第18話 『焦らす少女 焦る少女』

 その連絡が入ったのはメグが知人とディナーを楽しんでいた時だった。ポケットに入れているスマホが震える。設定している音から誰から送られてきたものかは見当がついているようだった。だが、彼女の表情を曇らせるのは別の理由だった。ポケットから取り出したのは二つのスマホ、初め彼女が鳴っていると思ったのは仕事用の方だと思い込んでいた。ブツブツ文句を言いつつ通話開始を押しスマホを耳に当てる。


「一応連絡先は交換していたけど、こっちのスマホにかけてきて……それで何の用」

「仕事中だったが、それは申し訳ない。今回は仕事がらみじゃなさそうだからな」

「要点はなんだ。お陰様であたしは忙しい身なん――」

「アオイが刺された。今はいつもの病院にいるらしい」


 メグの手からスマホが滑り落ちる。額からは冷や汗が溢れ出し、手が小刻みに震えていた。そんな手でスマホを拾い上げ再び耳に当て、椅子にもたれかかる。先程とは明らかに異なり動揺が隠しきれていない。震える声で続けた。


「すまない、手が滑った」

「随分動揺するじゃないか。どうした冷静なお前はどこいった」

「悪いがふざけたボケに突っ込めるほど今のあたしの心に余裕はないんだ。あたしが把握している範囲では“Nightmare”は休業にしているはずだぞ。ということは過去に壊滅させた組織の残党による恨みか。クソ、頭が回らない」

「お前の事情は知らん。とりあえずお前も把握した方がいいと思ったから親切心で直接連絡させてもらった。早く来てやってやれ」

「わかっている。お前に言われるまでもない」


 メグの握りこぶしによりテーブルに埋め込まれたナプキンを見て知人は腹を抱えながら笑いだす。お洒落な服装の女性が下品に腹を抱えながら笑っている様子を周囲の人間は不審な眼差しを向けていた。わざとらしく咳払いをして財布の中から数枚の紙幣をテーブルに叩きつける。テーブルの上のタブレットを抱え、夜の街に消えていった。

 その背中を眺めつつ、その場に残された彼女は冷めきったカフェオレの入ったカップを持ち上げる。けれども彼女の手から滑り落ちて高そうな茶色のコートを濡らし、カップが重力に従って足元で砕け散った。焦って駆け寄ってくる店員に軽く頭を下げ、財布の中から数枚の紙幣を手渡すと彼女は店を去っていった。


「……嫌な予感がする、とっても。あの子の野望に関することで。これは帰らないと」



 空港に着いたメグは投げつけるように紙幣を叩きつけ、駆け出す。彼女の端末には既に購入完了したチケットの詳細が表示されていた。空港内のモニュメントの一部として置かれている時計を見て舌打ちをした。驚くべき程身軽な格好の彼女は手荷物検査を悠々とパスすると、そのまま搭乗口の方へと駆け出した。


「やはり今日は特にスケジュールが入っているわけじゃない。でもアイツは電話で家が襲撃されたとは一言も言っていない、どういうことだ。クラスで特に仲が良い生徒もあたしが把握している範囲ではいない。――まさか」


 腕組みしながら険しい表情をしたまま窓際の席に座り外の景色を眺める。日は徐々に沈み、星々の姿が肉眼でも確認できるくらいになっていた。タブレットを取り出し、鬼のような形相で何かをしていた。


「クソ、どこの情報を洗っても出てこないぞ。アオイは記憶力がいいからスマホには何も履歴を残さないし」


 ロータリーで待機しているタクシーに乗り込み、目的地の近くの商店街の前を指定して彼女は目を閉じた。いつもなら薬を愛用しているメグだったが、今日に限って眠りに落ちるのが早かった。次に目覚めるときには商店街についていると信じながら。


「というわけでお嬢ちゃん、この道の混雑状況じゃこれ以上タクシーで進むのは難しいと思うんだ」

「いえ、ここまで来れれば十分です。そういえば今日は祭りの日でしたものね。運転手さん、これ料金」

「お嬢ちゃん、こんなにいただけないよ」

「いいんですよ、人の好意を素直に受け取ってくださいよ」


 それだけ言い残し、メグはタクシーから降りて駆け出した。後悔と罪悪感を混ぜたような表情を浮かべながら。人気のない迷路のように張り巡らされた路地を迷う素振りを見せることなく彼女は病院の前に佇んだ。

 今にも壊れそうに軋んでいるドアを開け、受付に飛び込んだ。受付にいたナースは一瞬驚愕していたが、メグの顔を見るなり、建物内の奥を指さす。指さされた方向へ進み、階段を駆け上り病室のプレートを一枚一枚確認する。そんな中あの名前を見つけて彼女は引き戸を思いっきり開いた。


「アオイは無事か!!」

「騒がしくするな。ここは病院だぞ」

「ミノル……! なんでお前がここにいるんだよ」

「……ただの付き添いだ。お前がいなかったら誰がこいつの安全を守るんだよ。まだ奴は諦めていないはずだ。お前が来たんだったら、もう大丈夫だろう。俺はこの辺で失礼するよ」


 サイドテーブルの上に置かれた中折れ帽を手にするとミノルは目を細め睨みつけているメグの隣を平然と通り抜ける。通り過ぎる際に耳元で囁き、口角を少し上げてひらひらと手を振りながら姿を消した。

 部屋に残されたのは一定のリズムで呼吸を繰り返すアオイと、僅かな音を立てて動き続ける時計、そして悔しそうに唇を噛みしめるメグの姿だけだった。来賓用に準備された安物のパイプ椅子に座り、メグはこの日何度目かの溜息をついた。つかなければやっていられないといった表情を浮かべながら布団の隙間から出ているアオイの手を握りしめる。


あたしが海外に行かなければこういう風にはならなかったのか。教えてくれよ、アオイ」

「……」


 返ってくるのは寝息と機械から発せられる動作音だけだった。


***


 「……」


 雪のような白い素肌をしたまるで人形のような少女は、ゆっくりと瞼を持ち上げる。急に起き上がることはせずに首だけを動かし、周囲を見回す。乱雑な形の小石が巻かれている地面、どんよりとした空模様。体を起こして周囲を見回すが彼女は首を傾げるだけだった。


「自分の名前は……アオイ。両親から貰った唯一……数少ないものの一つ。そんなこと言っている場合じゃないわね。メグ! どこにいるの!?」


 アオイの叫びは儚く反響するだけでそこには誰も来ない。フラフラとした足取りで吸い寄せられるように彼女の目の前を横切るように緩やかに流れる川にたどり着いた。呆然と眺めつつ数秒後に我に返り、川に手を入れて両手ですくう。透明感がある水が指の間からすり抜けていく。


「すり抜けていく水の様子ってまるで人生みたい。離さないようにしていても零れ落ちていくのだもの」

「!?」


 声がしてアオイは顔を上げる。川の対岸から十代くらいの女性が川を横切って向かってきていた。白いワンピースが胸の高さまで濡れているが気にする素振りも見せずに微笑みながらアオイの目の前で立ち止まり、顔を覗き込む。


「カレン……どうしてここにいるの」

「やっぱりあなたも妹と間違えるってことはやっぱり似ているのかな。初めましてアオイちゃん、私はカノン。カレンの姉でした」

「な、なんで私の名前を知っているの?」

「それくらいわかるよ。そこそこ自分に知名度があるの知ってる? 訳は分かるよね、それだけ他人の血でその手を汚せば嫌でもわかるさ」

「……」


 一瞬にしてアオイの顔に緊張が走り、顔が変わる。一歩下がり、拳を構える。普段よりも多く額に滲む冷や汗が顔をしたり、顎から落ちた。

 警戒するアオイとは対照にカノンは両手を広げて川から上がりアオイに近づいてその手を握りしめた。先程まで川に入っていたワンピースは乾ききっている。しばらくは真面目な顔をしていた彼女は我慢の限界だったようで噴き出して、腹を抱えて笑い出す。


「冗談だよ。でもそんなに焦っているってことはずばり図星だったのかな」

「……その笑顔、作られた人工的な笑顔ね。嫌いだわ、まるで自分を見ているようで。聞きたいことがあるのだけれど、姉だったってことは――」

「うん、後で確認してもらえばわかると思うけどもう死んでいるよ。確かもう十年くらい経つかなぁ」


 自分から切り出しておきながらアオイは呆然としていた。彼女の目の前にいる人ではないモノは確かに存在感があるし、体が透けて向こうの景色が見ているわけでもない。ましてや彼女はさきほど手を握られている。アオイはその場に腰を下ろすと近場に落ちていた小石を川に放り投げた。


「信じたくないけど私も死んだってことね、あの日のショッピングモールで。どっかの誰かさんに」

「それは遠回しな皮肉だと受け取っておくね、事実だし。でも天才的なアオイちゃんでも勘違いしていることがいくつかあるんだ」

「どういうこと?」

「死んでいないよ。私は死んでいるけどアオイちゃん、あなたは死んでいないよ。生と死の狭間を彷徨っているだけ。でもおかしいんだよ、肉体とも繋がっているし、目覚める条件は整っているでもこうしてここにいる」


 スピリチュアルな話に突入した途端にアオイは興味がなさそうに川に石を投げ込みだす。そんな様子を気に留めることもせずにカノンは一方的に話し続けていた。ふと空を見上げると相変わらずの曇天、アオイは目を細めながらため息をついた。


「……聞いていないよね」

「聞いていないわ。途中から全く興味がない話をしているのだもの。聞き流すわ」

「えー、じゃあ恋占いとかも信用しないタイプ?!」

「自分でも言ったじゃない、私の手は血で汚れているって。これでも私は狂った復讐人なのよ。それに恋愛って相棒は女性なの。恋もクソもないわ」

「……へぇ、その割に病室に男連れ込んでんじゃん」

「!?」


 背筋が伸びて赤面しているアオイはカノンが指さす方に視線を送る。その先にはカノンが来た川しかないはずだった。けれどもカノンが指さす川の一部が変わり、そこにはアオイがベッドに寝ている傍らで腕組みをしながらその様子を見守っているミノルの姿が映し出される。すぐに顔を真っ赤にしたアオイは水面に手を入れぐちゃぐちゃにかき回し、映像を打ち消す。


「なんだ、かわいい顔もできるじゃん。安心した、アオイちゃんはちゃんと人間だよ。さてと真面目な話に戻るけど、カレンは私を殺した犯人はあなただと思い込んでいるの。あの日アオイちゃんを刺したのはあの子で間違いないよ、アオイちゃんと同じく復讐したってわけ」

「それ普通に考えておかしいでしょ。私が見えている貴女の姿はもしも生きていたとしたらの年齢に合わせているでしょ。ということは私との年齢もそこまで開いているとは考えにくいわ。それにその頃は私、施設に――」

「言われなくてもわかっているよ。確かにアオイちゃんのその手は他の人の血で汚れ切っているけどその中に私の血はない」

「そう。そう言ってもらえれてなによりよ。それと一つ間違いがあるわ、私と同じように復讐した? 面白い冗談ね、ユーモアの塊かと思ったわ」


 アオイはそう言い、ゆっくりと立ち上がってカノンが来た方向とは反対方向に向かって歩き出す。振り返ることなくカノンはさきほどまでのふざけた雰囲気ではなく真面目な表情で口を開いた。


「そう簡単にここからは帰れないよ」

「……別に最初はそのつもりだったわ、ここにいてもいいやって。でも気が変わったのよ、あの子の間違いを修正するために同居したっていうのにその役目は完了していなかったわけね。だったら帰るしかないわ。それに……」

「それに?」

「こんなさびれたところで油売っているほど暇じゃないって思い出したのよ」

「そっか、それだけ意思が強ければ帰れるよ」


 カレンは立ち上がりアオイに駆け寄る。そしてそのままアオイの肩を強く押す。不意に押されアオイはバランスを崩した。右足でバランスを取ろうとするが、その足には力が入らない。


「ここは言ってしまえば夢の中みたいなものだから体はそんなに言うこと聞かないと思うよ。それに大丈夫、そのまま体を重力に預けて。そうすれば帰れるから」

「妹さんによろしく言っておくわ」

「……うん、ありがとう」

 その言葉を最後にアオイの周りは徐々に白くなっていく。そして睡魔に似たものを感じた彼女はゆっくりと目を閉じた。

 アオイの姿が完全に見えなくなってからカノンは一人、寂しそうに溜息をついた。もと来た川を再び渡り対岸に向かう。彼女の頭には後悔に似た気持ちが沸き上がっていた。


「……あれだけ強い意志があればこの先も大丈夫そうだね。噂でこの景色が花畑に見えない人がいることは聞いたことあったけど本当にいるんだ」


 カノンしかいない一面に広がった花畑で彼女は鼻歌交じりに対岸から離れていく。急に立ち止まると一瞬真顔になってすぐに先程のまでの笑顔に戻る。


「お二人して様子を見に来られたのですか?」

「……あの日を境にあの子は変わってしまいましたから」

「大丈夫ですよ。あの様子なら劇が終わった後も強く生きていきますよ。どこかの企業の頂点に立ちそうな人間じゃないですか」

「そう言ってもらえると少し安心できますが……私達がもう少し一緒に――」

「そういうのはやめませんか? 道が違えど私は立派だと思いますよ。あれだけ芯がある人間もなかなかいません。まあ、今後どうなるかわかりませんが」


 満足そうに微笑んだ二人の姿が徐々に薄れていく。完全に姿が見えなくなった後、どこからか取り出した手帳を広げるとペンを走らせる。手帳に書き込まれていたアオイの文字に二重線を引くと満足そうに微笑み杖を取り出し杖にもたれかかった。


「やっぱり彼女は面白い人間ね。まあ、前世も前世で相当やってきているから尚更ってところもあるかもしれない。さて次の仕事仕事っと」


 そう言うと彼女は再び対岸を見つめた。

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