3話 感情の名前

「それじゃあ、行きましょうか」


 ついに来てしまった。


 三限分の授業を終え、時刻は十二時ちょうど。圧迫から解き放たれるように、教室内の活気が広がっていく。ガタガタと机を合わせたり、購買へと走り出したり。忙しない他のやつらを横目に、俺は大きく息を吐く。


 いや、四葉と昼飯を食べること自体は全然嫌じゃない。むしろ普通に楽しみだ。だけど。


「随分と暗い顔してるわね」

「……わかってるだろ、四葉なら」

「別にいいのよ、気楽にいてくれて。ただ水流君が何を感じたのか、そのまま口にしてくれればいいのだから」


 そう言われてもなあ……。

 正直、変な感覚があるだけで自分でもよくわかってないのだ。


「他のところで食べるのか?」

「ええ。こんなところじゃ、あの話はできないでしょう?」

「……だよな」


 正直最後の頼みの綱だったんだけど。もうこれで昨日の話をすることは確定してしまった。

 ゾワゾワと背筋が震える。今朝感じたあの気持ち悪さがまた顔を出し始めて、耐えるように奥歯を噛んだ。


「……別に、いやならいいのよ」

「え?」

「正直、拒絶が普通の反応だから。今までもそうだった。だから拒絶するならするで、それでいいわ」


 ずるい言い方ってわかってはいるのだけどね、と。四葉は自嘲気味に、髪を耳にかけた。


 その最後の一言こそずるい。

 そこで思い出すのはやっぱり朝の四葉だ。


『……やっぱり、そうよね』


 普通の反応だから四葉がなにも思わないわけがない。普通の反応だから傷つかないわけじゃない。あのセリフ、あの表情に込められていたのはきっと彼女の諦念だ。


 それを思うと、ここで拒絶するのも憚れる。

 我ながらおかしいよな……。顔を手で覆って大きく息を吐いた。


「いい、行く」

「そう……ありがとう」


 ふわりと柔らかく彼女は笑った。

 いやいやそれはずるいだろ。普段ほとんど笑わないのにここでそれは。

 俺は思わず顔をそらして、少し大きな音を立てて立ち上がった。




 四葉の中では行き先がもうできているらしい。スタスタと進む彼女の背中、跳ねる二つの長い三つ編みを追っていくと、たどり着いたのは屋上だった。

 でも俺はつい顔をしかめてしまう。


「あら、水流君どうしたのかしらそんな顔をして。さっき桜木さんに言われたことを気にしてるの?」

「『エッチなことはほどほどにね!!』ってやつか? あいつもいちいち声がでかいんだよ……」


 一緒に出て行こうとしている俺たちに、どこかよそよそしくしながら話しかけてきたのは彩乃だった。時間が経ってもまだあの勘違いを気にしているらしい。二人きりになれるところで昼飯を食べにいくと四葉から告げられ、そんなことを顔を真っ赤にしながら叫んだのだ。おかげで出ていく時の視線が痛かった。


「いやそうじゃなくて、ほら、うちは屋上開放してるけど結構汚いって聞いてたから」

「友達がいないあなたが誰から聞くの?」

「それは四葉もだろ。ほら、彩乃とか……」

「私は行ったことあるけれど、言うほど汚くもないから安心しなさい」


 四葉がそう言うなら……。

 そう少ししぶしぶと歩を進める。


 屋上に続いている階段は、使う人が少ないからか電気も消されていて薄暗かった。そこを二人、言葉を発することもなく登る。その先の立て付けが悪い扉を開けると、そこはもう屋上だ。


「誰もいなさそうね」


 はじめに扉をくぐった四葉が見渡しながら呟いた。俺もそれに続いて外に出ると、空から降りかかる強めの日差しに目を細めた。


「暑いな……」

「もうすぐ夏だからしょうがないじゃない。そうね――あそこにしましょう」


 むき出しのコンクリートみたいな地面は黒茶色。そこに苔がたくさん張り付いていたり。塵だったり鳥のフンだったり、やっぱり汚い。落下防止のために建てられたフェンスはひどく錆び付いていた。

 四葉が指差したのは、その中でも比較的綺麗なところだった。


 そこに腰掛けてそれぞれが昼飯の準備。俺はコンビニで買った惣菜パンの封を少し乱暴に開いた。

 対して四葉。すり合わせるように合わせた両膝に弁当箱を乗せた。自分で作ってきているらしいが、やけに小さい。女子ということを差し引いても、それだけで足りるものなのだろうか。


「いただきます」

「い、いただきます……」


 四葉につられ、普段は言わないその一言をぎこちなく口にする。


 さて、これから昨日のことについての話がはじまる。……と思っていたけど。


「…………」

「…………」


 始まる気配が全くしない。


 話をしようと言い出したのは四葉だけど、やっぱり何か言うべきだよな。


 しかし何も思いつかない。探るようにとりあえず口を開け「あー……」と口にすると、ふと。


「はぁ……ごめんなさい」


 四葉が箸を止め、そう口にした。


「そうよね、私から話すべきよね」

「……声に出てたか?」

「いいえ。でも水流君、わかりやすいから。すぐに顔に出るし」

「まじで……?」


 頬をグニグニと。俺がわかりやすいと言うよりは、四葉が察しがよすぎるだけだと思うけど。


「にしても何から話しましょうか……」

「うーん……俺からは何も言えないなあ」


 大きく惣菜パンにかぶりつきながらそう返した。

 今の俺は、知らなさすぎて疑問すら浮かびにくい状態だ。どれくらいの情報があってどれくらいの話になるのか、見当もつかない。だからその辺りは四葉に任せるしかなかった。


 四葉は顎に手を当て口を閉じ、数秒と経たずに「そうね」と呟いた。


「交互に質問形式にでもしましょう」

「質問形式はいいけど、なんで交互なんだ?」

「私もきになることがあるからよ。それに私だけ一方的に質問されて一方的に答えるなんて、つまらないでしょう?」

「四葉っていかにも真面目そうなのにそういうところあるよな……」


 下手くそな皮肉に、四葉は涼しい顔をして「ありがとう」と返すだけだった。


「とにかく私もどこから話せばいいかわからないのよ。なんでもいいわ。気になること、ない? それについて話すからそこから膨らましていきましょう」

「聞きたいことねえ……」


 自分から、ということになって気分がズンと沈んだ気がした。


 ――幸せと感じたら死ぬ。そして次の日生き返る。


 考えれば考えるほど現実味がない。それになんとなく、聞きづらい。


「思いつかないなら、私からしましょうか?」

「うーん……ごめん、お願い」

「別にいいわ。そうね……じゃあ、趣味は何かしら」

「は?」


 パンを加えようとしていたところで、つい口を開けたまま止まってしまう。

 四葉の質問があまりにも予想外すぎた。


「しゅ、趣味?」

「そう、趣味。それくらいなら答えられるでしょう?」

「ちょっと待て。一応確認だけど、俺たち付き合ってるよな?」

「何を今更言ってるの? あなたが告白してくれたんじゃない。あのときは幸せすぎて死んでしまうかと思ったわ。家で一度死んでしまったけど」

「なんて返せばいいかわからないこと言うな。それに、今の質問は少なくとも数年付き合ってるカップルのする会話じゃないぞ」


 それだけ付き合っておいて趣味も知らないとかどんなカップルだ。今まで何をしていたのか小一時間と追い詰めたいところ。まあ、俺たちのことなんだけど。


「実際私たち、それっぽいことほとんどしてないでしょう」

「だってそれはお前がことごとく断るから……」

「それについては申し訳ないけれど、なんでかは今更言わせないで頂戴。……そうね、じゃあ、どれがいいかしら」


 そう言いながら四葉が指をさしたのは、自分の弁当箱だった。

 白米があって、卵焼きとか、ミニトマトとか。あの茶色のやつは唐揚げだろうか。まさにオーソドックスな中身だ。勉強ができて、可愛くて、料理もできるとは我が彼女ながら完璧なんじゃないだろうか。ただちょっと、コミュ力とかその辺りが欠点ではあるが、そこは俺もだから気にしない。


 しかし質問の意図が読めない。どれが美味しそうか、と言うことなのか……?


「た、卵焼き……?」


 恐る恐るそう返すと、四葉は「そう、わかったわ」とだけ口にした。するとその卵焼きを箸でつまみ、こちらに向かって差し出してくる。


「えっ……と、これはいわゆる、『あーん』ってやつなのでしょうか……?」

「なんで敬語なのよ。わかってるなら、早くしてくれないかしら。結構握力使うのよね、これ」


 四葉は顔を少ししかめながらまた突き出す。

 そう言われてもなぁ。

 しかしここで何もしないわけにはいかない。恐る恐る、差し出された卵焼きを口に入れた。


「……」

「どう?」

「……味がわからん」


 これは思ったよりも恥ずかしいな……。

 しかし四葉はそんなことないらしい。特に気にした様子もなく、呆れたように肩をすくめていた。


「とりあえず美味しいって言っておけばいいのに」

「いや、そこでお世辞を言うべきじゃないだろ?」

「変なところで律儀な人ね……まあ、私もそっちの方が嬉しいけれど」


 結局は俺の耐性の問題だけどな。

 なんだか顔が熱い。それを冷ますため、ペットボトルに口をつけたその瞬間――


「それなら次は私ね。私が死んだ時、何を感じたの?」

「――ッ!! ゲホッゴホッ!」


 あまりにも唐突で、俺はおもわず盛大に咳き込んだ。


「何してるのよ……」


 四葉が手を伸ばして近づいてくる。背中でもさすろうとしているのかもしれない。


 その時、無意識にビクッと肩が跳ねる。

 四葉は少し驚いた顔をしながら、俺から離れていった。


 咳き込むのがようやく落ち着いて。四葉が問いかけてくる。


「大丈夫かしら。どうかしたの?」

「四葉が急に聞いてくるからだろ!」

「急ではないと思うけれど。もともとこの話をしにきたんじゃない。さっきのは前座よ、前座。水流君、ガチガチになってて話にならなさそうだったから」

「気遣いはありがたいけど切り替えの落差が大きすぎるんだよ……!」


 確かに少しはいつも通りになってたけど。

 喉が痛くてまたペットボトルの水を大きくあおる。飲み終わるのをしっかり止まってから、四葉は改めて「で、どう感じたの?」と訪ねてきた。


「どうって――」


 そこから先は言葉が出てこなかった。

 俺はどう思ったんだろう、どう感じたんだろう。何かを感じたはずだ。悲鳴をあげて情けなく逃げ出すほどの何かを。でもそれを言葉にできなかった。

 足がすくんで、目が離せなくて、でも逃げたくて。意識はそれに釘付けなのに、理性は全力で背後に向かっているような。そんな感覚。


「……四葉は、幸せって感じると死ぬんだよな」


 その迷路のような思考から逃げるように、四葉に問いかけていた。

 彼女は呆れたような顔をしている。「交互に質問するっていったはずなのだけど……」なんて思ってるんだろうか。でも見逃してくれるらしい。代わりに一つため息をついて口を開いた。


「ええ。今更信じないっていうのはなしよ?」

「あんな風に見せつけられたんだ。流石に信じる。信じるしかないって。四葉は、その、死ぬのは……」

「嫌に決まってるじゃない」


 呆気カランと彼女は答えた。


「痛みも苦しみも……そうね、正直回数重ねて慣れてしまったわ。でも何も理由がないのに死にたい人間なんて――」

「なら、幸せって思わなければいいじゃないか」

「人の話は遮らないの……。なら聞くけれど、水流君は今、幸せ?」

「え?」


 唐突な質問に間抜けな声で返してしまう。

 

 幸せかどうか……? 不幸ではないと思う。彼女もいるし、友達はいないけど、それが心底辛いというわけでもない。じゃあ幸せかどうかと言われると……幸せ、なのだろうか。

 でもなんというべきかわからず、口を閉じる。それが数秒。黙っている俺を見かねてか四葉は口を開けた。


「まあ、水流君の答えはどちらでもいいけど。とにかく、今、自分が幸せか考えたでしょう?」

「いやだって四葉がそういって――」

「私は常にその状態ってことよ」

「あ……」


 一度でも幸せと考えたら死んでしまう。もちろん幸せとか考えないで済むならそれに越したことはない。でも人は考えたらダメと思うほど考えてしまうものだ。


 そう、四葉は続けた。


「な、なら幸せかどうかじゃなくて、不幸かどうかって考えるのはどうだ? 幸せって考えたら死ぬなら、それ以外で考えれば……」

「別にそれでもいいんだけれどね。でもね、幸せと思ったら死ぬっていうのは、別に誰かにそう言われたわけじゃないのよ。私が小学生の時に呪われてから、何度も死んで自分で見つけたもの。もしかしたら違うかもしれないし、そんな綱渡りは怖くてしたくないわね」

「小学生から……」


 ブルリと体が震えた。


 小学生というと、流石にすぐ適応できたとは思えない。何度も死んだのだろう。そして、何度も生き返ったのだろう、目の前の四葉は。

 またあの、言葉が見つからない気持ち悪い感覚。なんだか手にも力がうまく入らない。

 自分を誤魔化すようにパンに齧り付こうとすると、手を滑らせてパンを落としてしまう。


「あ……」

「…………」

「これじゃもう食えないな……」


 大きくため息をつきながら体を前に曲げて手を伸ばし、砂まみれになったパンを取る。顔を上げると、目の前にはいつのまに移動したのか、四葉がしゃがみこんでいた。


「――ッ!?」


 びくりと体が跳ねる。でも蛇に睨まれたみたいで、なぜか仰け反りはしなかった。メガネのレンズの奥からじっと見つめてくる黒い瞳に吸い込まれそうになる。目が離せなかった。目をそらしたいのに、それこそ本当に釘付けだった。


 すると四葉は、コテンと首を傾げ。


「ねえ――キス、しましょ?」


 いきなり、そういってきた。


「は!? キス!?」

「そう、キスよ。いいじゃない、別に。初めてってわけでもないし」

「で、でも、昨日の今日じゃないか」

「昨日したら次の日はダメなの? そうじゃないでしょう」


 さらに彼女は顔を近づけてくる。

 ざらりとしたあの感覚が強くなる。


「そうじゃなくて……」

「桜木さんに言われたこと? 大丈夫よ、エッチなことには入らないわ」

「じゃなくて……」


 違う、嫌なわけじゃない。したくないわけじゃない。でも俺の口から出るのは否定の言葉ばかり。

 なんだ、これ。なんだこの感じ。緊張でもしてるのか? 背筋に伝う汗が気持ち悪い。もうすぐ夏だからってこの汗の量は異常だ。


 すると四葉は観念したのか、顔を離し、呆れたようにため息を漏らす。


「なら、手を繋ぎましょう? これなら何度もしてるし、ヘタレの水流くんでもできるでしょう」

「まあそれなら、多分……」


 四葉が差し出してきた手を取ろうとした、その時だった。


「…………あれ?」


 動かない。手が動かない。

 四葉の手を、握ってくれない。

 もうあと数ミリ握れば手のひら同士が触れるというような距離。でもその距離が一向に縮まらない。


「あれ? いや、違うんだ、四葉。そうじゃなくて、違うんだって」


 下手くそな言い訳ばかり並べる俺を、四葉はただ見つめていた。それが俺の思考に焦燥感を与えてくる。


 なんで、なんで。手なんて何度も――と言えるほどではないけど、確かに今までも握ってきたはずだ。その時はすんなり行けたのに、なんで。

 背後に感じる、あのわけのわからない感覚。なんなんだよこれはと苛立ちすら感じ始めたあたりで。


「もういいわ」


 そういって四葉は手を引いた。


「四葉……? ごめん、本当に、その、違うんだ」

「いいのよ、水流君」

「違うんだ、本当に、なぜかわからなくて」

「そう……なら、教えてあげる。水流君、あなたはね――」


 四葉は一つ青い息を吐いた。そして髪を耳にかけ。




「――怖いのよ、私が」




 悲しくなるほどの無感情で、そういった。

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