番外1 四葉の想い
私は不幸だ。
そう自分に言い聞かせながら遊園地からの帰り道を一人、少し早足気味に歩いた。
桜木さんや水流君とはつい一〇分ほど前に別れたばかりだ。人もいない住宅街の道の、いくつかある街頭。チカチカと何処かおぼつかないその光を、なんとなく避けるようにして進んだ。
私らしくはないと思う。立花四葉は、こんなことはしない。
でもなんとなくそういう気分だった。こんな似合わないことをしてしまうくらいには――
「ああ、私は不幸ね」
危なかった、と。一人小さく吐き出した息は、青い空気に溶け込んでいった。
思ってはいけない。感じてはいけない。
足を止めて目を閉じ、深呼吸。もしかしたら一人になって気が緩んでいるのかもしれない。
「……落ち着いた、かしら」
目を開けて、また歩き出す。いつもの速さで、いつもの無感情を顔に貼り付けて。
しかしこの胸の高鳴りだけは、落ち着かせることができなかった。
よくやっている方だと自分でも思う。だって初めてだったから。小学生の時にこの呪いにかかってから、初めてだったから。
「……ふふ」
ついこぼれる笑み。大丈夫、笑うだけなら、大丈夫。
思い出すのは、今日一日の事。
そして私の恋人で――私の呪いを初めて受け入れてくれた、水流夏樹君のこと。
今まで数人、私の呪いを知った人はいた。まずはじめに助けを求めた両親、そしてたまたま知ってしまった人たち。
その誰もが、私を恐れ、気味悪がって離れていった。
でも、でも。水流君だけは、受け入れようとしてくれた。普通の人なら関わろうともしないのに、彼だけは、怖がりながらも接しようとしてくれた。
少しだけ興奮してしまって、彼に過剰に接近しようとしたことは、否定できないけれど。
それほど時間も経たないうちに家に到着した。鍵を開けて中に入れば、私を出迎えるのは湿った空気だけ。
「ただいま」
いつもなら物寂しさを感じるこの空気も全く気にならないのは不思議だった。
まっすぐ進んで、自分の部屋へ。あるのはベッドと、テーブルと、本の一部が入った本棚くらい。シンプル極まりない、女子高生らしくない部屋だと私でも思う。でも物が溢れているのはあまり好きじゃない。
隅に荷物を置いて、三つ編みを作っていたゴムを取った。長い髪が広がって、頭あたりに開放感。そのままベッドに倒れ込んだ。着替えもお風呂も後でいい。体の力が一気に抜けて、間の抜けたため息が口から漏れ出した。
「……思ったより、疲れてたのね」
本当に久しぶりの外出もあるだろうし、何より今日は
ゴロンと寝返りを打って横向きに。まっすぐ手を伸ばし、握って開いてを繰り返した。
すぐにでも思い出すことができる。いえ、正直思い出したくはないけれど。
あのお化け屋敷での、水流君。あれだけ怖がっていたのにそれを振り切って。私を心配して手を握ってくれた、彼のこと。
「……
今いるのは自分の家の、自分の部屋だ。誰に見られることもなければ、誰かを気遣う必要もない。
そっと目を閉じ、心の中のそれに身を任せようとした、その時。
隅に置いたカバンの中から、電子音が鳴り響く。
「……なにかしら」
意識を掴み直してベッドから立ち上がる。その音からして、多分電話。そして私に電話する人なんて限られている。
手にとってみれば、通話主はその候補の一人の、桜木彩乃さんだった。
今日のお礼か何かかしら。
彼女の電話は長くなることが多い。ベッドに腰掛けて電話に出る。
「もしも――」
「もしもーし! 今日は楽しかったね!」
キーンと頭に響く声。ついスマホから耳を話す。
そうだった。彼女はそういう人だったわね。
そっと通話のボリュームを下げ、また耳につけた。
「おつかれさま。私も楽しかったわ」
「そういってくれると誘った甲斐あったよー。最後、夏樹ともいい感じだったし!」
「ええ、ありがとう。桜木さんのおかげよ」
これはまぎれもない本心。そもそも私が彼女に、夏樹君とのことを相談したことがきっかけだった。もちろん、呪いのことは伏せて。
彼女は本当に色々してくれた。……ジェットコースターに私を連行したり、夏樹君がいたとはいえお化け屋敷に閉じ込めたり。
「本当に……今日は色々とお世話になったわね」
「よ、四葉ちゃん……? なんか、声怖くない……?」
「気のせいじゃないかしら」
すっとぼけてみれば、彼女が怯えているのが通話越しにも感じた。それを表に出さないようにしながらも、心の中でクスクス笑う。
本当に桜木さんはいい子だと思う。それに、可愛い。コロコロ変わる表情も、ブラウンの明るいボブカットも、小柄なところも。
私が可愛げのないことはわかっているから、余計にそれが羨ましく感じてしまう。
これでまだ彼氏がいたことがないというのが、正直信じられない。
「結構びっくりしたんだけどねー。四葉ちゃんに相談された時」
「そう、かしら。付き合っている相手との距離を気にするのは普通だと思うのだけれど」
「んー……そーいうわけじゃなくて」
すると不意に桜木さんの言葉が途切れた。訪れる沈黙。マシンガントークという言葉が似合う彼女にしては珍しい。
でも変に急かすのも変でしょう。彼女の言葉を待った。
「その、四葉ちゃんは……なんで夏樹なの?」
「なんで……?」
どうして好きか、ということなのかしら。それにしては、すこしニュアンスがおかしい気もするけれど。
「あ……ち、ちがうよ? えっと、その」
「どこが好きか……ってことかしら」
「そ、そう! それ!」
桜木さんが、いつもとなんだか違う感じがした。言葉もおぼつかない。
……詮索するようなことでもないわね。
それではと、桜木さんの質問に対して答えを探す。長髪の先端を指でクリクリと玩びながら頭を巡らせれば、それは案外すぐに見つかった。
「そうね……優しい、からかしら。かなりありきたりになるかもしれないけれど」
「んー、夏樹、優しいかなあ? なんか頼んでもなかなかやってくれないし! めんどくさいとか、自分でやれとか!」
「でも、最終的にはなんだかんだやってくれるでしょう?」
「それは、まあ……そうだけどさー……」
納得いかない、といった様子だった。ずっと水流君と一緒にいた桜木さんだからこそ思うこともあるのかもしれない。
「それに、わたしにも普通に接してくれた。ほら、私、かなり変わってるでしょう」
「そんなことないよ!」
「いいのよ、自分でわかってるから」
感情が薄かったり、冷たかったり。本の設定を自分のこととして語ることだったり。
全部自覚してる。でもやめられない。それは呪いのせいでもあり、呪いのためでもあり、呪いそのものでもあるから。
だから離れて行く人に対して待ってとは言わない。気持ちもわかる。呪いのことを考えても、周りに人が少ないほうがいい。
でもこんな私を普通の人と同じように接してくれたのは、彼だけだったから。桜木さんもだけれど。
私だって、一人でいることに物寂しさを感じることもある。だから、余計に楽しかった。
「それだけ?」
「あら、少ない?」
「あ、いや、少ないってわけじゃないよ! でもさ、二人って、今までカップルっぽいこと全然してなかったじゃん? だいたいそういうカップルってさ、冷めちゃったりで別れるんだけど、二人もう二年も続いてるから」
「何かあるはず、だと?」
「そう、そんな感じ、かな」
肯定する彼女の声は少し弱々しい。彼女の中でもかなり感覚的な話なのかもしれない。
でも、わかる。私と水流君は、付き合っている同士としては多分異端だ。二年も付き合って、キスを初めてしたのもついこの前。シてもいない。プラトニックといえば聞こえはいいけれど、普通どちらかが少しは不満に思うところだ。
もちろん、思っていないわけじゃないけれど。
「……まあ、他にもあるわね」
「なになに?」
無意識のうちに、胸に手を当てた。
胸の奥の大事なそれを、大事に取り出すように。
「――助けて、もらったの」
それは、忘れてはならない記憶。忘れたくない記憶。
私の全て。それがあったから、今の私がある。
しかし当然桜木さんは「んー?」と唸っていた。
「助けてもらった? なにを?」
「それは言うわけにはいかないわね」
「むっ! 二人だけの秘密ってやつ? いいよー、夏樹に聞くから」
「別にいいけれど、多分水流君も教えてくれないと思うわよ。それか……忘れてるか」
「忘れてる?」
「かも、しれないわね」
実際、水流君とこの話をしたことはない。もしかしたら、忘れているのかもしれない。
でも私はそれでもいい。私が、覚えてさえいれば。
でも桜木さんは納得していない様子。野次馬が好きで好奇心旺盛な彼女のことだし、単純に気になるだけでしょう。
「んー、二人って高校で会ったんでしょ? なんかあったら知ってるはずなんだけどなあ……」
「別にわざわざ詮索しなくてもいいのよ?」
「気になるじゃん! ねー、四葉ちゃーん。教え――ごめん、ちょっと待ってて!」
突然そこで桜木さんの声が途切れる。
何かしら、と耳をすませば、遠くの方で桜木さんと、誰かもう一人の声が聞こえた。
親御さん、とかかしら。何か用事か、それともご飯やお風呂に呼びに来たか。
さてどれかしらと桜木さんを待っていると、時間も経たないうちに彼女の声がまた聞こえた。
「ごめん四葉ちゃん! お母さんにお風呂入れって言われたからこれで切るね!」
「ああ、お風呂だったのね。ええ、わかったわ。今日はありがとう。たのしかったわ」
「私もたのしかった! じゃあね!」
プツリと通話が切れ、静けさが残る。台風のような、とはよく言ったものと思う。あの騒がしさの後だとこの静寂もすこし切ない。
切ないと、ついつい過去に想いを馳せてしまうもの。
本当に今日はいい日だった。
スマホの写真アプリを開くと、一番下の新しいところにあるのは、私と水流君のツーショット写真だ。
普通のが一枚。水流君と桜木さんがトイレに行っている間に、何を思ったのか加工したのが一枚。
後者を開いた。
「……ひどい出来ね」
自分で笑ってしまう。
というか、ただ面白みのないフォントで一つ文を加えただけのこれを、加工と言っていいかもわからない。
でも、嫌いじゃない。むしろこの不恰好さが好きだ。だからなんとなく、水流君とのチャットに送っておいた。
どういう反応をするのかしら。でもそれをみるのは、明日にしましょう。
もう――我慢したくないから。
スマホを置いて立ち上がった。ベッドを汚したくはない。
部屋の中心あたり、そこに座り、そっと目を閉じる。
「今日は、いい日だったわね」
遊園地がたのしかった。桜木さんや水流君と遊ぶのがたのしかった。誰かと遊ぶのは新鮮だった。水流君が怖いのに手を握ってくれた。水流君が恐怖を克服してくれた。
水流君が――受け入れたいと言ってくれた。
間違いなく、考えるまでもなく、私が最も望んだこと。私が半ば諦めかけていたこと。
それを、水流君がやってくれた。嬉しくないわけがない。
――幸せでない、わけがない。
その瞬間だった。ぐらと、本棚が傾く気配。
なるほど、今日はそれなのね。
避けれないわけじゃない。でも私は避けようとしない。どうせそれを避けることができても次が来る。
怖くないわけじゃない。痛くないわけじゃない。でもそれを嫌がるには、経験した回数が多すぎた。もし望むとしたら。
「即死だと、いいわね」
本棚に押しつぶされたからと言って必ず死ぬわけではないと思う。でもどれほど低確率だとしても、それを引き当ててしまうのが呪いの怖いところ。
だから逃げれない。
逃げれないから、私はただその感情に身を浸す。
私は慈しむようにそっと、それを口にした。
「ああ――幸せね」
その瞬間、大きな本棚が私を押しつぶした。
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