第3話 『裏表 光と影』
午前五時、週の終わりを迎える金曜日の早朝。二人は朝食を食べながら一台のノートパソコンをテーブルを挟んで見つけていた。
画面には透過された学園のモデル、上空からの写真、監視カメラの位置と範囲の情報が映し出されている。
「アオイ、再確認だけど決行は今日の深夜。金曜日から土曜日にかけて行う。とある学園の長がアオイの復讐に関するデータを握っているとされる。SDカードに保存されている」
「それを回収すればいいのね。そう簡単に侵入できそうには思えないけど」
「可能だから奪いに行くし、不可能だったとしてもそれを可能にすれば問題ない」
自身ありげな表情を浮かべながらメグは、朝食の目玉焼きにソースをかけた。途端にソースが、ふわりと香る。
「ソースをかけるなんて……。ソースの味の濃さで目玉焼き本来の味が消えるわ。大体、目玉焼きよ。どう見ても和風の名前なのに」
「それは偏見だな。寧ろソースか醤油をかけるのは、この国独特だ」
ソースをかける彼女をあり得ないといった表情でアオイは席を立ち、醤油片手に戻ってくる。アオイのこだわりで反時計周りに二周かけて箸で黄身を丁寧に割る。半分はご飯に乗せ、半分はそのままいただく。
先に朝食を終えたのはアオイだった。丁寧に合掌してから食器を洗面台に入れて、その足で制服を片手に洗面所に向かう。スプレーで髪を湿らせてから一本の三つ編みを編んでいく。最後に三つ編みの先端の方を前に持ってくる。
「メグー、今日の体育って何やるんだっけ」
「担当の教師が休みだからバレーの可能性が高いな」
「うわぁ……最悪ね」
リビングから聞こえてきたメグの返答に露骨に嫌な顔をしながらアオイは歯ブラシを咥える。鏡に映る彼女の姿は、普通の町で見かける女子高生のような特徴のない見た目をしていた。口に入っているものを吐き出し、彼女の目線は自分の胸部へと移っていく。寂しげな平面に言葉では何も言わない彼女だが、誰かに訴えているよう。
「
いつの間にか背後にやってきたメグは溜め息混じりにアオイの上から自分の歯ブラシを取ろうとする。その際、彼女の柔らかいものがアオイの頭に触れた。現実は胸部に潰され、精神面では、プライドが押し潰される結果となった。
「……
「ただのないものねだりだな……」
歯ブラシを咥えたままメグは廊下を玄関とは反対に進む。一番奥の壁まで行き、右を向くとデカデカとポスターが貼られている。それを暖簾のように持ち上げて隠れているドアを開けた。ドアノ向こう側にはちょっとした薄暗い倉庫と地下へ伸びる階段が姿を見せる。
後ろ手でドアを閉めてから慣れた足取りで階段を降りていく。地上のアオイの部屋の正面にも一つメグの部屋は存在するが、地下のこの部屋がメインの部屋になりつつあった。
木製のテーブルにゲーミングチェア、高性能なパソコンとワイドな画面のディスプレイに金属製のラック。
「たまにアオイの部屋に行くと対称的でなんだか悲しくなってくるな。アオイの部屋は、典型的な女子高生の部屋だし」
ふと、少し変色した茶封筒がメグの視界の隅に入る。封筒からは紙幣が顔を出している。丁寧に封筒の中に紙幣を戻して引き出しの底に入れた。椅子の後ろにある衣装ケースから学校のブレザーを手にし、袖を通す。
「……まさか、こうして高校に自分のお金で通うことになるとはなぁ」
リビングに駆け足で戻ると。玄関で支度を終えたアオイが眠そうに目を擦りながら大きあくびをしていた。アオイはメグに気付くと微笑みかける。
「お待たせ」
「別にそんな長く待っていないわ。私も丁度終わったところだし。早く行きましょ」
外に出ると冬場なのに太陽の光が降り注いでいた。それでも気温は上がらないのか。メグは身震いする。施錠されたことをしっかり確認してから彼女たちは何も変わらない通学路から学校を目指した。
「……なるほど。ここに拠点を構えているわけか。随分稼いでいると見える。隣にいたのはパートナーか? 滲み出る殺気から相当の手練れと見た。益々興味が出てくるな情報屋として」
ラフな格好をした青年が電柱から身を乗り出しながら、二人が歩いていく様子を観察している。その手にある古ぼけた表紙の手帳には“Nightmare”=少女と走り書きで何かが書き込まれていた。
「面白い」
***
日が地平線へと沈んでいき、橙色に染められる町をアオイとメグは並んで帰宅していた。
「しかし、三年生になっても部活の助っ人として声をかけられるとは……」
「メグは運動神経の良さを前面に出しているからでしょ。私みたいに大人しくしていればそんなこともないのよ」
「そういうアオイも委員会とかの仕事を押し付けられるけどな。お陰様で別の日は部活に所属していないのにこんな時間になるし」
最寄りの停留所からバスから下車する。バスの中に残っている彼女達と同じ制服を着ている生徒達の半数は部活のカバンを枕にしながら寝息を立てていた。
家に辿り着くなり、アオイは慣れた手つきでキャリーバックに荷物を詰めていく。手入れ状態やメグから貰った資料を見ながら使う道具を選別した。ふとドレッサーが視界の隅に映り、そちらに静かに近づく。
ドレッサーには、色が抜けた青いシュシュが置かれている。それを手に乗せ、大きな溜息をつく。
「お母さんの若い頃は、こんな感じだったのかな。遺品は何も残っていないし……」
そっとドレッサーに戻してキャリーバックに荷物を詰め込んだ。紺のジーパンにニットのブラウス、厚めの茶色のコートを羽織る。最後に黒のニット帽をかぶってから鏡に向かって笑ってみせる。頬を何度か叩き、キャリーバックを押しながら玄関まで運び出す。
リビングでは慌しそうにメグが動き続けていた。そんなメグの肩をそっと叩く。
「おお、もう準備は済んだんだな。相変わらず早い」
「ええ、それじゃ行ってくるわ。ホテルに着いたら連絡する」
「健闘を祈る。
キャリーバックを転がしながら家の外に出る。昼間より冷え込んだ空気が彼女を包む。背後で静かにドアが閉まるのを合図に一歩踏み出した。閑静な住宅街をキャリーを体の前で押し、近くの無人駅で電車に乗り込む。
時刻は午後九時。電車に乗っているのは疲れ切ったスーツ姿のサラリーマン数人とアオイしか乗っていなかった。コートのポケットの中からイヤホンを取り出して音楽を視聴しながら一定のリズムを刻み続ける電車に揺られる。
目が覚めるといつの間にか大量の人が乗り込んでいた。すし詰め状態の人々から放たれる熱気と強めについている暖房にアオイの表情は徐々に青くなっていく。一つ一つ駅で止まり開閉が繰り返されているが熱気が篭り続けている。アナウンスから次の停車駅が伝えられた。アオイは立ち上がり、人々をかき分けて出入り口に陣取る。
電車の扉が開くと同時にアオイは飛び出した。駅のホームで何度も深呼吸を繰り返し、不快感を取り除く。
「君、これ落としたよ?」
「え?」
急に声をかけられて振り向く。そこにはアオイと同じくらいの歳の青いパーカーを着た男性がハンカチを差し出していた。不信感を抱きながら彼からハンカチを受け取り、コートのポケットに滑り込ませた。
「ご親切にわざわざありがとうございます。何かお礼がしたいのですが」
「別に気がついたから拾っただけですのでお礼だなんて。気にしなくて大丈夫ですよ」
彼は、はにかみながら顔の前で手を振る。
アオイは頭を深々と下げるとその場を去ろうとした。だが、振り返った瞬間に全身に冬の寒さとは異なる寒気と緊張が走る。額から大粒の冷や汗が頬を伝い、地面に落ちた。油の切れた機械のように後ろを向くが、そこにはもう彼の姿は無い。
「あれは普通の人間じゃないわね……。殺意に似た鋭い眼差し……一体何者なの?」
アオイにしては珍しく心臓のペースが上がる。電車が通過した駅のホームに孤立する彼女は突然吹きつける冬の風で我に返り、キャリーバックを引きずりながらエレベーターに乗り込んだ。
時間は午後十時少し前。改札を抜けて駅の正面に立つ頃には駅前の街灯と月明かりだけが優しく照らしている。ロータリーで停まっているタクシーを捕まえると後部座席に乗り込んだ。年配の男性運転手が後ろを向かずに話し出す。
「お客様、いらっしゃい。どちらまで?」
「――の近くのビジネスホテルまで。分かります?」
「ええ、問題ありませんよ」
シートベルトをつけるとタクシーはゆっくりと進み始める。窓の向こうには。静かに眠る住宅街と眠らないビル群が対立しているようす。住宅を見る度にアオイは小さな溜息をつく。
「……あんな幸せ欲しかったな」
タクシーに乗ってから数十分後、目的のホテルの前に着きタクシーが停車し、後部座席のドアが勝手に開いた。運転手は何も言わずに料金を表示させる。アオイはカバンの中から財布と取り出して支払う。よろよろとわざとらしく弱々しく演じつつキャリーバックをタクシーから降ろした。
ビジネスホテルに入り、受け付けてチェックインを済ます。アオイは差し出された部屋の鍵を掴むと鍵に付いているキーホルダーの番号を確認した。物音一つない廊下が彼女の足音とキャリーバックの車輪の音を強調する。
「ここね」
ドアに付けられている金属製のプレートの数字とキーホルダーの数字が一致しているのを確認し、鍵を挿す。ホテルの外観は新し方だったが、内部は昔ながらのキーを差し込んで回す式。皮だけはしっかりしていた。
部屋内のインテリアは必要最小限の物のみ置かれている。キャリーバックをシングルベッドのすぐ横につけて、アオイは手で持っているカバンをベッドの上に放り投げた。部屋の一角にある窓の二重のカーテンを引き、夜の街並みを見下ろす。すぐに光が漏れないようにカーテンを戻す。安っぽいベッドに寝転がり、自宅で待機しているメグに電話をかける。短いコールの後、メグの声がした。
「着いたか?」
「着いたわ。今から着替えて出発するわ」
「そうか。そのホテルから目的地までは近道をすれば十数分で着くはずだ。その部屋から非常階段を使って屋上まで行って」
「分かった。着替えたらまたかける」
電話を切った後、アオイはキャリーバッグを雑に開く。一番上には丁寧に畳まれた真っ黒なセーラー服が独特の存在感を放っている。よく見れば所々赤い液体が長時間付着していたせいか、黒く変色していた。
それに袖を通し、短めのスカートに足を通す。右側に入れられたスリッドのお陰で可動性は損なわれていない。青い色の三角タイを結び、口元を隠すように長いマフラーを巻く。帰宅用の服に包まれた暗視ゴーグルを着けて調整した。最後にインカムを左耳につけると軽く二回叩く。
「最新の技術って便利ね。ケーブルレスのお陰で動きやすいし」
「だが、残念なことに使う人間によってそれは善にも悪にもなるってことだな。ま、
「そんなのは周りの人間が勝手に決めたことでしょ。私は私が正しいと思ったことに使うだけだから。“Nightmare”活動開始」
アオイは窓から身を乗り出す。すぐ横にある非常階段に飛び移るとそのまま屋上を目指した。
屋上から再び街並みを見下す。落下してしまえば、ただでは済まない。数歩下がると勢いよく駆け出して端すれすれで利き足で踏み込んだ。スローモーションのように時が流れ隣のビルの屋上に受け身で転がる。
「……邪魔者は全て排除して必ず復讐の踏み台にしてやるわ」
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