8話 観覧車

「はぁ……はぁ……はぁ……」


 息遣いは荒い。夏の日差しを全身に浴びながら、俺は両膝に手をやって呼吸を整えた。

 お化け屋敷を無我夢中で進んで、外に出たのがついさっき。その場で止まるのも邪魔になるかも、といった思考だけはなんとかできた。通路の脇によってベンチに腰を下ろす。

 もちろん、もう手は繋いでいない。


「……ありがとう、水流君」


 遅れて四葉が俺の下まで歩いてくる。隣には座らなかった。彼女なりの気遣いなのだろうか、少なくとも今はありがたかった。

 だんだん呼吸も落ち着いて。うなだれながら、四葉に返す。


「いや、大丈夫」

「本当に?」

「俺のことはいんだよ。四葉こそ、大丈夫なのか?」

「私は、もう平気よ。……本当に大丈夫なのね……?」

「……ああ」


 真っ赤な、誰が見てもわかるくらいに真っ赤な嘘だった。


 もう四葉は離れていたと言うのにあの感覚が消えない。あんなに涼しいところにいたというのに、全身に汗が吹き出ている。

 無意識のうちに手をさすっていたことに気がついた。それこそ、手についた何かをこすり落とすように。


 でも四葉は何も言わなかった。

 顔はいつもの無表情。でもどこか沈んで見える。それが申し訳なくて仕方ない。

 小さく彼女の口が動いていた。


「……も、でき……った……ね、」

「え? 四葉何か言ったか?」

「なんでもないわ。早く行きましょう」


 四葉は俺に背を向け歩き出した。

 俺の状態を知りつつ急かすなんて、四葉もなかなか手厳しい。


 鉛のような体をよいしょと持ち上げて、四葉の背中を追った。


「行くったって、どこにだよ」

「桜木さんのところよ。彼女なりの善意とはいえ、ひどい目にあったのだから」

「場所知ってるのか?」

「さあ? でも彼女のことよ、どうせどこか遠くない場所で待ってるでしょう」


 彼女はまっすぐ前を向いてそう言った。


 そんな言葉とは裏腹に、そこまで怒ったような様子ではない。でも言いたいことはあるのだろう。それは俺も同じだった。


 とりあえずお化け屋敷の入り口へ。出口付近にいないならそこだろう。

 正直出たところにいなかったことも意外だけど。てっきり出てきた俺たちを全力のにやけ面でからかってくるものと思っていた。


 お化け屋敷の列にはいなかった。ならと、少し辺りを見回す。


「んー……いないなあ」

「水流君、あそこ」


 四葉が指差す先に、彼女はいた。

 そこはお化け屋敷から少し離れた道の脇のベンチ。そこで一人座り込んで俯いている。

 俺は今朝から彩乃の元気な姿しか見ていない。だからつい首を傾げつつ、四葉の後を追って彩乃の元へ。


「桜木さん?」

「彩乃?」


 ほぼ同時に呼びかける。すると彼女は顔を上げた。上げたのだけど。


「うぅ……夏樹ぃ……四葉ちゃぁん……ひっく」


 彼女はなぜか、大きな瞳を潤わせていた。


「……」

「……」

「ひっく……」

「一応、一応何があったか聞こうか」


 大きくため息を漏らし、そう問いかける。四葉はといえば呆れたように頭に手をやっていた。


「うぅ……夏樹たちをお化け屋敷に入れた後、せっかく並んだから……わたしも入ってみようかってなって……」

「うん、それで?」

「ちょー怖かったぁ……ひっく」

「何してんだお前……」


 再びため息を吐き出した。

 おそらくあのあと一人で入ったのだろう。気の毒と感じなくもないけど、正直自業自得としか思えない。四葉も言葉が出ないといった様子だ。


 だが調子に乗って痛い目を見るところは、昔から変わらなかった。


「ふ、ふたりは、どうだったのぉ……?」


 俺たちと話して少し落ち着いたのか、嗚咽を少し納めて彩乃はそういった。


「死ぬかと思った」

「夏樹でもそんな怖かったの……?」

「あー……まあ、そうだな。うん、怖かった」

「……? ズズッ!」


 煮え切らない答えに、彩乃は鼻をすすりながら首を傾けた。


 確かに怖かった。怖かったのはまた別のものだけど。

 今だって、まだあの感覚は脳裏にこびりついているんだから。


 すると彩乃は、今度は四葉の方を向いた。俺もちらりと彼女に盗み見る。


 それを受けた四葉は、一瞬考え込むような表情を浮かべる。顎に手をやったまま、「そうね……」と口にして、ぽそりと続けた。


「特に怖くはなかったわね」

「……嘘つけ」

「え……? ウソ? ウソなの……?」

「嘘じゃないわ。嘘じゃないけど、少しだけ怖かったかしら」


 四葉、事実と違うことを言ってるならそれはもう嘘だから。

 ジト目を向けても彼女はツンと澄ましただけだった。彩乃はといえば、四葉の言葉を素直に受け取ったのか、ホッと安堵の息を吐いた。


「四葉ちゃんでも怖かったんだ……」

「少し、少しよ? それに……いえ、なんでもないわ」

「……?」

「……」


 彩乃はこてんと首を傾げ、俺は目をそらす。


 彼女が口にしようとしたのは、どう考えても俺が手を引いたことだ。

 四葉があれをどう思っていたのか、気にならないわけじゃないけど、正直触れたくない気持ちもある。


 だからあえて自分から口は出さないようにしていたが、四葉は。


「まあ、どちらにしろ」


 腕を組み、いつもの感情の薄い表情を浮かべ。


「もしかしたら死んでしまうかもしれないと、そう思ったわね」


 また彩乃は、そして彼女と同じように俺も、表情と合わないその物騒な言葉につい首を傾げてしまった。





 痛い目を見たからか、そのあとの彩乃はおとなしいものだった。行動自身も、乗るアトラクションも。俺たちが疲れ始めてきていたのもあるかもしれない。


「そういえば、何時に帰らないといけないとかあるの?」


 彩乃がそう口にしたのは、空の向こうが朱色に染まり始めた頃合いだった。


「俺は……そうだな、一応門限はあるけど、日を跨がなければそれでいいみたいな感じだな」

「いいなー、私も緩いは緩いけど、流石にそこまでじゃないよ。四葉ちゃんは?」

「特に門限はないわね。一人暮らしだし」

「ああ、そういやそうだったな」

「一人暮らしなの!?」


 声を荒げたのは彩乃だった。


 それは俺も知っていた。高校に上がったタイミングで学校に近いところで始めたらしい。だから弁当も自分で作っているし、しっかりしてるなあと感心した覚えがある。


「今度遊びに行きたい!」

「ごめんなさい……うちはちょっと……」

「そっかぁ……夏樹も行ったことないの?」

「ないぞ」

「……二年も付き合ってる彼氏なのに?」

「四葉が後ろ向きなんだよ……」

「行っていいかと尋ねてきた水流君の目が下心で溢れてたから」


 へー、と。彩乃が軽蔑するような目で見てくるせいで、つい視線を逸らした。


 そんなことないから。純粋に四葉が一人暮らしをしてるって聞いた時、気になっただけだから。……確かに何も期待してなかったと言えば嘘になるけど。


 どうにも風向きが悪い。主に俺にとって。立て直そうと、「それより」と口にした。


「なら結構遅くまで入れるってことか。どうする?」

「あ、えっと……ごめんなさい。九時あたりまでには家に着くようにしたいのだけれど……」


 あれ、とつい意外に思った。彩乃の表情からしても同じらしい。問いかけたのは彼女だった。


「一番気にしなくていいわけじゃないんだねー。用事でもあるの?」

「……まあ、そんなところかしら」

「あまりギリギリでもあれだしな。なら次が最後か」

「ふふふふ……!」


 突然彩乃はニヤニヤと笑い始めた。きっと本人は悪代官みたいな悪い笑みを浮かべているつもりなんだろうけど。

 なんだか嫌な予感がして、げんなりと肩を落としてしまう。


「……何笑ってるんだ?」

「最後と言ったら……あれだよね! 決まってるよね! 定番だよね! あれしかないよね!」


 両手を強く握って、鼻息を荒くして。

 まあなんとなくその「あれ」が何かは予想がつくけど。だからこそ、気分は急降下していく。嫌いなわけじゃない。ただ、待ち受けているものが容易に想像できてしまう。


「ちょうどもう直ぐ夕日だし、いい感じになりそう!」

「……一応聞くけど、『あれ』って?」

「観覧車!」


 偶然か、先導していた彩乃の計算か。いつの間にか目の前まで来ていた観覧車を指差しながら、彩乃はそう言った。


 車輪状のフレームはもう夜仕様に光り出して。そこにぶら下がるいくつものゴンドラを見上げる。なんだか体に染み込んでいくような陰鬱を感じた。


「まあ、確かに定番ね」


 四葉は特に反対するつもりもないようだった。

 ぞわりと走る悪寒。もう帰ってくる答えも分かりきっているが、一応彩乃に尋ねてみる。


「……あれに、乗るんだよな?」

「乗ろ!」

「三人で、乗るんだよな?」

「は?」


 彩乃が浮かべたのは、何言ってんだこいつと言わんばかりの顔だった。


「何言ってるの? 二人恋人でしょ? 二人で乗ってきなよ。私は一人でいいからさ! ……一人で……一人……」

「何勧めて一人で落ち込んでるんだよ」

「あーもううっさい!! 夏樹と四葉ちゃんは黙って二人で乗っていい感じになってイチャコラすればいいんだー!」

「ちょっ……!」


 情緒不安定とはこのことか。がーっとわめき立てたと思えば観覧車の列に向かって走っていく。俺はその一気に小さくなる背中に向かって、湿ったため息を漏らした。


 そうだよな、そうなるよな。あいつの目的は俺たちを仲直りさせることだし。実際には喧嘩をしているわけじゃないけど。

 きっと避けられないことだったんだろうけど、なんというか。四葉の様子を伺うように盗み見ると、ちょうど歩き出したところだった。


「じゃあ、行きましょうか」


 俺も彼女の後ろをいつもより少しだけ離れて歩く。四葉の様子はいつも通り。歩くスピードも平常と同じ。観覧車に近づくにつれ、あの感覚が強くなっていく。


 列に並ぶ頃にはそれが無視できないほどになっていた。


「はぁ……」


 悪寒を吐き出すかのように、大きく、大きくため息を吐き出した。全身にまとわりつく嫌悪感をそぎ落とすかのように、腕をさする。


「……なあ、四葉。実は高所恐怖症とかないよな……?」

「安心しなさい。今回は本当に大丈夫よ。何もない」

「なら、いいんだけど……」


 安心するような、残念のような。

 どうせなら高所恐怖症で乗るのやめようなんて話になればよかったのに。そんなことを考えてしまった自分に、自己嫌悪。


 ああ、乗りたくない。お化け屋敷と違って、観覧車は本当に逃げ場がない。あんなところで四葉に迫られたら、俺にはどうしようもなくなってしまう。


 しかし時間は無情にも過ぎていく。列はどんどん進み、ついに自分たちの番へ。係員の指示に従い、まず四葉が乗り込んだ。


 体が重い、行きたくない。


「ねえ……水流君」


 そんな俺を見て、四葉は少し真面目な顔をした。


「ほら、行きましょう?」


 俺に手を差し伸べて首を傾げ、子供をあやすように。


 手こそとらないが、俺も観念して観覧車に乗り込んだ。

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