パパと空き巣①
私がお兄さんにちょっかいをかけたり、家に侵入したりするのには立派な理由がある。それは、私がお兄さんを大好きだから。
お兄さんとは四年前、私がまだ中学一年生だった頃に出会っている。
偶々このアパートに引っ越してきて、お兄さんと再開できた時に私は運命だと思った。
だって、私の大好きなお父さんを助けてくれた恩人に、偶然再開できたんだから。
私はお兄さんと再開して、すぐにあの時に出会った人だとわかった。でもお兄さんは私のことを覚えていなかった。
四年も前のことだし、仕方ない。
お父さんは昔から転勤ばかりで、その影響で転校続きだった私は、四月から入学した中学校で周りに誰も知っている人がいない状況でも頑張って、友達を数人作ることに成功した。
でも、そんな努力はたった一言で全て無駄になる。
「
転勤。もう何度目か。その言葉を告げられるたびに、私はせっかく作った友達と離れ離れになって、また新しい環境で、誰も頼れる人がいない環境で、独りにならないように頑張らないといけなくなる。
もう飽き飽きだ。一度くらいなら、転校するのも悪くないと思える。
本当はお父さんだって転勤したくてしているわけではないとわかっている。でも、年頃のせいもあってか、お父さんの全てに腹が立つ。
お父さんは優しい。でもそれは同時に優柔不断で芯がない、そんな印象にも受け取れる。
「せっかく友達作ったのに……」
「ほんと、ごめんな」
わかっている。仕方のないことだと。
でも素直になれなくて、どうしても反発してしまって。
「もういいよっ! お父さんのバカっ! 大っ嫌い!」
私はそのまま家を飛び出した。
行くあてなんてない。どうせ日が暮れる頃には帰るんだろうと、走りながら思う。
でもそうやって飛び出すことで、どうにかなるんじゃないか、転勤がなかったことになるんじゃないか、そんなどうにもならないことに希望を持って。
すぐに私を追いかけてきて、ごめんな、やっぱ転勤やめるよ。って、言ってほしかった。それはつまりお父さんが仕事を辞めるってことになっちゃうわけだから、そうなるとまた困ったことになるのに、私はまだ子供だからなにもわかっていなくて、そんなわがままを理由に走る。
夕陽が住宅街の向こう側に沈んでいくのを、近所の河川敷のベンチから眺める。
いつ帰ろうか、なにも考えずに飛び出した矢先、つまらないプライドが邪魔して帰る気になれない。
このまま帰れば、なんだ結局帰ってきたのか、みたいに思われると思って。だから、ただぼーっと川を見たりしていた。
お腹がぐぅと音を立てて空腹を合図する。プライドが勝つか、食欲が勝つか、私は決して折れない。お父さんが迎えに来るまでここで待っててやる。
数分、数十分、いつまで経ってもお父さんはこなくて、夕陽も完全に沈みきった頃だった。
「中学生か? なにしてんだこんなところで」
背後からかけられた低い男の人の声に、驚いて肩が跳ね上がった。
こんな時間に外で座っている女子中学生と、その中学生に声をかける男の人。明らかにまずい。
襲われたりしないだろうか、警戒しながら振り向いた。
見た目は大学生くらいだろうか、目を赤く腫らした青年だった。
そこまで悪いことをしそうな印象は伝わってこなかったけど、念のためまだ警戒は緩めず、いつでも叫び声をあげられるように準備しておく。
「別に、なにもしてません」
「そうか、だったら早く家に帰ったらどうだ。親が心配するぞ」
初対面でやけにえらそうに喋る人だな、というのが第一印象だった。
歳上だし、中学生相手に敬語を使う人の方が少ないのはわかるけれど、なんかそういうのじゃなくて、遠慮がないというか、なんというか。
「お兄さんも、こんな時間に女子中学生に声かけて、怪しいですよ」
「……気をつけるよ」
このままここに居るのも居心地が悪いので、私は仕方なく場所を変えようと立ち上がる。
「お前、家出でもしてきたのか?」
もう終わったと思っていた会話を、お兄さんが繋ぐ。
どうせ退屈していたし、時間潰しに丁度いいか、そう思いお兄さんの横に移動した。
「そ。お父さんと喧嘩したの」
「なにが原因で?」
「せっかく新しい友達できたのに、また転勤だって。また最初から友達作りしなきゃだよ」
「そうか、大変だな」
どうして、初対面の男の人にここまで話しているのかわからない。
お兄さんからは、妙に安心できるオーラのようなものを感じて、自然と全部が口に出てしまう。
「お兄さんはこんなところでなにしてたの?」
お兄さんの目が赤いのが、泣いていた跡に見えて、どうしても気になってしまう。
こんなにしっかりした男の人でも、泣くことがあるんだろうか。
「散歩、だな。別に用はねぇよ」
「そっか。じゃあお兄さんも早く帰りなよ。ママとパパが待ってるんじゃないの?」
言って、お兄さんの顔が悲痛に歪んだのがわかった。
なにか、言ってはいけないことを言ってしまったような、そんな空気の重さがある。
「そう……だな」
喉から絞り出したような、枯れた声。
なんとなく察してしまう。
多分だけど、お兄さんの目が赤いのは泣いていたからだとおもう。そしてこの反応。
その予感は、お兄さんの目から思い出したように溢れ出た涙で確信に変わる。
「お兄さん、大丈夫?」
「なんでもねぇ……」
なんでもないわけがない。
ずっと、我慢してきたんだろう。ずっと、耐えてきたんだろう。
なんでもないと言ったお兄さんの声は震えていて、箍が外れたように溢れる涙を拭った袖は、どんどん湿っていく。
初対面とはいえ、放っておくことはできない。
「ほら、泣きなよ。私が隠してあげるからさ」
蹲みこんだお兄さんの頭から、私の着ていた上着を被せる。
誰にだって、泣きたい時はある。
上着の下から、お兄さんのすすり泣く音がする。
どんなことがあって悲しんでいるのか、詳しいことはわからない。聞こうとも思わない。でも、私はお兄さんに言ってあげなきゃいけない。
今、多分お兄さんにこれを言ってあげられる人は、私しかいないんだから。
「よく、頑張ったね」
「――ぁ」
その瞬間、既に大人げなく泣いていたお兄さんの全ての感情が露わになる。
人前だから、男だから、そうやって我慢してきたんだろう。
全部、全部全部、私に出し切ってしまえばいい。
辛いことがあったなら、支えてあげればいい。
「なんで一人にするんだよ……!」
お兄さんになにがあったのかは、わからない。でも、お兄さんの悲しい声が私の心に重く響いて。
ただ、手を握って泣き止むのを待った。
これで安心できるだろうか。私で、お兄さんの悲しみを埋められるだろうか。全部を埋めることはできなくたって、少しでも救いになればいい。
こうして手を握っているだけで、何故か安心する。
初対面のはずのお兄さんの手は、温かくて、まるでお父さんと手を繋いでいるような感覚で。
私がこうして救われているように、お兄さんも少しでも楽になれればいい。今はただ、そうやって手を握ることしかできないから。
しばらくして、涙も止まったお兄さんは目を真っ赤にして立ち上がる。
「上着、ありがとう」
「うん。もう大丈夫?」
「ああ、おかげさまでな」
強く、前を向いて。
お兄さんは凄いよ。辛いことがあっても、負けずに立ち向かえるんだね。
「俺はもう帰る。お前もそろそろ帰れよ。親父さん、心配してんじゃねぇのか?」
「うん、ありがとう。私、お父さんに謝ることにした」
もう、意地は張らない。
素直になろう。お父さんだって悪気があるわけじゃない。
転校しないといけないことだって、言いにくかっただろう。嫌われてしまうんじゃないか、って。
「親父さん、大切にしろよ」
「うんっ!」
河川敷を飛び出して走った。家に帰るんだ。お父さんと仲直りするんだ。
もう暗くなった住宅街を通り過ぎていくと、窓から漏れる色々な家庭の幸せそうな声、騒がしい子供の声、それを叱り付けるお母さんの声。沢山の幸せがあって、その先には、私の家がある。
お父さんは私を探しに行っているだろうか。
だったら家にいないんじゃないのか。なら、帰ってくるまでにご飯を作ってあげよう。とびっきりの美味しい料理を一緒に食べて、仲直りしよう。
そう思って玄関を開けると、信じられない光景が広がっていた。
「お父さんっ!」
玄関先でお父さんが倒れている。返事はない。意識もない。
どうする、どうする、どうする。
全部私のせいだ。私が、大嫌いなんて言ったからだ。全部、全部私が。
どうしていいかわからなくて、誰かを探す。誰かに、助けてほしかった。
私じゃお父さんを助けてあげられない。私がお父さんを傷つけたから、助けてあげないといけないのに。どうしていいかわからない。
気付いたら私は、さっきの河川敷に走っていた。
あのお兄さんなら、お父さんと同じ手の温もりを持っていたお兄さんなら、きっとなんとかしてくれる。
お父さんがいつも優しくて頼りになったように、きっとあのお兄さんだって。
なんの根拠もないし、そもそももうあの場所にいるのかもわからない。
混乱した私はただお兄さんに頼ることしか頭になくて、なりふり構わず走る。
お兄さん、どこにいるの。
「あれ、なにやってんだ?」
正面、外灯に照らされたお兄さんがいる。
「お兄さん……助けて……」
見ず知らずの男の人に、どうしてこうも惹かれてしまうのか。でも不思議と、この人なら助けてくれると感じて。
「もう、大丈夫だ」
その時のお兄さんの顔を、高校生になった今でもよく覚えている。
泣いて腫らした目で、頼りない目で、でも、誰よりも優しくて温かい目で、私とお父さんを救ってくれた。
結局お父さんは、お兄さんの呼んだ救急車で運ばれて助かった。私が家出してしまったショックで気を失っていたらしい。今ではもちろんピンピンしている。
高校生になった私はずっと覚えていたのに、四年ぶりに再開した時お兄さんはなにも覚えていなかった。
でも私は忘れない。あの日の感謝も、それからの毎日も、お父さんと私を繋いで、救ってくれた大恩人の彼を、大好きだから。
「ねっ、お兄さんっ」
「ん、なんだ急に」
「なんでもないよ~、にっしし~」
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