ピエロの綱渡り

孤独なピエロ

第1話

酔いどれピエロの綱渡り

                           玉栄茂康

プロローグ


人は誕生から終焉に張られたロープを綱渡りする孤独なピエロである。

これを読んだ人は内容の馬鹿さ加減と論理性のない酔っぱらいピエロの戯言に苦笑するだろう。そんな人はこんなものに時間を浪費したと罵倒してゴミ箱に投げ捨てたらよい。ところで貴方のピエロは貴方の誕生から終焉までの演技をそれでよかったと哄笑してくれそうですか?



精神の頸木


私はなぜここに在るのだろう?望んでなかった時の旅でどうにか現在に着いた。全く見えないがこの先はどうなっているのだろう。この旅は私の父母が無意識に保持していたDNA接合による有機体形成の結果彼等の子供として偶然生まれてから始まったようだ。生まれなかったらこんな疑問はなかっただろう。この偶然は運命と呼ばれているが本人の関知しない不可解なものだ。世間は運命を神のご意思によると絶対視するが、当人を無視した不条理に不満でも我々は自分の存在を無意識に受入れて生きている。この世界に生まれ出された者は否応なく死ぬまで生きることに奔走しなければならない。神は人間を平等に創ったと言うがこれは不条理に創り出された者達への気休めに昔から伝えられた欺瞞だ。我々は生まれた瞬間から平等でない。両親から受け継いだDNAは否応なく当人の容姿と運動能力さらには頭脳から思考までも支配する。御殿とゴミ溜めで生まれた赤子を運命とよび親が裕福か貧乏かで始まる生まれた環境は人生が終焉まで続く不条理を神のご意思と感謝するのか?世界の無知なる大衆は宗教と偽善教育により神のご意思である運命に不条理を感じることなく生きている。家族と社会そして国家との関わりで生じる重力は慣習と教育で我々の精神と意識を支配している。神のご意思による運命は民を畜群として支配する頸木である。頸木は社会に潜む重力の悪魔が守護しDNAを介して恒久に引き継がれていく。遠い昔頸木をはずそうとした者はいたが自分の作った新しい頸木に取り替えただけだった。頸木業者達は古い頸木を時代に合せて幾度も調整して畜群に被せた。私も頸木をぶら下げた畜群の一人だ。

存在が不条理だと思うのは私だけだろうか?如何に足搔こうと我々は現存在を受け入れ生きている。人は誕生から終焉まで重力と偶然に翻弄されるカオスの流れで生きていくしかないだろう。カオスの中で自分の存在に疑問を抱き回答なんか探すのは無意味なことかもしれない。我々の存在が現在という瞬間に存在する点の表象とすれば瞬間の連続が未来に連なるように我々の存在は未来に繋がっているはずだ。存在が意思の持つ行動ベクトルと内部エネルギーでブラウン運動をしながら未来に向かう瞬間の点だとすれば、存在の現況は運命で規定されたものではなく意識の選択する行動より未来では変化する。


未来と過去


未来が光の如く無限に膨張してゆく時空間とすれば瞬間の後に残った過去は空虚な暗黒の深淵である。未来が瞬間から過去になることから未来と過去は瞬間を境とする平衡時空間と考えられる。数式で表すと未来fの膨張速度df(t)/dtは瞬間で変換されて過去になる。過去p深淵もdp(t)/ dtの速度で膨張する。未来と過去の膨張速度は平衡しているdf(t)/ dt= dp(t)/ dt。未来と過去は前後であるから逆転と混合はなく瞬間i instantaneous Lim f (f - i) - f (p) / iで接するだけだ。未来は膨張過程で偶然に影響されるカオスだから現在の事象が未来でどう変化するかは不透明である。全ての行為と結果は瞬時に過去の深淵に飲み込まれる。深淵に落下した存在の行為と結果の軌跡はどう足搔いても再現できない。



精神の自由


現存在の不条理から抜け出すには精神が頸木を外して自由にならねばならない。自己の意思で行動することで存在は運命から自由になる。意思による行為の結果を自分のものとして受け入れることは運命の否定である。行為と結果の軌跡は一部分は大脳に記憶されるがほとんどは抜け落ちてしまう。抜け落ちた記憶は深淵で彷徨する亡霊となる。亡霊は深淵から突然意識に侵入して精神に悔悟と苦痛を与える。亡霊を寂滅できるのは時間の女神だけで忘却のベールを掛けて弔ってくれる。行為と結果を神のご意思と信じる者は自己の存在を神に付託して畜群に安住するがよい。カオスの中では存在の保証など何処にもない。神の保証は頸木の上に居座った重力の悪魔の空手形である。未来には死神が偶然という透明な死の罠を仕掛けて存在を深淵に落とす。深淵に落ちた存在は周囲がいくら祈願しても戻ることはなく忘却されていく。死神は死にたくないと震えている者に癌と突発事故を送るが死を恐れない者を避ける傾向があるようだ。博物館に展示されている賢人達の軌跡は模造品で本物はすでに深淵に埋没されている。彼等の存在と軌跡は衆愚の曖昧な記憶による口承の逸話を坊主達が脚色したものである。俗物は賢人の存在に神性と尊厳を糊塗して記念像と伽藍堂を創り彼の後継者のように振る舞っている。


サーカス小屋


サーカス小屋で生まれたかのように私は歩き始めると母親から現在と未来に掛けられたロープの上を歩く練習をさせられた。母に手を引かれて歩いたロープは太く丈夫で安心して歩けた。このロープは何で何処まで延びているのか母に聞いた「これは私のもので貴方のは生まれた時に現れたロープだ、今から貴方は自分のロープの上を独りで歩かなければならないのだよ」と言われたが私にはロープが見えなかった。父に尋ねると「人は生まれたときから皆それぞれ自分のロープを持っておりそれを自分の重みに耐える強さにしながら歩くのだよ」と言っていた。母からもらったヘソの緒に経験と知識の繊維を彼女の手ほどきで織り込みロープを編んだ。ロープができあがると自分の立っている現在から少し先の未来にロープを投げて綱渡りの練習を始めた。最初の頃母は私の横に彼女のロープを張り、私がロープから落ちないように脇から支えてくれた。父親は仕事で忙しくたまに酔った勢いで綱渡りを説教するが子供の世話は母親任せであった。酔った父親から「ロープが未来のどこに伸びているかは誰にも分からず予想もできない、お前が独りで歩いて確かめるしかない」と言われた。綱渡りを始めると平行に張られた母親のロープが鬱陶しくなった。彼女がロープの補強方法だけではなく投げる方向と歩き方までくちうるさく指導するので自分の意思で行動できない不満があった。母は世間一般の母親達と同じように世間体の良いロープとスマートな綱渡りをする子供を希望していた。学校ではロープの補強に必要な知識と綱渡りについて古来の学者と賢者たちの残した資料をもとに作られたマニアルを教えてくれたが沢山記憶すれば優等生になるという形式的教育で知識の詰め込みばかりで面白くなかった。同一のロープは世界に存在しないから綱渡りの途中で集めた経験と知識を織り込んで補強しながら歩くしかないだろう。我々は途中で拾った知識と経験を背中のリュックに詰めロープを補修しながら綱渡りをした。背中のリュックは次第に膨れて重くなるが時々ロープから落ちそうな遊びをした、そんな我々の危なかしい行動と綱渡りを懸念する老人達から説教されたが彼らの経験談は成功例ばかりであまり参考にならなかった。我々はロープ上から遠方は見えないのでメディア望遠鏡を使用したが人為的な偏向とガラスが雲っていたりして事実を見誤ることが多かった。遠方を正確に見るには理性という精神の付属品を駆使するしかないが理性は錯誤に騙されて正常に機能しない場合があることを了解しておく方がよい。

教科書に載っているある哲学者によると我々精神は現象を表象として認識していると難しいことを説いているが生活に必要なことは実体を意識的に確認して対応をすることである。路上の石は表象ではなく実体として瞬間的に避けなければ転んで怪我をする。表象の認識を精神だけの特性と考えるのは我々人間だけである。精神は人間が自己の尊厳性を動物と区分するために創った欺瞞的産物の表象でしかない。古来より哲学者と思想家は精神の神聖さを証明するためにあらゆる理論を駆使した。彼等のたどり着いた結論は如何なる理論でも証明不可能な神に付託したのである。誰にも分らない我々の存在と精神を神に付託した抽象的概念でごまかした。大衆は神を拠り所にすると神のお加護で平安な日々を過ごせると信じ込まされていたがそんな保障は何処にもなかった。従って存在者は誰の助けもなく自己の意思で孤独な綱渡りを続けていくしかない。


ピエロの綱渡り

人は限界状況の中で重力に適応するために精神をピエロのように化粧して現在から未来に張られたロープの上を化粧道具を詰め込んだリュックを背負って綱渡りを始めるようになる。化粧と歩きかたは意志が自由に変えている。瞬時の意思決定による行動と結果、その結果に対応した意思による行動と結果が繰り返される循環の連続行動が瞬間として未来に続く。毎日が平凡で安全な綱渡りである。平凡に飽いてロープから飛び出そうとしても重力に足をつかまれてせいぜいジャンプするぐらいだ。我々は重大な目標に向かった行動の結果が重力と偶然の関与で予想どおりならず失望することが多い。偶然が飛び交う未来では期待した結果が得られず失望感を味わうがこれを経験するのは悪いことではない。期待ははずれるということに気づけば過度の期待をせずにあきらめられる。行動の結果に重力と偶然が作用して期待はずれの結果が重なると希望をうしない重力を憎みたくなるが自分の意思で選択して生きる行動は存在が自由であることを示している、それとも神の思し召しで与えられた運命の結果に感謝して跪き祈願するか。


社会的ニッチェ


ピエロの背負っているリュックの化粧道具は途中で拾った知識と経験などが詰め込まれ次第に重くなり綱渡りのバランスを悪くするが社会という人間生態系で他人と競合して社会的地位ニッチェを確保するためには膨らんだ袋が必要で背負って歩くしかない。豊かな生活を手に入れるためには高位の社会的ニッチェを獲得しなければならないが高位ニッチェには見栄で化粧したピエロが大勢ひしめきせめぎあっている。世間はピエロの演技を見ずにピエロのニッチェで評価する。高位ニッチェの持続的な維持に精神は疲れるが背中の荷物は益々増えて綱渡りのバランスは悪く足取りは重くなる。袋の中身を少し捨てれば軽やかに歩けるが捨てるには重力に反した勇気がいる

演技に疲れたピエロは寝る前に化粧を洗い落し素顔に戻っても翌朝には化粧して袋を背負い綱渡りを始める。袋にはピエロが社会生態系で演技する為に拾ったガラクタで重たいほど価値がある。ピエロの精神は道具の詰まった固い袋を枕にすることで安眠できる。袋の中に思ひでがあれば精神は少しは安らげるかもしれないが、思いでは砂漠のオアシスの陽炎のように近づいても無駄である。記憶の糸を手繰って深淵に漂う亡霊を引き寄せて頬刷りしても幻影は一瞬で消えてしまう。幻影と戯れていると現況を忘れて未来に進む活力を喪失する

ピエロは日々化粧を変えて綱渡りするが素顔は変らない。怒りと憎悪は醜いピエロを、愛と喜びは歓喜のピエロを、悲しみは涙のピエロを作るがそれには誰も気づかない。ピエロは独り鏡に向い怒り泣き歓喜の繰り返しで綱渡りの旅をするが目的は誰も知らない。孤独の寂しさが作りだした自虐ピエロが綱渡りの目的を知らない本人を嘲笑する。毎日同じ繰り返しの綱渡りはもう飽きただろうこのへんでロープから飛び降りろと囁く。我々の日常は現況の中で意識が選択した行動と結果の繰り返しである。ピエロの意識で選択する行動は所属する社会の重力が加わり平穏で退屈な綱渡りをするようになる。行動の結果には社会的重力と偶然が加わり期待通りにはならないが綱渡りをロープの終焉まで続けていくしかない。


ピエロの悲劇


私は過去から未来への綱渡りと掲げられた看板の前に修験者らしい男と立って空を眺めていた。私は隣の修験者に過去と未来の二つ塔にどうやってロープを張るのでしょうか?」と尋ねると修験者は「過去と未来の塔の間は瞬間という距離だからロープを張るのは難しくない」私「あそこは大分高いですよ」修験者「君には高く見えるが綱渡りをするピエロには高いほうが観客は集まるから」 私「セフテぃネットが張られてないようですが大丈夫かな」修験者「高くてネットがないから観客が集まるのだよ、大衆は死と隣り合わせた見世物が好きだから」私「あの高さからだと落ちたら死にますよ」修験者「綱渡りがピエロの仕事だから落ちることはない、落下を考えると恐怖で足がすくみ動けなくなる。高みが怖ければ自分の意思でロープを低くするか降りればよい」

私「観衆が見ているから今降りるのは格好悪いですね」

私達の周りに観衆が集まり賑やかになりだした。

観衆が息を凝らして見上げていると過去の塔から黒影に追い立てられてピエロが出てきた。だぶだぶ服のポケットは小道具で膨れて重そうだがうまくバランスを取って挨拶した。ピエロは観衆の見守る頭上を慣れた足取りで余興をしながらで歩き出した。少し歩いたところで後ろについていた黒影がピエロの歩いた跡のロープをピエロの足元から切り離してしまい込んでいる。

「さあ行けピエロ、もたもたするな!足元のロープはもう無いから後戻りできないぞ」

風が吹きロープを揺らし小鳥が眼前を飛んでもピエロは態勢は崩さず歩く。

私「ピエロは何処まで行くのですか?」

修験者「あの未来の塔」

広場の群集は子供の世話とおしゃべりで忙しいが気になるのか時々綱渡りを見ている。ピエロはロープの上でバランスを崩して人々をハラハラさせたり珍しい出し物でおどけて笑わせながら歩いていたが途中の小塔の手前で立ち止った。ロープの張りがおかしいのか、見物客は早く進めとはやし立てるがピエロは立ち止まったまま動かず何か考えていたがすぐに歩き出し塔の東口に入った。修験者が呟いた。「大衆はピエロが足を踏み外して落ちる悲劇が見たいのだ、悲劇は大衆に同情と自分には起こらないという安堵を与える」

観客は塔の無数ある出口の何処からピエロは出てくるのか興味があった。塔に入ったピエロは手鏡で化粧をし直している。いそがなければ観衆が待ちくたびれてしまう。近くの西口から未来へ張られたロープがでているが出口の裏に偶然の悪魔が隠れている気配がしたのでやめた。ピエロは北口から綱渡りを開始した。ピエロは片足ジャンプや逆立ちなど素晴しい演技で喝采を受けながらスムーズに歩いていく。後方から静かについてきた偶然の悪魔が突然猛烈な速さでピエロに近付きジャンプして頭上を越えて前に着地した。その反動でロープが大きく揺れバランスを崩したピエロは両手足を広げたまま私の近くに落下した。口と頭から出血している。「医者はいませんか!」と叫びぐったりしているピエロを抱き起こして「大丈夫ですか?」と尋ねた。近くで見ると微笑しているように見えたがまだ少し意識はあった。医者はいないのか、救急車を呼んでくれと叫んでいる私とピエロを人々は遠巻きに見ているだけだった。ピエロに死が近づいていた。「ああ、だめだ死んでしまった」私の肩を軽く叩く者がいた、少女がピエロに渡してと野菊を差し出した。私がピエロの手を開くと少女は野菊を手の中に入れて閉じた。「ありがとう」微かにピエロが言ったように聞こえた。

人々が去り私とピエロが広場に残っていると修験者がやってきた。

修験者「近くの教会に行ってピエロの供養を頼んだけど異端者の供養はやらないそうだ」

私「それはこまりましたね、彼をこのまま放置することはできませんし」

修験者「知人が一人もいないようだから墓は要らないかもしれない」

私「放置したら街の人々が何とかしてくれませんか」

修験者「彼らは最後に残った私たちが無責任だと恨むだろうね」

私「ではどうすればよいのですか」

修験者「向こうに見える森に埋めてやろう」

私「彼を運ぶ荷車と穴掘り道具が必要ですね近くで借りてきますか」

修験者「それはやめた方がよい、見知らぬ者に大切な荷車と道具を貸す者はいなはずだ」

私「では、どうするのです、二人で担いでいきますか」

修験者「交代で森まで背負っていこう」

薄暗い森の奥でくぼ地を見つけた二人は小枝で穴を掘った。

私「知人はいないようだけど埋める前にピエロの遺品を見てみましょう」

修験者「そうだね、死者には必要ないけど残したいものがあるかもしれない」

ピエロのダブダブ服のポケットから化粧用の小道具が沢山出てきた」

私「こんな重たいものをポケットに入れてよくあんな演技ができたなあ」

修験者「ピエロの綱渡りには必要なものばかりだがもう要らないだろう」

2人で手足を持って穴に入れたが顔の位置をどうするかで迷った。

私「顔を地面にくっつけるのは暗闇に向けるようで可哀想ですね」

修験者「埋められたら同じだけど、異端者だから天国は望まないだろう」

私「天がだめならアラビア風にメッカに向けましょう、どっちも同じ神様の所でしょうから」

修験者「君はモスレムか!」

私「違いますよ、書物で読んだだけです」

修験者「しかたないね、そうしよう、君はメッカの方角が分かるかい?」

私「全く分かりません、あそこの木洩れ陽に向けましょう」

修験者「陽光なら魂も安らぐかもしれない」

埋め終わってから盛り土のうえに近くで拾った石を載せた。

私「何かお祈りの言葉をお願いします」

修験者「えっ、私は無神論者だから祈りは忘れたよ」

私「しかたない、では手を合わせてピエロ君の魂が安らかに眠れますように、アッラーが貴方を正しく導いてくださるでしょう」

修験者「とても自然な祈りだね」

私「私の母親の真似です、彼女は無学でしたが何時も祈っていましたよ」

修験者「君は不思議な男だね、全く関係ないピエロの死体まで世話をやくとは」

私「貴方こそ世捨て人なのに僕と同じことをしているではありませんか」

二人は大声で笑った。

修験者「これから私は仲間が待つ山に帰るけど一緒に来ないかね?」

私「お誘いありがたいですが。もう家に帰ります」

別れを告げて森の奥へ入って行く修験者を見送り、さて帰ろうと思ったが帰り道をすっかり忘れていた。疲れて眠くなった。しかたがない、あの大きな木の根元にある洞で寝るとするか。



都会のピエロ


  夕闇の迫った駅前、あわただしい往来の中、駅の入り口近くは待ち合わせの若者たちで華やかである。その中に場違いな若者が独りポツンと立っていた。舞踏を忘れたピエロのように、引きつりそうな顔で遠くを見つめたり不安そうに足元の路面を踏みしめたりしながら、人の流れに大切なものを探している。彼は先ほどからそこに居ることが苦痛のであった。昼頃会社の女性をデートに誘い駅前で会いたいと告げていた。やはり今度も駄目だったと頭の中で繰り返しながら、それでもそこから離れず、待つことの無意味さをかみしめながら佇んでいた。もうあきらめて帰ろう、いやもう少しだけ待とう、そんな独り言が聞こえてきそうである。しかし、彼はそこから立ち去ることに躊躇しているようであった。周囲の若者たちが、雑踏の中に笑顔を見つけ次々に去っていく。とうとう独りになったがまだ立っていた。頭の上の街頭が灯り、影が足元に疲れてうずくまったとき、時計を一瞥した、ようやくそこから去ることを決意したようだった。影が解き放れると、彼は振り返ることなく逃げるように足早に駅前の広場を離れた。

 彼は駅前の賑やかな通りを歩いた。通り過ぎるカップルが眩しくて、なるべく彼らを見ないようにうつむいて歩く。空っぽな意識が彼女の来なかった理由を繕うためにクルクル空回りしている。地面を眺めて歩き続け時々思い出してたちどまりため息をついて空を仰ぎ自分はこの社会では透明な存在なんだとつぶやいた。人の往来が多いひときわ明るい大きなデパートの前で、彼は混雑を避けてショーウインドウの近くを歩いた。ガラスの向こうにはきれいに着飾ったマネキン達が誇らしげに立っている。背広を着たスマートなマネキンを見てこいつの方がまだ自分より存在感があると思った。ガラスに映る雑踏を見ながら自分の存在は実態のない単なる幻影ではないかと思った、その幻影の雑踏の中に、独りのピエロが今にも泣きそうな顔つきで彼を見つめていた。そうだ自分はピエロだ。生きることや恋することを真剣に考えて笑い種になるピエロなんだ。胴長の頭でっかち、低い鼻に厚い唇の不細工なピエロ、それでも時々自分を忘れて観客に紛れようとして笑えない失敗をするアホピエロだ。サーカスではピエロが真剣に踊って転んだら、痛くても観客は笑ってくれる、だが彼の演じるピエロは誰も観てくれず笑ってもくれなかった。透明なピエロはどんな演技をしても無視されるのだ。

 彼は田舎の若者たちと同じように都会にあこがれていた。田舎の日常性に我慢できず東京に漠然とした何かを期待し2年前に上京した。だがそこの空間は綱渡りには余りに狭かった。都会はすべてが過密で人間の存在空間がなく人はすし詰めの箱の中で生きている。雑踏での綱渡りは難しく往来の邪魔にならぬよう透明になった。彼は雑等で田舎者がよくやる人をうまく避けきれずにぶつりそうになりそのたびに謝意を伝えようとしても相手は無視して通りすぎて行った。東京に住んでから2年目でロープは擦り切れていた。彼は生きるために時に追い立てられロープを繕うことすら忘れていた。

 彼は数カ月前から都会生活に倦んでいた。薄い存在感、時間すら自分と無関係に流れて行く。彼は昼休みに旅行とスポーツに有名人のゴシップ談義を同僚や女子職員達と漫然と過ごす時間を避けて仕事に没頭した。上京当時は仕事帰りに同僚達たちと飲むこともあったが、最近はそれもことわり続け面白くない人間になっていた。仕事と残業で一日は過ぎていく。彼は残業や休日出勤を頼まれるといつも快く引き受けた。他にやることがなかったからだ。実際仕事が終わるとアパートにまっすぐ帰るだけで、休日は部屋でコンピュータ-を触る以外何もなく断る理由はなかった。午後五時、彼は社内の解放の喜びからポツンと取り残される。女子社員たちの声が廊下に弾む、彼は居残りの子供のように机に向かい書類をながめつづけた。彼は仕事一筋の面白くない人間で上司としかたなく飲むことはあっても同僚たちと群れることはなく、若い社員の中では透明な存在だった。彼は時間を無駄にしたくなかった。学生時代のように余暇をマージャンとパチンコで過ごすことはできなかった。有線と金属音の混ざった騒音、タバコで霞む部屋、終わった後の空しさと不快感をいまさら繰り返したくなかった。電話が鳴り、Faxが紙を吐き出す。これが終わるまで仕事は続く。

 今日は残業がなかった。彼は会社を出たが、解き放なれた羊のように、行き場所もなく漠然と帰路についた。駅に向かい、いつもの舗道を歩いた。急ぎ足の人にすれちがうたびに小さな風圧を感じた。無愛想な無視の風だった。

 駅に着いても行き先はなかった。夕暮れの駅は、帰宅の勤め人であふれている。広場で彼は立ち止まった、綱渡りのロープがかすんでいた。思わず足元を踏みしめたがロープの先は雑踏に消えていた。彼はロープの先を見ようと焦った。雑踏の中で人にぶつかり罵倒された。何かを必死に探す若者を避けて広場に空間ができた。彼は路上を見つめて歩き回った。足元のロープも消えていた。彼は足を踏ん張り周囲を見回した。人々は無視して通り過ぎて行く。悄然と立ちすくむ若者に声をかける者はいない。帰宅を急ぐ人波が立ちすくむ彼の周りを流れてゆく。彼はつぶやいた、歩かねばならない、先に進まなければ。 

 満員電車、モザイクの闇の向こうで、ピエロが彼の醜態を笑っている。息苦しかった、この箱の中は酸素が足りない。扉に押し付けられ、気が遠くなりそうだ。

彼「人々は何を思い、毎日この箱に押し込められているのだろう」

ピエロ「今日を生きることさ」

彼「生活という根がそれほど必要なのか」

ピエロ「人は働いて生きねばならない」

「それが人生にとって苦痛でもか」

ピエロは憂鬱に苦笑している。臭気が充満し、頭痛と吐き気がした。揺れる箱の中で人々は押し合いながら沈黙している。不思議な光景だ、彼等は体が触れ合うのに相手の存在を認識してない。 

 プラットホームは、まだ酸素が少し残っていた。人々はベルトコンベアに乗るように、円滑に流れて行く。階段すら流れは滞ることがない。彼等は下を見ずに降りる。彼は転落を恐れ階段を見ながら下りていった。階段の途中に何か障害物があった。流れはその前で二つに割れてそれを避けた。ごま塩頭の痩せた老人が階段に座り込んでいる。彼は側に立ち寄り、小声でたずねた。

「どうされました?」「大丈夫、少し疲れただけです」

彼は肩に老人の重みを受け、ゆっくり助け起こした。二人で降りる階段はいつもの倍になった。階下の混雑した通路で、老人は壁に背をもたれ苦しそうに息を吐いた。

「駅員を呼びましょうか」

「いや、それには及びません」

彼は老人と一緒に座り込んだ。目の前を無数の足が整然と移動していく。ひと汗かいた後の寒気、それに目と喉がやけに乾いた。新鮮な空気が欲しかった。これほど人がいるのに、人間の温もりがないのはどういう訳だろう。「すみません、本当にご迷惑をかけました」老人は立ち上がろうとした。

「大丈夫ですか、」

彼は不安定な老人を支えた。

「いつまでも、貴方にご迷惑をかけては」

「いいんです、どうせ暇ですから」

二人は出口に向かう流れに入った。人波のなかで老人は倒れそうになる。

「ここは、老人に冷たい所ですね」

「彼等は余りに忙し過ぎるのです、」

「わき目もふらず、突き進むぐらいにですか」

「ここでは、みんなそうなります。若い頃の私もそうでした」

老人は彼の肩を支えに、すまなそうにつぶやいた。

 老人をタクシーに乗せた後、彼は快適な軽い疲労を感じた。腹が減った。信号向こうの路地に、会社の連中と立ち寄ったてんぷら屋がある。ガラス戸を引くと、油の暖かく重たい匂いにホッとした。初老の主人が、手ぎわよくねたを油鍋に浮かべている。入り口近くの若いカップルを避け、彼は鍋から遠いカウンターに座った。ビールを飲み、冷やっこにキスとアナゴを食った。幾つかを試してから、アナゴと茄子を再度頼んだ。有線放送と油の音はうるさいが、それほど不快ではなかった。客は次第に増え、やがて三人の紳士が隣に連なり、彼は奥の席にずれた。酔いが回れば人は饒舌になる。隣組の発する会社と同僚の批評が耳に障った。会社から解き放たれても、彼らの意識は自由になれない。彼は、自分がまた雑踏の中に入ったことに気づいた。残り酒を飲みほし、小声で勘定を頼んだ。飲み屋街から本通りに出る小道は暗かった、向こうから千鳥足の男二人連れが歩いてきた。彼は脇にそれて二人をやり過ごした、肩がわずかに触れたようだったが、彼はそのまま先を急いだ。後ろから「おい!」と怒鳴り声が聞こえたが、無視して先に進んだ。再度、「おい、お前!」と聞こえたとき、彼は踵を返して二人連れに向かった、殴り倒してやろうと肘を腰に添えた。「おい、まずいよ、こいつやる気だ」相棒が連れの袖を引いた。彼は一発殴らせてから渾身の一撃を入れてやろうと身構えた。「すみません、酔っているもんで」相棒は連れを後ろに制して言った。彼はその連れが殴りかかるのを期待したが、すでに二人は彼の目が異常に戦闘的であることに恐れをなしていた。彼は相手の闘争意識が萎えたのに気づくと黙して二人から去った。嫌な気分だった、相手を殴らなかったことではなく、些細なことで戦闘的になった自分が醜悪に見えた。

 東京、同じ服と同じ意識、おとなしい人々、そして、もしかしたら皆孤独かもしれない。毎日の家畜運搬電車に満足している。生きるために、家族のために、そして会社のために、毎日を確実にこなす。明日の安らぎの為に飲屋で我身の不幸を語り慰め合う。マスコミが虚栄の幸福を歌うや人はその魔法に誘われて踊りだす。自分は人生を堅実に生きているのだと確信する。不平・不満を小出しに捨て終日の幸福に浸る。また明日があるのだ。明日のために生きなければならない。

 明るすぎる地上から星は見えない。都会の大気は肩に重い。耳障りな足音だけが勝手に飛び散っていく。無力な精神を笑い、真っ黒な路上でいやみに撥ね回るとかすんだ空へ逃げていった。彼はアパートに向かった。路地からいつもの高速道路架橋下の十字路に出て、駅から流れてくる群衆に入った。

 信号で中断された流れが動きだす。突然地面が揺れた、真上の高速道路が崩れ、巨大コンクリートの塊が彼と周りの数人を押し潰した。逃げ惑う者、がれき下でもがく血に染まった男女、炎上する車。街中サイレンが走り回る。臨時ニュース、マスコミは唾を飛ばし、悲惨・悲劇を連呼する。視聴者はビールを片手に、遠くで起こった悲劇を眺める。翌日マスコミで死亡者が発表され、大勢の人間が彼の存在を一瞥する。結局、自分の存在は無意味なもの、市場でうるさく飛び回るハエのように一つの偶然で叩きつぶされるものなのか。今日は昨日と同じではなかった。どこかで汽笛が鳴った。都会の眠りが迫っている、彼は耳奥のざわめきを振り払った。明日の為に眠らなければならない。 建て込んだ家並みの薄暗い路地、街灯の裸電球は眠りの暖かさを告げている。通りでひときわ明るい片隅、酒屋の看板、まだ開いているのを見たことがない。目的は自動販売機だ、こいつは酒を吐き出すのにいちいち大袈裟な音を出す。彼は酒を手に入れるのに静寂を破るこの音が不快だった。

 薄暗い階段を、靴音殺して二階まで上る。畳み敷きの一DK。ドアを開けると、安堵が疲れた体に染み込む。蛍光灯が、朝と同じままの生活を白く照らしだす。何も変わってない。彼も生活も、朝7時半に出た時と同じだ。ふと、ロープがないかと見回し、苦笑した。

「馬鹿だなあ、あれはなくしたのに」

新しいロープを編まなければならない。都会の重い大気に耐え、雑踏をすりぬける軽やかなロープだ。溜息が出た、駄目だこんな状態ではできるわけない。軽ろやかで強いロープなら雑踏で消滅したりしない。高みへ、せめて大衆の頭上にロープを張りたい。会社という組織ではロープは要らない、ベルトコンベアに乗った生活は歩く必要がない。僕のロープは生きるのに適応しない、こいつは人生にとって一体何なのだ。

 巨大な生命エネルギーが、都会の空に渦巻いている。人々はそれを吸い、明日へ向かって生きていく。大気の重さが人間の存在を矮小にする。ここで生きるには、それを吸って適応するしかないのだ。彼は壁の聳える窓際に寝転がり、自動販売機で買った酒を飲んだ。星空が見たい。酒カップはすぐ空になり、いつもの焼酎を引っ張り出す。時がゆっくり流れはじめる、酔いが時のよどみに彼を引き込んでいく。天井の節が渦まき、干渉しながら広がりはじめる。

 存在を実在として認識して生きる喜びを全身で味わいたい。今のままではだめだと分かっていながら次第に遠のいていく。会社の日常は繊細な神経を鈍化させる。組織という網の一節になり果てるのはいやだ。辞めるのは簡単だが、無職になるとまともな生活ができなくなる。結婚そして暖かい家庭が欲しいけど彼女はできそうもない。旅に出て軽い大気を吸い網目から飛び出したい。

 彼は闇の空間に浮いていた。そこに止まるには飛ぶ意志が必要だった。意志が少しでも鈍れば体はすぐに落下し始めた。彼は重力を感じながら緩慢に闇の中を飛んだ。意志が飛ぶことに慣れるや、闇はフッと消え去った。


        

孤独の舞踏


 彼は澄んだ秋空の冷たい大気を感じた。収穫を終えた剥き出しの畑が地平線まで広がっている。微弱な陽光が、その疲れた大地に降り注ぎ、あちこちの畑で百姓達が落ち穂を拾っていた。狭い農道の端で、背の高い男が百姓たちを画いている。彼はいつの間にかその男の側にいた。筆先に凝集された男の意志は、すべての外界を拒否していた。精神が筆と踊っている。筆が色鮮やかなピエロになって、キャンバスを飛びはねている。軽やかに、太陽と大地を創造していく。精神は奇妙な足枷を付けていたが、筆を追って愉快に踊っていた。舞踏が永遠に続けば、この男はどんなに幸福だろうかと彼は思った。

 落日がせまるや、男は疲れ果てたのか急に舞踏を止めた。すると昂揚した精神は、現実に引きずり降ろされた。

「暖かそうな日差しですね」

彼は遠慮がちに小声で言った。男は少し驚いたようだったが、

「ここには陽光が必要なのだよ」

男は微笑しながら答えた。

短く刈り上げた頭にそげた頬、厳しい目つきにもかかわらず、そのほほ笑みには優しさがあった。霞んだ夕焼けが、道端の二人の影を引き延ばしていく。百姓たちは、荷車に麦穂を積むのをやめて祈りはじめた。疲労した大気が、遥か彼方まで漂っている。

「彼らの労働と祈りは美しい、例えそれが日常であれ」

男はスケッチをしていた。

「彼等は何を祈るのですか」

彼は祈ったことがなかった。

「今日の感謝と明日への続きだよ」

男は苦笑した。

「明日が今日と同じでは、面白くないと思いますけど」

自分の生活を思った。

「百姓には明日が必要なんだ、それに少し胡椒があれば彼等は幸福だろうね」

男はキャンバスをたたみながら言った。

寡黙な百姓達が通り過ぎる。冷えた大気と大地、そして明日を待つ疲労した人間達の風景があった。

「もし良かったら、一杯どうだい」

男は顔に似合わない、陽気な声で言った。

「ありがとうございます、喜んでお供します」

彼は男について行くことにした。

 男は彼に何ら話しかけるともなく、うつむき加減に黙々と歩いて行く。彼も黙ったまま歩いた、その方が楽だった。男の沈黙は威圧感があったが、彼を寡黙にしたのは、男から染み出る寂しげな何かであった。土くれの道を踏みしめながら、彼は都会の舗道にはない自分の重みを感じた。

 柳の並木道、酒のしたたか染み込んだ居酒屋であった。看板には裸電球が2つ灯り、入り口近くに古ぼけた薄汚い丸テーブルを5つ、周りに使い古した椅子がやたら多く並んでいる。宵の口で客は少なかったが、男は明かりから遠い端のテーブルに座った。ひじ掛けは、酒飲みの汗と垢で黒光りしている。酒屋は、実に無愛想であった。客が座っても、注文を取りに出て来ない。夜風がしきりに柳を押す、歩き疲れた体が思わず震えた。労務者風の男が五人、入り口近くに陣取ると、やっとでっ腹にエプロンを乗せた大男が出て来た。男は声高に腕を振りあげ、主人を呼び寄せた。男は客ではなく、むしろ厄介者扱いを受けている。飲み代をかなり滞納しているらしかった。男が主人に頼み込む。

「日本の友が来たから、何とかしてくれないか。なに滞納分はすぐ払うよ、二、三日中には弟が送金してくるはずだ」

赤鼻主人は、大きな目で不思議そうに彼を見つめた。彼は立ち上がると、サムライのように頭を下げて挨拶する。主人は驚いたように、そして楽しそうに言った。「よし、今回に限り日本の客人のためにサービスしましょう、ただし今晩だけですよ」

 太った年増が、白ワインと食い物を運んできた。女も不思議そうに彼を見る。彼は立ち上がり、挨拶と礼を述べた。女は対応にまごつき、照れ臭そうに逃げて行った。皿には、焼きたてのソーセイジとふかしたジャガイモそれにキャベツの酢ずけが乗っていた。ソーセイジをつまむと、テーブルが揺れ、デカンタの口からワインが溢れこぼれた。

「君との出会いを、運命に感謝しょう、ブロシット!」

「ブロシット!」

 酒が入ると男は快活になった。

「これが僕の生活だ、職業も家庭もない無収入生活者だよ」

「でも、貴方は描いていたでしょう。楽しそうに、筆が踊っていましたよ」

「何かを描きたい、描いていると精神が高陽するんだ。でもね、僕の絵はただの一枚も売れないんだ。それでも描いている」

「描くことですか、でも生活は大変そうですね、そんなにしてまで描きたいのですか」

「そうだ、僕は精神のために精神を食いつぶして生きている、弟まで犠牲にしてだ」

彼はいきなり息が詰まりそうになった。

「なぜ、それほどまでして舞踏しなければならないのですか」

男は驚いたように囁いた。

「君はロープを持っているのかね」

彼は手のひらを見せながら、都会生活でなくしたと告げた。男はうなづきながら、自分のを見せてくれた。丈夫で軽そうで、やけに短かいロープだった。

「僕の友人にも、都会でロープをなくした連中がいる」

「彼らはどうしているのですか」

「楽しく暮らしているはずだ、世間からもらう芸術家のソファーは座り心地が良いらしい」

「名声とお金があれば、生活から解放され、自由に生きていけますよ。でも才能が認められると、ロープを見失うのですか」

大半の時間が、勤めにつぎ込まれるサラリーマンからすれば、芸術家と呼ばれる自由人は羨ましかった。

「確かに、人は食うために自分の精神と時間を切り売りするか、もしくは、僕のように弟に寄生するしかない」


「私たちは人生の大半を生活のために費やしているのです」

「眼力の無い富裕市民は名声のある評論家の評価には盲目的に従うようですから、評論家に好まれなければ売れるのは難しいでしょうね」

「僕の描いた絵は評論家達から評価されたことがなくこれまで1枚も

売れたことがないからこうして貧乏だ、」

今の時代で富裕市民に好まれるのは視覚的に明るい絵ではないでしょうか、

男は少し険しい顔つきで彼を見た。

「確かにそうだ売れている絵は皆明るく綺麗だ、僕は見せたい対象に百姓を考えて描いたから都会に住む金持ちには陰気臭くてうけないだろうな」

「絵画は評論家の評価を得ても最終的には大衆が評価して価値が決まるのではないでしょうか。大衆の心の琴線にふれる作品こそ価値があると思います」

男は、ワインを一息に飲み干した。

「確かに、大衆の感性にふれる絵は価値がある。僕は貧しい大衆を勇気づける絵を描くように心がけている。しかし、我々画家にとって、意志を没入し何かを描く時の精神が自由に舞踏する瞬間、それが至福なのだよ。作品は高揚した精神の痕跡であり、結果としては高揚した精神の遺物でしかない。大衆は痕跡を見ないし、精神の高揚も共感できない。彼らは遺物しか見ない。遺物を評論家の言うとおりに評価して高値をつけて買い上げる。遺物の高評価に満足して名声を得て金のために描く画家は精神の舞踏を忘れた俗人でしかない。絵は精神の舞踏した痕跡だ、金を得る手段になった時、画家は堕落する」

私は男に強い飛翔力を感じた、自分には全くないものだった。確かに、その遺物たるものは、男の想像もできない高値で大衆よりもはるか彼方の投機世界で引っ張り回されている。

 ワイングラスが空になっていた。男はデカンタを掲げて手を振った、赤鼻主人はきげん良く受け取り、溢れるぐらいついできた。私は今度は私がと言いサイフを取り出し、金を払おうとしたが日本円であった。すぐにさま腕時計を外し渡そうとしたが、親父は受け取らなかった。男はワインをなみなみつぎ、一口ふくんだ。

「僕は貧しき大衆が好きだ。彼らの報われない日々の生き方に、何かして上げたいと思った。しかし彼らは僕など必要としなかった」

「そして今は、貴方が大衆を必要としている」男は笑った。

「僕は神を信じていた、これでも元牧師だからね。彼らの惨めな生活を見た時、教会で神に祈るだけの自分に嫌悪し、無力な牧師という職業に疑問をもった。しかし、外に出て活動しても何ら現実は変わらなかった。その苦痛から逃げるために描いた、描きだすと、神とか教会とかみんな忘れてしまった」

「確かに、何かに没頭すると、時が停まり精神は外界から自由になった気分になります。でも牧師は一時でも神を忘れてはならないはずですが」

「親父はコチコチの牧師でね。神をないがしろにしたと、ものすごく怒られた、勘当ものだよ。でも一人弟だけが理解してくれた」

「優しい弟さんですね。でも大衆に手を差しのべるのは大変な業でしょう」

「高みから彼らを眺めるのをやめて、僕はロープを牛糞の転がった地面に転がした。慣習という日常性は大衆をその閾の中に閉じ込める。呼びかけても、彼らは出て来ない、むしろその外にいる僕を異端視して石を投げつけてきた」

「貴方は、異邦人だったのですよ。彼らは、好奇な目で見ても、自分に接すると知らない病気が移るかもしれないと恐れ忌避しますから。教会の中で明日が今日と同じであることを、祈ってやれば良かったのです」

「大衆も毎日が繰り返しなら、人生は面白くないと思っている。しかし彼らは激しい変化を忌避する、欲しいのは現在の生活を崩さない程度の小さな刺激だ」

「大衆の幸福はささいなものです、今日チョット変わったことを経験すればもう十分です。毎日同じでも我慢して生きていく、そこが彼らの世界、そこから逃げ出そうなんて考えていません。大衆は、家族と生活を背負い地道に生きるのです」

「確かに彼らは黙々と生きている、僕はそんな大衆が好きでありながら、彼らの日常性への執着を軽蔑している。時として、僕はロープを高みに投げ、虚空に舞い上がってみる。だが、また下を見て、足を踏み外すヘマをする。僕が落下しても彼らは無視だ、深傷でうなろうと誰も助けてくれなかった」

「大衆は近付くのが怖いから貴方の傷をいやす人はいなかったと思いますが。教会の誰かに救いを求めたのですか」

「君は神に祈ったことはあるかね」

「ありません、私は無神論者かもしれません」

私は幼い頃、母と一緒に海神様に祈ったことを思い出したが、これまで神というものに対して祈ったことはなかった。

「僕は何日も祈った、神よこの内なる狂気を救い賜へとね」

「救われましたか」

「そのままだよ、自分で解決しろということかもしれない」

彼は、男の精神が孤独に疲れ果て、安らぎを求めているような気がした。

「道端ではなく、教会で平安を取り戻すことを考えなかったのですか」

「もう教会では平安になれなかった。見捨てられたのだ。あそこは、神に愛されていると信ずる者が祈るところだ」

彼は不思議な思いで男を見つめた。男は見捨てられても、なお神を精神の礎にしている。男の精神は大衆と同じように、神に支えられているのだろうか。

「地元を離れて他所の街で描くことはなかったのですか」

「金がないから徒歩で遠くには行けなかっけど、たまに弟の勧めで気晴らしの旅には出たよ」

「教会を出て、旅をすると良かったでしょう。いろいろな風景や人と出会い、少しは楽になりましたか」

「多くの人間と風景に出会った、始めは新鮮で楽しいが次第に憂鬱になる。すべてが日常になり新鮮さを失うのだ」

「そうですね、僕も都会に住み始めたときは新鮮に感じました。でも今はすべてが日常的になってしまい、意識も鈍化する一方で動きがとれないのです。でも貴方は、筆と楽しく踊ることができるではありませんか」

「舞踏は少しの間しか続かない。僕の精神はますます閉じ込められていく、いずれどこかで破滅するだろうね」

「描けばいいじゃありませんか、描き続けるのですよ」

「絵を描くには、精神が対象に感動し、意志がそれに没入していくことが必要なんだ。その対象物が、僕の視界からどんどん減っていく」

「それは貴方が、現況を拒否しているからでしょう。その軽そうなロープでしたら、未来に投げることも可能だと思いますが」

「僕のロープは、未来ではなく虚無に向かっている。それを引き留めているのは、このピエロだよ。こいつと踊っている時が一番幸せだ」

「ロープを闇に投げると、そのピエロ君が悲しみますよ。でもどうして平安から遠ざかろうとするのです。平安も悪くはないですよ」

「君は恋をしたことがあるかね」

男は急に苦虫を崩してたずねた。

私はぶっきらぼうに「ありません、せいぜい片思い止まりです」

男は快活に笑いながら、私の肩をたたいた。

「僕も女を愛した、心からね、だが女から愛されたことは一度もないんだ」

二人で哄笑した。共にグラスを挙げて一気に飲み干した。


ピエロの一日


 酔いは、時を停める。苦い過去が追っかけてくる。記憶の走馬灯、いつも見るのは同じこと。覚めれば、時はもう遥か彼方。追いかける気力もない。気分が悪いのに、それどころではないんだ。ぼけた顔を水で濡らしたって現況に変わりはない。今日はもう確実にはじまっている。靴上の朝刊は、いつもの世界が存在しているのを告げている。

 いつものようにTVのスイッチを押し、インスタントコーヒーをいれる。毎朝同じことの繰り返しだがほかに何があるというのだ。ホーム・ドラマのように、あつあつの朝飯を食い、かわいい女房に送られて出勤したいのか。できたら、そうなりたい、平凡な生活の方が幸せだと思った。路上に規則正しい足音が響く、そろそろ出勤時間だ、コーヒーを流しにほうり込み、いつもと同じ服をきる。

 都会の朝の空気は不快だ、軽い大気に混ざった排ガスが喉をさす。歩道のプラタナスは、一年過ぎた今もたいして成長してない。一年前はすべてが新鮮に感じた。お前は東京のプラタナスだった。すれ違う人に「おはようございます」と言った。駅員にあいさつしたら、驚いたように返してくれた。都会の空気は次第に私を無口にした。意識から新鮮さが薄れ大衆に埋没した。

 朝の電車は、目的をもつ者だけが乗る。仕事のために、家畜電車に我慢して乗る。東京に住めば慣れるといわれたが私には諦めという我慢にすぎなかった。人間はこの箱の中で薄っぺらな存在になる。人々は回り続ける古タイヤのように不快な臭気を帯びている自分の空気に気づかない。我々はなぜこの街に留まるのか。会社でニッチェを得て平穏に生活するためだ。最初はそうではなく未知のロマンを求めたのではなかったか。

私は上野駅近くに本社をおく中堅の菓子会社に勤めていた。 会社にはいつも定刻前についた。「おはようございます」の音声が私は好きである。会社は活気がみなぎり、販売業績も順調に伸びていた。私の業務は、菓子原料を集荷し工場へ送付することである。販売量に対応した原料を農協から予定通り集めるのは簡単ではなかった。会社と農家は契約栽培で結ばれていたが、相場により横流れや横入りの発生が多々あった。農家-農協-経済連と会社-工場、私は一日中、原料の流れに引きずり回された。それは一日で終わる業務ではなかった、明日もつづき、果てしなく続くのである。仕事は最後に工場にたどりつく。原料の搬入と検査、人手が足りない。工場長は、工場に定着する若者が少ないとこぼしていた。駐車場の高級乗用車は、単純工程に勤務する若者達のものである。彼らは、五時になると彼女を乗せて颯爽と走り去る。 

 日曜日、残業を終えて、新聞広告で見たデパートの絵画展に行った。夕方の混雑はひどかったが、我慢して並び八百円の入場券を買った。青服の警備員がいかめしい顔付きで立っている。展示絵が数臆もするからだ。人々はエスカレーターに乗ったように眺めてとおりすぎて行く。彼は押されながらも、立ち止まって見つづけた。人並みに流されながら白布で右耳を押さえた男の自画像に釘付けになった。男は重力から開放されて暗黒の深淵にいた。絵の後方に目をこらした。男の精神が宙に浮いたロープの上で筆と舞踏しているのが小さく見えた。人の流れは立ち止まる者を嫌う、私はは押されて絵から遠ざかった。それでも再度流れに入り、男の自家像を五回見た。

あの男の綱渡りはとうの昔に終わったんだ」

 あの男は、神に救いを求めたと思ったが、結局どうにもならなかった。描くことで辛うじて生き延びたのだ。男は生きるのに神を必要としたのだろうか。大衆は、明日のために神を必要としたが、あの男は明日を必要としなかった。今日があっても、今日につづく明日が必ずくるとは限らない。切れ目はどこにでも転がっている。都会は急がしすぎて、神に救いを求める暇もない。もっとも、ここの大衆は神なしで明日を信じて生きている。

 電車の中、彼は扉の外を漠然と眺めつづけた。暗がりの向こうでは、光で穴だらけのピエロがかくれんぼしている。彼はロープを思い切り闇空に投げ、飛び上がりたいと思った。飛翔力がなかった。飛ぶ意志がありながら、飛べない自分とはなんだろう。ピエロが笑った。

「飛べよ、この扉から」

突然扉が開く。客たちが呆然と見る、風の吹き込む扉から、若い男がゆっくり、ぎこちなく夜空に舞い上がっていく。線路脇の道路に叩きつけられた男が血反吐で死んでいる、笑えピエロこの悲劇を、ふと割れに帰った私は混雑の中で身動きできずに押し付けられている。

駅前の広場で闇空から落下する雨が顔と肩にまとわりついた。肩に重さを感じながらアパートまで歩いた。まばゆい街の明かりは私を憂鬱にした。飲み屋から流れるけだるい音楽は吐き気を誘う。闇の驟雨に傘をさす幸福はない。ただ、ねぐらへ、向って音をたてずに歩く、通行人に顔を見られたくない、見たくもなかった。

 私はいつもの自動販売機を素通りした。酔う前にやるべきことがあった。帰るとすぐにシャワーを浴び、暖かいコーヒーを飲んだ。机の書類をわきに押しやり、数枚しか使ってない便せん帳をおいた。ながいこと便りも出してない。あれこれ考え机に向かうが、書き出し文が出て来なかった。寝転がり、しばらく天上を眺めていた。簡潔にいくべきだと起き上がり書き始めた。「辞表、私は一身上の都合にて会社を」不安が広がる。本当にこれでいいのだろうか。会社を辞めた後どうする。やはりだめだ、途中から破り捨てた。私は便せん帳を放り投げ、焼酎を取り出した。大声でわめきたかった、俺はどうすればいいんだ。窓に写ったピエロが笑った。

「誰に向かってわめく。お前には、救いを求める相手はいない」

「なぜお前は私を嘲笑するのだ」

「お前の弱さだ、飛翔する意志の弱さだ」

存在は苦痛だ、思考は空回りするだけで時が過ぎて行く。過去に振り向いたところでどうしょうもないことはわかっている。現況を意識の彼方に投げ捨て、ジャンプしてこの閾を飛び越えたい。「笑うなピエロ、お前を殺せばわたしは自由になれるだろう」

「私を殺せば、お前は虚無に陥る。殺したいのはお前の弱さからだ。孤独がお前を苦しめているのではない、お前はただ精神の平安のために私を殺すというのか」苦悩が無能な精神を責めつける。飲めば時は過ぎ去る、酔いが意識を麻痺させ苦悩を緩和してくれる。今日が切れて明日が来なかったらどんなにいいだろう。明日を夢見る人は幸せだ。彼らには明日が来なくてはならない。


ピエロの哄笑


 私は擦り切れたのロープを肩に、焼酎一本ぶら下げて、星空の岩浜にいた。星を眺めながら波打ち際を歩く。焼酎が私の友だ、酔いが優しく体を包む。私は語る、海へ、星空へ、闇へ。波がさざめく、星がきらめく、闇は沈黙だ。岩に腰掛け、私は語る、闇へ、彼方の闇へ。焼酎はまだ残っている。私は闇に一杯やった、星へ一杯、そして海へ一杯。 一升ビンを片手に岩場を乗り越え歩き続けた。飲みながら、ほら星、海よ飲めと注いだ。海に突き出た岩があった。上に座り、ビンを闇に突き出し叫んだ。一杯は星に、一杯は海に、一杯は闇に、そして残りは僕のロープに。波間から声が聞こえた、

「私にも一杯もらえないかな」

岩の隅に小さな老人が座っていた。彼は目をこすった。

「ちょうど酒が切れてこまっていたところだ」

彼は老人の差し出す湯飲みに焼酎をついだ。

「ありがとう。丁度いいところに来てくれた、星と海相手に飽いていたところだ」

「彼らには酒をたっぷり飲ませないと、おもしろい話は出てきませんよ」

「そうだ、確かに酒が足りなかった。ところでそのポケット、ずいぶんふくらんでいるが、酒のつまみでも入っているのかね」

ポケットはパンパンにふくれ重たくなっていたが気付かなかった。

「僕が生きるための基盤、習慣、人間関係、知識、拾い集めた経験です」

「生きるには多すぎる荷物だが、まあ食うためにはしかたないか。だが、綱渡りにはポケットは空の方がいい。今からそんなに詰め込んでいたら、重くて歩きづらいぞ。まだ続くかもしれないロープ、道端に転がっている小物で、それこそポケットはすぐ一杯になる。小物を山ほど集めて見世物小屋を開くのもいいが、足どり軽く歩くには、ポケットは空の方がいい」

「ポケットを空にすると、僕の存在が消えてしまいます。これらはロープを編む材料に使います」

「それだけ織り込んだらさぞかし重たいロープになるだろう」

「都会の空間に張る強いロープを編みたいのですが、うまくできないので悩んでいます。それにロープを投げる方向もわからないのです」

老人は笑った。

「自分の意志で彼方に投げるか、それとも足元に転がし踏みしめて生きて行くか。そのどちらも君の意思で決めることだ、どう生きるか選択は自由だ、ロープの先で時の女神が待っているロープの終りまでだがね」

私「ロープを高みに投げて現況から飛翔したいのですが、僕にはそんな勇気はないのです」

老人「まずその荷物を捨てなさい、身軽にならないと飛翔できない。 飛ばんと欲する者は羽根を生やし飛翔する意志を持たねばならない」

私「才能があれば、ロープを高みに張ることができるのに。僕にはその羽根がないのです」

老人「ロープを高みに張るのに才能はいらない、飛翔する意志をもつ孤独な人間なら可能だ。但し飛翔すればいずれ重力により日常に落下する。落下の苦痛に耐えるのはやさしくないぞ」

私「僕は大衆の中に埋没したくない、日常をただ生きるだけの惰性から抜け出したいのです」

老人「大衆は個々においては同一ではない、無意識だが彼らも一つの個性として生きている。生き方は個々により異なり万人それぞれの生き方をしている。日常は未来に向かって進み君はそのしがらみにいるのだ、そう意識すれば自分の生き方を楽しむことができる。世のしがらみを渡れない者は世間を恨み大衆を軽蔑する。存在は孤独だから思いやりと優しさを携え人と接するがいい、そうすればしがらみも悪くないことがわかるはすだよ」


私「大衆の日常性は僕の精神を押し潰します。毎日くだらないことに時間をすりへらして、人生を終えるのはいやなんです」

「精神は飛翔しても、いずれ疲労して落下する。大衆の靴で汚れているが、日常は落下を受け止める大地だ。だから打身傷ぐらいですむ。落下を恐れず飛び上がってみてはどうかな。日常は連続し、その中に存在するものをはぐくみ未来へ進んでゆく。我々は期間限定の存在で回帰はない。同じ過ちと苦痛をを繰り返さないですむ一回きりの人生だよ、どんなに足掻こうと君は君の存在する時代から抜け出ることはできない。君はこの時代の現在という背景のごく微細な一点に過ぎない」

私「今日の続きの明日は、必ずくるということですか。そして僕は、日常の中で生き続けるのですか」

老人「そうだ、明日は続く、君がそれを望まなくとも。しかし君の存在が明日に続く保証はない」

私「明日が必ずくると、誰が保証するのです。大衆は何の確信もなく、自分たちの存在が明日に続くと思っています。彼らは忙しすぎて祈る暇もない、不幸にも僕達は明日を保障してくれる神を持ってないのです」

老人「我が大衆は日常性に同化しているから、神という保証人なんかいらない。それに我々は明日への祈りをもたない民族だよ。我々は神をもつチャンスがなかった。もっとも、神というのは原始時代の人間の意識に植えつけられた概念がウイルスの如くDNAに寄生したものにすぎない、だから神は君の問いには答えられないはずだ。宗教は無垢な子供の精神に「神」を刷り込ませた詐欺師だ。神は自己暗示と生涯学習により精神に刻印されたものだ。我々にはその刷り込みが行われなかった。だから神をもたないことは不幸なことではない」

私「神が精神に刷り込まれたものとしても、人は神のもとで世界を認識できます。我々には存在と精神を支えるなんの基盤もないではありませんか」

老人「世界は神なくして存在しており、認識する者を基点に世界は構築される。我が認識は存在を支点にして作用する。神すら、人間は自己の存在を支点にして祭る。宗教は人間存在の不条理との対決を避け続けてきた。不条理を神という商標のついたビニールに包み天国に投げ捨てるか、宿題を隠す子供のように、神の袖下に隠し続けてきた。だから、いまだに君のような迷い子を救えないでいる」

私「神という基盤があれば、僕は綱渡りで深淵を恐れないし、安心して綱渡りできます。神の下では、人生におけるすべてが必然となり、平安になるような気がします」

老人「人生に必然はない、あるのは意識の選択と偶然だけだ。だから我々の存在と精神は自由であり必然性を裏付ける法則はない。自由だから法則がないのだ。我々の選択の軌跡、即ち人生では、偶然も結果として未来を羅針する因子となる。宗教は意識の自由を縛ることから始まる。神という名を拝した重りと、戒律の鎖で精神に足かせをつけ、意識を地面にくくりつける。偶然は神のもとで必然にすりかえられる。そもそも君の誕生自体が偶然であり、その延長上に君は存在している。我々は、誕生という偶然から死という絶対にかけられたロープ上で踊るピエロってことだ」

私「自分で見つけろということですか、自分の意志でロープを編み未来へ投げて歩くのですか」

老人「そうだ、神という足かせがないだけましだ。君は自分の意志でロープを未来に投げることができる。君は誕生の瞬間から生きる模索を行う義務を負ったのだ」

私「僕には自由がない。生きるために働くだけでロープを投げる自由すらありません。僕の意識はそこに埋没することを拒否します、だから精神を穴蔵住まいさせたいです」

老人「精神を暗闇に閉じ込めてはいけない、精神には日の当たる広場が必要だ。陽光に当て暖め、風雨に打たせ強くするのだ」

私「僕にできるのは、会社を辞め社会のしがらみから抜け出すこと、そして重力を拒否することで精神は平安になれます」

老人「違う、重力を拒否すれば人生はつまらなくなるぞ。人は現在を経験しながら未来に歩いてゆく、そして死に至る。その過程で精神は偶然を楽しむ。結果に喜びと悲しみと怒りがあり、精神は自ずから鍛えられる」

私「限界状況の中で、僕は自分の意思で選択し未来にロープを投げねばならないのか。孤独ですね。結局僕の人生は、ひとりロープ上を歩くピエロですか」

老人「ピエロは微笑することで、孤独から救われるはずだ。人は有から無に流れる浮草、軽やかに流れることを覚えるのだ」


「わしは帰るぞ」

老人は波間にすべり降りると漁火に向い悠然と泳ぎはじめた。波間から老人の詩が聞こえた。

「若者よ、存在はお前のものだ。誕生、青春、そして死、そこで何を経験するか、それはお前の自由。若者よ、自分の意志でロープを未来に投げて歩け、そしてお前の存在の歓喜を独り舞踏せよ」老人の座っていた岩に何か刻まれていた。星明かりで文字を拾った。「海を渡らんとする者よ、重き荷を捨て、軽やかに泳ぎて渡れ、未来のためにその重荷をここに捨てて行け」

私は、ポケットの中身を岩上に放り出した。余計なものを捨てるのは難しそうだったが思い切って殆どを海に投げ込んだ。

波間で輝き踊る小さな妖精たちは一瞬の存在を舞踏している。

闇の彼方から、うねり、ざわめき、くりだしてくる波音は、永遠のリズム、時はつづく。私の存在は明日を必要とするが明日は私の存在を必要としない。明日は続くだろう私のロープの終焉まで。

 私は焼酎を飲み干すと、ビンを思い切り星空に放り投げた。寂しい音が闇に散り、破片がキラキラ波間に落下した。

 私は暗い浜道をとぼとぼ帰った。小さな街灯の下でピエロが踊る。人々の暖かい眠りを妨げないように足音を忍ばせ、背を丸めて歩いた。私のベッド、星空と闇に囲まれ、波音が響く。深い眠りが誘う、波がざわめく、星がきらめく、闇は相変わらず沈黙だ。

 夢を見た。彼方に伸びたロープ上を私は踊りながら歩いていた、下手くそな演技だが楽しく跳びはねている。勇気を出して飛翔したあとロープにぶら下がり深淵に向かって叫んだ「私の演技はこれで良かったのか?」

「それでよかったのだ!」静寂の暗黒にピエロの哄笑が反響した

歩くのですか」

「そうだ、神という足かせをつけないだけましだ。君は自分の意志でロープを未来に投げることができる。君は誕生の瞬間から、生きる模索を行う義務を負ったのだ」

「僕には自由がない。生きるために働くだけでロープを投げる自由すらありません。僕の意識はそこに埋没して窒息しそうです、だから精神は穴蔵住まいを望むのです」

「精神を暗闇に閉じ込めてはいけない、精神には日の当たる広場が必要だ。陽光に当てて暖め、風雨に打たせ強くするのだ」

「僕にできるのは、会社を辞め社会のしがらみから抜け出すこと、そして全てを拒否することで精神は平安になれます」

「違う、全てを拒否すれば人生はつまらなくなるぞ。人は現在を経験しながら未来に歩いてゆく、そして死に至る。その過程で精神は偶然を楽しむ。結果に喜びと悲しみと怒りがあり、精神は自ずから鍛えられる」

「限界状況の中で、僕は自分の意思で選択し未来にロープを投げねばならないのか。孤独ですね。結局僕の人生は、ひとりロープ上を歩くピエロですか」

「ピエロは微笑することで、孤独から救われるはずだ。人は有から無に流れる浮草、軽やかに流れることを覚えるのだ」

「わしは帰るぞ」

老人は波間にすべり降りると、漁火に向い悠然と泳ぎはじめた。波間から老人の詩が聞こえた。

「若者よ、存在はお前のものだ。誕生、青春、そして死、そこで何を経験するか、それはお前の自由。若者よ、自分の意志でロープを未来に投げて渡れ、そしてお前の存在の歓喜を独り舞踏せよ」

老人の座っていた岩に、何か刻まれていた。星明かりで文字を拾った。「深淵を渡らんとする者よ、重き荷を捨て、軽やかに歩いて渡れ、未来のために一切の重荷を捨てて行け」

私は、ポケットの中身を岩上に放り出した。余計なものをより分けるのは難しかったがほとんど海に捨てた。

波間で輝き踊る小さな妖精たちは一瞬の存在を歓喜している

闇の彼方から、うねり、ざわめき、くりだしてくる波音は永遠のリズム、時はつづく。私の存在は明日を必要とする。しかし、明日は私の存在を必要としない。明日は続く私の存在が無に帰するまで。

私は焼酎を一口ふくみ、ビンを思い切り暗闇に放り投げた。寂しい音が闇に散り、破片がキラキラ波間に落下した。

 私は暗い浜道をとぼとぼ帰った。小さな街灯の下でピエロが踊る。人々の暖かい眠りを妨げないように足音を忍ばせ背を丸めて歩いた。私のベッド、星空と闇に囲まれ、波音が響く。深い眠りが私を誘う、波がざわめく、星がきらめく、闇は相変わらず沈黙だ。

夢を見た。深淵に張られたロープを綱渡りしていた。どこまで延びているか見えないが演技に集中して歩くと落下を忘れた。いくらか歩いてから飛翔してロープにぶら下がり下を見たが深淵は静寂だった。勇気を出して深淵に向かい叫んだ。

「私の演技はこれで良かったのか?」

「それでよかったのだ!」静寂の暗黒にピエロの哄笑が反響した。


終わり

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