていると考えるべきだ。
黒子
世を支える大衆は黒子なり。黒子はそのままが幸福である。光を浴びると醜さが目立ち黒子でなくなる。とにもかくにも人は子供から老人までマスコミの光を浴びて世に知られたいようだ。
長生き
永く生きることに価値があるのではなく、如何に生涯を生きたかが大切だ。老醜を晒しながら永く生きたと見世物にされて心から喜べるだろうか。
存在空間
生物は占有する生物空間が重なり合うと過大な内部ストレスを受ける。内部ストレスの負エネルギーは外部に放出されなければ収まらない、それは攻撃的に弱者に向かう。社会ではそれが発生すると伝染していく、子どもの世界もそれに汚染される。無責任で顕示欲の強い親ほど子供が汚染されていることに気づくことができない親馬鹿となる。
権利は義務の基盤において正常に機能するが権利ばかりがはびこると社会は腐敗する。
我関せず
これしきの知識と技術に何をば望む。
羨やむまい、恨むまい、この世の常を。
ただ時の流れに乗りて、
老いて消え失せる身なれば。
私の病は脳塞栓
この病気脳梗塞は私から自尊心、思いやり、希望、躍動、気億を奪い去った。私の脳味噌は普通以下となり愚鈍な反応で人を苦笑させる。私は普通に生きることのできない人間になってしまった。
理性
理性は脳みその創った傲慢と善人説に基づく幻影である。理性がありながら平気で殺戮する人類のおぞましさ。科学者はそんな最低の理性を抱えている。理性の創った道徳はすでに腐敗して約立たずだ。理性と道徳は体制がアホな人民を自己規制させるために哲学者に作らせた玩具だ。哲学者達は大学というミニ体制のぬるま湯に浸かりながら我々には理解困難なパズルで人間の本質を誠しやかに説いてきた。
点
我が存在は点なり、消えゆく点が何をば望まん。空間と時間に規定された点、時空を不可逆に前進する点の軌跡なんぞすぐに消え失せる。記憶は脳味噌がまともな間だけにできる幻影で嘘さえ作り出す。
時間と空間は理性で認識できるというのは哲学者達のまやかしにすぎない。時間と空間は認識に関係なく不可逆に流れ去る。全ての事象は同時に過去に葬られる、
なぜ生きることに執着するのだ。先にあるのは老いと死だけだ。私の存在は結局無である。
秋空に黄金にたわむ稲穂かな。
組織の頭下げて、尻尾切り
組織は自己保存本能が醜悪なまで機能する、そこには正義など期待するのがおかしい。
巨大な組織はトカゲである。本体が犯した失敗を下部に転載して切り離す。身内を生贄にして頭を下げることを平然と行う偉そうな最高幹部は恥知らずだ。
戦争
戦争と闘争は人類の内部遺伝子である。
人類は覇権を獲得するための闘争をゲームのように楽しむ。偉大なギリシャ人もスパルタと覇権を争い、国を疲弊させるに至るペロポネソス戦争を30年間続けている。素晴らしい知恵者が輩出した世界においてもかくの如き愚かな戦争を続けた。現世界でもエゴ丸出し大国が覇権獲得を目指している。いずれそれらの衝突により戦争が起こる。世界中の学者と知識人が国連で幾ら議論しても古代より流れている人類の大好きな覇権取りゲームは止むことなく人類滅亡へつき進むであろう。小市民よ貴方方の無関心と無行動という無責任が体制の暴走を許し世界を滅亡の危機に陥れるのだ。民主主義は衆愚で暴力の前には役に立たない。
資本主義
我々の精神と身体には資本主義の毒素が浸み込んでいる。この悪臭は世界が滅びるまで抜けない。資本主義に毒された社会はその社会基盤まで腐敗している。腐敗した土壌で育った哲学と宗教では社会の浄化など不可能である。
文明の進歩とともに人間は堕落する。文化は理性により浄化された結果ではない。後世の人間たちが自分達では作りえない物を祭壇に飾り上げたものだ。堕落した人間にとって理性と倫理は偽善的な欺瞞で自己満足を与える玩具にすぎない。
人生とは酔ひて見るつかの間の夢なり。
覚めて残るは二日酔いの虚しさばかり。
過去は背負うものにあらず、捨て去るものなり。
私の存在はピエロの綱渡り余計な荷物は背負わない。
社会経験のない天才は人の道知らずのアホでしかない。
科学
科学は自然界から宝箱を見つけ出すことである。そこには本物の宝石が入っている場合と明けた瞬間眩しく輝く贋作もある。自然は科学者を巧妙に騙す、特に欲に目の眩んだ科学者に対しては。眩しく輝かなくとも手に入れた小さな宝石を大事に磨くことは徒労ではない。科学者よ、資本主義の走狗となり自らの欲望のため世界を滅ぼすパンドラの箱を開けるなかれ。
砂漠のジン
砂漠の悪魔ジンは満月の夜に砂丘の影に潜み疲れた旅人に囁く、人生は砂漠の駱駝のように孤独で苦痛と悲しみを背負う孤独の旅です、無益な旅を止めてここで月明かりを浴びて心地良い砂の音楽を聴きながら眠りにつきませんか。嗚呼、煩わしい旅を止めて乙女の褥を枕にして永遠の眠りにつかん。
月明かりの下で影法師ブラックゴーストの妖艶な踊り、
風が吹き流砂がやさしく流れていく、私の足を掴んで身体が砂に埋もれるまで離さないでくれ。お前の踊りを邪魔する朝日が昇るまでに永遠の眠りにつきたい。
マスコミ
マスコミは社会の恥部に群がるハエである。民主主義の言論の自由という安全域から言いたいことを流布する。その流布により不特定多数の人間が傷つくことも紙が売れれば成功だ。排撃されてもそれを宣伝としてさらに売り上げを伸ばそうとする。マスコミのプロパガンダに乗ったアホな大衆が踊りだす。自分たちが多くの人々を傷つける片棒を担いでいることも反省せずに騒ぐだけの能しかない、それが彼らの民主主義である。
宗教
如何なる社会においても宗教は派生するが、同時にその走狗となる坊主も湧き出てくる。宗教は壮厳と秘密がなければ大衆を威圧できない。宗教に真理は期待できない、あるのは厳重な金庫にしまい込まれたカビ臭いドグマだ。時々ドグマを覗き見して説教の種にする狡猾さが高僧坊主の特権として宗教には残存している。
期待
未来に期待するのはアホのすることだ、未来は平気で我々を裏切る。期待がはずれても落胆しない、恨まない、悲しまない。この世はインシャアッラーなのだから、まあ、いいさ!でよいのだ、その方が胃を痛めず健康に良い。
Freeze
私の人生はあの時にFreezしてしまった。前に進むことが出来ない絶望の中に閉じ込められた。絶望が精神を破綻させないよう思索することで救われている。有名人学者の本によれば私は脳障害を持つ人間である。その対処療法は当たり前と机上の空論の列挙で役に立たない。妻は私が本で勉強してないと非難して私を障碍者の範疇に押し込めたいようだ。本のとおりに考え行動すれば私は絶望して発狂するであろう。有名人学者の権威に弱い妻は私の人格よりも著者である有名人学者に傾倒しており議論は無駄である。本を読まない怠け者にされるだけだ。下らない書籍は読みたくないのだ、特に医者の知ったかぶりの自慢話は害である。
時間と空間
時間と空間は過去から未来へ連なっていると思われるが
誰もその行方は知らない。誰も知らないので、預言者と呼ばれる輩が出てきて世間を騒がせる。
忠誠
国家に忠誠を誓うことは美徳ではない。国家はその権力者達の思惑で作動しておりそこに誠意を期待するのは愚かである。自己犠牲は大衆の好むものだ。
アテネで自ら毒死した偉人には気の毒だが彼の死に値する民主国家など存在しなかった。
名声
如何なる名声も大衆に埋もれて時の彼方に投げ捨てられる。風化とコケむした石造と鳩の糞だらけの銅像は名声のなれの果て。
黒子
黒子は名声とは無関係であり大衆に埋もれている。
それが黒子の宿命である。歴史はその時代に生きた無数の黒子の礎により支えられている。
黒子が表に出てヒーローに祭り上げられることもあるがすぐに歴史に埋もれてしまう。ヒーローの出ない現代社会では学者と小説家にマスコミがそういう連中を脚色して大衆受けするおらが町の英雄伝説の虚構を作り出す。所詮客寄せパンダにすぎないものなのに
黒子は若者の未来へ延びる道程の礎にならなければならない。老人は黒子になるべきである。若者と競争して自分はまだ若いと自賛する老人は自己が醜悪な障害物であることに気づかない愚者である。
テロ
テロは人間が国家という怪物を作って以来その怪物に立ち向かう虚無集団の最終抵抗手段であった。テロ組織を産み培養したのは国家体制社会である。社旗の底辺で未来への希望がない人間は虚無に陥る。それを警察と軍隊という飼い犬で抑圧することに同意する羊市民はテロリストにとっては体制側にしか映らない。帝国主義により世界の富を集積した欧米諸国の市民はその富の上で裕福な生活をしておりその収奪により底辺に落とされた最貧国家の人々の苦痛に対して如何程の歴史的痛痒はない。先進諸国に対する貧困諸国の底辺貧困層の怨恨は消えることなく燃え続ける。グローバルゼーションで世界の富をかき集めることに邁進する先進国の陰でテロ組織は憎悪を糧に貧困底辺層に根を伸ばし何れ地上に現れて体制の根幹を成す市民社会を破壊することになる。テロの目的は市民社会を破壊することである。市民が体制に加担して底辺層を差別し搾取することを止めないかぎりテロは消滅しない。
民主主義的奴隷世界
欧米は労働力が足りなくなったときアフリカ、中東、南米等後進国より移民を促進したが機械化により労働人口がだぶつくと移民を邪魔者扱いして最下層に押し込めた。富裕層による富の囲い込みで疎外された中産階級は巨大な体制に反逆する力がないので下層の弱者にお前たちのせいで自分たちがひどい状態におかれていると排撃して鬱憤をはらす。軋轢を受けた下層は無防備な市民を攻撃する犯罪とテロに走る。テロには未来への展望を形成する意志はなく虚無だけがテロの根底にある。慢性的な抑圧下で彼らは秩序の破壊に喜びをもつ暴力快感者になる。
傲慢
傲慢は誤謬の原因であり無意識の落とし穴である。民主主義が最高の論理であるとする西欧の傲慢は異文化圏の論理を否定する。民主主義が腐敗したポピュラーリズムで汚染されて自己破綻に陥っていることに気づかない。問題はそれを信奉して追随する連中が世界に多数存在することである。
短い人生何も成さずに年老いて死ぬか。それともこの命をここで使い果たそうか。選択せよ。
老人
年を取ると精神に世間の垢がこびりつき事象に対する新鮮な感覚は消失し、垢が積み重なった精神は未来へ飛翔する意志のエネルギーを失う。死に至る前に無理かもしれないが精神にしみ込んだ社会の毒素を抜きとりたいが、今更無理な話だこのまま消滅してしまえ。
IT世界ではGlobal popularisumが蔓延して現実世界を蝕んでいる。それは民主主義の展開ではなく崩壊の前触れである。経済学者、思想家、評論家、政治家、マスコミそれに科学者まで世界的ポピュラリズムに迎合している。
孔子孟子
私はこの二人が嫌いである。二人とも権力の走狗である。彼らの唱える律礼と仁義は国民を押さえ込む体制の偽善的手段にすぎない。彼等は権力維持を念頭に国民を搾取する下層と見なしいかに支障なく持続的に支配するかとしか考えてない。彼らの唱える道義には国民を羊の如く従順に教育する権力への媚と大衆支配への偽善的な臭気が漂っている。
表現の自由
表現の自由と喧伝して人の精神と信仰を傷つけることは民主主義を悪用した最低で卑劣な行為である。良識のない低俗作家とマスコミはその反発を利用してあたかも自由主義の尖兵であるかのように振舞う名声が欲しいだけのゲスな人間である。それに同調して旗振りをする大衆もアホ集団である。イスラムよそのような低脳集団の騒ぎに真面目に相手にするな。彼等は自ら作った民主主義に倦んでいるのだ。いじめっ子のように貴方方が真摯に対応すればずに乗って反応するのだ。米欧はキリスト的民主主義のイスラムに対する優位性を強調したいがためにイスラムを狂信的宗教と世界に思わせたいのだ
嵐が過ぎ去るまでこの砂漠に潜っておけ。例え砂漠の上に天まで達する楼閣が知らぬ間にできたとしても黙して寝ているがよい。時はその砂上の楼閣を消し去り元の砂漠に戻すであろう。イスラムは砂漠に生きる者の魂である。
病人
病んだ肉体と精神を持つ者は自己の疎外感から社会を恨む。社会を破壊したくても社会の防衛システムが強力で何もできず無力感に陥る。彼は怒りと憎悪の捌け口を社会の弱者に向ける。
格差
格差は人間社会には必然的に存在する。国家間の格差は歴然と存在する。現代国家の格差は18-19世紀の世界的略奪紛争により富の集積した国家と収奪された国家の歴史的結果である。先進国は過去の収奪で蓄積した財政で最新科学技術を進展させてそこから生産された余剰産物をグローバルジェーションの大儀で貧乏国に物を売りつける。富の格差は教育格差にも反映する。金持ちは子供の教育に投資する。教育で得た知識は金儲けの手段となる。投資は利子とその余剰効果である教育で雪だるま的に膨れる。教育への投資資金のない貧乏人はその子どもたちも生きるために肉体労働者となる。彼らはじつに大人しい羊である、草があれば生きていける、太ってくればバリカンで丸裸にされる繰り返しの平安を生きる。それを永遠に続けるために資本主義者たちは権力の下に飼い犬を飼育訓練する。資本主義の終末、格差で困窮した羊はいずれ気がつき怒りと憎悪が燻り炎となって全てを焼き尽くすのだ。
初心
初心忘れるべからず、組織開設者と科学者の研究開始理念はよく似ているがいずれも目的に到着してから忘却される。時間の経過と人間の入れ替わりによる傲慢の蔓延が標語の精神を磨耗する。如何なる強固な組織も永遠に続くことはない。傲慢が組織に綻びを生じそこから腐敗菌が進入して組織を腐敗させ死滅させる。
幸福の鍵
アッラーは鎖に繋がれた精神を自由にする幸福の鍵を
人間達の忌み嫌う辺境に埋めていた。鍵は数千年も砂漠の下に埋もれていた。何人かの預言者達がそれらしきものを見つけたが何れも偽物であった。イエスが最初に荒野の瓦礫で鍵を見つけた。モハメッドは同じ鍵を砂漠から掘り出した。発見者の死後鍵をめぐって坊主どもが後継者を主張して現在に至る。キリスト教徒は鍵の優先所有権を主張してイスラムの鍵を偽物であると喧伝するが、神が与えたものは同じである。鍵の所在を暗示したのは精神の闇に潜む悪魔かもしれない。悪魔は幸福の鍵を手に入れても更なる闘争に明け暮れる人間たちの浅ましさを予想していた。
愚かな人類
イエスが愛を説いてから2千年余が過ぎたのに人々は何時まで憎しみ殺し合うのか、世界は涙と悲しみで溢れているのが見えないほど人類は愚かである。
国家・民族・宗教は個人単位の社会組織でありながら組織至上主義という馬鹿げた大義のために対決と闘争を続ける化物である、人類はこの化物に操られて
自滅するまで突き進むのだろうか?
砂漠の魔物ジンの話
敬虔なモスレムは、ジンなるものはイスラムにはないと否定するが、心の片隅に少し引っかかっている人もいるであろう。ジンの話はオマーンにもあった。岩山の谷底に周囲を石で円形に囲まれた1本のガーフの木の前に立ち入り禁止の立て札が立っていた。不思議に思って木の下に入ってみたが、後でオマーン人同僚からあんな所に入るものではないと言われた。一人の若者が肝試しに夜間その木の下に行ったがいつまでも帰ってこなかったという昔話を聴かされた。写真を撮ったのだが妻からそんな不吉なものは消せと頼まれ消してしまった。
私はジンに2度会っている。その話は誰も信用してくれなくて結局酔っ払いの幻想になってしまう。最初は親友米田さんの古い借家の寝室である。夜中に足が痙攣したので目が覚めると全身真っ黒な人物(私はそれをアフリカのブラックマジックで使用しているBlack Ghostと勝手に名付けている)から足を押さえられていた。恐怖で叫び声を上げたらかき消えてしまった。それから数ヵ月後に米田邸で早朝めまいがして倒れてアメリカンホスピタルに担ぎ込まれた。2度目は会社の宿泊施設の自室で前回と同じことが起こった。その数日後に友人宅での退職送別会席上で倒れてカリファホスピタルに担ぎ込まれた。心房細動による心筋閉塞だった。日本に帰国してすぐ心臓の手術を受けた後リハビリに入り2年後何とかまともに動けるようになった。
今考えるとそれは病気の予兆だったのではないかと思う。ジンは旅人を安全に導くことがあるという話もあるから、モスレムに少し染まっていた私に警告を与えてくれたのではと勝手に思っている。当時の私は元気一杯で健康診断を馬鹿にして受診をしてなかった。アホは死ななけりゃ直りませんそのものだった。
傲慢
高山に登る者は登山口をすぐに忘れる。
高きに登るものは元の低きを忘れる。いずれ戻るであろう元の場所を忘れる傲慢性がさせる悪習である。傲慢性は人を醜くする恐ろしい落とし穴である。
ヒヨッコも年取れば雄鶏なり。
無能な政治家ほど過去の事象を持ち出して現在の局面を糊塗しようと努める。未来への展望はその過去に引きづられ霞んでしまう。それでも衆遇は平気である。未来へ展望に欠けるリーダーに持つ国民は哀れである。過去は引きづるものではなく捨て去るものだ。過去の荷物を背負って未来の高山に上ることはできない。過去の墓場を漁ってその腐臭を現代の祭壇に添えて騒ぐお祭りは実に滑稽である。墓場は放置すべきもので骸骨は風化させたほうが歴史の健康に良い。人間は歴史からなにも学ばず馬鹿な事を繰り返すのだから風化しても何ら問題にはならない。
荷物
我々は精神の健康のために過去の荷物は捨てた方がよい
砂漠の旅人は重たい荷物を背負って旅する。重たい荷物を最後まで運びたいならラクダのように耐えることを宿命として受け入れなければならない。砂漠は広大だその荷物を放り投げて座り込むか自由に何処にでもいくがよい。
障害者
社会では反応の遅い者は障害者として差別され異なる目でみられる。彼の小さな失敗は異常性のせいにする。社会にはそんな人々は大勢存在する。家族すらそのような目で彼を見る。それは暖かな目でなく冷笑である。
スパイ人間
他人の行動をスパイする人間にはすべての人間が異常者に見える。スパイ人間は自分だけが完全で常に正しいと思っている独善家である。
同情
同情とは安全という囲いの中に居る人間が不幸な人間を見て優越感にひたる偽善である。貴方方は十字架に磔にされたイエスに同情するというのか。イエスの磔に反撃ではなく逃亡した者と参列した傍観者の偶衆。
死んだあとにイエスを神の子として祭り上げた偽善者どもの末裔は現在に至るまで偽善をなし続けている。
隔離
雨の中を疾走する車の中の人間は道路脇の歩行者に飛沫が掛かるのを気に留めない。世界の紛争地帯で多数の人々が惨殺されても、マスコミが騒ぐだけで我々は気にも留めない。国連という偽善者集団が騒ぐだけで何もしないただ傍観するだけの安全圏の世界に我々は生きている。
絶対安全
人(企業と政府)は社会を安心(欺く)させるために絶対安全ですという言葉に科学者の保障を揃えて安易に公言する。人間に絶対なるものは作り出せない、神ですら自分に似た創造物を創るのに失敗したのであるから。彼等は絶対が崩壊すると想定外でしたと言い訳をして責任を回避する。自然が人間の英知を超えることは昔から分っているのだから想定外は最初からあったのである。絶対安心安全は嘘である。原発は絶対安全であると言った科学者達はそれが嘘であったと分っていながら想定外に責任を擦り付けて逃げたのである。アラビア人のインシャアラーは想定外をすでに含んでおりこれこそ数千年の砂漠の民の英知である。嘘つきは数千年前から存在したのである。
人生での選択
人生では多くの選択問題が連続的に出現してくるが全ての場面で正解を選んだ人は立派な人かもしれない。私は全ての場面で誤答しかできなかった。それは死ぬまで続き誤答だらけの人生になるだろう。誤答の数だけ後悔もある、それらを背負っているとますます重くなるので全て過去に捨てたが、時々フラゥシュバックで出てきて私を苦しめる。人生を再度繰り返したいとは思わない、あったとしても同じような誤答をするに違いないから無駄なことをしたくない。
守銭奴老人
死間近くの老人達よ、小金を握り締めて三途の川の船頭を買収するつもりか。お前たちの行き先は地獄の金亡者地獄だ。ドロドロに溶けた金を咽喉奥に押し込まれてのた打ち回るのだ。いくら坊主にすがっても閻魔様はお見通しだ。せいぜいその小金で地獄の鬼を買収するがいい。
権威
天才の作り上げた権威は才能のない群衆が寄せ集めたモザイクで塗り固めた城である。城に入るにはモザイクで固められた迷路を歩かねばならない。城は仮想であり遠くから眺めるだけでよい。解説者と名乗るし識者の書物に金と時間を割く価値があるかどうかよく考えて欲しい。
視点
人は自分の目線でしか事象を認識しない。マスコミが大衆の意識に付け入る隙は高みの目線で見たような錯覚論法であり高みの目線を持たない者には格好の代弁となる。マスコミの目線は大衆の意識に刷り込まれ人はそれを自分の知見とする。多大な情報を記憶できた者はついに博識者となり群衆の中でマスコミの如く事象の判断を行なうマスコミ中毒患者になる。大衆はマスコミ中毒者を物知りと絶賛するが、知識量はコンピューターに勝ることはなく創造力もない。
つまらない日々
私の1日は漫然と過ぎていく。何も起こらないつまらない平凡な時が流れていく。私の人生はそれで良いのだ、妻によその旦那は働いているのに毎日ブラブラしていると嫌味を言われても平然と生きている、そんなつまらない一日が過ぎていく、それで歳を重ねて死に向かうことが目標となる。私はただ生きることが苦痛である
神輿
神輿に乗っている者はそれを担ぐもの達の汗と労苦を知らない。大衆の見ている物は飾り立てられた神輿であり乗り人ではないが、愚者はそれを取り違えて有頂天になる。
借り物
哲学を持たない人間は権威ある人物の紙上,TV、ITでのコメントを全て信じ込み、あたかも自分で発見したかのように確定して発言する。有識者と言われている学者はいい加減な連中である。彼等は平気で日々言質を変える。この世には確定した物事は存在しないのに。
一日
一日が何事もなく平然と過ぎていく。日記に書き留めることは何もない。こうして漫然と歳を取り朽ち果てるのが私の人生だ。
人生は順風万歩には進まない、いずれ何処かで躓くが転んだ後に立ち上がる者は強者である。
重力
全ての存在するものは重力の作用を受ける。精神も社会という重力の作用から逃げることはできない。孤独は重力から自由になったという意識の錯覚にすぎない
有名人願望
人は世間から認められたいと願い、マスコミに取り上げられることに喜びを感じる。一瞬に過ぎないがTVとか新聞記事の小欄に乗ると有名人になったような気になる。平凡に生きている大衆には安全な刺激が欲しいのである。マスコミは大衆のチョイと有名人願望をうまく利用する。学者は大衆よりも有名人願望が強い、TVと新聞の誘いに喜んで参上して博識を披露して喝采を浴びれば幸福である。
陽炎
サブカ緑化の壮大な夢はサブカのジン陽炎に惑わされたものだ。陽炎はまともに見ればただのサブカだ、消えうせても悔いは残らない。灼熱の日差しの下で緑のマングローブ乙女等に囲まれて海風の音楽を楽しんだ時は戻らない。アッラー、私がサブカで見たものはやはり陽炎でしたか。私の夢は誰も理解できない、忘れ去ることだ。
陽炎は如何に足掻こうと現実にはならない。
期待
期待は失望の源である。結果は期待とは無関係である。それこそインシャアッラーである。
勇気
眼前の川を渡らんとする者、杞憂にて岸に残れり。
渡らんとする者靴を脱て足を川に漬けよ。
冒険への旅は最初に踏み出す一歩に勇気がいる。
古き物
古き形骸は必ず朽ち果てる、形骸を留めようと繕うは現代人の愚かな行為である。過去の形骸は如何様に繕っても崩壊する。時と空間の女神は如何なる事象も現在に留まることを許さない。
美女や美男子も歳を取り皴くちゃ老人になる。若い頃に戻りたいと懸命に化粧を塗り込む女に時の女神は哄笑する。
格差
高きに居る者は低きでもがき苦しむ者の苦悩を理解できない。能力のある者は能力のない者の意識を理解できない。誕生した時の脳味噌の資質に内在する能力という遺伝的格差は生物的な宿命である。能力開発は経済格差の下では格段の差がある。底辺層で生まれた子供は教育格差により底辺層からの脱出は困難になる。格差社会を否定する有識者は格差社会に訓化された偽善者である。経済格差は必然的に存在する。民主主義社会は多数が社会の底辺層に生まれ育つ仕組みであり経済格差は拡大しても消滅することはない。従って我々には万人が幸福な理想社会など永遠に創れない。
自己顕示欲
精神には自己顕示欲が内在する。偉大な学者ほど自己顕示欲が強く自分の研究ないしは自己が世に認められることを願う。研究が社会の役に立つという装飾は体制が作り上げたプライズという舞台演出効果である。
都市開発
都市開発は山を削り道路を造成しその斜面に宅地を貼り付ける子供の貼り絵のように自然をもてあそぶ金儲け遊びである。剥き出た山の斜面をコンクリートで固めて崩落を防いだつもりでも木が繁りダムの如く水を滞留した斜面はその重みで必ず決壊する。斜面に現われた小さな亀裂は人工物が完全ではない証拠である。目先の利益を追いかける現代社会は未来において自然から大きなリベンジを受けるはずだ。
無責任社会
過去の行動に責任を取らない役人、計画策定者、建設業者。大災害発生後には想定外と遺憾でしたで済ます大企業と役人の責任回避パターンは見苦しいまでに定着している。
昨日までは胸を張ってたお偉いさん一夜明ければ頭を下げて謝罪かな。
恨み言
女は過去を掘り返して恨み言を言うのが好きだ。出てくるのは感謝ではなく愚痴ばかり、他人との比較論から他所の亭主の素晴らしさを褒め称える。自分の至らなさには決して触れない。こんな場合に結婚は失敗だったと男は後悔する。結婚しなければ生涯夢を追って生きてきたものを。
なぜこんな女と結婚したのだろう。私は人生の重要な分岐点でいつも選択を誤っていた。結婚を人生の幸福に向かう出発点と称える者はアホだ、結婚は青春の夢を投げ捨てた後の道程である。
衆偶なる市民
無知なる者が僅かな不確実な情報を真実と思い込まされて騒ぐのは偽善者ぶった愚民が多数存在する証である。彼等は欲求不満から正義に名を借りて何かに当てつけたいばかりで扇動者に煽られていることすら気づかないに騒ぐだけの衆遇市民である。衆偶に迎合するマスコミと政治家がこの国には多すぎる。
委員会
世の中には丸々委員会という責任の所在が不透明な集団が多い。有識者で構成された丸まる委員会という行政の走狗が無責任に提案を繰り出す。問題が発生すると彼等は知らん振りして沈黙する。重大事件が発生する度に教育委員会、識者と呼ばれる先生が出てきてマスコミを賑わせて時間を潰すだけのお祭り騒ぎ、無認知、遺憾と提言を連発してお茶を濁す。
戦争
人類は英知があると言いながら歴史から学ぶことをしない。歴史の流れの中で多くの人々が戦争の愚かさと悲惨なることを繰り返し語り伝え記録しているにも拘わらず幾度も戦争を繰り返す。ギリシャの賢人達ですらポリス国家群を衰弱させる27年もの無意味なペロポネソス戦争を回避することはできなかった。国家に武力を保持する軍隊が存在する限り国家間紛争において武力衝突を防ぐことはできない。民主主義が武力を制御できると考えている識者はノウテンキである。武力平衡平和論者の言う武力均衡という緊張状態では平和を恒久に維持することはできない。武力は時間の経過で膨張するか衰退するものであり平衡状態は片方が衰退して均衡は破れる。同盟、国際条約が簡単に破棄されることは歴史上で幾度も行われており国連で演じられる大国のエゴ丸出しの茶番劇では平和など構築できるはずはない。
過去
過去を基点に現在を糾弾する者は愚かである。過去のあの時点で選択した結果が現在に至ったのであり、過去の愚行を責めて現在を紛糾して未来への進行を停滞させる知識人と呼ばれる集団は何処の国にも存在する。
社会は少子化と子供を大切にと騒ぐが現代社会は子供を粗雑に扱うことに無頓着である。ITは現実社会からかけ離れた幻想を餌に子供を幻想世界に引きずり込む。大人たちがそれを公然とビジネスにしている。子供を金儲けの道具にすることが許される腐敗した社会は将来そのリベンジを受けるがよい。
教育
教育はその地域集団に内在するDNAに時代的に獲得された形質が現在まで温存されている集団が保有する文化である。
低質な教育では最高の人材は育成されず、そこから輩出された低質な人材では良質な教育はできない。低質な教育はその低質な地域DNAの連鎖を断ち切らない限り悪循環を繰り返すばかりで未来への進展はない。
選択
人生は選択の連続である。選択の結果から出てきた現況で未来に進む選択を連続的にしなければならないが我々は熟慮する余裕なく直感的に選択して先に進んでいく。私は大事な局面において熟慮することなく選択して進んだ。所謂愚者の選択である。その結果が現在の私である。失敗を恐れて選択を自分以外の者に任せる者は人生の楽しみを知らずに一生を終える。人は成功者と称えるだろうが貴方は死ぬ間際にこれで良かったと言えるか?
多分私は俺の人生の選択は自由だったがすべて失敗だったと言うだろう。
紛争と軍隊
軍隊は常に内部に増殖する内部エネルギーを溜め込んでおり社会に亀裂ができれば火山の噴火の如く爆発する。国家間の紛争に国連は無力であり、究極的には軍事力の衝突で相手国を屈服させることを軍人は望む。軍隊がなければ戦争は起こらないであろうと考えるのは平和ボケの阿呆だ。国家間の紛争の火種は至るところに存在し、その解決に軍隊を投入することは昔から人類の常套手段であった、国境、資源、宗教、人種、民族,何れも紛争の火種であり、これらは人類が地球上より消滅しない限り燻り続ける。
9月23日
耕す人なき畑の畦道に彼岸花咲き乱れ。
難民
ヨーロッパへのアフリカ中東からの難民の流入は過去にヨーロッパが行った帝国主義と植民地政策への歴史的報復である。これらの難民はヨーロッパ全土に深刻な問題を引き起こすであろう。国家を捨てた人間が逃避先国家の社会に融和してその社会の成員として自他共に認められるには十数年必要であるが、それができるほど難民に忍耐があるだろうか疑問である。
影
人間は未知なる物を恐れる。全ての物質と事象の存在に付随している影、光の届かぬ暗黒の彼方に潜む何か、人間の認識できないもの。存在すれば認識できると哲学者と科学者は主張するが、認識できなければ存在しないと断言することはできない。認識は時間と空間を超越することはできない。プラトンは認識できない彼方を美しく夢想して具象化しようと苦慮したが思索するほどそれは現実から遠ざかるばかりで見えたのは事象の影でしかなかった。
無責任時代
わが国は無責任社会になった。政治、官僚体制、教育、企業運営に至るまで無責任人間が蔓延している。国疲弊して無責任惰民を産む
冒険
人生における冒険は青年にしかできない。冒険には一歩踏み出す勇気が要る。そこに留まり平凡を選ぶか、一歩踏み出して冒険に挑むかそれが青春である。
河を渡らんとする者靴を脱ぎて足を水に漬けよ、勇気はその初歩にある。
サブカの緑娘
砂漠の海辺で遊ぶマングローブの緑娘たちよシュマールがやって来る、優しかった海はシュマールにそそのかされて牙をむきお前達を海底に引き摺りこもうとする、嫉妬の砂漠はお前達に砂つぶてを投げる。擦り傷だらけのお前たちが叫んでもサブカには助ける者などいない。恐れるな、身体をたわめて耐えよ、時の女神がシュマール連れ去るまで。
弁護士
弁護士にはソクラテス的人物とソフィスト的人物の二種類が存在する。ソフィスト的弁護士は民主主義を悪用して偽善的不善で社会に害毒を流す。彼らは社会的通念では理解できない複雑怪奇な法律用語で市民を愚弄する
民主政治
民主政治は欠陥だらけだ。理想を持たない愚者が徒党を組んで権力を掌握することが公然と行なわれる。衆愚政治は混乱と腐敗の温床となる。数を頼んで作った立法は集団の権益を守るためのものである。ポピラリズムの弊害は民主主義を考え出したギリシャ時代から始まったが未だにそれに代わるものが創り出せないのは人類の愚かさだ。民主主義社会では人は平等であるというのは教育により洗脳された現代人の特性である。人は誕生から不平等が始まることは子供でも知っている。子供は金持ちと貧乏人の格差を実感している。形質遺伝により能力に差異があることも子供は体験する。
テロ蟻
嘗て資本主義的民主国家群の総攻撃を受けたテロ蟻は地下深く潜り体制に一撃刺す機会を狙っていた。国家体制はテロ蟻の撲滅に全権力を総動員しても市民の足元に紛れ込んだ蟻を殲滅することはできなかった。テロ塚の基盤となる貧困が地上から消滅しない限りテロ蟻は増殖していく。エコノミックグローバルゼーションは国際的格差と国家内部での格差を拡大し貧困は世界に蔓延した。貧困は精神の暗部に虚無を醸成する。体制は一般市民を守るという大儀で虚無に汚染されたテロ蟻の地上への出口を封鎖する傍らあらゆる武力弾圧を加えるが完全封鎖はできない。テロは巨大な市民社会への反抗分子のとる唯一の攻撃手段でありテロへの弾圧が厳しくなれば増幅された憎悪の炎は地下で燻り続ける。
泥人形
国家体制はその維持のために虚偽の泥人形を創造し、国民の反体制エネルギーを泥人形への憎悪に誘導する。風雨で泥が洗い流されても執拗に泥を塗り続ける。不安定国家においては国民の憎悪対象を保持するために泥人形を創り続ける。
サブカの陽炎
砂の波を超えてサブカの彼方の緑を目指した旅なれどたどり着けばそれは陽炎。砂漠のジンよ、老いた身体と疲れた精神には永遠の休息が必要だ。暑い吐息で老いぼれを誘うなかれ、もう旅は終わった。
化粧をした猿
人類は原始時代より貧弱な身体と精神に威厳をもたせる宗教と哲学さらに科学という自前の化粧をしている。古代の大衆は鳥や獣に似せた化粧と被り物のマジナイ師を妄信した。現代の大衆は知識と職業で化粧した人間を尊重する。精神はさほど進歩せず厚化粧と被り物が異常に増えただけで人類が進歩したと思うのは錯誤である。
科学者の罪
科学者は悪魔の走狗にならないように自己を律しなければならない。人類の大殺戮と自然の大破壊に手を貸した科学者達の罪は永遠に消えない。
規定時空間
我々の存在と行動は期限付きの時間と空間の座標軸で踊るブラウン運動の点にすぎない。それに価値を与えようと知識人達は長年四苦八苦したが無駄骨であつた。全ての存在は規定時空間内で確実に消滅する。存在のブラウン運動は偶然性で動き何者にも規定されない。
個性の喪失
個性のない親からは、個性のない子供しかできない。周囲の見てくればかりを気にする母親は、子供のためと言いながら、結局は自己の見栄のために子供を出汁にしているにすぎない。テレビから流れる企業のCMは、母親達の見栄を実にうまく利用して、不要なものを家庭に送り込んでいる。母親たちは、友人、知人、隣近所、世間と同レベルか、もしくはそれ以上に物、情報、教育、諸々の経験(旅行、ボランティア活動)などを得ることに汲々とする。彼女たちは、それが同レベルないしそれ以上にないと不安である。そんな生活の中で子供たちも無意識にそのパターンに染まっていく。母親たちは、意識や感性が周囲と同じであることで安堵する、周囲と異なることを忌避する。母親にとって奇人・変人はTVの中だけのものでなければならない。自己の意識と感性が大衆と似たものであることは、自己の個性がすでに埋没している証拠である。子ども達はそれに気づかずに成長していく。潜在意識に組み込まれた周囲と同じでなければならない脅迫観念は社会全体の精神病であり未来への発展を自ら閉ざしている。民主主義のポプラリズムはそこにカビのように芽生えてくる。
自己保存本能の虚構
人類は古来より自然に対峙する自らの存在の危弱性を確固たるものにするために無数の宗教と神話を創作した。ギリシャ神話における神々の愚行は不安定な人間存在を運命論的に釈明する楽天家詩人の創作であった。
個人主義的利己主義
世界は自分を中心に動いているという自己中心主義者はその周囲に不愉快ばかりでなく敵意を抱かせる。そんな人間は距離を置くだけで見過ごされるが国家レベルでは武力衝突まで起こる。敵意は理性的に冷静さをよそうことで衝突の危機を避けられるが蓄積された敵意のガスはいずれ理性の蓋を吹飛ばして戦争に至る。
虚無的老人
高い金を出して美味い物を食っても明日には糞にしかならない。時間を費やして詰め込んだ知識も歳取れば過去のゴミために捨てるだけだ。美しいものを見ても記憶の片隅のゴミにしかならない。微笑を忘れた無表情は虚無に蝕まれた精神がピエロの化粧を落とした素顔だ。虚無の闇に吸い込まれたくなければ哄笑せよ、存在する全てを哄笑するのだ。哄笑して世間から嫌われて笑い死ぬがよい。
技術の上書
古い技術に新規の技術を上書することで人類は進歩してきた。
民主主義の行方
民主主義は人を幸福にするという幻想は、資本主義を内臓に持つモザイク怪物リバイヤサンが生み出した詭弁である。民主主義的資本主義における政治と国家は多数の椅子を占める大組織と集団の利益のために機能する。国家のためにという大儀を掲げた体制の隠れ蓑の陰で個人は権利を剥奪されて巧妙に構築された法律の網籠の中で生きるしかない。文句があるなら犯罪者かテロリストになれ、それとも弾圧を覚悟して反体制革命を起こすか。
老人の虚無感
高い金を出して美味い物を食っても明日には糞にしかならない。時間を費やして詰め込んだ知識も老いれば記憶のゴミために捨てるだけだ。美しいものを見ても意識の片隅のゴミにしかならない。老人の脳裏は記憶のゴミで満杯だ。
匂い無くとも色香漂う藪椿
新緑を密かに愛でる山桜
惨禍の忘却
人類は大惨事の後に二度と繰り返さないと合唱するが同じ惨禍を幾度も繰り返す。その愚かさは滅亡するまで直らない。
傲慢な豚と科学
傲慢な豚に核餌を与えたのは先進国のリバイヤサン心棒者達とその走狗の科学者達である。
科学者の品性
研究の未来に対する危険性を予測できないノー天気な天才科学者達より普通の凡人技術者達の方が社会のためになる。
染色体の攪乱
染色体の基本要素である炭素と結ぶ水素原子に1個の電子の増減が生じると染色体の二重螺旋構造はバランスが崩れ生物は正常な生命維持ができなくなる。遺伝子操作で攪乱されたたんぱく質は自然界で正常に戻ることなく食物連鎖に紛れ込み循環する。バランスを失った炭素-水素は人類の脅威となるであろう。
カリスマ
借り物の教養と美辞麗句で粉飾した知識人と高僧が崇拝される世である。民主主義に飽いた大衆は快適な刺激を与えてくれるカリスマとその言葉を拝信する。
歴史は人類の過去のゴミ溜
歴史のゴミ溜を漁って金目の話を探し出し発見したと自慢することは随分昔から行なわれてきたことである。見つけたゴミを言葉の錬金術で創り直したところで幻影でしかない。過去の人物を粉飾礼賛して大衆を唸らせて金儲けしても時過ぎればただのゴミにしかならない。
芸術家
才能ある芸術家は自己の才能が世間に認知されることを日頃より切望しており自分に対する世間の評価に過敏となる。世間の耳目に晒されたい精神は有名渇望症のストレスから胃潰瘍になる。
宗教
古来より現代に至るまで宗教は威厳の仮面を被り威信を保っている。その威厳は坊主が天国への免罪符を握っているという無知なる大衆の妄信から生まれた仮想である。耳触りの良い説法は古来より使い古された手法だ。イエスとシッダルタの精神はパッチだらけの古カーテンの如@@@@@@く坊主の威信を隠してきた。モハメッドのコラーンは砂に埋まったまま、イエスは十字架にはり付けにされたまま、シッダルタは木の下で瞑目したままで口を開くことはない。
器
我々の脳味噌は小さな器である。それに知識と経験を詰め込んでもたいした量にはならない。ある賢人は器の中で熟成し発酵してこぼれそうな知識を世間に分け与えることを試みたが徒労に終わった。当初世間はその知識の奇異さに興味を示したがすぐに飽きてしまった。時が過ぎて器は風化し涸れてひび割れができた。器の研究者と称する者たちがひび割れの修復を試みたがひび割れて涸れた器には過去のホコリの被ったカビの生えた知識しか残っていなかった。
謝罪
ひと頃は天を仰いでいた顔が事起こりて地に向く、今回の不祥事は遺憾ですで済む社会は無責任な精神構造の蔓延を示している。
重力
我々の存在は社会という重力の影響を受ける。家族は家庭という小惑星の重力で集合している、家庭は近隣の家族から反発と吸引の影響を受けるが最大の重力源は社会と国家である。
期待
自分にないものを子供に期待するのは親馬鹿である。自分と配偶者の遺伝子を基盤にできた子供の才能はこの程度だと考えると気楽である。無理強いと金をつぎ込ん
でも遺伝的に内在しない才能は本人を不幸にするだけだ。
政治家
政治家は大衆に迎合して地位保全に腐心することで自己の信念を喪失する。権力にしがみついている政治家は自分が醜悪であることに気付かない。内省という鏡を見たことがないか手垢で鏡が汚れている。独裁者は自分を満足させる魔法の鏡を持っている
芸術家
芸術家は才能が涸れてくると過去のゴミタメを漁る乞食になる。
文明社会の暗部
文明社会の暗部では精神の奴隷と売春が公然と行なわれる。人は目的であり手段ではないとある哲学者は言った。文明社会での人は金儲けの手段である。プロモーターは子供達に夢を与えると騙して見世物小屋に立たせて世間のアホどもから金を貢がせる擬似奴隷と売春小屋をマスコミと一緒に運営している。一度舞台のスポットライトを浴びた擬似奴隷は一般人には戻れない。
音楽
人工的機械音楽よりも自然音楽が精神の健康には良い。自然の奏でる音楽に我々は気付かないで通り過ぎる。林を吹き抜ける涼風、竹林の拍子木、6月の雨音と苗代の夜間のアマガエルの大合唱。
人の命
人の命は地球より重いと言ったアホがいたが現実はその辺のゴミより軽いものだった。命がゴミクズのように捨てられる世界の魂を拾い集めて鎮魂際を開こう。
死は全ての生きる者の傍らにポッカリ暗黒の穴を空けている。我々は何かの拍子で穴に転げ落ちる、とそれっきりである。悲嘆にくれた家族が呼びかけても死人には聞えない。
ヒーローのいない世界
平穏な民主主義社会で大衆はヒーローの出現を求める。低俗なマスコミはスポーツ界のヒーローを増産して売り上げを伸ばす。作家と映画は仮想ヒーローを歴史から拾いあげて虚構の舞台で活躍させる。大衆の意識に刷り込まれて誘引されたポピーリズムのモザイク怪獣は民主主義の大儀の下で仮想ヒーローを独裁者に仕立て上げる
期待
自分ないし他人に過大な期待と希望を抱くことは愚かなことで実現不可の場合のリアクションで人生をふいにするリスクがある。逆に人に過大な期待と希望を抱くことは失望というリスクが伴うことを覚悟しなければならない。
アッラーの怒り
アッラーの教えに背いて罪無き人々を虐殺する者達よアッラーはコラーンを騙りしことに怒り、お前達は坊主どもの騙りし天国ではなく闇の大地に永遠に閉じ込められるであろう。
ニヒリズム
現代ニヒリズムはイスラム的反体制主義と融合してその教義は世界に拡散し教育を受けた真面目な若者に浸透しつつある。平安な保守体制下の現代社会における若者の意識は未来への夢と希望を抱く者と無希望者に分かれる。無希望者には未来への夢と希望は不条理に閉ざされている。希望のない若者が閉塞感を持ちながらもがきつづけても閉ざされた扉は開かない。締め出された者達は妥協と欺瞞ばかりの既存の社会体制に憎悪を持ちながら社会における自己の存在目的を持ち得ないまま現状に妥協して生きている。彼らは現体制に反抗する意思エネルギーを持たない日和見的虚弱精神の持ち主である。彼らの空っぽな意識は虚無思想からエネルギーを注入されやすい。ニヒリズムが精神内部に芽生えるとPC内部に進入したウイルスの如く伝染して社会規範の破壊に歓喜する自己破滅に突進する。
歴史乞食
民族間の闘争の軋轢は復讐と憎悪の連鎖で片方がつぶれるまで永遠に続いていく。過去の軋轢は歴史の遺物としてゴミ溜めに捨て忘れた方が両者平穏に暮らせるが人々が忘れた頃にごみ溜を漁る乞食が出てくる。乞食は歴史の恥部を見つけたと声高に叫びすでに風化した人々の憎悪の記憶を呼び覚ます。悲劇を二度と繰り返さないためと大儀を振りかざしても人間は愚かで何度も悲劇を繰り返えしてきたのだから大儀など屁にもならない。
書籍
朝刊紙上に乗るおびただしい数の広告書籍は99パーセントが知識の叩き売りでゴミにしかならない。
母性本能
理性的な女性でも母親になると理性は母性本能に打ち消される。同様なことは父性本能でも起こる。これらは種保存本能という人間の性である。従って理性的な人間など存在しない。
無名のヒーロー
世間には雑草に埋もれた無名のヒーローが大勢いる。
人はおらが町の戦国武将とか蓄財した商人を歴史上のヒーロー扱いするが地域のために奮戦した同類で無名な平民には興味を示さない。
新吉稲荷
高津尾の竹やぶに眠る稲荷の古びた掛け板に百姓新吉という偉大な黒子が過去に存在したことが記されている。世間は歴史上の戦国英雄と蓄財成功者にスポット当てるが新吉の行動は時空を超えて生きている。
装飾
カラスはいくら着飾っても孔雀にはなれない。見極めるのは難しいが人間界にも富と地位で着飾ったカラスが大勢居る。
スポーツにたかるハエ
世界にはスポーツにたかる偽善者蝿が多すぎる。スポーツが健全な身体を作るという大儀は昔から現在に伝わる嘘である。スポーツ界と教育関係者は平気で嘘をついてきた。スポーツはヒーローになる近道と金儲けの手段で健全な身体と精神を作ることが目的ではない。スポーツは勝つことが目的で大衆もそれを求めておりマスコミと国家もそれを商売とナショナリズム高揚に狡猾に利用している。政治と商売に利用された商用スポーツにカビの生えたオリンピック精神を云々する蝿が教育者と政治家に多い。メダルの獲得数に一喜一憂するより世界の舞台で頑張った選手達を褒め称えることで良いではないか。
借物哲学と思想
日本の知識層所謂知識人と学者は昔から外国の哲学と思想さらには宗教まで雑多な借り物を象牙の塔で独占的に理解・研究したが日本独自の哲学を創造できなかった。哲学は科学が基盤であり私情の入り込む隙間を持たない。学者は象牙の塔で手垢の付いた仕立て直し思想を難解な表現で解説することで世間を煙に巻く。
過去の亡霊に首輪をはめて現在に引き上げたところで首輪だけを残して亡霊は消え去る。首輪だけ見せて存在するようにイルージョンでおめでたい世間を騙す魔術師がそこら中にいる。
存在
存在が不明確な未知なるものを存在しているかの如く多くの哲学者と思想家達が演繹法、帰納法、観念論、現象学、心理学などあらゆる手法を駆使して確定しようと試みたが彼らが得たのは幻影であった。宗教家は存在の不明確なるものを存在するように信じ込ませる手法を持った詐欺師である。
過去と現在
過去の誤りを繰り返さないために現在進行形の方向変更を叫ぶにはポピラリズムと対決したソクラテスの如く死刑を覚悟するだけの勇気がいる。過去の誤りを現在から責め立てるのはポピラリズム扇動者と追随者の達常套手段である。過去のその時貴方は何に行動したのかと問われると彼らは曖昧な返答しかできない。
目
全ての生物は生存するために自己を中心に外界を見る。行動は遺伝的要素と大脳皮質に溜め込まれた経験と学習により決められる。幻影に惑わされるのは目である。
三権分立
民主主義における三権分立の三権は国民の擁護ではなく国家権力隠匿のために掲げる大儀の悪用である。
司法の欠陥は詭弁弁護士と無能裁判官の茶番にある。真実を証明する意思のない詭弁弁護士と簡単に詭弁に惑わされる社会経験無し裁判官の審判では正鵠な結論は出ない。
雑言
畦道の彼岸花愛でる者なく刈り取られ。
老いゆく者に未来なくただ消え去る定め。
刈り跡の稲穂まだ生きると若葉萌え。
バケツのザリガニに未来を問うなかれ。
バケツのアサリに意見を求めるなかれ。
イスラムよ、アッラーの与えし幸を無駄にするなかれ。
この世に永遠なるものなし、永遠は詐欺師の方便なり。
可愛い人形は古くなれば飽きられ忘れ去られる。
穴の空いた大袋はゴミにしかならない。
巨大な組織という袋は小さな綻びの穴から機能不全に陥る。
絶対には想定外という付随語が用意されている。
時は人間の作った如何なる巨像も過去に葬り去る。
苦労して上りつめた権力の頂点は少しの躓きで坂道を転げ落ちる。
借物
才能無き者は天才の知恵を借りることで学者になれる。
カラスは孔雀より華美に飛ぶために多くの羽根を集めて着飾ったが、その重みで飛べず地を這いずり回るだけだった。
時間と空間
時間と空間は連動する。全ての存在はそれ自身の時間と空間を占有する。存在の占有する存在時間は有限であり占有時間の消滅とともにその占有する存在空間も消滅して無0となる。無は存在の行き着く先である。肉体の一部である脳味噌の作った精神も肉体が占有時間を消費した瞬間に消滅して無になる。霊魂は無に対する恐怖から逃れたい人間の願望から生まれた仮想物である。仮想物をもとに宗教という詐欺師が活躍する舞台が何時の時代にも出現する。
息子へ
飛立て我が子よ、
君は青春の門に立ち、やがて眩い時代に突入する。
そこで君が経験すること、それが君自身の青春だ。
何も恐れることはない、自分の可能性を信じて飛翔力を養い未来に飛び立て。
この広き世界で、君の夢を育むのだ。
私が君に望むことは君が自分の意思で行動し未来に向かって生きて行くことである。そのためには君は君自身の精神を強靭にしなければならない。
父より
謝罪の嘘が免罪符になる社会
巨大組織のトップは謝罪するだけで罪を免れる不可思議な欺瞞社会。
悪人
悪人は反省しない人間である。悪人が回心するという期待感を社会に植えつけたのは人権を喧伝する偽善者と物書きの虚構である。悪人の回心は期待できないが唯一の回心は死刑執行直前だけであろう。
哲学者と思想家の遊び道具
時間、空間、神は古来より哲学者と思想家の遊び道具であった、難解な理論で解明を試みたが結論を出せず結局意味曖昧な難解な書籍だけ残した。
思想と宗教の織物
美しく織られた思想と宗教は時経れば世間の垢がしみ込み薄汚れる。学者はそれを裁断して自分の新しい織物を作る。古着は捨て去られるものだが思想家はその古着で商売を始める。
ピエロ君、君が着ているのはそのつぎはぎの古着ではないかね。
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集団
集団の結束は脆弱で声高に自己主張をする理念のない下衆に従う。ギリシャの民主主義は理念ではなく声高に叫ぶ下衆を指導者に選んだアホ大衆により崩壊した。
アラブのモンゴイカ
アラブ首長国連邦の11~3月は大変過ごしやすい季節である。当地の人々は冬と言って寒がるが、我々から言わせると日本の秋のような季節である。灼熱の夏の日々から比べると嘘のような涼しい日々である。この時期に当地を出張で訪れる人々は、良いところですね、と言ってくれるぐらい実にすばらしい季節である。
私の勤務していたUAE水産資源開発センターでは、当国の重要魚種であるボラ12月、ヘダイ12月中旬、クロダイ1月、アイゴ3月下旬、ハタ4月初旬などと産卵が続き、魚の生態観察には大変忙しい時期となる。海の中は3~5月が春となり、プランクトンの増加とともに多くの魚たちの産卵期でもある。最高に寒い2月の海で水温20度ぐらい、素潜りには多少きびしいが、我慢すればなんとか裸で潜れる冷たさだ。丁度この時期にはモンゴイカの交尾が、センターの取水口正面の入り江で頻繁に行われる。私は15年間、毎年2月にはイカの来遊と交尾状況を観察するために素潜りをしていた。
モンゴイカの交尾は芝生のような海草ナミジグサの茂ったモ場の中で行われる。オスは1kg程度で大きくメスはひとまわり小さな体形をしておりつがいで行動している。モ場のくぼみで安全そうな場所を見つけると両者向かい合い、息が合ったところでメスが腕をすぼめると、オスは10本の腕の中にメスをスッポリ包み込む。オスはメスをしっかり抱えながら、数本の腕をゆっくり動かしメスの体を愛撫する。2匹の体表には美しい虹模様の小波が連続的に流れエキスターシー状態に入る。これが1時間以上続く。邪魔物が近づくと、オスはメスを抱いたまま2本の食腕を角に似せて威嚇しながら雌を抱えたまま安全な場所を求めて少しずつ移動する。それでも、しつこく追うと、オスはメスをゆっくり離し、自分の後ろにメスを隠して敵に対峙したまま、2本の食腕を上げて迎撃体勢に入る。ほとんどのオスはこの迎撃体勢を保持したままで決して逃げ出さない。その後ろで、メスは逃げずにオスを見守ったままでいる。
当地の漁師は、モンゴイカのこの性格をよく知っている。つがいのモンゴイカを見つけると、まず小さなメスをヤスで刺す、すると大きなオスはメスを求めて攻撃体勢に入るので、簡単にオスも捕獲できる。逆に大きなオスを最初に刺した場合、刺された時点でオスの吐き出す墨煙幕に紛れてメスは逃げ去ってしまう。人はモンゴイカのこの習性を人間の男女に例えて笑う。しかし、私はモンゴイカの行動に生物としてのすばらしさを感じる。オスはメスを守ることを絶対の義務とし、メスはオスを信じているが、それがかなわぬ時、腹の卵を抱えて逃げ出すという利発さは人間顔負けではないか。現代社会ではこの生物的な義務さえ果たせない男女が大勢いるというのに、モンゴイカの社会ではそれが本能のままに守られている。
地球上に存在する生物集団では雌が主体的な役割を果たしている。これは自然的なことであり、生物集団が次世代に子孫を残して生きのびるには雌の存在が絶対的な必要条件になる。雄の役割は精子を運ぶだけであるが、多少進化した生物では雌を外敵から護り、生まれた子供たちを保護することまで広がる。
人類は歴史が始まって以来、男性は外敵との戦いおよび社会規範の維持(いずれも力が必要である)を名目に力で女性を支配下(保護下と言うべきか)においてきた。戦いや社会規範はすべて男性の意思決定で行われ、数少ない事例を除いてそこに女性の意思はほとんど反映されなかった。その結果、これまでに人類は実に膨大な破壊と殺戮を繰り返してきた。現代社会では民主主義の浸透によりそのような意識は排除されつつあるとはいえ、まだその形骸は多くの社会に温存されており、未だに男女格差という基本的な問題は解消されてない。
世界中の女性は家を守りながらよく働く、それに対して、男性はどうであろうか、その評価は女性に任すとして、現在の日本社会の閉塞状況について男性は責任を感じなければならない。官僚支配体制と会社組織の巨大な網の中ではどうもがいてもしかたないという意識では日本の未来は危ぶまれる。我々は子供たちと子孫の未来に対して責任があり、そのためには今日の閉塞状況を僅かでも改善していかねばならない。男性の発想が行き詰っているならば女性のもつ自然的な合理性で打開していけばよい。グローバルゼーションという幻影に惑わされずに生きるには、日本の伝統文化と教育を展開しながら、地についた経済を構築しなければならない。その実践には女性の良識ある状況判断と合理的な行動が基盤になる。
認識論の限界
表象は認識されなければ存在しないとその狂人は言った。
存在は貴方が表象として認識するしないに拘わらず独立に存在する。表象に名前を付けたのは人間の便宜によるものでその物の存在には関係ない。道路の真ん中に大きな岩がある。認識しなくとも岩は存在し貴方は岩にぶつかり大怪我をするはずだ。
カゲロウ
働きアリが日差しの強い砂地を歩いていた。涼しげな小枝の陰で休んでいると木の葉の上にカゲロウが休んでいた。アリはその美しさに見とれた。アリはカゲロウと話している内に彼女の優雅さに心を奪われてついに結婚を申し込んだ。カゲロウは悲しげに自分は今日1日の命で一緒に暮らせないとことわった。アリは昨日までの貴方とならもっと長く一緒に暮らせるはずと言った。カゲロウは悲しげに答えた。貴方は私の昨日を知らないから夢見ているのです。アリはでは私は昨日の貴方に会いに行きましょうお家は何処ですか?カゲロウはこの砂場の向こうでしたが危険ですからもうご自分のお家にお帰り下さいと言うと青空に飛び去った。美しいカゲロウとの結婚を夢想したアリは上のそらである。砂場は窪みだらけで家らしきものはない。アリはカゲロウの休んでいた木の近くではないかと思った。大きな窪みを見つけると大声で呼んだ。美しいカゲロウが出てくるだろうと期待したが返事はない。静かすぎるので小石を拾って落としてみたが反応はない。よし少し覗いてみようと砂に足を置いたとき滑り落ちた、這い上ろうとしても身体は砂と一緒に沙底に向った。沙底に付くと砂にまみれた醜い怪物が現れ鋭い口ばしでアリを挟み込んだ。怪物に食われながら、アリはこれがカゲロウ昨日だったとは気づかなかった。
結婚
結婚はアリ地獄とウツボカズラのようなもので落ち込むと夢を喪失して一生抜けることができない。既婚男性で鈍感な者は再度同じ蜜を求めて罠に飛び込む。
犬
犬と飼い主は似ている。
公道で犬に糞をさせて放置する飼い主は公道で糞して平気な破廉恥人間である。
過去
出会いと別れ
砂漠の民は出会いを喜び離別を悲しまない。
人生における出会いは荒涼たる砂漠で偶然人に出会うようなものであるが人生における別れは必然である。
日常性と旅
人は日常生活に埋没すると精神の感受性が鈍化する。
感受性を取り戻すには日常生活で汚れた衣服を洗濯するように見知らぬ土地で新しい空気に触れて肺の空気を入れ替えなければならない。
ヤドカリ
臆病なヤドカリが用心しながら砂浜を歩いていると打ち上げられたゴミ山に好物のスイカ皮が見えた。急がないと誰かに取られてしまうと焦って歩くが殻が重くて走れない。その横をイソガ二が追い越して行った。ゴミ山では先客達が食事の最中だった。スイカはイソガ二が食べていた。イソガ二君、それボクが先に見つけたものだから少し分けて下さいと頼んだ。ここでは先に取った者が食う権利がある、だいたいお前さんは歩きが遅いからせっかくの獲物を失うのだ。悔しければその重たい殻を脱いで俺みたいに走れ。ほれ少し分けるから殻から出てきて食えよ。ヤドカリは殻から半身を出し破片をつまんだがすぐに殻に引っ込んだ。その不細工な行動にイソガニは笑ったが、ヤドカリは隠れ場所のない浜辺ではこれが安全だとつぶやいた。
そこにシギが舞い降りてきた。イソガニは逃げようとしたが一瞬で食われてしまった。シギはヤドカリを一瞥しただけで飛び去った。
信念
人は選択行動の正当性を確定するために信念の支柱を必要とする。信念を杖として生きることは困難であるが最終的に自己の人生を是として受け入れることができる。ソクラテスは信念の強い人であったが自分の信念は神ダイナモンに支えられていると最後まで信じていた。
知識人
知識人は知識が満ち溢れるとおこぼれを他に与えたいというおせっかい虫が心の何処かに現れる。おせっかい虫は尊大で嫉妬深いから世間がそのおこぼれを有難くちょうだいしないとすねて世間に背を向ける。
無料と割引
ただですと安くしておきますには必ず怖い裏がある。これを頻繁に使う商売人は見かけ上善人だが全く信用ならない悪人である。
日常
独身の頃は結婚と日常生活に憧れるが、すぐに日常生活は苦痛となり新鮮さを求めたくなる。恐らく芸術家も作品が売れることを夢見るであろう。売れっ子になり金が入ると女が寄ってくる、結婚し日常生活に入ると新鮮な感覚は消えてしまう。旅行は新鮮な感覚を取り戻す手段のひとつであるが、家に帰ればまた日常に埋没する
運命
人は昔から過去から現在に連なる事象を運命と呼ぶ。人の選択意思と偶然の織り成す多様な結果のひとつを宿命として運命論でかたづけるのは宗教家の得意技である。
時
時は認識せずとも進行していく。時を認識するのはもう遅いが年老いてからである。
存在
存在は過去と未来の接点上の表象である。我々はこの世界に存在した瞬間より未来に歩む義務を負わされる。存在の歩いた軌跡は時の女神が切り落として過去に投げ捨ててくれる。過去の深淵の暗闇には忘却の魔女が住んでおり彷徨う記憶の亡霊を寄せ集めて燃やしてくれる。
人生の評価
人の行為は連続ではなく継ぎはぎである。行為の軌跡は実践とはならず破線となる。従って人生を数学的に積分で評価するより総和で評価したほうがよい。
家族
川の淀みにて身を寄せ合う泡どもは哀れなり傍ら消えうせ身を震わせど悲しむなかれその傍らに小さきもの生まれきたり。
死
皮肉なことに早く死にたいと願っても死はすぐにやってこない。死にたくない者には癌という苦痛が死神から贈られる。多分死神は自分に会いたいと思う者を忌避する傾向があるようだ。
自殺
今の苦しみは目をつむれば一瞬で過去となり明日まで続かない。生きる意思ベクトルと意思エネルギーで未来は変えられる。自殺は今から続く未来への扉を閉じて死神と深淵に落下するが、死の先は自殺前に夢想したものではなく無限に何も存在しない暗黒の虚無である。
癌
癌細胞は人類と同時進化してきた内在の自己破壊テロリストである。人体に留まらず国家、社会、経済、組織は如何に浄化しても癌細胞が突発的に発生する自己破壊メカニズムを抱えている。
発見
自然は多くの宝物を隠しており昔から名声を求めて宝探しに躍起になった者達はいた。難所に侵入して貴重品を早く見つけた者が宝に名を冠する栄誉を与えられるが遅れた者は手ぶらで栄冠授与の祭りを見るだけである。
博物館
博物館には人類の恥部が展示されている
ヨーロッパ諸国の植民地政策が世界中に残した傷痕と膨大な怨嗟は何等の痛痒と悔悟もなく博物館に展示され人々は祖先の悪行を栄光にすり替えて満足する。歴史は人類の全ての愚行を大儀に塗り替える博物館である、陳列物の陰に隠されているおぞましい地獄風景に気づく者はいるだろうか?
過去
年寄りは過去の亡霊を背負い周囲に愚痴をこぼして生きる。過去の亡霊に取り付かれて後ろ向きに歩く者に希望はなく現況を憎悪するだけで満足する。
恋
恋は若者にとって砂漠のオアシスの陽炎である。遠くから眺めるだけなら無難に人生を送れるが冷水を渇望して追い続けると砂漠に迷い込み絶望する。
孤独
存在は足首を社会的引力につながれた単独者である。孤独は精神が実在を認識するための洞窟である。
老い
老いると人生の垢と背中に張り付いた僑雑物で精神は鈍重になり飛翔できなくなる。
価値観
人間は自分の持つ価値観が最高であると思い込んでいる傲慢な動物である。価値観はその時代の一部の人間が勝手に作った大儀で普遍性はなく時代により変化してゆく。
墓泥棒
死んでいる著名人の墓を暴いて遺物を検証して珍奇なものを発見したと公表して有頂天になる才能のない評論家はいつの間にか大家の椅子に座っている。
反論できない過去の深淵に埋まっている遺物の亡霊に着飾った架空の服を着せても中身は空虚である。
現代版ソフィスト
卓越した弁論で大衆の支持を勝ち取ることが民主主義で政治家になる秘訣である。弁論の中身はなくとも美辞麗句の軽いものでよい、中身があると重くなり大衆の耳奥まで届かない。アテネのプラトンが提唱した哲学者による政治は重すぎて大衆には理解されず支持されることはない。民主主義の多数決は大義であり大衆の支持を得るのは権力志向を内に秘めたソフィストで大衆をうまく操れる者である。
死
死は実感ではなく終焉を伴う最後の経験で続きはない。続きがあると幻想を抱かせるのは古代より継承された宗教のドグマ的な得意技である。
出会い
砂漠の民は出会いを大切にして分かれは悲しまないが再会に歓喜する。人生は砂漠の旅人のように自分に似た旅人と出会うことはない。
終わり
これで酔っ払いピエロの独り言は終わりだ、私は眠るから起さないでくれ。
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