夏休みと花火④
花火大会当日。
花火を見に行くだけだというのに、なにを準備する必要があるのか。
熱中症対策の水くらいあればなんとでもなるだろうに。
「お待たせ、お兄さん」
「ん、おう行く……か」
七葉が玄関から、カランコロンと音をたてて現れる。
それはいつもの七葉とは違う、特別な日だということを見ただけでわかる浴衣姿。
髪もいつもとは違って、今日はアレンジしてある。
「……お前、それどうしたんだ?」
うっかり喋ることを忘れてしまうくらいに綺麗な浴衣姿で、いつもの七葉の「可愛らしさ」とはまたちがう、「美しさ」のようなものを感じる。
「葵さんが貸してくれたの。髪も、頑張ったんだけどどう、かな?」
頬を赤くして下からすくいあげるように俺を見て。
その仕草一つ一つが、七葉が女子高生であることを忘れさせるくらいに奥ゆかしくて、ついつい見惚れてしまって。
「あ、ああ、いいとおもう。似合ってるんじゃないか」
「そ、そっか。よかった」
なんだよこの感じ。俺も七葉も、いつもの感じを保てない。
それはこの浴衣姿と、七葉らしくない照れたこの表情の非日常が、そう感じさせているんだろう。
見惚れていた俺は、いつの間にか七葉に手を伸ばしていて。
「お兄さん?」
手に七葉の頬が当たり、ようやく自分が七葉に触れていることに気付く。
俺はなにをしていたんだろう。無意識のうちに七葉に「触れたい」と、そう思ってしまったのか。だとしたら、そんなことは許されない。だって俺は大人で、七葉は女子高生なんだから。
「ああ、すまん。行くか」
これ以上浴衣姿の七葉を見ることに危険を感じて、すぐに俺も支度を済ませる。とは言っても七葉ほどなにか用意がいるわけでもなく、スマホと財布、家の鍵に水。それだけをボディバッグに突っ込んでそそくさと靴を履いた。
花火大会の会場までは電車で少し行ったところで、まだ昼過ぎだというのに会場には既に人で溢れていた。
「お兄さん、逸れちゃうよ」
「おう。ってなにしてんだ」
「なにって、手、繋いでるんだけど?」
七葉の柔らかい手の感触。夏なのに心地良い温かさで、繋いでいるとなんだか安心する。
「離せ。勘違いされるだろ」
「大丈夫だよ。花火大会に来てるのなんてほとんどカップルでしょ。お兄さんが誘拐してるなんて誰も思わないよ」
そういう意味だけではなくて、俺が彼氏だと思われていいのか、という意味もあったんだが、七葉はそんなこと一切気にしていないようで。
小さい七葉の手が、大きな俺の手を掴んで引く。
まるで俺が子供みたいで、不思議な感じがする。
「さあお兄さん、色々食べるよ! 急がないと売り切れちゃうからっ!」
「わかったから引っ張んなよ!」
七葉に手を引かれて最初に来たのは、昼過ぎのこの時間帯ではおやつとして人気なのか、既に行列になっているわたがしの屋台。
「お兄さん、最初はわたがしにしよう!」
わたがしはプリンと同様、一つを丸ごと食べると胸焼けしてしまう。
少しだけなら食べたいと思うが、残すわけにもいかないから、俺は買わないでおこう。
「お兄さんもいるでしょ?」
「俺はいいよ」
「はっはーん、さては胸焼けだね? ほんと、おじさんだな~」
ニヤニヤしながら俺を揶揄おうとする七葉。まあこうなることは想像していた。何を今更七葉のおじさんいじりで堪えると思っているのか。
「だったらなんだよ」
「でも食べたいんじゃないの?」
「まあ、だな。一口は食べたいかもしれん」
ちょうどその会話中に列の先頭にきて。
「おじさん、わたあめ一つください!」
七葉はわたがしの代金をおじさんに渡して、わたがし片手に俺の手を引いて列から離れる。
「はいお兄さんっ」
七葉はわたがしを一口サイズにちぎり、俺の口元に近づけて言った。
「おいやめろよ、周りに人がいるんだぞ」
女子高生にわたがしを食べさせてもらうなんて、明らかにアウトだろ。
七葉はなにがおかしいのかわからないと言いたげな表情で首を傾ける。
「なに、お兄さん照れてるの? にっしし~」
どうやら俺が恥ずかしがっていると勘違いしたのか、またいつものニヤニヤ顔で、嫌な笑い方で笑う。
これを食べれば周囲にやばいやつだと思われるかもしれない。でも、食べなければ七葉に
どうするか悩んだ末、俺は単純な解決法を忘れていたことに気付く。
「ありがとう、もらうぞ」
七葉の指で握られているわたがしの切れ端を奪い、自分の口に運ぶという簡単な解決法。
こうすることで周囲には変に思われないし、七葉もなにも言えないだろう。
「うん、美味いな」
わたがしが舌の上で溶けて、甘さが広がってく。
しっかりと口の中のわたがしを食べきってから、七葉のほうに目をやり、「どうだ? これでもまだ揶揄うか?」という意味の視線を送る。
「ふーん、まあいいけど」
やった。今日俺は七葉に勝利した。なんだこの気持ちは、すっげぇ達成感。
「あれ、お兄さん歯になにか付いてるよ?」
「え? なにがついてんだ?」
大きく口を開けて七葉に確認してもらおうとした。その瞬間、七葉の口角が歪んで気付く。これは、罠だ……!
気づいた時にはもう遅くて、七葉が指先で摘まんだわたがしが俺の口めがけて飛んでくる。
「えいっ」
「ふごっ」
開いた口にわたがしの甘い香りと共に、七葉の指が入ってくる。勢いよく飛んできたその指は止まるのが遅れてしまい、俺の舌をクッションにようやく動きが止まった。
「あっ」
舌に当たった感触は、きっと俺だけでなく七葉にも伝わったのだろう。気まずい空気が流れて、七葉も俺も固まってしまう。もちろん、そのまま固まったわけだから、舌には七葉の指がついているわけで。
「ほ、ほひ。ははへほ(おい、はなれろ)」
「あ、う、うんっ」
なんだこの空気。
七葉は顔を赤くして俯き、俺も目を合わせることができず、とりあえず空を見上げた。
口の中にはわたがしの甘い香りしか広がっていないはずなのに、わたがしの味なんて忘れてしまうくらいに七葉の指の柔らかさが舌の上に残っていて。
「ほ、ほら、行こっ」
「お、おう」
お互いにわかっているはずの感触を無視して、次の屋台に足を向けた。
冷やしパイン、焼きそば、フランクフルト、からあげ、空が暗くなり始めた今まで、ひたすらに食べ続ける七葉。そしてそれに付き合わされる俺。
「うぅ……」
「お兄さんこんなもんでギブなの!? もうちょっと頑張ってよ!!」
冷やしパインはくじ引きで三本当たり、七葉は一本で満足し、残りの二本は俺が。
焼きそばは七葉が食べたいと言い出したから七葉の分を一人前買った。でも三口ほど食べて「あとはお兄さんにあげるよ」と俺に押し付け。
フランクフルトは半分ほどかじってから「もういいや」と残飯は俺が。
からあげはS、M、Lとサイズがあり、どうせ残すんだからSにしとけと説得しようとしたが、もちろん七葉が素直に受け入れるわけもなく、Mサイズに。もちろん少し食べて後は俺に。
「お前いい加減にしろよ……」
もう胃袋は限界だ。これ以上七葉のわがままに付き合ってやる容量はない。
「仕方ないな~、じゃあ次は射的ね! 運動してお腹を空かせよう!」
空かせた後にまた食うことになるんだろうかと一瞬不安が過ったが、口に出すことでフラグを立ててしまいそうだったので口にチャックをした。
射的の列に並び、前の様子を伺った。
景品にはぬいぐるみやフィギュア、お菓子におもちゃ、色々揃えてある。
「どれ狙うんだ?」
俺は特に欲しいものもないし、七葉が欲しいものを狙ってやってみようと思い聞いてみる。
「うーん、あのお菓子の詰め合わせ食べたいかな~」
なにこいつ、まだ食うの。
でもお菓子なら今日食べる必要もないし、残したから俺に押し付けてきたりなんてこともないだろう。
「わかった。じゃああれ狙うか」
「順番に撃って先に落としたほうの勝ちにしようよ?」
ニヤリと挑発的な笑みを浮かべて、俺に勝負を挑んでくる。
「いいぞ。でも負けたらどうするんだ?」
勝負をするんだから、きっとそこには競う理由が生まれる。七葉が理由もなくそんな勝負を仕掛けてくるわけもなく。
「負けたほうが買ったほうの言うことをなんでも一つ聞くってのはどう?」
「本当にいいのか? 悪いが俺は自信あるぞ?」
これで勝てば七葉に揶揄うのをやめさせることができる。俺たちはただの隣人として過ごしていける。なんと平和なのだろう。
「いいよ。私も自信あるもん」
これでもし負けたらきっと七葉はとんでもない命令をしてくる。俺はなんとしてでも負けるわけにはいかない。
列はどんどん進み、ついに俺たちの番になる。屋台のおじさんからコルクガンを一丁預かり、まずは七葉が構える。順番はジャンケンで決めた。先行が有利なこの戦いでジャンケンに負けてしまったのは幸先が悪い。でも、どうせ一発で当たりっこない。
浴衣の袖をめくり、片目を閉じて照準を合わせる。前屈みになりできるだけ標的との距離を短くし、呼吸を整えて……。ってめっちゃガチじゃねぇか。
パアンと音をあげてコルク玉が飛ぶ。それは見事標的に命中した……が、少しずれるだけで落ちることはなく。
「ちぇっ、当たり所が悪かった。次で仕留めるもん」
え、なに、こいつそんなに上手いのかよ。どうしよう。本当に次当たれば落ちてしまうかもしれない。ここは何としてでも俺が一発であのお菓子たちを床に沈めてやらなきゃならない。
「さっ、次はお兄さんだよ? どうしたの? 私が思ったよりも上手だったから焦っちゃった?」
くそ、心まで読んでやがる。
「んなことねぇよ。俺だったら一発で落とせたなと思ってただけだ」
「ふーん、言うじゃん」
七葉から預かったコルクガンを構える。
右手でコルクガンを持ち、体をできる限り前へと出す。
照準を合わせて、呼吸を整える。手ぶれの微調整すら怠らない。なにしろ俺はこの戦いに敗れるわけにはいかないからだ。
「ふぅぅ~」
深呼吸をして、さあいまだ引き金を引こうとした瞬間。
「へっくしゅん!!」
七葉のくしゃみとコルクガンの銃声が共に響く。俺が最初に想定していた弾道とは全く別の方向に飛んだコルク玉は、標的の数十センチ横を通り過ぎ、後ろのブルーシートに直撃した。
「あーあ、お兄さん掠りもしなかったね」
「今のはお前のくしゃみのせいだ! もう一回やらせろ!」
「ちょっとお兄さんそういうのやめなよ、カッコ悪いよ? なに、次の私の番を待つ余裕もないんだ?」
口角をあげて笑いを堪えるような顔をする七葉。くっそ、そんなこと言われたら、譲るしかないじゃないか。
「ほらよ……」
七葉にコルクガンを渡し、後ろに下がる。
「にっしし~、そうこなくちゃ」
コルクガンをさっきと同じように構えた七葉は、深呼吸をして「五、四……」とカウントし始める。
馬鹿め、それでは撃つタイミングがまるわかりではないか。にっしし~、邪魔してやる。
普通に邪魔したらきっと大人げないと駄々をこねるだろう。だったらさっき七葉がしたようにくしゃみで邪魔をしてやる。
なにか言われれば「生理現象だ、仕方ない」の一点張りにしてやる。
「三……」
カウントダウンが一になった時だ。だから今は待て。もう少し、もう少し。
「二っ!」
「はっ!?」
まさかの二のタイミングで引かれた引き金。コルク玉が標的目掛けて飛び、なんの危なげもなく命中した。そして、お菓子の詰め合わせは見事床に沈んでいき。
「へっへーん」
「く、くそ……」
俺がくしゃみで妨害しようとしていたことは七葉にはお見通しだったわけか。悔しいがここは大人しく言うことを一つ聞くことにしよう。できるなら軽いやつであってくれ……。
「私の勝ちだね。約束、忘れてないよね?」
「ああ……」
「命令かぁ、今は特にないから取っておくよ。ほらいくよ、ポチ?」
「う……わん」
太陽も完全に沈んで、花火が打ち上げられるこの会場を照らす光は、感じることもできないほどの微かな月の光と、屋台や街頭の光だけになった。
少し人通りの少ない道に行くと一気に明るさがなくなり、間もなく花火が打ちあがる会場であることなど信じられないくらいに静かになる。
「あそこでも花火見えるだろうけど、どうする?」
「ここで見るって決めただろ」
俺たちはせっかく少し早くに来たから良い場所で花火を見ようということになり、赤く光るこの会場のシンボルとも言えるタワーの下にいた。
あと数分で打ち上げられるらしい花火をまだかまだかと待ちわびる大勢の内の二人になって、空を見上げていた。
「お兄さん、私トイレ行きたい」
「おい、先に行っとけよ」
ここから一番近いトイレはタワーの中にあるトイレ。
今日みたいに人の多い日はきっと混んでいるんだろう。でも、もうすぐ花火が上がるから、もしかすればすんなりと入れるかもしれない。
「仕方ないな、行くか」
「急ぐね!」
タワーに入る階段の下、人混みに揉まれながら七葉を待つことにした。
七葉がトイレから戻り、階段を降りようとする。でももう花火が打ちあがるからだろう、少しでも高い位置から花火を見ようと、階段を上っていく人達にのみ込まれて、降りるどころかどんどんと離れていく七葉。
「七葉!」
つい、反射的に手を伸ばした。届くはずもない七葉の手を握ろうと。
「お兄さん!」
俺と同様、七葉も手を伸ばした。でも、二人で伸ばしたって届かない。
俺たちの間には沢山の人がいて、二人で手を伸ばそうったって、届くはずなくて。七葉を目で追う。ここで見失えば、もう一緒に花火を見ることはないだろう。
スマホで連絡をとり、合流することはできる。でも、それじゃあだめだ。
それじゃあ、二人で花火を見ることはできない。どうすれば、見失わずに済む。どうすれば、一緒に花火を見れる。あれ? これじゃあまるで俺があいつと花火を見たいみたいじゃないか。
違う。俺は別に七葉と花火を見たいと思っているわけではない。ただ、花火を一人で見るのはなんか違うだろって、それに未成年の七葉をこんなところで一人にするのは身近にいる大人としてダメだろ。
見失わないように七葉の手を握る口実ばかりを考えて、気付けば七葉はもう遠く、手どころか声が届くギリギリの場所にいて。
「七葉さっきの道!」
届かないかもしれないけど、悩む暇もなくて叫んだ。
でも、もう遅かった。俺の声の先にはもう七葉はいない。俺は七葉を見失ってしまったんだ。
もし今の声を七葉が聞いていたら、あの場所にいるんじゃないか。
そうだよ、きっと聞こえている。ここは沢山の人で溢れていて、一人の声を聴き分けるのは難しい。なのに、きっとあいつなら、俺たちなら、ちゃんと届いている気がして。
小道に向かいながら、なんでそんな自信があるのかわからないのに、きっと七葉はそこにいると信じて迷いなく進んだ。
「お兄さん!」
ああ、やっぱりだ。
俺の声は届いていた。七葉の声が聞こえて、数メートル先に目を向けて、七葉の姿を確認した。
『もう間もなく、花火が打ちあがります』
女性の声で、そう聞こえた。もう時間はない。二人で見る意味なんて別にないかもしれない。一人で見たって、見てる景色は同じだ。別に、一緒に見たいわけでも……。
「よかった、これで一緒に見られるね」
「はぁ、はぁ、はぁ」
「もう、結局良い場所から見れないじゃん」
「誰かさんが絶妙なタイミングまで我慢してたのが悪いんだろうが」
「うるさいなぁもう。ほら、花火上がるよ」
七葉に並んで、空を見上げた。
走ってきたから、息が荒れている。一緒に見たいから走ったなんて勘違いされたらきっと揶揄われてしまうから、息が荒れていることがバレないようにゆっくり深呼吸をして…。
「――え」
「ほら、またはぐれちゃダメでしょ? 離さないでね、命令だよ?」
左手に柔らかくて滑らかな感触が滑り込んできて、七葉と目を合わせたその瞬間、ドーンパチパチという轟音と共に、夜空に花が咲いた。
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