34話 語り
「あなたが聞きたいあの日のこと、つまり八年前のキャンプの日のことを話す前に、私のことについて語りましょうか。
「八年前私は、『立川四葉』ではなかった。別人になったみたいなそんなファンタジーじみたことでも、別人のようになってしまったみたいな難しい話でもなくて。
「もっと、そう、単純な話。名前が変わった、ただそれだけよ。
「『
「……あら、知ってたのかしら。……そう、桜木さんから。まあ彼女はあなたと違って忘れてないし、不思議ではないわね。……少し、覚えていてくれたことが意外ではあるけれど。
「名前が変わった理由? そんな大層なものではないわ。離婚と、再婚。ありふれた、つまらない理由でしょう? そんな思い詰めた顔をしなくてもいいのよ。この話に関しては、あなたはなにも関係がないのだから。
「話を戻しましょう。そう、右幸四葉の話ね。右幸四葉は、ごくありふれた小学五年生の少女だった。ただ世間一般的な女子と比べると、ちょっとだけ活発的ではあったけれど。
「髪は男子と見間違うくらいに短くて。いつもどこかに絆創膏をつけていて。砂が似合う元気な笑顔をよく浮かべ。悪戯や外で遊ぶのが好きで。読書や勉強なんてしようとすれば数秒で頭が痛くなる。
「そんな、ごく普通の小学生だった。
「……なにをさっき以上に顔を顰めてるのかしら。あら、これも桜木さんから聞いていたのね。……信じられない? 人は変わるものでしょう。変化の度合いや本人の意思に関わらず、どうしても。事実として、私は八年という年月の中で変わりに変わってこうなったのだから。
「それに読書をよくしているからって、それが好きとは限らないでしょう?
「とにかく、そんな右幸四葉には、特別仲の良い子がいた。それが、水流夏樹と、その幼なじみであった桜木彩乃。水流夏樹――すなわちあなたとは、特に仲が良かった。
「きっかけは私も覚えてないわ。でも学校が終わったら毎日のように一緒に遊んだし、休日もほとんど一緒にいた。
「覚えていなくてもしょうがないとは思う。あなたは生き返ると同時に、私についての記憶の一切を失ったのだから。そんな慌てなくても、また詳しく話すわ。
「そんな中、二人が小学五年生の時の夏休み。私たちは互いの家族と一緒に、キャンプに行くことになった。
「そう、この前夏樹くんが見せてくれた、あの場所よ。
「場所はとある山の中、川沿いにあるキャンプ場だった。二人はもちろん楽しみにしていた。そんな場所に行く機会もほとんどないし、初めてのことというのは何事も楽しみなものよね。そこでこれから、なにが起こるのかも知らないで、のうのうと。
「キャンプ当日になれば、二人のテンションは最高潮に達していたわ。いつも以上にうるさいし、朝から落ち着きもなかった――少なくとも、右幸四葉は。そして彼女の両親は、それを微笑ましそうに見ていた。あなたの家族と集合してみれば、そちらも同じみたいだったわね。右幸四葉の姿を見た途端に車から飛び出して盛大に転んだのは右幸四葉も大笑いしてしまったわ。
「……ふふふっ、いいじゃない、子どもらしくて、年相応で。
「最初はごく普通のキャンプだった。バーベキューをしたり、付近を探検したり。少し歩けばすぐ見たことのないものがあるから、飽きはしなかったわ。私たち以外に大学生くらいのグループが来ていたけれど、特に関わり合うこともなく。ただただ、楽しかった。能天気に、楽しんでいた。
「そこで、突然右幸四葉が言い出した。『川があるらしいから見に行こう』と。
「……それが、すべての元凶だった。
「あなたは川に行こうとする私を止めようとしていたわ。私の頭からは抜けていたけれど、そのキャンプの日の数日前、川上で雨が降っていたらしいのよ。それをあなたは両親から聞いていたのでしょうね。
「でも私は、いいからいいからとあなたの手を引いた。私はその話を聞いていなかったのか、それとも聞いていて忘れていたから、もしくは頭にあったけれど好奇心に負けてしまったか。
「…………はぁ……。
「もっと考えることができていたなら。その場の気分だけで行動するなんてことしなかったら。今でもそう思うわ。全てはもう遅すぎることだけれど。
「……いいのよ、変に慰めてくれなくても。どちらにせよ、もう変えようがないのだから。
「それに、運が悪かったことに、あなたの両親も、右幸四葉の両親も、二人が川に行ったのには気がつかなかった。そこでもし止められていたとしたら、また変わってきたのでしょうね。
「いざ川に行ってみると、増水はそれほどしていなかったわね。ただ流れは少し早かったかしら。なにぶん八年も前だから記憶も曖昧だけれど。
「それから――ところで夏樹君。轟さんからは、なにを、どこまで聞いたのかしら。
「右幸四葉があなたを追って飛び込んで、それをたまたま見かけた轟さんが、二人を助けた。そんなところ?
「ふふっ、正解かしら。別におかしな話でもないでしょう。彼は実際、そこしか関わっていないのだから。
「なら、それ以外の場所を語りましょう。例えば――なぜあなたは川に落ちたのか。
「あなたの手を引いてその岩の上まで行った右幸四葉は、いつもより高揚していた。もともとテンションが上がっていたのもそうだし、あなたがどうも乗り気じゃないから、なんとか乗り気にさせようと頑張っていた。
「あら、あなたが悪いわけじゃないのよ? そんな顔をしないでくれると助かるわ。だから、安心して。この話で間違っていたのは、右幸四葉ただ一人よ。
「下には川。そして今いるのは高い場所。そして右幸四葉はやんちゃな少女。なら、そんな彼女が提案するのは一つしかなかった。なんとなくは予想がつくでしょう。飛び込もうとしたのよ。
「もちろん、それはとても危険なこと。でも彼女は怖いもの知らずだった。度胸がある、とは違うわ。それが怖いものであると知らない、ただの無知な少女だった。でもあなたは違った。最後まで右幸四葉を止めようとしていた。危ないからって。でも彼女は気にしない。見てて、なんて言いながら、後ろ向きに歩いて先端まで行こうとして――
「――落ちた。
「そう、落ちた。飛び込んだ、ではなく――落ちた。
「自分の意思で、覚悟を決めて、自分のタイミングで飛び込んだのではなく。意図せず、覚悟も決めず、不意に、落ちた。
「きっと足を滑らせたのでしょうけど、なぜそうなったのかはよく覚えてないわ。おそらく濡れていてか、それとも苔でも生えていて、滑りやすくなっていたんでしょう。ちょうどそこは木陰になっていたから。
「もう少しきちんというなら、落ち
「落ちる寸前で、右幸四葉は助かったのよ。その代わり、あなたが落ちてしまったけれど。
「今でも覚えてるわ。時間が止まったようなとか、一秒が何秒にも感じられたとか、あんな感じを言うのね。体を浮遊感が包み込んで、思考は加速しているのに頭の中は真っ白で。ただ私に向かって手を伸ばすあなただけを、右幸四葉は認識できた。
「彼女が無意識にあなたに伸ばした手を、あなたは見事掴んで見せた。そのまま引っ張って私はなんとか陸に戻ったけれど、その反動かしら、逆にあなたが空中に放り出された。位置を交換するような感じに。
「わかったでしょう、なぜ、あなたが落ちたのか。そう――私が、すべての原因よ。
「あなたが落ちて、右幸四葉は混乱していた。焦り、恐怖、罪悪感、危機感、それ以外にも色々。頭の中でぐるぐる駆け巡って、訳がわからなくなって、パニックになって。そして彼女は、あなたを追うようにして飛び込んだ。
「そこからは、轟さんの話した通りよ。
「彼が二人を助け出し、応急処置をしている間、私はただ泣いていた。
「何をするわけでもなく、泣いていた。
「轟さんがなにかを言っていたのは覚えてる。きっと、誰か呼んできてくれとか、そのあたりでしょう。でも私は泣いていた。いろんな感情に押しつぶされそうになりながら。
「すこしして、轟さんはその場から離れてどこかへ行ってしまった。きっと私が動かないから、誰かを呼びに行ったんだと思う。右幸四葉は、あなたの元へと移動した。移動して、また泣いた。『たすけて、だれかたすけて』って、叫びながら。それで助かるわけがないのに。
「……ふふっ、あまり自分を責めるな、なんてやさしいわね。たしかに当時は小学生だったし、そういう事態に対応できるような子でもなかったけど、そういうことは関係ないでしょう? 自分が悪いと思っている。それだけで自分を責める理由には十分よ。
「ただ『たすけて、だれかたすけて』って叫んだって助かるわけがない、助かるわけがないんだけど。でもその時だけは、ちがったのよ。
「それが救いか災いか、わからないけれど。
「泣いて、泣いて、涙があふれて、それを拭うために一瞬、ほんの一瞬だけあなたから視線を外した時だった。
「――気が付けば、あなたは消えていた。
「……そう、夏樹君の言う通り、私が呪いで死ぬ時と同じよ。
「あなたは、こうして生き返った。でも当時は大騒ぎだった。これは話には聞いていると思うけど。……ああ、あなたは寝ていたんだったわね。
「それからキャンプ場ではいろいろあったけれど、まあそれはいいでしょう。特に大事なところはなかったから。それと後から知ったのだけれど、あの山は昔神様がいる山と言われていたらしいわね。もしかしたら神様が本当にいて、その神様が救ってくれたのかもしれないけれど……正直、それはどうでもいいわ。
「それからとりあえず帰宅して、すこし。右幸四葉の家に、あなたの家から電話がかかってきた。『夏樹君は家で寝ていたらしい』電話を切って、右幸四葉にその内容をいうときの父さんの顔は今でも忘れないわ。もう訳が分からないみたいな、でもよかったって安心するような、複雑な顔をしていたわ。といっても、その表情はすぐにもっと歪むことになるのだけれど。
「右幸四葉はといえば、正直訳が分からなかったけど、彼女はそれ以上にうれしかった。死んだと思っていたあなたが生きていたんだから。
「彼女はうれしかった。彼女はその時確かに、幸せだった。
「だから、死んだの。
「突然倒れてきたタンスに押しつぶされて、初めて死んだのよ。
「なんとなくわかってきたでしょう? なんで私が呪われたのか。……呪いって単語は少し違うかもしれないわね。これは現実逃避だから。私が本ばかり読んでいるのと同じように。これは呪いというよりはむしろ――『代償』よ。
「別に私にこれをかけたなにかに言われたわけじゃない。でも、なんとなく本能的に理解している。
「夏樹君はあの時死んだ。死んだはずだった。でも今生きている。あなたが生きているのは、世界の理に反しているのよ。反し続けているのよ。
「だから『代償』なの。この状態を維持し続けるための代償。
「それを私がどう思っているのか、そうなってしまったのが誰のせいなのかは置いておいて事実だけを言うとすると――
「あなたが生き返ったから呪いにかかり。生きているから呪いにかかり続けているの。
そう口にした彼女は、今にも崩れ落ちてしまいそうなほど、悲しい顔をしていた。
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