第7章 『突きつけられる異なる道』

第24話 『変わる日常 変わらぬ思い』

 魔女が住んでいそうな外見の古い洋館の主人は、紅いワインの入ったグラスを回しながら膝の上で丸くなっている黒猫を撫でていた。レコードをかけながら優雅な雰囲気が漂うティータイムに水を差すように一本の電話が入ってきた。多少不機嫌な顔をしながらシックな黒電話の受話器を持ち上げる。


「何か用? 仕事泥棒とでも言いたそうな声。言っておくけど私の手元に報酬は一文も入ってきていないの。私はただ一つ分岐点を与えただけ、そう、あの時のように。部外者に限りなく近いあなたにこれ以上言われたくないんだけど」


 乱暴に受話器を戻す。ポケットの中から懐中時計を取り出し時間を確認するとすぐにしまう。テーブルの上に広げられている資料をまとめると、金庫の中に放り込む。

 寝室に行き、黒いコートを羽織るとリュックサック片手に屋敷から出た。ひらりひらりと舞い落ちる雪をそっと掌で受け止めて息をそっと吹きかける。吐き出した息は外気の寒さで白くなっていた。


「そっか。もう冬だから雪が降ってもおかしくないか。チェーン履かなくても大丈夫かな」


 しっかりと施錠をしてから車庫に向かい、バイクカバーを取る。外で舞っている雪に負けず劣らずの真っ白なバイクがそこには静かに佇んでいた。

 冷たい風を全身に浴びながらバイクにしがみつく。インターから高速道路に乗り込み、どんどん北上していく。ウィンターシーズンでスキーを嗜みに行くと思われるスノーボードを屋根に積んだ車が同じ方向を目指して走っている。

 高速道路を降り一般道に切り替え走り続けること数十分。バイクが走っている道がきちんと舗装された道から徐々にひび割れたアスファルトに変わり、果てには舗装されていない砂利道に代わっていく。


「あっちゃー。随分と派手にやってくれたね。こりゃー情報残っていない可能性の方が高いなぁ」


 バイクを停めると思わず彼女はため息を吐いた。真っ白な外観だった研究所跡は黒焦げてあちらこちらで屋根が落ちている。くすぶっている日が残っているようでまだ黒い煙が立ち込めていた。エンジンを止めて門の外からまじまじと建物の状態を観察する。

 火の手は鎮静化されているが建物は燃焼して使い物にはならない。そして誰かがこの情報を遮断したかのように警察の手が入った痕跡は見当たらなかった。


「ふむ。そうなると手回しは完璧だったと。流石シオンの弟子なだけある。私が後れを取るとは……」


 コートのポケットに忍ばせていたタバコを加えてボロボロになった門を蹴り飛ばして施設内に侵入する。メグが侵入した経路とは違い正面から堂々と入るとタバコの灰を床に落とした。広いフロアを抜けてエレベーターのボタンを押すが反応は一切ない。わざとらしく舌打ちをしてエレベーターを無視して廊下をそのまま歩き続ける。


「さっきのフロア、あそこでアオイがいた可能性が高い。そうなるとこの研究所にある程度の期間収監されたと考えられる……。あれに近づいていないといいけど……」


 廊下の突き当りにある螺旋階段を下りながら暇になった彼女は、ぼやく。螺旋階段を下っている間は風景がおかしいほど変わらない。実際は数分しか経過していない。


「数十分は下ったような気がする。これだから螺旋階段は嫌いなんだよなぁ」


 焼け焦げた壁に書かれた消えかけの数字、それを頼りにより深く深く下っていく。黒く汚れた文字を撫で彼女はニヤリと笑った。螺旋階段を下ることを辞め、再び廊下に出る。その一歩を踏み込もうとした刹那、彼女の目の前が一瞬光る。遅れて左肩を後ろに下げて体をずらす。完全に避けることはできず、彼女の左頬からは赤い血が滲み出ていた。

 間髪入れずにハンドガンを構えると先程一瞬光った方に向けて鉛玉を撃ち込む。だがしかし、手ごたえを感じなかったようで舌打ちをしつつ次弾を装填し発砲した。 


「銃を使えば自分じゃないと推測されるとでも思っている? 残念、相手が私でなければこのまま逃げ切れたかもしれない。ご愁傷様、蛇みたいにしつこく絡みつくよ私」


 わざと挑発するように大声で叫ぶ。反応を伺うが、何も返ってこない。軽く舌打ちをしつつ次弾を装填して目の前に発砲する。すぐに聞こえてきたのは薬莢が外れ、床に跳ねる音と微かに聞こえた金属が弾かれる音だった。


「不安要素がちゃんと確信に変わったから言うけど、いい加減に姿を見せたらどうなの。“Last moon”」

「……自分が今、何をしているのか分かっているのじゃな」


 しばらくの沈黙の後、大太刀を背中に背負い、いつになく真剣な表情で暗闇に包まれた廊下から姿を見せたのは“Last moon”だった。その表情は、複雑な感情を孕んでいた。


「どこまで知っているつもりだか知らないけど――」

「腕に自信がある情報屋からタダで入手した情報だ。それ以上のことは我からは言わぬ」

「……やっぱり殺しておくべきだったかな。途中式が一度でも狂えば答えにたどり着けないわけか。ま、ここに用がないことは確定したし、アディオス!」


 ノアはポケットの中からマグネシウムテープとライターを取り出してフラッシュを起こす。不意の事態に瞬時に対応できなかった“Last moon”はノアに逃走するのには余裕の時間を与えてしまった。彼女はニヤリと笑うと足音を立てずに今来たエレベーターに颯爽と乗り込んだ。二つ上のフロアのボタンを押す。


「さっきのフロアにアイツがいるってことは、あのフロアにはもう資料は残されていない可能性が高そう」


 エレベーターの中で一人呟くと目的のフロアに降り立った。


「さて、あの時回収出来なかった残り二つのデータのうちの一つを取りに行くとするかな」


 誰もいない静寂に包まれた廊下に彼女の足音だけが木霊する。


***


 メグ達がアオイを連れ戻してからアオイは二週間以上入院することを余儀なくされた。


「退屈だわ。と言うか私、この病院にいい思い出ないのだけれど」

「だったら簡単に操られるような真似しないでほしいんだけど。心臓に悪い」


 病院の一室で上半身だけを布団から出してノートパソコンのキーボード上で指を走らせてていた。溜まりに溜まった情報の授業で出されたレポートを一つ完成させると仰向けに寝転がる。


「この課題の量はさすがに大変ね。まあ、脳に異常がなかったからこうやって普通に生活できているけど」

「まったく余計な心配させないでほしい。ほら、リンゴ剥けたぞ」


 ウサギの形に切られたリンゴに楊枝を突き刺しメグは、それをアオイに差し出す。受け取ったアオイは満面の笑みで頬張った。病院が用意したパイプ椅子に腰を下ろしてメグはカバンの中からタブレットを取り出した。一通り目を通し、彼女の手からタブレットが滑り落ちる。


「メグ? どうしたの」

「アオイ、よく聞いて。……仕事が全部なくなった。大小関係なく」

「どういうこと、メグにしては随分面白くない冗談ね。もしかしたら私が倒れたことが原因?」

「それも考えられる原因であることはある。単純に報酬はちゃんと振り込まれているんだ。何が目的なのか読めないんだ。客取りだったら報酬も横取りされるし」


 意味が分からないと言わんばかりの表情を浮かべるアオイに対してメグは、拾い上げたタブレットをアオイに突きつけた。タブレットを受け取ったアオイは確認するがそこに依頼の文字はどこにもない。何度も何度も見直すが彼女達に突きつけられた現実は何も変わらなかった。みるみるうちに顔が真っ青になっていく。


「嘘よ、これは本当に悪夢でしかないわ、こんなことあるはずがない」

「落ち込みたくなるのは分かるけど焦っても仕方ないからさ。退院は明後日だから」

「そう……ね。世論でいう普通というのを体験してみるのもありかもしれないわ。でもこんなところで立ち止まり続けるつもりは毛頭ないから、その……よろしく」


 窓の外から見える動かない風景を眺めつつ彼女は、深いため息をついた。

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