第19話 『舞い戻る』

 日が沈む。夜の闇が街を包み込んでいく中、微かな月明りが街並みを照らしている。夜の街をパーカーのポケットに手を入れ、大音量で陽気なポップをヘッドフォンで聞きながら一人の女性が街灯のない街中を歩いていた。彼女の口の中を縦横無尽に飴玉が転がりまわり時折その姿を見せては月明りに照らされて妖艶に光っている。

 車通りが僅かに残った道から逸れて細い路地裏へと消えていく。街灯は姿を完全にくらませ、本来の夜の風景がそこにはあった。迷いのない足取りで彼女が到着した場所は少し変色しつつある白い外観に反対に目立つ赤く輝くシンボルの病院だった。ポケットの中のミュージックプレイヤーを止めてヘッドフォンを首から下げる。

 慣れた手つきで裏手に周り、鍵穴に針金を突き刺して神経を指先に集中する。数分後、指先から伝わる間隔が変わり彼女は針金を抜き取った。そのままドアノブを掴みゆっくりと回す。


「……」


 非常灯の緑の明かりが微かに建物内を照らし、その明かりを頼りに受付内に侵入すると徐にブレーカーのつまみを一つずつ下に下げていく。音を立てて照明が落ちていくのを見届けて彼女は次の目的地へと移動を始めた。途中、思い立ったようにトイレの電気のスイッチを入れてみるが電気はつくことはなく、トイレの中でスイッチの動作音だけが響いただけだった。

 給電されず止まっているエレベーターホールの隣の螺旋階段を一段一段噛みしめるように登っていき、四階で登るのをやめた。静かな廊下に彼女の立てる僅かな靴の音だけが響く。


「……あと少しあと少し、そうこの部屋」


 部屋の入口前に設置されているホワイトボードに書き込まれている人物の名前に指でそっと触れると、溢れそうになる笑みを必死に押し殺す。斜めにかけているカバンの中から布に包まれたものを取り出すとノックをせずに引き戸を静かに開けた。

 部屋の中にはベッドは一つしかなく、近くには畳まれた簡素なパイプ椅子だけが用意されている。彼女の手に握られているものの刃がカーテンの隙間から漏れている外の光を反射して不気味に光っていた。


「……出来る限り協力してくれるんですよね。なのになんで死んでないの? なんで? 以前私に言ったじゃん。だったら私のために死んでよ」


 彼女は早まる鼓動を左手で胸を掴み、浅くなる呼吸と共にベッドの真横に立ち包丁を大きく振り上げる。数秒の静止、時が止まったように周囲から音が消え、振り上げた包丁をベッドの膨らみに突き立てた。その手には確かな感覚を感じ、包丁を引き抜こうとするが、びくともしない。もそもそと布団が動いてそこから姿を見せた人物に思わず腰を抜かした。

 動きやすいようにアレンジされた白いドレスに水色のエプロン、黒いカチューシャに不釣り合いなフェイスガード。焦る襲撃者に対して潜伏していた人物は冷静だった。


「始めからこれが狙いだったんだろう」

「気づいていたの……」

「むしろ気づかれないとでも思っていたのか、“Alice”も甘く見られたものだ」

「嘘っ! そんなのハッタリね、“Alice”はもう数年前に死んだはず! だって……」

「……死んでいないとしたら? ここではなんだ。ちょっと一緒に来てもらおうか、カレン」


 カレンの襟を掴み“Alice”は静かな廊下に出てそのまま階段を引きづってそのまま階段の最上段まで歩く。屋上のドアを蹴り飛ばして開けると屋上から冬の冷たい風が勢いよく吹き込んでくる。

 屋上に一歩踏み込むとカレンを突き飛ばして自分はドアの前に立ちふさがるような立ち位置に着く。“Alice”は何も言わずにレッグホルスターから月の明かりを反射して黒光りするハンドガンを取り出した。そのまま銃口をカレンに合わせると安全装置を解除する。数秒の沈黙の後、彼女は重い口を開いた。


「事前にお前の情報は確認していたが、ただの一般人じゃないか。まさか本当に実行に移すとは思わなかった。度胸だけはあるようだが、運命は変わらないし、変えられる可能性があったとしてもそれはこの私が許さない」

「冗談じゃない。たとえ最強の殺し屋が立ちふさがったとしても私の人生を狂わせたアイツだけは絶対殺してやるんだぁぁ!!!」


 這いつくばるような姿勢からゆっくりと立ち上がると蛇のように睨みつける。上着の中に隠していたハンドガンを取り出すと慣れない手つきで安全装置を外して“Alice”と向かい合うように銃口を向けた。しっかりと握りしめて微動だにしない“Alice”に対して産まれたての小鹿のように震えている。


「まるで初めて銃を握るやつの反応にそっくりだ。そんな付け焼刃未満の腕前で幾千の戦場を駆け抜けてきた私に勝てると?」

「うるさい!! 邪魔なんだよ、どいつもこいつも!! 本当に殺してやる!!」


 自分を奮い立たせるように声を大にして叫ぶカレンだったが、その言動とは真逆に体の震えは更に悪化していく。銃口は既に“Alice”の方に向いておらず下を向いてしまっている。

 そんな様子を見て“Alice”はハンドガンを構えなおすと一歩一歩近づき、カレンの鳩尾に左手から繰り出される拳をねじ込む。あまりの速さの出来事で殴られた当の本人は何が起こったのか理解する間もなく膝から崩れ落ちた。鳩尾の痛みで表情を歪めつつもその目はカレンの目の前にいる人を睨み続ける。銃口を頭に突きつけ“Alice”はトリガーに指をかけた。


「さようならだ、カレン。向こうの世界でお姉ちゃんが待っているぞ」


 静まり返った夜の街並みに一発の銃声が響く。


***


「っ!!」


 一度目を開けるが大量に溜まった涙を瞬きを繰り返し吐き出す。もそもそと休日のように起き上がると一つ大きなあくびをして周囲を見回した。分厚いカーテン、一部ガラスの重そうな引き戸、所々剥がれている部屋の外装。

 自分がどこにいるのか把握した途端、腕に刺さった管を静かに引き抜いていく。その後、もう用はないと言わんばかりに放り投げてベッドの横に丁寧に揃えられたサンダルに足を通した。その間も絶え間なく鳴り続ける異常を知らせるアラートに若干ムッとした表情をしながら立ち上がる。立ち上がった瞬間、彼女の足元がもつれて窓枠にしがみつく。


「……うるさい。最悪の目覚まし時計ね。本当にうるさいわね」


 廊下に出た時も患者の異常を伝え続けるが、誰も駆けつけようとはしない。あらかじめこうなることを分かっていたかのように。左手は壁に添えながら右手は背中に添えつつ、二人が待つ屋上へと覚束ない足取りで向かう。向かう前にホワイトボードに書いてあるアオイの文字を指の腹で消した。


「いつもは何も考えずに飛ぶように走れたけれど、いざ体を壊すとこんなただの廊下と階段に苦戦するとはね……。ほんと情けないわね。あーあ、本当に私がこんな風になっちゃったらノアに怒られるわね。この文字も消しておこうかしら」


 屋上までの道のりの半分くらいに到達した時点で病衣の背中は赤く染まり、その範囲は徐々に広がっていく。階段の踊り場で派手にバランスを崩し、静寂な病室に叩きつけられるような音が響く。しばらくその場でうずくまるが、両手で起き上がり再度手すりに掴まり一段一段上がり始める。最後の踊り場を曲がり一直線の前で下を向いて肩で呼吸をしていると彼女の耳に聞きなれた短い音が聞えた。


「銃声……しかもあのタイプは、そんなまさか!」


 背中の傷など気にもせず、体の傷の痛みで表情が曇るがそのまま屋上に駆け上がる。それでも引き込まれるように屋上でその足を止めた。その場にいる二人の人物とその状況に彼女はただ目を丸くするしかなかった。


「何よこれ……どういうこと……そもそもなんで貴女がここにいるの“Alice”! それになになんでカレンが倒れているの、まさか」

「……もう目覚めたのか。計算するとあと数日は眠っているはずだが……だが随分無理をしているようだが」

「別に関係ないでしょう。誰に依頼されたか知らないけれど、その契約は私の名において破棄とさせてもらうわ」

「断る、別に依頼人はお前じゃない。お前が偶々この病院に入院していて、偶然この場にいた。それだけだ」

「面倒くさいわね。本当に三人衆は個性の塊なのは分かっていたつもりだけれども……まだ頭が働いていないっていうのに」


 初め少し興奮気味くらいの呼吸の乱れだったが、喘息のような呼吸へと移っている。焦点も既に定まっておらず、意識は朦朧としている様子だった。背中の赤い楕円はその直径を広げている。

 カレンにハンドガンを向けていつでも対処できるようにしつつ、アオイの言葉に耳を傾ける。それでもその目は獲物を狩る鷹のようであった。


「話はそれだけか。現場に長時間いればそれだけ危険なことはお前もよくわかっているだろう」

「……分かったわ。だったら私が貴女に依頼をするわ」

「それは本当にお前の気持ちか?」

「そうよ。貴女に彼女は殺させない」

「……そうか」


 安全装置をかけると“Alice”はレッグホルスターにハンドガンを戻すと無言でアオイの隣を通り抜けていった。

 アオイの額から大量の冷や汗がしたたり落ちるが、背後の足音が徐々に遠ざかっていく。それと同時に屋上で寝転んでいるカレンに近づく。距離上では数メートルでしかないが、彼女の額には脂汗が浮かんでいる。


「お互い無様なくらいボロボロね、カレン」

「……いつから私の意識が戻ったってわかったの?」

「別に何となくよ」

「そっか。でももう何も話すことはないよ。アオイとは違って私の復讐劇はクライマックスというところの暗転で失敗して強制的に幕を下ろされた。愚かな敗北者さ」


 ふらふらになりながらカレンは立ち上がり近くのフェンスに寄りかかる。ボロボロなアオイも彼女の横に並ぶように腰を下ろして空を見上げた。真っ暗な空に無数の星が輝いている。


「致命傷から反らしたとはいえ、ごめんなさい」

「別にそんなこと気にしていないわよ。この程度の傷は昔からよくあることだし」

「そんな厳しい世界で生きている人に勝てるわけがないか」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。私はそれなりに覚悟はしているつもりよ」


 それを機に会話はパタリと止まる。冬の冷たい風にアオイは身震いして立ち上がった。そのまま振り返り、カレンの方に手を差し伸べる。

 カレンは一瞬、寂しそうな表情をするとアオイの手を取らずに立ち上がり溜息をつきながらスマホを操作する。再びスマホをポケットにしまいか弱く呟いた。


「負け犬は大人しくステージから降りることにするね」

「何を言っているの? 早く戻るわよ。カレンだって“Alice”にやれたところはただじゃ済んでいないんだから」

「これ以上私はアオイとは、いられない」


 カレンはそう言うと徐にフェンスをよじ登る。察したアオイは急ぎ止めようとするが、背中の傷の痛みでその場に崩れ落ちる。それでも這いつくばるように前に進もうとする。それでもカレンがフェンスの一番上に到達する方が早いのは、火を見るよりも明らかだった。フェンスに跨り、カレンは普段見上げる街並みを見下ろす。


「じゃあねアオイ。色々あったけどあなたはやっぱり私の最高の友人よ」

「駄目、早まらないでカレン!!」


 必死に止めるアオイにそっと微笑むとカレンは建物の外の方に体を傾け、アオイの前から姿を消した。孤独になった屋上では一人の少女の嗚咽だけが静かに聞こえる。

 屋上から飛び降りたカレンは不思議と冷静だった、あと数秒もしないうちに自分の命が費えるというのに。そっと目を閉じると彼女は思い出に浸り始めた。すると目頭からは熱いものがこみ上げてきていた。


「こんな人生だったけど良かったんだ。あの日アオイと出会わなければ、また違った出会いで違った人間関係になっていたのかも。でもなんだかんだ言っても楽し――」


 言い終えぬうちに彼女は固いコンクリートと激しいキスをした。


 屋上ですすり泣いていたアオイも自身の背後に人影を感じると涙を拭いてすっと立ち上がる。誰が立っているのかわかっているような口ぶりで彼女は、話始めた。


「こうなることも貴女の予想していた通りなのかしら」

「ああ。これが彼女が選んだ道で、何かを得ると同時についてくるリスクだ」

「“Alice”……そうね、すっかり忘れていたわ。ぬるま湯に浸かり続けた結果ね」


 アオイの目の前に立つとコートのコートのポケットに片手を入れたまま“Alice”は、アオイを見下すようにハンドガンの銃口を突きつけた。その視線は鋭いが、どこか母親のような慈愛に包まれたような視線にも見える。


「悪いことは言わない、この世界から足を洗え。お前は根っからの悪人じゃない、そうじゃなければこんなことで涙は流さないからな。今ならお前の相棒が後腐れなく表の世界に戻れる」

「……」


 アオイは何も言い返せず、ただ目の前にいる“Alice”を睨み返すことしかできなかった。遠くからサイレンのやかましい音が近づいてくる。

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