2話 四葉の誘い

 朝の教室は、いつも通りに騒がしかった。


 それぞれのグループがそれぞれの場所で談笑しているのを、別世界を眺めるように見渡す。俺の視線は無意識のうちに彼女を探していた。


「……まあ、いるよな」


 気がつけば湿った息を吐き出した。おかしいな……別に四葉が嫌いなわけじゃないのに。


 教室の一番後ろ。さらに窓側という、この部屋の隅の隅。そこが四葉の席だ。


 彼女は周りの喧騒を気にする様子もなく、一人静かに読書をしていた。整った容姿や近づきがたい雰囲気に加え、常に本を読んでいるせいで彼女の周囲にはいつも人がいない。


 ページをめくる白い指先も、三つ編みにしてまとめられた黒髪も。どこからどう見たって今まで通りの、今朝家に来た四葉だった。昨日大量の鉄骨に押しつぶされているなんて言っても、誰も信じてはくれないだろう。


 彼女が俺より先にいるなんて当たり前といえば当たり前。だって俺は今朝迎えにきた四葉を追い返したのだから。


『……まだ準備できてなくてさ。先に行ってて』


 インターホンの画面に映る彼女に、俺はあの時そう言った。


『昨日、明日の朝迎えに行くと行ったはずなのだけれど』

『……ごめん、寝坊したんだ』

『約束は守るべきじゃない?』

『本当にごめん。その、よく……眠れなくて』

『……そう』


 ぞわぞわと背筋が震えて、悪寒が全身を包み込むようなあの感覚。昨日のあの数分の間に四葉のことがよくわからなくなってしまった。

 今思い出しても気分は良くない。でも正直、頭がパンクしそうだったから時間が欲しかった。


 幸い、四葉は『わかったわ』と簡単に引き下がってくれたけど。


『……やっぱり、そうよね』


 カメラの死角に消えて行く耐えるような四葉の表情が、いまだにチリチリと脳裏でくすぶっていて。無意識に眉間に力が入る。


 一人静かに本を読む四葉。あの絵画のような空気が好きだったはずなのに。絵画は絵画でも、理解のできない絵を見ているような感覚になる。


「ああだめだだめだ、別に四葉は俺に敵意があるわけじゃないだろ」


 グリグリとこわばった表情筋をほぐすように。

 別にあの時だって俺を殺そうとしたわけじゃない。……キ、キスだってしたし。されたと言った方が正しいのが少し不満だけど。


 でもどちらにしろ彼女のことは無視できない。だって俺の席は、彼女の隣なんだから。


 うるさい心臓の音に苛立ちながら、彼女の隣の席へ。背負っていたリュックを下ろして席に着けばガタリと椅子が鳴る。


 待て、どんな言葉をかければいいんだろう。いや、これ昨日のこと考えなくても普通に気まずくないか? 俺普通に約束ドタキャンしたんだけど。


 盗み見るように四葉へと視線を向けるが、彼女に変化はない。相変わらず読書に夢中で、俺に気づいてないんじゃないかとさえ思えてくる。


 いや、実際気づいてないのか。四葉の読書をするときの集中力は、話しかけても気づかないくらいには凄まじい。


 でも気まずかったのは本音だし、話しかけなくてもいいならそれで助かる。

 いやでも……。うーん……あー……と、一人頭を抱えて唸った。なんだかクラスメイトから変な目線向けられてる気もするけど、気にしない。どうせ友達いないし。


『……やっぱり、そうよね』


「……おはよ」


 気がつけば俺は四葉に声をかけていた。別にあのときの表情が気になったわけじゃない。ただ……そう、挨拶は基本だから。やっぱ挨拶はした方がいい。


「……四葉?」

「……」

「え、無視?」


 まあ無視というよりは、気づいてないだけだろうけど。どっと力が抜けて、机に倒れこむ。

 ……俺の勇気を返してくれ。


 静かに本を読む四葉の横で、一人頭をかきむしる。


 もういいや、どうにでもなれ。


「四葉、おはよう」

「……」

「四葉?」

「……」

「四葉!!」

「……」

「え、これでも無視?」


 つい素っ頓狂な声を出してしまう。まあまあ大きな声出したのにその反応だと流石にきついぞ。普段はこれくらいの大きさで声をかければ反応してくれたような気がする。迷惑そうな表情がセットでついてきたけど。


「無視したいのは俺の方なんだけ――」

「修羅場の匂いがする!!」

「――ッ!? びっくりしたあ!」


 大きく体を跳ねさせて振り返ると、幼馴染が楽しそうに笑っていた。桜木さくらぎ 彩乃あやのという名前通りに、花が咲くような笑顔だ。


「急に声かけるなよ!」

「修羅場の匂いがしたから」

「さっきも聞いたし別に修羅場でもない」

「いやあ、でもなんかあったでしょ。わたしにはわかるよ!」


 小柄のくせして豊満な胸を張って彼女はそう言った。確かに彩乃は人の恋愛ごとに対して昔から鋭かった。


「ほらほら~わたしに言ってみ? 解決してあげるから~」

「お前本当にいい性格してるよな……」

他人ひとの恋愛は白米より美味しいからねー」


 両手を上げてクルリと一回転。ブラウンのボブカットがふわりと揺れた。

 普段から明るく、明るすぎる程度には明るい彼女だけど、正面から見るには少し眩しすぎる。逃げるように体を前に向けると、彩乃は回り込んで俺の正面に移動した。


「でも実際さ、無視されてたじゃん」

「見てたのかよ……。本に夢中で気付かないって、四葉にとっては普通のことだろ」

「そうかなあ。四葉ちゃんおはよ!」

「無理だって。今四葉は本の世界に――」

「おはよう桜木さん。今日も元気ね」

「えぇ……」


 正直……複雑な気持ちだ。え? 本当に無視されてたのか? いやでも俺彼氏だぞ?

 彩乃はといえば、ほらね? とばかりに得意げな顔を俺に向けてくる。とりあえず話すことに集中するためか、四葉も読んでいた本を閉じた。


「桜木さん、何か用?」

「んーん、わたしは何もないんだけどね。夏樹がかわいそうだったから」

「……?」


 四葉はコテンと首を傾げた。いや、そんな不思議そうな感じになられても。

 次いで、こちらに四葉の視線が向き、すると突然彼女の顔が大きく変わった。


「水流……君……?」


 黒真珠のような綺麗な瞳。それが飛び出そうなくらいに大きく目を見開いて。

 普段から表情の変化が少ない彼女にしては、あまりにもわかりやすい『驚愕』だった。


 反応を見る限り、無視とかじゃなくて本当に気がついていなかったらしい。それはそれでショックだけど。


 珍しいものを見たというかすかな嬉しさと、どう反応するべきかという戸惑い。一瞬だけその狭間で思考を巡らせて。

 結果俺にできたのは「……なんだよ」と不満げにこぼすことだけだった。


 すると彼女はハッとした表情を浮かべ、視線をそらす。


「えっと、その……ごめんなさい」

「いや、気がついてなかったなら別にいい」

「気がつかなかったというより、その、来るとは、思わなくて」


 どこに、とは聞かなくてもなんとなく察せられた。

 つまり、『学校に』。もっというなら、『四葉に会いに』ということなのだろう。


 そうだよな、別に今日学校に来ないっていう道もあったんだ。

 それでも俺は学校に、いつも通り登校した。でもそれはきっと、情けないことに俺がすごい精神力があるからとか、四葉が心配だったとかじゃなくて、単に。


「……現実味がなさすぎて頭が追いついてないだけだって」


 結局はそれに尽きる。どうしたらいいかわからなかった。だから頭が思考を停止して、でも体はいつも通りの行動をしただけ。


 四葉は顔を逸らしたままじっと俺を見ていた。「そうよね」と小さくこぼすと、再び俺に顔を向ける。そこにいたのは、相変わらず表情の機微が薄いいつもの四葉だ。


 そんな俺たちを見て、彩乃は不満げに首を傾げていた。


「んー……喧嘩はしてないっぽいけど、なんか違う……? 修羅場の匂いしたんだけどなー」

「……血の匂いでもついてたかしら?」

「そーゆう意味の修羅場じゃなくて! えいっ!」

「きゃっ! ちょっと桜木さん……」


 突然彩乃は四葉に抱きついて、四葉は短い悲鳴をあげた。そのままグリグリと猫みたいに四葉に頭を擦り付けると、満足げににぱっと笑う。


「ん! 四葉ちゃんは今日もいい匂い!」

「……不幸ね」

「ふ、不幸って言われたぁ……」

「涙目でこっちを見るな」


 別に四葉が本気で言ってるわけでもないって、彩乃自身もわかってるだろうに。

 どピンクなやり取りを見せられるこっちの身にもなってほしい。


 彩乃はグスンと鼻をすすりながら、「で、結局さ」と仕切り直す。


「なにかあったの?」

「だからなにもないって」

「うそだあ。昨日ようやく夏樹が動いたってちょっと感動してたのに。1年以上付き合ってるのに手を出さないなんてヘタレすぎるよ! お昼だってさ! 付き合ってるなら二人きりで食べたりさ! こう、色々あるじゃん!」

「誰目線なんだお前は……」


 別に昼飯なんてどうやって食べようが俺と四葉の勝手だろうに。俺も四葉も、わいわいご飯を食べるような性格じゃない。


 しかし彼女は興奮しているのか、鼻息を少し荒くしながら顔を近づけてくる。

 かといって、昨日のことを言うわけにもいかない。

 でも普段から、彩乃は頭が良くないくせにこういうことはやけに鋭かった。きっと何かあったと確信しているのだろう。どうにも引き下がりそうにもなかった。


「昨日私と水流君の間であったことかしら?」

「そうそう!」


 さてどうするかと、頭を悩ませていた時。先に口を開いたのは四葉だった。

 彩乃は四葉の机の対面から、のりださんとばかりの勢いで頷く。


「昨日は、水流君と一緒に帰って」

「うんうん!」

「そのあとは、恥ずかしいからあまりはっきりとは言いたくないのだけど……」


 すると彼女は頬をほのかに朱色に染め。



「その……とても、痛かったわ」



 恥ずかしそうに目線を外し、そういった。


「「…………ん!?」」


 一瞬それがなにを意味することなのかわからず、俺も彩乃も数秒固まってしまう。彩乃に至ってはなにを想像してるのか、頭から湯気が出てもおかしくないくらいには顔を赤くしていた。


「えっと、痛かったってつまり……!」

「待て彩乃。お前が考えてることはたぶん盛大に間違ってる」

「あの瞬間は確かに幸せだったから後悔はしてないわ」

「幸せ……!」

「いやだから――」

「私も初めてだったから少し緊張したわ。水流君がどう思っていたのかはわからないけれど、そこだけ少し気になるわね」

「ははははは、初めて……!」

「ちょっと四葉一回黙ってて?」


 ちょうどその時、チャイムが鳴った。固まっていたグループもバラバラになって、それぞれの席へと散っていく。


「ほ、ほら、チャイムなったぞ。彩乃ももう戻れ」


 ここぞとばかりに俺はそういった。思考が停止しているのか、彩乃は力なくこくんと頷く。

 自分の席に向かう彩乃の足取りはふらふらとおぼつかない。「初めて……大人の階段……」とぼやきながら歩いていく彼女の背中を眺めながら、大きなため息を一つついた。あれ、絶対変な勘違いしてるだろ……。

 少し憂鬱になっている俺とは違い、四葉はクスクスと小さく笑みをこぼす。


「かわいいわね、桜木さん」

「あんまりからかうなよ。そっち方面の耐性ほとんどないんだから」

「たくさんのカップルを生み出した恋のキューピットって聞いてるけど? 私達だってその一組じゃない」

「自分のことになるとからきしなんだよ彩乃は。彼氏ができたって話も聞いたことないし」

「あんなにかわいいのに、見る目がない人が多いわね」

「……なんでこっち見ていうんだ」

「幼馴染の目にはどう映ってるのかと思って」

「答えにくい質問するなよな……」


 あれ? 意外と話せるじゃないか。

 気がつけばいつも通りに会話ができていると、不意に気がついた。

 正直今日はじめに話しかけるまでは意識は後ろ向きだったし、どこかで逃げたいとも思っていたはずだ。でも思ったよりもいつも通り話せている。


 ちょうど先生が教室に入ってきた。小うるさい体育担当の男の先生だ。

 連絡事項をつらつらと並べる彼を、頬杖をついてぼーっと眺めつつ、頭では全く別ごとを考える。


 これなら今まで通り過ごせるかもしれない。昨日のことだってなかったかのように――


「あー、今朝のニュースで見たやつもいるかもしれないが、例の血痕だけ残る事故がまた起こった。まだ原因は捜査中らしいからとりあえず、お前ら気をつけろよ」

「うっ……!!」


 落ちてくる鉄骨、笑う四葉、紅の水溜り、鉄骨の隙間から覗く四葉の白い腕。脳裏に昨日の光景がフラッシュバックした。

  急に胃酸がせり上がってくる。口内に唾液が大量にたまって、瞳に涙がたまる。いやでもここで吐くわけにはいかないと、口寸前まで登ってきていたそれを無理やり飲み込んだ。


「おい、どうした、水流。体調でも悪いのか」

「えっと――いえ……なんでもないです、大丈夫です……」


 手を挙げてなんとかそう返す。額を机に押し付けながら、お前が思い出させるようなこと言ったからだろうがと心の中で口にした。


 ああくそ、なんでもないように過ごせるかもと思った瞬間にこれだ。


「目を背けるのは難しいと思うけど」


 周囲を気にしてかやけに声量は小さかったが、なぜか俺にははっきりと聞こえた。顔だけ横に向け、いつの間にか読書を再開していた四葉に問いかける。


「目を、背ける……?」

「さっきの彩乃さんへ言った言葉、私は一つも嘘は言っていないつもりよ」


 それが何のことを言っているのか、すぐにわかってしまった。


「痛かったし、緊張したし――あのときは、幸せだったし。それにあなたがあのことに関してどう思っているのか知らないし、気になってる」

「どう思っているか……」


 四葉は読んでいる本から一切視線を外さなかった。陶器のような指先がページをめくる。


「今まで呪いのことを知った人は皆、私を拒絶したわ」


『……やっぱり、そうよね』


 あのセリフ、あの表情が頭に浮かんだ。


「それならそれでいい。だから、どう感じたのか、教えて欲しいの」


 赤く地味な栞を挟んで本を閉じる。


「そうね、いつもは彩乃さんが言っていた通り、それぞれでお昼ご飯を食べてるけれど」


 そこでやっと、四葉は俺の方に視線を向け。


「今日はお昼、二人きりで食べましょう?」


 いつもの真顔で、そう言った。

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