退学と月②

 七葉なのはの夏休みが終わって、今日からまた帰ったら自分で夕食を作る日々が始まる。


 夕食だけじゃない。あいつはいつも家のことは全てしてくれていた。普段はムカつくやつだけど、なんだかんだ俺は助かっていた。


 その証拠に、今日仕事が終わってから夕食を作り、お風呂を沸かし、考えるだけで疲れる。


「せんぱーい、夕食は外食にしますか? どうしてもっていうなら、先輩のお家でもいいですよっ」


「なんで一緒に食べること前提なんだよ」


 どうせ七葉もいるし、二人前が三人前になったところで大して変わらんからいいが。


「ほら、七葉ちゃんも私がいないと寂しいと思いますから」


 そういえばこいつらなんか仲良いんだよな。ほんといつの間に仲良くなってんだよ。


 七葉にLINEが来た時、「あ、菜摘なつみさんだっ!」と言って喜んでいるのを見るようになった。


 こいつらは最初険悪ムードだったから、なにか喧嘩でもしたのかとヒヤヒヤしていたが、案外仲良くやっているみたいでよかった。


「わかったよ。仕方ねぇな」


「ほんと先輩って七葉ちゃんの名前出すとちょろいですよね。ほんとのお兄さんみたいですよね」


 そう言われて、否定しようにも事実俺はあいつのことになると少し特別扱いしているところがあると、自覚していた。


 どうしてかはわからかい。


 隣人だから、近くにいる大人だから、考えられる理由は沢山あったが、どれも違う気がする。


 それも理由の一つではあるが、もっと、もっと大きな理由があるような気がする。


 それがなになのか、わからない。でも、そんな気がするんだ。


「まあ、実際保護者みたいなとこあるからな」


「えっ……」


「なんだよ」


「いや、先輩のことだから、うるせぇ! とか言うと思ったんですけどね。なんか意外でした」


 たしかに、少し前の俺ならそう言っていた。でも、ここ数日で何かが変わった。


 夏休みだ。夏休み、長く七葉と過ごしたことによって、俺の気持ちは、俺たちの関係は、大きく変わったんだと思う。


 だからどうってわけではないけどな。


森下もりした、そろそろ昼休憩終わりだ。自分のデスク戻れ」


「はーい」


 森下は俺のデスクから降りる。椅子ではない。机から。


「あっ、そうだ先輩」


 森下は長い髪を靡かせて、笑顔で振り向く。


「なんだ」


「今日から、愛妻弁当じゃないんですね」


 夏休み期間中は毎日七葉がお弁当を作っていた。でも今日から七葉も学校が始まるし、自分で作るようになったんだが……。


 どうしてか、おかずの種類からか、森下には見抜かれていたらしい。


「うるせぇ!」


 結局俺変わってねぇな。


 定時になり、俺と森下は帰宅するために(俺の家に)、会社を出る。


 ただし、会社を出る時は二人別々に、だ。


 一緒に出たところを他の社員に見られたらたまったもんじゃない。そしてもしも、万が一にでも森下と一緒の家に帰っているなんて噂が広まってしまったら俺はきっと男性社員全員から恨まれることになる。


 そんなのごめんだ。まだ死にたくない。


「先輩、お待たせしました!」


「ああ、いくぞ」


 会社の外で合流した俺たちは、まだ夕日が沈みきっていないオレンジ色の道を歩く。


 もう何度も歩いた道。いつもならこの先に家があり、七葉がいて、温かいご飯とお風呂が待っている。でも今日からまた前の生活にもどる。


 七葉の分の夕食をつくり、一緒に食卓を囲む。そんな日々。


 そんな当たり前の日々が、また今日からやってくる。


 そう、思っていたのに。


「あれ、七葉ちゃんまだ来てないんですね」


 家に着いても、いつもなら俺より早く居る七葉がいなかった。


 窓から見える夕日が、さっきのオレンジから大きく変わって、真っ赤に染まっているのが何故か俺の心を揺さぶる。


「友達と遊んで帰ってくるんじゃないのか。だったら夕食はいらねぇのか言っとけよあいつ」


 あいつは放課後にそのまま遊んで帰ってくる時は、いつも連絡を入れる。


 それだけ、俺の家で七葉も夕食を食べるのは日課になっていて、本当の家族のような関係だったから。


「先輩、そういえば今朝送ったLINE、まだ返事きてないです……」


 森下のスマホの画面に表示されているのは、七葉とのトーク画面。


『おはよ~、今日先輩のお家行く! 七葉ちゃんもいるよね?』


 なんで俺の了承を得てないのに行くことが決まっているのかは置いておいて、そのメッセージには既読の文字がついている。でも、返事は来ていない。


 普段七葉が既読をつけて返信をしないことなんてない。それどころか返信は大体五分に一度は来る。森下も既読をつけての無視はされたことがなかったみたいで、らしくない不安そうな表情で俺をみる。


 森下の表情と、七葉の返事がないことと、真っ赤な夕焼けが、相乗効果を起こして。


「先輩、七葉ちゃん大丈夫ですよね? 変な人に連れて行かれたり、してないですよね?」


 森下に袖を掴まれて、俺も考えたくはなかったそのことが、頭を過ぎる。


 あいつに限って、そんなことは。


 身近にそんな事件があったことがなかったから、違うと思いたい。でも、あいつは女子高生だし、可愛い方だと思うし。


「森下、ちょっとここで待ってろ。あいつんち行ってくる」


 インターホンを押して、出てきてくれればいい。出てきてくれたら、無事だとわかる。


 七葉のことだし、どうせ寝てたとか言って出てくるんだよな? 頼むよ、出てきてくれよ。


 七葉の部屋の前に来た。インターホンを押したが、返事はない。


 お風呂に入っていたら、ドアの上にある換気扇から水の音が聞こえるようになっている。そして今は聞こえていない。つまり、お風呂ではない。


「七葉! いるか!」


 近所迷惑にならないように、配慮したつもりだった。でもそこまで冷静ではなくて、ついつい大きな声がでてしまって。


「返事、ありませんね……」


 いつの間にか横にいた森下が言った。


 この時間にも帰ってないことなんて、なかった。もう、夕日も沈んだ。


 外は人工的な光のみが照らしていて、このアパート周辺は外灯が多いわけでもなく、かなり暗い。


「森下、頼みがある」


「わかってますよ。私、友達ですから。七葉ちゃんを探しましょう」


「ありがとう」


 二階から降りようと、アパートの階段に向かって走った時。


「先輩!」


 後ろから森下に呼び止められる。森下はスマホの画面に目を向けていて。


「これみてください」


 森下のスマホ画面を向けられた。画面には七葉とのトークが表示されていて、さっきと違う点があった。


「返事がきてる……!」


『心配かけてごめんなさい。もう、関わらないでください。大丈夫ですから。じゃないと、お兄さんに迷惑かけちゃうんです』


 なにが、なにが大丈夫なんだよ。


 いきなり現れて、いきなり俺の家に入り浸ってきて、それでいきなり関わるなってなんだよ。


 そんなの自分勝手すぎるだろ。そんなの、許さねぇぞ。


「森下、ちょっとそれ貸せ」


「え、は、はい」


 森下のスマホを受け取り、七葉に送るメッセージを作る。


 なにがあったのかはわからない。多分、聞いても答えちゃくれないだろう。


 だったらなにも聞かない。ただ、伝える。


『俺だ』


 森下のアカウントで送る。俺はあいつのLINEをもってないから。


 名前まで言わなくても、わかるだろう。俺だよ。お前の、隣人だよ。七葉。


『話をしよう』


 ただそれだけ。たったそれだけでいい。


 あいつになにがあったのかなんてわからない。


 俺を揶揄うことに飽きてしまったのかもしれない。だったらいいんだ。でも、違うんだろ。それぐらいわかるよ、隣人だから。


 七葉は芯のあるやつだ。なにも言わないなら、言わせてやる。いつも強引な七葉に、仕返しをしてやるんだ。


 俺が送信した瞬間、七葉の部屋から、ドアを隔てたその向こうから、「ピロリンッ」といういつもの通知音が鳴る。


 やっぱりいたんだな。ならいい。無事だとわかれば。


「森下、帰るぞ。飯だ」


「え、いいんですか? 七葉ちゃんいますよね?」


「いいから、帰るぞ」


「ええ!? わ、わかりましたよ~!」


 七葉、説明してくれなきゃ、わかんねぇよ。


「じゃあ、帰りますね」


「ああ、また明日な」


 森下が俺を支えにしながら靴を履き、帰っていった。


 七葉はあれから、何も連絡はない。でも、間違いなく横に居る。


 部屋から出ていないことはわかる。


 さっき森下のスマホから送信したメッセージを見ただろうか。今は見たと信じてみるしかない。


「待ってろよ、この野郎」


 俺はベランダへと続く窓を開く。カラカラカラと音をたてて開き、陽炎が発生する昼間とは違った心地良い風が向かい入れてくれる。


 そして、ベランダに置いてある小さなパイプ椅子に腰かけた時、壁越しに同じ窓を開ける音が聞こえた。七葉だ。


「……夜だと涼しいな」


 なにがあったのか聞こうとしたのに、開口一番はそれだった。


 誰かが聞いてたらきっとどうでもいいようなそんな会話、今はそれが必要に思えた。


「そうだね……」


 壁越しに聞こえる七葉の声が、いつもの元気な声が、今日は暗くて悲しい声で。


「なにがあったのか、聞かせてくれないか?」


 壁を隔てているから、今七葉がどんな表情でどんなことを思っているのかがわからない。わからないなら聞けばいい。理解してやればいい。それくらい隣人として当たり前だろう。


「お兄さんに、謝らないとダメなことがあるの」


「なんだ、言ってみろ」


 今更なにを改まって。もうお前は謝らないといけないことだらけなんだよ。だから、そんな悲しそうな声で話すんじゃねぇよ。らしくない。


「学校に、私とお兄さんが、その……援助交際してるって誰かが言ったみたいで」


「は?」


「誰が言ったのかわからないの。私たちが出かけてる写真と一緒に、怪文書で『花咲七葉は援助交際をしている』って……」


「……」


「今週の土曜日、パパも加えて校長先生と話すことになってる。もしかしたら、退学になるかもしれないんだ……」


 そんな出鱈目な情報のせいで、七葉が退学になるなんて。そんなことあってたまるか。俺たちは援助交際なんてしていないし、出かけてたからなんだ。ただ、仲が良いだけの関係だっていくらでもあるだろうに。


「だから、俺に迷惑がかかるから関わるのをやめようってことか」


「……うん」


 七葉らしくない。


 七葉はもっと、悪魔みたいなやつで、俺の事情なんてお構いなしのやつだ。


「七葉」


 だったら、その悪魔キャラを貫き通せ。


 俺にできることは、七葉が七葉らしくあれるようにしてやることだ。


「俺のことは気にすんな。お前の好きなようにやれ。自分のことを一番に考えて、俺に迷惑をかけろ。それが、お前だろ」


 壁の向こう側、目には見えないけど、そこにいる七葉を見て


 俺は七葉にとって、頼れる存在でないといけない。それは隣人だから、大人だから、それだけじゃない。


 俺が、俺自身がそうなりたいと、心のどこかで思っていたから。


 このまま七葉が来なくなる日々なら、清々するなんて思っていた。でもどこか、俺は七葉との生活を楽しんでいた部分もあったと気付けた。


「私、頑張る。頑張って、潔白を証明してみせる!」


 方法なんてないのかもしれない。


 でも、俺だってやれることはやってやる。


 その先に、また二人で食卓を囲める未来があるなら。


「見ろよ」


 空に浮かぶ月を見上げて。


 今日はなんだか一段と綺麗で大きく見えるのはなぜだろう。


「月、綺麗だな」


 言ってから思い出す。たしか、そんな愛の伝え方があったことを。


「月はずっと前から綺麗だったよ――」

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